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1 Pisces

「Life of this sky」シリーズ12作目。

Pisces・・・魚座

 いつもの午後のトレーニングを終えた空は、自分のデータを確認して小さくため息をついた。

(やはり、90%を超えることはないです・・・調子は良いのですが)

 今までのデータでの完璧な状態には、このところ届かなくなっている。

(・・・年齢的なものもあるかとは思いますが)

 基本的に女性の場合、運動能力のピークは20歳くらいだと言われる。それ以降は、経験やスキルで向上するのだが、やがてはそれらが追いつかなくなってくるのは当然だろう。

(仕事の内容も、少しずつ変えていかなくてはならないでしょうね)

 まだ十分に動けはするが、いつかは線引きをしなければならないだろう。仲間たちに迷惑を掛けないようにしなければならないのだから。

 空は、暗い顔でトレーニングルームを後にした。


 シャワーを浴びて着替え、メインルームに戻ると、博と真そして小夜子が待っていた。

「おう、待ってたぜ。空宛てに、手紙が来てる」

 真がテーブルに置いてあった封書を取り上げて、空に差し出した。

「封書ですか。近頃、珍しいですね・・・」

 手紙を貰うような心当たりがない空は、怪訝そうに首を傾げる。しかも、その場にいる3人とも何か難しい顔をしているのだ。

「送り主が、ちょっと気になりましてね」

 博の言葉に空が封筒を裏返すと、そこには毛筆の住所氏名が記されていた。


 笠井 隆源 

 住所は隣県のK市になっている。


「笠井隆源ってのは、K組の先々代だ。ちょっと前に、クラップスと抗争した事件があっただろ?」

 ジーナが研修に来て最初に空とコンビを組み、制圧に当たった任務だ。その後、色々あって最終的にドローン事件に発展していったのだったが。

 頷く空に、日本の暴力団と言われる集団に詳しい真が、説明を続けた。

「K組ってのは、いわゆる老舗の暴力団で、昔は任侠的な色合いが強いヤクザ集団だったが、このところ随分変わってきちまってる。昔は『堅気には手を出さない』っていう不文律があったくらいなんだが、今はもう普通の犯罪集団なんだ」


「そのK組の先々代さんが、何故私に手紙を?」

 空は微かに眉を顰めてもう一度表書きを見るが、中身を見てみないと始まらない。博が渡してくれたペーパーナイフで封を切ると、空は中の折りたたまれている紙を取り出した。

「あらぁ、巻紙。便箋じゃないのって、今どき凄く珍しいわ~」

 驚く小夜子が見守る中、空は巻紙を開いて見た。

「・・・これは、行書というものですか?」

 そこには、水茎の跡も麗しい毛筆の書体があった。

 日本の文字に楷書や行書があるのは知っている空だが、生憎行書は馴染みが無いので読み取りにくい。少し困っていると、小夜子が手を伸ばしてきた。

「良ければ私が読むわ。高校の選択科目が書道だったから、その時教わったの」

「へぇ、オマエ書道選択か。意外だな」

 真の言葉に、ムッとしたように小夜子が答える。

「書道が一番、提出課題が楽だったのよ。そう言うアンタは、何だったのよ」

「・・・美術・・・死にそうだった」

 音楽は歌うのも演奏するのも無理と思った学生時代の真は、まだマシだった美術を選択したが、提出課題を仕上げるのに膨大な時間を消費したのだった。

「あら、お気の毒さま・・・それじゃ、読むわね」

 小夜子は自分の旦那にフフンと鼻を鳴らすと、巻紙を解きながら読み始めた。

『突然、このような手紙を差し上げる非礼をお許し下さい』

 丁寧な文章と礼儀正しい文言で書かれた手紙の内容は、要約するとこんな感じだった。


 自分はもう90歳を超えた隠居の身であること。一番下の孫娘がA国にいる時に、その命を助けてもらったということ。そして老い先短い年寄に、その御礼を言わせてもらいたいということ。

