【江戸時代小説/仇討ち編】月夜の橋上、妻敵討にて候。
妻敵討とは、本夫がありながら姦通した妻と間男を、本夫が自宅内で行為をおさえ、奉行所に敵討の届出を出した上で、殺害することである。武士としてこれを放っておくは恥とされていた。
*
「暫くの間、留守を頼む」
ご主人はそう言って、憎くて愛おしいご新造様(下級武士の若奥様)である、千世殿を捜しに出られた。
そうして、もう半年にもなる。
わたしはこの家の下男を務めて随分経つが、あれ程まで荒れたご主人は見たことがなかった……。
「駆け落ちだと!」
その夜、ご主人の慌てた声が居間に響いた。
「まだ、そうと決まったわけではない」
ご友人である藤田殿がご主人を落ち着かせる。
「いや、しかし……」
「見た者がおると話しただけだ。飯田の米屋の次男坊と一緒にいるところをな」
「よりにもよって商家の者なんぞと……」
「そんな殺気立つな。うちの者に跡をつけるよう言ってある」
その一言でうつ向くご主人の顔が上がった。
「すまぬ。借りができた」
「いいや、気にするな」
「ここだけの話だ。家の存続もあろうからな」
「重ねがさね、面倒をかける」
「なんの。旧知の仲だ」
「あとは拙者が。あすにも届出を出す」
「くれぐれも早まるなよ」
旦那様は立ち上がると決意したように言い放った。
「あれはうちのだ。ほかにくれてやりはせぬ」
*
一日前。
「共に逃げよう」
そう言われたのは忘れもしない、真昼間の境内でだった。
「ご新造さん、おらぁ、アンタとならどこへ行ったって生きていける」
八つも年の離れた青年に真っ向からそんなことを言われ、わたしには彼が眩しく見えて仕方がなかった。
それ故に、人妻でもう年増と呼ばれる年齢のわたしでさえ色恋の雰囲気に呑まれて浮かれていた。
「わたしも……わたしも、あなたとさえいられるなら、どこへだって……」
彼に寄り添って頭を預けた。
*
「とうとう見つけたぞ、この盗っ人め」
飯田が千世の茂みに己をいれようとしているところであった。
やるなら、今。
柄に手をかけ、土足で押し入る。
そして妻ごと斬り殺そうというときである。
はたと目が覚めた。
「……夢、か……」
鈴虫のなく声だけが聞こえてくる。
「知らぬうちに眠ってしまったのか……」
友人の借りも役には立たなかった。跡をつけている最中、嵐に見舞われ、姿を見失ったと聞いた。
相手ふたりは見つかれば死罪。
逃げるのが命懸けなら、追うのも命懸けだった。
その日食うものと風雨をしのげる屋根があれば御の字で、無い日が三日続くこともあった。髪は伸びきり、以前のような武士の面影さえなくなっていた。
それほどまでに仇討ちというのは過酷なものなのである。
三年後。
それらしき二人組を見かけたという情報を掴んだ。
急いでその家へ向かう。
すると戸を開けて女が出てきた。愛してやまない千世だった。
「千世……!」
駆け寄ろうとして、その場に踏み留まる。
目に映る妻の姿は身重であったのだ。言わずもがな、飯田の子である。
遅かった。あと数年、いや数ヶ月でも早ければこんなことになっていなかったかもしれない。そう思うと笑顔が消えた。
「漸く見つけ出したというのに……」
悔しさが目ににじみ出る。
するとそこへ間男の飯田が顔を出した。
こちらを見て真剣な眼差しになる。
「明日の朝日を見るまではと思うてきたが……遂に、このときが来たのだな」
男は肩を落として呟いた。
「観念しろ」
詰め寄ると、飯田がその場に土下座した。
「どうか、どうか、こいつだけは助けてやってくれませんか。後生です、どうか」
「ならぬ」
怒りのままに斬り殺し、事切れる飯田の死体を足蹴にした。
それを見た千世は怖くなったのか、走り出す。
よたよたと走るその様は無様であった。
かつてあんなにも愛していたというのになんの感情も湧いてこない。ただ殺さねば、自分が本宅に帰れないことだけはわかっていた。
もうこんな旅はやめにして帰りたかった。
月が高々になる頃、橋の上へ来た。
千世が足を止めた。振り返り、喋り出す。
「もう随分と前のことに思います」
長い髪が風でさらわれ、月夜にぼんやり姿を見せる様は美しく目に映ってしまった。
「あなたを愛していたのかは、今となっては思い出せませぬ……」
その言葉がかつて愛した女から聞いた最後であった……。
*
数日後。
本懐を遂げたと届けを出し、ご主人が漸く帰ってこられた。
その顔は疲れきった様子で、腰を下ろされた。
「妻は懐妊(妊娠)していた」
ご主人は少し笑ってわたしに告げた。
それは、残酷な旅の終わりを意味していた。
おわり