6 Leo
Leo・・・獅子座
日本へ戻る機体の中で、空は高熱を出していた。
博は包帯に覆われた全身から僅かに出ている彼女の指先を握る。
もっと、少しでも早く駆けつけたかった。何故、空だけがこんな目に遭わなければならないのだろう。
苦し気な呼吸だけを繰り返し、痛みに呻く力さえ無いような空を見ると涙が溢れそうになる。
「・・・空・・・もうすぐ帰れますよ」
今は、それしか掛ける言葉が無かった。
日本のA国空軍基地に着陸した後、待機していたドクターヘリでFOI病棟に運び込まれた空は、同じく待っていたドクター・ヴィクターの迅速な手当てを受けた。
「・・・もう、説明するのが面倒なくらいだ」
処置が終わった後、ヴィクターは今までで一番の仏頂面で話し始める。
「取り敢えず、1番酷いのは両手首と両足首の傷だな。幸い神経の損傷はなかったようだ。鞭の傷や打撲は数えきれない。体力もギリギリまで落ちている。だが、それより気になるのがコルピとかいうやつの影響だ。それに関しての説明は、ドクター・ウォルシュからしてもらう。コルピの調査チームのチーフだが、先日の女性警察官2名を診るためにこちらに来ている」
紹介された医師は、簡単な挨拶の後、直ぐに説明を始めた。
「正直なところ、まだデータは揃っていません。症例はコルピを3粒摂取した時に限られていますから。ただ、現物を入手出来たので詳細な分析結果は今後入って来るでしょう。今解っていることは、依存性は無いと言う事だけです。患者の今の高熱も、コルピの影響なのか怪我によるものなのかも不明ですが、治療は全力を尽くします」
そしてそれから3日後。
空は漸く目を開けたが、その心は崩壊してしまっていた。
痛覚などに対する反応はあるが、呼びかけには一切応えない。ただぼんやりと虚空を見つめ、辛そうな呼吸を繰り返すだけだった。
回復にどのくらい時間が掛かるのか、元通りになることが出来るのか、それさえ解らないまま、けれど博と医師たちは出来る限りの看護と処置を行ってゆく。
空の怪我の回復は、今までよりずっと遅くなっていた。
けれど10日が過ぎる頃、打撲の腫れや鞭の傷は塞がり、身体中を覆っていた包帯が外される。それに伴って上体が起こせるようになり、少しずつ食事がとれるようになってきた。
本部の医局からも、コルピの分析結果が入った。赤と緑の果皮にはこれといった成分は無く、種子に摂取者の自発行動を阻害する成分が、白い果肉に催淫効果があると解る。
そして真が現場から持ち出した容器の中身は、果肉だけを集めてスムージーにしたものだった。ひと口飲み込むだけで、コルピ10粒分くらいの効果になるだろうと推測された。
嚥下などは出来るようになったが、空は赤ん坊のようにされるがままの状態だった。表情も無く、言葉も発しない。それはおそらく、コルピを大量に摂取させられた事と、その中で加えられた暴行のためだと思われる。いつその効果が無くなるのかは解らなかったが、博は、彼女の辛そうな様子が無くなったことだけでも、救われる気がしていた。
3週間後に、空は支局の医務室に移ることを許可された。
怪我の方は、手首と足首の治療が残ってはいたが、それ以外の傷や打撲は何とか治っている。精神の方も少しずつ回復をしているようで、微かだが表情らしきものが顔に浮かぶようになっていた。
その分、記憶も戻りつつあるようで、それが不安ではあったが、寧ろ支局にいる方が心は安定するのではないかと言う判断だった。
「・・・ヤァッッ!・・アァッーー!」
突然、空の喉から悲鳴が上がり、藻掻くように暴れ必死に何かから逃げようと身を捩る。