 本来ならこちらで出向くべきところだが、足が不自由なので来て欲しいと言うことだった。


『お忙しいのは重々承知の上なので、ご都合の宜しい時に、或いはお近くにお出での時にでもいらしては下さらないだろうか』

 直接お顔を見て、御礼をしたい。短い時間でも構わない。ただ出来れば、自分がボケたりあの世に逝く前に来て欲しい。


 そんな文面には、悪意は感じられなかった。

「昔、その方のお孫さんを助けたことがあるのですか?」

 博が少し拍子抜けしたような表情で、空に問いかける。

「いいえ・・・特に思い当たる節は無いのですが」

「90越えの年寄の孫娘っつうと、今は30代くらいか?」

 一番下の孫ならば、そのくらいかもしれない。

「・・・行ってみようかと思います。丁度休暇も余っていますし、今は特に任務などもありませんから」

 少し考えて、空は口を開いた。

「K市は行ったことが無いので、興味もあります」

 隣県のK市は、歴史的に有名な観光地でもある。そんな空に、やや過保護な傾向がある博は妥協案を出した。

「では、近くまで一緒に行きましょう。何かあるといけませんから」

「あ、んじゃ俺が運転していくわ。明日は暇だしな」

「あら、K市に行くの?それじゃ、お土産に美味しい和菓子を買ってきてちょうだい。サブレとか葛切りとか・・・」

「あ、私クルミの有名な奴が好きですぅ~~」

「一度、麩饅頭って言うのを食べてみたいと思ってたんですよね」

 メンバーたちの要望を背負って、結局3人でK市に赴くことになった博・空・真の3人だった。


 古都Kと称される町並みは、古刹が並ぶ歴史的観光地だが、周囲を囲む山の方に入れば空気が違う。

 真が運転する車の窓を少し開け、空は自然の風を気持ちよく吸い込んだ。

「ここらでイイか」

 やがて真は、白壁が続く手前の辺りで車を停め声を掛けた。

「空、念のためインカムをオンにしておいてくださいね。何かあったら、直ぐに駆けつけますから。僕たちはどこかのパーキングに車を停めて、ぶらぶらしてます。お土産も買わないといけませんし」

 終わったら連絡を下さい、と言う博に笑顔で頷くと、空は車を降りて笠井隆源宅に向かった。


 昨日のうちに連絡を入れていたので、古風な数寄屋門のインターフォンで来訪を告げると、門は速やかに開いた。

 使用人らしい作務衣を着た初老の男性に案内され、空は玄関に案内される。そこには、待ちかねたような様子でニコニコと立つ老人の姿があった。

「いや、良くいらして下さった。儂が笠井隆源じゃ。とりあえず上がってくだされ。足が不自由で、立ち話はツライのでなぁ」

 90歳を過ぎだということだったが、かくしゃくとした好々爺そのものの雰囲気だ。

 空は玄関先で失礼しても良いかと思っていたが、そういう事ならと礼を言って上がる。こんな風に靴を脱いで家の中に入る習慣に大分慣れた空は、自分の靴を作法通りに揃える。そして笠井老人の後について客間に入った。

「まぁ、どうぞお座り下され。足にとってはソファーの方が良いのじゃが、儂はどうもそれだと落ち着かなくてな。足を崩させてもらうが、貴女もそうしてくださるとありがたい」

