169話【風竜過去】高笑い
「な、なんだよ。なんで全員が一斉に走り出すんだよ。俺が命令したのは上位の人間への洗脳だぞ……。それに走れなんて言ってない――」
「全員、じゃないわよ。あなた……。あそこにいる人は明らかに……」
走り出したダンジョン街の人たちは勢いよく四散。
私たちのいる探索者協会に向かってくる人もいれば、他区画を目指す人、それに……怯えた顔でその場から逃げ出す人を追いかける人がいた。
逃げる人、その人も一緒に走り出したから一瞬洗脳が効いているのかと思った。
でもその顔は洗脳されている人たちとは違う。
明らかに恐怖を感じていたのだ。
「一体何が……。ここの弁償は私がします! 今はこの事態の把握が大事……『風伝』!!」
――パリン。
嫌な予感が過った私はガラス窓を思い切り殴った。
ガラスの破片が拳に刺さり血が流れた。
だけどそんな痛みを気にしている場合じゃない。
焦った私はスキルによって街の風を操ってその場の声を探索者協会まで運んだ。
すると……。
『反逆者を捕えろ!!』
『殺せ!!』
『殺せ!!』
『殺せ!!』
『――う、あああああああああああああああああああああああああああああああ!! なんで、なんで……やめろ! やめてください! もうしませんから!! 一生奴隷でいいですから!!』
怒号と絶叫。
想像していたものよりも遙かにおぞましい言葉がその辺りに響いていた。
「う、そだろ……」
『い、やあ――』
絶句する夫。
そしてその顔がより青ざめるような出来事が起きた。
そう、逃げまどっていた人がついに捕まって……殺されたのだ。
取り囲まれ、服をはがされ、集団で殴られ、死体になっても踏み続けられている。
「うっ……」
「あなた!」
「――ふふふ……」
あまりの光景にその場にへたり込み、嗚咽を漏らす夫。
私は急いで夫のもとに駆け寄りその肩を抱き、一方の矢沢は嬉しそうに笑ってみせた。
さっきの声、ずっと感じていた不安。
なんで私はそれを払拭しようとしなかったのだろう。慎重さを欠いてしまったのだろう。
「矢沢彰人……あなた、一体何を命じたの? 何でこんなことを……いつから?」
「おやおや、やはりモンスターのあなたはこの光景を見ても冷静ですか。そこの馬鹿な裏切り者と違って」
「その言い草……やっぱり最初から」
「御明察! 私は下位の人間に肩入れなんてこれっぽちもしていません! むしろ、その男が私と同じ土俵に立っていたこと、同じ場所へ派遣されたこと……非常に遺憾だったのです。でも……あははははは!! 今はとても清々しい!!」
矢沢はガラス窓に近づくと高らかに笑ってみせた。
その姿は今までの不気味な笑いを浮かべた表情なんかよりも遙かに似合っていた。
「――矢、沢あぁぁあああぁああぁぁぁあああぁっぁあああ!!! 貴様、一体何を命じやがった!! どうやって俺のスキルをいじった!!」
「契約によってつながりができた。であれば、私があなたのスキルに干渉することもできる。まぁこれはあなたよりも私が完全に上の立場だからこそ出来た芸当ですが。いやはや、どの立場になってもレベルと……信頼は向上させておくものですね」
夫の問いに答える矢沢。
この立場でありながらやけに強いのは、これが理由だったらしい。
契約については私ですら知り得ないことが多が……この男、地上の政府は熟知しているように感じた。
「それでえーっと、何を命じたでしたか……。それはですね、凄く簡単。あなたのような裏切り者、邪魔者を排除しろ。これだけです。いやね、実はあなた以外にもネズミがちょろちょろしていてですね。これを政府はずっと気にしていたんですよ。だから、この気に一網打尽にしろ。そうすれば私にさらなる地位と富を与える、と約束してくれたわけです」
「じゃあ俺は最初からそれを理由に派遣されたってことか?」
「疑いはありました。ですが、それは数パーセント。安心してください、日々の仕事ぶりが評価されていたことに変わりはありません。正義感を振るっていますが……あなた、自分が下位の人間にしてきたことをお忘れですか?」
「それは、仕方ないことで……」
「あはははははは!! あなたのそういう甘い考え、精神力のお蔭で干渉すること、騙すことは容易かったですよ!! さて……それでは邪魔者なあなたも捕獲といきましょうか。みなさんも到着したようですし」
――ばん!!
唐突に部屋の扉が開かれた。
探索者協会に向けて走ってきていた人間たちがこの短時間でここまで到着したのだ。
夫だけでこれを対処するのは不可能。
一度かかった『誤解』を私が解くのも当然不可能。
であれば……。
「そうはさせない。私が黙って夫を差し出す、まさかそう思っているわけじゃないでしょう?」
「……。洗脳は効かない、ですか。実はさっきあなたに対しても『誤解』を発動していたのですがね……」
「戦いは嫌い。苦手。この階層を守るためにだってできるだけ戦わないようにしてきた。だけど……妻として、母親としてなら喜んで戦わせてもらうわ」
私に残された選択は戦うことのみだった。