身体に繋いでいる点滴のチューブやカテーテルが外れそうになった。
「空ッ!」
傍に付き添っていた博は、彼女の身体を抱き取って腕の中に閉じ込める。近くにいたふみ先生が、急いで近寄り布を取り上げた。パニック状態の空の手足を、とりあえず拘束するつもりだった。
「やめてください!」
博の鋭い声が飛んだ。
「すみません、縛るのはやめてください。僕が、こうしていますから」
もう2度と、これ以上、空に拘束の辛さを味わせたくなかった。自分の方が辛そうな顔で訴える彼に、ふみ先生は頷いて彼女の両膝を抑える。
「・・・空・・・大丈夫・・・ぅっ!」
必死に藻掻いていた空が、頭を撫でようと近づいた博の二の腕に噛みついた。
「あっ!小夜子さん来て!」
慌てたふみ先生が、隣室で待機していた小夜子を呼ぶ。
「大丈夫・・・です。このままで・・・」
ひと呼吸して落ち着いた博が告げる。
けれど小夜子は空の二の腕を掴み、その鼻をつまむ。
彼女は口を離した。
「僕は、空にもっと酷いことを長時間していますから、このくらいはその償いにさえなりません」
エリィの事件の時、薬の影響で野獣と化していた自分は、何度も彼女に噛みついてそれ以上のことさえ与えていた。その身体にも心にも、惨い仕打ちをしていたのだから。
ふみ先生と小夜子も、その時の事を思いだす。
暫くして、疲れ果てたように空の身体から力が抜けると、手足を抑えていた2人は手を離した。
「もう、寝かせても大丈夫よ」
ふみ先生の声に、博は空を抱きしめたまま俯いて答えた。
「・・・もう少しだけ・・・こうさせておいて下さい・・・」
そんな彼に、小夜子は努めて明るい声を掛けた。
「腕の手当てだけさせてね。そのままだと、空が汚れるでしょ」
発作のようなパニック状態はその後も何度か起こったが、日を追うごとに状態は落ち着いてくる。捜査官たちは、彼女の体調が良さそうな時を見計らって、交代で病室に見舞いに来た。
マランタ王国の別荘に不法侵入し器物破損や窃盗をした件は、本部からは何も言ってこなかった。王国自体が、それどころではない状況なのだろう。
空は変わらず放心状態のままだったが、上体を起こしておけるようになった。自発的な行動は、寝返りを打つくらいではあったが、ふみ先生は部屋に戻ることを許可する。それを待っていたように、小夜子は空の髪をカットし、不揃いに切り落とされた無惨な状態をショートヘアの髪型に整えた。
体力は随分回復したが心の方は遅く、部屋に戻っても座らせれば座ったまま自分から動くことは無かった。言葉も発せず人形のような空に、それでも久しぶりに傍にいる空にビートは大喜びだった。
ソファーに座らされた空の膝に乗り、ビートは飽きもせず繰り返し話しかける。
《 ソラ・・・ダイスキ・・・ソラ・・・ダイジョーブ・・・》
博は彼女の手を取り、その指先をそっと灰色のヨウムの頭に触れさせてやる。賢い鳥は、自分から頭や首筋にそれを当てて動き、明るい声を上げた。
《 ソラ・・・ビート、キモチイイヨ・・・ダイスキ 》
2人と1羽の心温まるような日々が続き、やがて空は無垢な幼児のような笑みを見せるようになった。
そんな彼女に、博は優しく忍耐強く世話をして言葉をかけ続ける。やがて彼女は、単語を鸚鵡返しにではあるが声を出すようになった。
「・・・ひろ・・・」
「ええ、僕の名前です。君は、空ですよ」
「・・・そら・・・」
《 ボク、ビートダヨ! 》
「・・・・・びーと・・」
幼子を育てるような時間が過ぎ、やがて博とふみ先生は次の計画を立てた。
「申し訳ないのですが、暫くの間、空を転地療養させようと思います。僕も行きますが、仕事は部屋にいる時と同じようにこなしますので」