 そう言って、座椅子に顔を顰めながらゆっくりと座る老人に、空は失礼しますと言って座布団に座る。

 運ばれてきたお茶と和菓子を前に、笠井老人は早速話を始めた。

「突然の手紙で驚かれたことだと思うが、あれに書いた通りA国で孫娘が助けてもらったのでな。冥土に逝く前に、きちんと礼をしたかったんじゃよ」


 1番の下の孫娘は、当時A国に留学してダンスを学んでいたという。たまたま1人でショッピングモールに買い物に来た時、薬物中毒の男に拘束されて殺されそうになった。

「・・・ああ、あの時の」

 空は、真が研修でA国に来ていた時の事を思いだした。あの時は、博の命令で真と2人で男を制圧したのだった。笠井が出して見せた孫娘の写真を見て、空は漸く合点がいった。

「K組の先代の娘でな、儂には一番小さな孫になるんじゃが、これが親に似ず可愛くて良い子でなぁ」

 年寄は眼を細めて孫の自慢を始めた。こうしてみると、ヤクザの先々代の親分にはとても見えない。

「礼を尽くしておけ、と息子にも言ったんじゃが、調べて貰ったらFOIの捜査官だと解って結局A国では何もできなかったんじゃよ」

 どうしたものかと思っているうちに、ソラ・リセリ・キクチと言う女性捜査官は日本支局に転属したことが解った。

「何分隠居の身で、今どきの『ぱそこん』とかは全く解らん。人に頼んで、ようやく先月解ったというわけじゃ。遅くなって大変申し訳ないが、孫を助けてくれて本当に感謝しておる」

 笠井老人は、丁寧に頭を下げた。

「この年になると、この世に借りを残していくのは気掛かりでのぅ。おまけに知り合いは皆、先にあの世に逝ってしまっているから話し相手もいないんじゃよ」


 K組の跡目を息子に譲り、息子は男の子に恵まれなかったので、結局現在は組の若頭だった男を娘婿に貰ってその男が組長になっているそうだ。

「昔のような任侠道など、今はもう流行らないんじゃろうな。K組もすっかり変わってしもうて、儂の言葉なんぞどこ吹く風じゃよ。一応へいへいと頭を下げちゃいるがなぁ」


 老人の長い愚痴を聞いていると、何やら屋敷の奥の方で騒ぎが聞こえてくる。

「ああ、すまんね。組の若いもんが何人か来てるんじゃよ。少し前に脅迫文が届いての、今の組長が念のためにと寄越したんじゃ」

「脅迫文、ですか?」

 空は覚めたお茶を飲み干して、いつも通りの穏やかな口調で返す。

「ああ、まぁ昔はそう言うのもそれなりにあったが、今頃こんな爺を脅して何の得があるのやら。1億円以上を盗んでやると書いてあったが、この家にはそんな金も宝石も、美術品の類も無いのになぁ」

 笠井は好々爺の顔を崩さず、苦笑を浮かべて話す。

「期日は明日となっていたので、もう直ぐ警察も来ることになっとる。そっちにも昔の知り合いがおってな、それに今は儂も一般市民じゃからのう」

 念のため、屋敷の外を警備してくれることになっている、と言う。

「来てくれたのが今日で良かった。明日だったら、ここも煩くなってるだろうからなぁ。おお、そうそう、折角じゃから庭も見ていってくれんか?」

 席を立つ丁度良い機会だと、空はありがたく申し出を受けた。そのまま、庭から失礼すれば良いだろう。年寄と話すのは嫌いではないが、博と真を待たせていることでもあるから、そろそろお暇したい。


 笠井老人が見せたかった庭は、小規模ながらも手入れの行き届いた日本庭園だった。

 中央に大き目の池があって、色取り取りの魚が泳いでいる。

「どうだね?可愛いだろう?」

 笠井が、懐から取り出した餌を撒く。

「錦鯉、ですか?」

 空の言葉に、老人は嬉しそうに語り出した。

「そうじゃ、そうじゃ。紅白と昭和三色が多いが、あの金色のは山吹黄金、銀色のは銀松葉という種類じゃな。ドイツ鯉もおるよ。あれがそうじゃ。九紋竜というんじゃが、外国産でも良いものは良い」

「・・・あの変わった色の鯉は?」

「おお、あれは空鯉と言うんじゃよ」

 そんな鯉がいるのか、と空は笠井の話を面白そうに聞いていたが、ふと思いついて彼に問いかけた。

「先ほどの脅迫文ですが、正確な文章を教えていただけませんか?」

 脅迫状は警察に預けてあるが、何とか思い出そうと老人は考え込んだ。


「・・・確か日付けと・・『お前に1億円以上の損害を与えてやる』だったかのぅ。・・・盗むとは書いてなかったが、同じことだろうよ。まぁ、この家に火でもつければそのくらいの損害にはなるじゃろうが、その時は警察や組の若いもんが働いてくれるしな」

