思い立ち、ハンブルク風ステーキ
《あすの料理、今回、ご紹介するレシピは、ハンブルク風ステーキです》
寝る前に教養テレビの料理番組を見る。これが、私の習慣だ。他の局に比べて、アナウンサーの声が聞き取りやすい。料理研究家のサポートをしつつ、手順の説明をしている。良く働いているものである。
「お昼にもやっているじゃありませんか」
風呂から上がった家内の辰子が、さらりと言う。家内は裏表の無い性格だ、嫌味ではない。
この春に定年退職したのだから、自由な一日を過ごせる。昼間にテレビをつけられなくもないが、長年平積みにしていたシリーズ物の単行本を読むことに充てている。
《始めは中火で焼きます。焼き色がついたら裏返して、弱火にします》
「辰子、明日の夕食は決まっているか」
「いえ、考えていませんよ。フラダンス講座の帰りにスーパーに寄ろうかと」
平日の午前中は習い事だった。子供達が自立してから、家内の外出が増えた。三姉妹の世話で、自分のことを我慢してきたのだろう。私は仕事に徹して、後は任せきりだった。返しきれない恩を、少しでもと思い立った。
「明日は私が作る。お茶でも飲んできなさい」
スーパーマーケットは、迷路だ。野菜と合い挽きミンチは、どこのコーナーに置いてあるかは明確だった。しかし、パン粉を見つけるのには骨が折れた。看板をもう少し大きくしてもらえないか。小麦粉や片栗粉と並んでいたが、分かりづらい。番組の通りに食パンを細かくちぎる予定だったところ、家内に「一から作らなくても、便利な物がありますよ」と教えてもらった。長年、台所に立ってきた人だ。いかに手早く食卓に出すか、を重んじてきたという。
帰ると、家内が待っていた。
「早いじゃないか。フラダンスはどうした?」
「臨時のお休み。先生のお嬢さんが産気づいたんですって」
「そうか」
一昨年だったか、長女が双子を産んだのは。たまに帰ってくるが、元気が良すぎて障子が穴だらけだ。食材を台所へ運び、一旦冷蔵庫に収める。
「ナツメグ、無かったぞ」
「そんな洒落た物いりませんよ。くさみ消しなら胡椒で充分」
「もう食べられるか」
家内は掛け時計を見た。
「五時……。いつもより早いけれど、ご飯にしましょうか」
「何もしなくていいからな」
「はい」
おかしいことでも思い出したのか、笑いながら返事していた。
レシピは、紙に書き留めておいた。書いてある通りにすれば、できる。会議に比べれば、易しいものだ。
反省点が多い。まな板やボウルの場所を、事前に聞くべきだった。玉ねぎの皮をどこまでむけば良いかを調べておくべきだった。手本を注意して見ていなかったせいで、みじん切りが粗くなった。つけ合わせの材料を買い忘れた。
「ちゃんと火が通っていますよ。私より丁寧だわ」
ハンブルク風ステーキを、家内は美味しそうに食べていた。私としては、100点中60点なのだが、満足してくれたようだ。
「こねて焼くだけで、完成ではないのか」
家内が冷蔵庫にある物で、野菜スープとポテトサラダを作ってくれた。手際の早さに、改めて驚かされた。「適当ですからね」のわりに、具の大きさと柔らかさが同じ、盛りつけがきれいだった。
「今度もお願いしようかしら。よろしいですか?」
「…………ああ」
次こそは、納得のゆく仕上がりにする。ハンブルク風ステーキは、奥が深い。
そして……辰子、これまで美味い食事をありがとう。
《あすの料理、今回ご紹介するレシピは、ミラノ風カツレツです》
「辰子、ルッコラは八百屋になら有るか」
「レタスで構いませんからね。うふふ」
あとがき(めいたもの)
焼いた後の油をソースとして有効活用した結果、欲望に負けた体形になったのかもしれません。
ハンブルク風ステーキを作る行程で一番好きなところは、こねるところです。脂が手と指にまとわりつくのが、たまらない(健全な意味で)のですよ。
【令和五年文月七日 追記】
かなり前ですが、水無月十八日(日)の夕食にハンブルク風ステーキを作りました。ナツメグは、スパイスコーナーに有り! ナツメグを求めているのに、左右、上下の香辛料にも手を伸ばしたくなるのは、なぜ。心に辛味が不足しているのかもしれません。
大量のひき肉に、粗すぎる玉ねぎみじん切りを投入し、あれやこれやつなぎ等を加え、ナツメグ様ですよ。黒胡椒が、毒舌なメガネ委員長だとすれば、ナツメグは、小麦色の肌が素敵なソフトボール部・部長。普段はおちゃらけているけれど、腹黒い肉ちゃんをまあまあと落ち着かせてくれる、しっかり者(あくまで八十島個人の妄想です)!
焼いた後に残る脂を、ついついソースに再利用してしまうのです。世間は持続可能ななんちゃらなのですよ、童心に帰ってケチャップベースでいただきました。無限に食べられます。どなたか僕のために料理を(以下略)。