療養場所を探してみたら、支局から車で1時間程度の郊外に建売の別荘を見つけた。山の中にポツンと1軒建っている物件だが、理想的な間取りと周囲の自然がうってつけだった。博は早速それを購入し、設備や家具を整えた。
ふみ先生は、週の半分ほどをそちらで過ごすことにした。支局の医務室は留守の間、小夜子とエディに任せることになる。
「色々とご迷惑をお掛けしますが・・・」
頭を下げかけた博に、捜査官を代表して真があっさりと言った。
「今までと、そう大差ないだろ。毎日、報告入れてくれりゃ問題ないさ」
部屋で空に付きっきりで仕事は全てそこで行っていた博なのだし、空の顔を見れないのは寂しいが、それが彼女のためなら連絡で我慢してやる、と言う事なのだ。
その翌日、博とふみ先生は、空とビートを連れて支局を後にした。
別荘は、近くにあるのが広大な自然公園だけと言う事もあって、リビングの窓からは直ぐ近くに林の木立が見えるだけの静かな環境だった。
鳥の声と緑の香りがする中ですくすく育つ子供のように、空の身体と心は回復してゆく。
自発的に室内を歩くようになり、時折眉を顰めて何かを思い出しているような表情をするときはあっても、落ち着いた日々を過ごした。
いつの間にか、数か月の月日が経っていた。
その日は、朝から雨が降っていた。
(ふみ先生が向こうに戻ったのが、昨日で良かったですね)
リビングのテレビをつけたまま、博はキッチンに向かった。朝食の支度をしようと冷蔵庫を開ければ、そこにはちゃんと数日分の食材が用意されている。ふみ先生が買っておいてくれたり、支局の花さんから届く料理などが温めれば良いだけの状態で並んでいた。
(さて、今朝はどれにしましょうか・・・)
博が楽しく悩んでいる間、リビングのテレビがニュース速報を流していた。
『自然公園から、オスのライオンが1頭逃げ出しました』と。
雨は午後になるとさらに激しくなった。
心細くなるような薄暗い外の風景だったが、リビングではいつも通りの暖かい時間が流れる。2人は取り寄せた本や図鑑を眺めたり、パズルで遊んだり、ビートと戯れたりして時間を過ごす。
空の頭の中は、5歳児程度のレベルまで回復していた。
頬や額にキスをすると、嬉しそうに微笑む。身体の方も、それなりの速さで動けるようになってきていた。時折甘えたように、博に抱き着いてくることもある。
けれど、それには流石に彼も困っていた。
(・・・中身は子供・・・なんですよね)
柔らかく暖かい肢体は、懐かしく愛しい恋人のものだ。抱き着かれるたびに、つい深いキスをして押し倒したくなる。髪の香りも甘い吐息も以前と同じに戻った彼女だが、素直に見つめてくる瞳は可愛らしい幼子のものなのだ。髪は肩に触れるくらいに伸びてはいたが、どこか幼い印象がある。
(・・・流石に、背徳感が・・・ね)
博は気持ちを切り替えようと、ソファーから立ち上がった。
「夕飯の準備をしてきますね。雨が降って少し寒いですから、シチューなんかどうでしょう」
冷蔵庫の中のストックを思い出しながら空に告げると、博はキッチンに向かった。他に添えるものは何が良いだろうと考え、少し自分でも何かを作ろうかと思案する。
ニッコリ笑って彼を見送った後、空はふと大きなガラス窓の向こうを見た。何かが動いたような気がする。音を立てて激しい雨が降る窓の外は見通しも悪い。
空はゆっくりと立ち上がって、窓辺に寄る。
ビートが飛んできて、彼女の肩に乗った。
木立の間に、ゆっくりと移動する何かが見える。
空はガラス戸を開けて、そのまま裸足で外に出た。
(・・・ライ・・・オン?)