 すると空は、ゆっくりと口を開いた。

「ここの錦鯉は、100匹以上いますね。全て見事な鯉ですから、金額に換算したらそれくらいにはなるのではありませんか。池の水がどこから引かれているのかは知りませんが、ドローンでも使えば空中から毒物を落とすことは可能でしょう」

 笠井老人は、眼を大きく見開いて叫んだ。

「そうか、鯉か!この池の水は、奥の沢から引いておる。そっちから毒を入れることも出来る・・・警察と若いもんにその事を知らせねば!」

 客をその場に残してあたふたと、少し危ない足取りで家の中に入る老人を、空は黙って見送った。

(お暇するのは、彼が戻って来てからにするしか無さそうです)

 それまではこの日本庭園を見せてもらっていましょう、と鳥の鳴き声が聞こえてくる静かな庭を空はゆっくりと歩き出した。


 その頃、博と真はのんびりと喫茶店でコーヒーを啜っていた。

 空がバッグに潜ませていたインカムからの音声で、笠井隆源と言う男に悪意は無いと判断できたので、ひとまず安堵している。

「そういやぁ、そんな事もあったな」

 真が懐かしそうに話す。A国のショッピングモールで、空が薬物中毒の男をその速さと的確な行動で制圧した時の事を思い出していた。

「空はあの時、腕を怪我しましたっけ」

 博は彼女を、強引に病院へ連れて行ったことを思い出した。

 その時、インカムからの音声が不穏な音を響かせる。

『・・・なっ・・・っ・・・・ゴトッ・・・・・・・・』

 博の鋭敏な聴覚が、空の息遣いや微妙な振動を聞き取った。

「・・・直ぐに笠井の家に行きましょう!」

 空に危害が加えられた。最後の音と振動は、インカムを潜ませていたバッグが落ちた時のものだ。

 2人は大急ぎで、店を飛び出した。


 笠井の家の門前で、博はインターフォン越しに押し問答をする。やがて、笠井本人がインターフォンに出ると、博は口早に名乗った。

「FOI日本支局の高木です。A国のお孫さんの事件の時、空と一緒にいました」

 それだけで、笠井には全てが解ったようだ。門は直ぐに開けられ、2人は中に通された。

「その節は、孫が大変お世話になった・・・」

 と口を開いた老人に、博は厳しい顔で問い詰める。

「その話は後にして下さい。こちらに来ている菊知捜査官は、今どこに居ますか?」

「そ、それが・・・」

 笠井は酷く困った表情で、説明を始めた。


 庭に空を残して警察と若い者に連絡をしに行った笠井が戻ってくると、そこに空の姿はなくバッグだけが落ちていたという。

 何かあったと直ぐに解った笠井は、急いで家に居る全ての人々を集めた。すると、K組から寄越されていた1人の男の姿だけが無かった。

「マサシという一番下っ端の若い奴なのだが、多分そいつがソラさんを拉致したんじゃろう。全員を集めた時に、マサシの兄貴分だと言う男が妙な顔をしていたんで、今ちょうど問い詰めているところだったんじゃが・・・」

 兄貴分の男はのらりくらいと明言を避けたが、マサシにスタンガン型麻酔銃を持たせたことだけは白状していた。博と真が集まっている人々の所に行くと、その兄貴分はいつの間にか姿を消していた。

 笠井邸にあった車は、全て残されていた。マサシが空を担いで運べる距離は、それ程長くはない筈だ。

 真は庭から家の周囲を捜索し、博はこの近くに彼女を連れ込めるような場所を探すことから始めた。


(・・・・ここは?)

 気が付くと、空はいつものように目を瞑ったまま周囲の状況を把握し始めた。

(埃っぽい小屋のような・・・両手が頭の上で縛られていますが・・・)

 男の気配が近づいてきて、傍らに膝をついた。

(また、でしょうか・・・)

 笠井老人から危害を加えられそうな感じは全く無かった。そうするとこの男が独断で、或いは別の誰かの命令で自分をこうしたと考えられる。

(近頃はこんな風にされることも無くなってきていたのですが)

 色々あったおかげで、危うく儚げな雰囲気はほぼ無くなっているという自覚はある。それでも、こうなってしまったのなら対処の仕方を考えなければならないだろう。

 今までなら命を守る事を優先し、逆らわずに堪えて時が過ぎるのを待っていたが、今はそんな風に考える事は出来なかった。

(どうやら、相手は1人のようですし、何とか出来るかもしれません)

 彼以外の相手に、性的な事をされるのは怖いし嫌だ。

 空は、眼を開けて男の顔をジッと見た。


「な、何だよ!もう起きちまったのかよ」

 まだ若そうな男は、慌てたように声を上げる。

 空は、静かに口を開いた。

「K組の方ですか?組長から寄越されたという」

 男は一瞬身体を強張らせるが、気を取り直したように答えた。

「ね、寝てるうちに一発かましてやろうかと思ったのにな・・・アンタ、捜査官なんだろ。笠井の爺様が話してるのを聞いたんだ。女だてらにそんな仕事してるんだから、こういう事にも慣れっこなんじゃねぇの?」

(・・・慣れるようなものでは無いと思いますが)

 そう思いながら、この若者はこういう事に慣れていなさそうだと思う。

「仕事上、こういう危険は多いですが」

 空は、取り敢えず当たり障りのない返事をした。

「なら、いいじゃん。どうせ顔も見られちゃったし・・・」

 男は空のブラウスに手を掛け、ボタンを外して前を開けた。

(意外と優しく扱いますね。引きちぎられないのはありがたいですが)

 そんな事を考えながら空が彼の隙を伺っていると、男はギョッとしたように声を上げた。

「・・・ぅ・・なんだ、これ。凄い傷跡じゃねぇか」


 Ripper事件で切り落とされかけた乳房の傷跡は、まだヴィクターの皮膚交換手術を受けていないので、そのままの状態で残っていた。1度塞がりかけて再び開いた傷跡は、はっきりと惨い凶行の後を物語っている。小豆色に変色した大きな傷跡から眼を背け、男は空の下半身に手を伸ばす。

「・・まぁ、こっちは見なきゃ・・・・うわ・・・」

 ソラのスラックスのボタンを外し少し下げたところで、男はそこにもある空の下腹部の傷跡にも目を奪われた。

「こ、ここもかよ・・・アンタ・・・何か、スゲェな・・・」

 ヤクザに取って身体の傷跡は勲章的なものかもしれないが、こんな状況でそれを褒められても複雑な気分になる空だ。

「危険の多い仕事ですから」

 空は、同じことを言って小さく溜息をついた。足は縛られていないが、スラックスを少し下ろされたことで動きづらくなってしまった。

 そんな彼女のため息を、男は別の意味に受け取ったようだ。

「・・・何か、その気が失せちまったな。あっ、気味が悪いとか、そう言う意味じゃないからな」

 男はフイと横を向いて座り直し、独り言のように話し始めた。


「俺の爺ちゃん、昔気質のヤクザでカッコよかったんだ。俺もそうなりたくてK組に入ったんだけど、何か違うんだよな・・・寧ろ先々代の爺様の方が好きなんだ。今日も来れたのはちょっと嬉しかったけど、兄貴に言われたんだ・・・」

 兄貴分は今の組長の腰巾着のように、そのご機嫌取りに忙しい。現組長が、先代も先々代も嫌っていることを自分は良く知っていた。礼儀は欠かさないが、いつも愚痴と悪口を漏らしているのだ。さっさとくたばってしまえば良い、と口には出さないが見え見えの雰囲気だ。

 今回その先々代の身辺警護に来て、兄貴分がマサシに言った。

「爺様のところに来てる大事な客を、ちょこっと攫ってみろよって。で、好きにしていいぞ、ってサ。嫌がらせだから、殺しはするなって。寝てる間に・・・男ならそんくらいやってのけろって」