空がその正体に気づくのと、逃げ出した獣がこちらを向いたのは同時だった。
雨にぐっしょりと濡れたたてがみもそのままに、ライオンは低く唸りながら空の方に1歩ずつ近づく。悪天候に加え、逃げ出した後の興奮もまだ続いているのだろうか。それともそろそろ空腹を覚えているのだろうか。ジリジリと距離を縮めてくる獣に、空の中の何かがふいに弾けた。
それは、危険に対する本能的な反応だったのだろう。
スゥッと鼻から息を吸い込み、視線をライオンのそれと合わせる。身体の中の神経と筋肉が目覚めるような感覚と、強い意志を秘めた瞳が蘇った。
目の前の相手がふいに雰囲気を変えたことを察知し、大きな茶色い獣はその足を止めた。
そのまま唸り声は止めずにいるライオンに、空は自然体の構えをとってその目を見つめた。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
場の空気に固まっていたビートが、隙をつくように飛び立って家の中に入る。
睨み合うように対峙する空とライオンが雨の中で立ち尽くしていると、家の中から声が掛かった。
「・・・空っ!」
ビートに呼ばれリビングに戻った博が、開いているガラス戸と空の姿がないことに驚いて上げた叫びだった。続いて飛び出してきた博の姿に、ライオンは不利を悟ってサッと身を翻し林の中に消えた。
「何故、ここにライオンが⁉」
朝のニュースを知らずにいた博だが、落ち着いて獣の逃走を確認しながら空に駆け寄った。
「空!無事ですか⁉」
立ち尽くしたままの彼女の肩を掴み、守るように腕を回す。空はハッとしたように彼の顔を見るが、笑顔になろうとする途中でそのまま膝を折った。博は雨に濡れて冷たくなった彼女を抱き上げると、急いでリビングに戻った。
念のためしっかりと戸締りをし、彼女を浴室に運ぶと服を脱がせて熱めのシャワーで身体を暖める。ギュッと目を瞑り何かに耐えているような様子の空は、大人しくされるがままになっていた。
急激に回復した頭の中に、全ての記憶が蘇っていた。
暖まった身体を丁寧に拭いてやり、博は彼女を寝室のベッドに運んでそこに座らせると服を着せようと立ち上がる。けれど空は、そんな彼に裸のまま抱きついた。
「・・・!・・・ああ、空。怖かったですね」
一瞬驚いた博だが、直ぐにその身体を優しく抱きしめて囁く。
そんな彼の唇に、空は自分のそれを押し付けてきた。
(・・・えっ!)
再び驚いた博の口内に、懐かしく甘い感覚が蘇る。何か月かぶりの大人のキスに、互いの舌が絡み合って2人の身体はそのままベッドに沈んだ。
空は恐怖に支配されていた記憶を忘れ、ただ安心することだけを求めていた。
出来るだけセーブはしたつもりだったが、それでも長い間の禁欲が解けたせいだったのか、全てが終わった後、空は気を失うように眠ってしまった。そんな彼女の様子を窺い、博は後悔に苛まれる。
いくら彼女から誘われるような行為をされたからと言って、まだ子供のような精神状態の空を抱いてしまったのだ。
(・・・何故、我慢が出来なかったのでしょう)
博は唇を噛み締めると、ぐったりと眠る空に毛布を掛け、ふらりと立ち上がってリビングに戻った。
ふわっと意識が蘇ると、半覚醒のまま腕を伸ばす。いつもはそこにある、暖かな腕も胸も無い。
空は身体を起こして辺りを見回し、そのままベッドを降りた。
リビングのドアを開けると、ソファーに座って項垂れてる博の姿がある。
空は静かに近寄り、彼の傍に跪いてその顔を覗き込んだ。
「・・・なぜ・・・1人で・・・泣いているの・・・ですか?」
彼の頬に掌を寄せて、たどたどしい言葉ではあったが、それでも以前のような言葉を紡ぐ空に、博はガバッと顔を上げた。
「・・そ、空?」
その顔を見て、空は困ったような、悲しそうな、複雑な表情を浮かべた。
「・・・・あの・・・今日は、何月何日なのでしょうか?・・・それと、ここはどこですか?」
危機的状況に対する反応が、引き金になったのだろうか。
空の心は、精神は、第5王妃の警護任務に就く前の状態に戻っていた。
支局に復帰して、完全に仕事がこなせるようになるまで、最終的に半年もの時間が掛かった。
(私にとって大事な時間を、半年分も消費させられてしまいました)
空は心の中で、この落とし前はいつか必ずつけさせてもらう、と決意していた。