 そういう事でしたか、と空は納得した。要するに、K組のお家騒動に巻き込まれたような感じなのだろう。当の本人たちが与り知らぬところところで。


「だ、だから・・・ごめんっ!」

 男は最後にそう叫ぶと、あっと言う間に外に飛び出していった。

「えっ!・・・あの・・・」

(謝るくらいなら、出て行く前に腕を解いて行って欲しかったです)

 こうなると自分で何とかするしかない。身を捩って体勢を整えていた時、小屋の中に凄い勢いで博と真が飛び込んできた。

「空!大丈夫ですかっ!」

 顔面蒼白で飛びつくように傍に寄る博に、空はニッコリと笑って答えた。

「未遂です」


 衣服の損害も無く、手の戒めだけ解いて貰えれば身繕いも簡単だ。多少埃で汚れたくらいなものである。空は軽く服を叩いて汚れを落とすと、2人に頭を下げた。

「すみません、お手数とご心配をお掛けしました」

 そしてあの男から聞いた話を伝えると、最後に言う。

「この傷跡も、メリットがあるようです」

 空は胸元に手を当てると、同意を求めるように2人の顔を見て微笑んだ。


 3人は一度笠井の家に戻る。

 老人は無事な空を見て心底安堵して喜ぶが、話を聞くと平身低頭で恐縮してしまった。

「申し訳ない。お礼にわざわざ来ていただいたというのに、こんな巻き添えを食わせてしまって、お詫びの言葉もないくらいじゃ。今日は、御礼にこちらの品をお渡ししたいと思っていたんじゃが・・・」

 笠井老人はそう言って、小さな品を空の手に握らせる。

 それは、小さな水晶の帯留めだった。


「昔、好いた女がいてのぅ。残念ながら添う事はできなんだが、思い出の品なんじゃよ。儂が死んだら売られてしまうだけだと思ってな。それなら儂が気に入った誰かに持っていて貰いたいし、御礼の品に使われる方が良いかと思ってなぁ」

 白く透明な水晶の中には、幾つかのインクルージョンがある。

「和服を着ることも無いと思うが、ブローチにでも作り替えれば使い道もあるじゃろう。左程価値が高いものでは無いが、内包物が魚のように見えるだろう?」

 宝石類に含まれるインクルージョンは、その価値を下げるのが普通だが、その水晶の内包物は青く泳ぐ2匹の魚のように見えた。

「・・・これは、珍しいものですね」

 空の掌に置かれた帯留めをアイカメラで捉えて、博が呟いた。

「綺麗じゃろう?どうか、貰っておくれ。それから、今回ご迷惑を掛けたお詫びに、儂に出来ることは何でもしようかのぅ。儂があの世に逝くまでの期限付きじゃがの」

 笠井老人はそう言って、磊落に笑った。隠居の身でも顔は広く、それなりに動いてくれる人間もいるのだと言う。

「何だか、妙に元気が出てきましたな。まだまだやれることがあると思うと、隠居して引き籠り鯉の相手ばかりしているのも勿体ない気がしますわ。足のリハビリも、頑張る気になるというものですな」

 そう言う老人は、確かに少し若返って見えた。


 笠井邸を辞して3人が車に乗ると、思い出したように空が言う。

「皆の注文のお土産、もう買えたのですか?」

「え?・・・まだ半分・・・」

 何しろ種類が多いのだから。言い訳を口にする男2人に、空は笑顔で言った。

「それでは、残りの半分を買いに行きましょう」

 ついさっき強姦されかかったくせに、何事も無かったような態度の空に、博と真は同じことを思う。

(これは、すっかり昔の空だ)

 芯が強く凛々しくて、何事にも平然と立ち向かってゆく戦う女性のような。

 いや、違いますね、と博は思い直した。


 どこか安定した頼もしさと言うか、しぶとさと言うか。

 それはきっと、彼女の心が今までと違っているからだろうと思う。

(これから先が、もっと楽しみですね)

 彼女の安らいでいる心が、この先どのように育ってゆくのか。

「お土産の和菓子、空も食べたいのでしょう?」

 博はそう言って、後部座席で彼女の肩を優しく抱いた。


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