タバコは二十歳になってから
私がこの力を手にしたことが幸運だったのか不幸だったか、今となっては分からない。
それに気がついたのは、いつものように喫煙所で教授と談笑していたときだった。
「家にいても居場所がなくてねぇ、妻も娘も俺のことなんか邪魔みたいで」
禿げた頭を光らせ、口から白煙と共に愚痴を吐き出す50代半ばの男を眺めながら、私は愛想笑いを浮かべた。
うるせーハゲ、さっさと試験範囲教えろ。
心の中で考えながら、もちろん口には出さない。喫煙者の教授の講義を受講し、近辺の喫煙所に張ると高確率で遭遇して色んな情報が漏れてくるのだ。最大限講義をさぼるには必須の処世術である。
「えぇ~大変すねぇ~」
客観的に見てそれなりに整った容姿に生んでくれた両親に感謝する。使えるものは使っていかねば。
肩まで伸びた髪を耳にかけつつ、ぼんやり浮かんでは消えていく煙を見つめる。
うわ、このジジイ今私の吐いた煙に自分の煙吹き付けやがった。きもちわるっ。
嫌悪の表情が出ないように、誤魔化すために思わず笑みを浮かべる。早く飛んでいけ、と思いながら煙を睨み付けるが、煙はしぶとく宙に浮かんでいた。そして、浮かんだままぐるぐると渦巻き始めた。
「え、は?」
間の抜けた声が出た。明らかに自然に起ることのない挙動をする煙を注意深く凝視する。
「なんすかねこの煙、すごいことになってるんすけど」
ジジイの方を見ると、きょとんとした顔で不思議そうにこちらを見ていた。
「はぁ…?これがそんなに不思議かね?」
そう言いながら煙を吐き出し、口から出たばかりのそれを目で追う。渦巻き、二人の間の頭上で台風のような形を作り始めた煙には見向きもせずに。
いやいやいや、ボケるにしてはまだ若い。
間の抜けた顔でこちらを見る老人は無視し、煙の方を観察する。既に直径50cmはあろう大きな円盤型をなした煙をじっと見つめる。すると、煙の向こう側に空ではない景色が見え始めた。
そこには教授がいた。その脇にも一人、若い女性。同年代くらいだろうか、二人は腕を組みながら夜の街を歩いている。教授の娘ではない。以前写真を見せてもらったが、不幸にも教授の血を強く受け継いだ顔をしていたので見間違えるはずがない。
「何これ…」
宙を見上げたまま固まった私を見かねた教授が、心配そうにこちらに声をかける。
「どうしたの、大丈夫?そのタバコなんて銘柄?」
我に返って教授の方を見ると、おかしなクスリでもやってるのかと疑ったような、疑心を帯びた目でこちらを見ていて腹が立った。とはいえこれは腹を立てている場合ではない。遂にタバコで幻覚作用まで出てしまったのか。
「いえ、大丈夫です~。そろそろ教室戻りますね!」
危ないやつだと思われるのは避けたく、挨拶を済まし、早足でその場を離れる。教室に行くつもりは最初からないので、一旦落ち着くために大学のカフェテリアに入った。さっとホットコーヒーだけ注文し、窓際に席に座った。
何だったんだろうアレは。どう考えてもおかしい。幻覚を見たとしか思えない。
頭を抱える。病院に行くべきか否か迷いつつ、先ほどまで吸っていたタバコの箱を取り出した。それは自分で買ったものではなく、以前サークルの飲み会で後輩に貰ったものだった。名前を山田太郎とか言ったか、あまり行っていないサークルの後輩なんて覚えているはずもなく、面白い名前だなと酒を飲んでいたら初対面ながら意気投合し、半分強奪する形で譲って貰った。
黒い箱に、白字で『peeper』と書かれていた。
見慣れないデザインだったためその場で検索をかけるが、そんな銘柄のタバコは出てこず、英単語の意味だけ表示された。意味は『のぞき見する人』。
「キモ…」
そう呟き、タバコをバッグにしまった。これ以上おかしな症状が出るなら、これも一緒に病院に持っていこう。
まだ熱いコーヒーを口に含み、考える。あの煙は何だったのか。あの女性は誰だったのか。
よく考えてみるとあの女性には見覚えがあった。初回だけ顔を出したあの教授の授業で見た覚えがある。確か、ティーチングアシスタントとして大教室の端に座っていて、レジュメを配るのを手伝っていた。ぼんやりとしか覚えていないので確証はないが、それ以外に思うところもない。
とりあえず、今やることは3つ。まず山田太郎を探す。ティーチングアシスタントに会ってみる。…そして、タバコをやめる。
わかったことは、タバコの正体。これは他人の記憶を見ることができる。
あの日から一週間後、教室で例のティーチングアシスタントを見つけて「この前教授と腕組んで歩いてました?」と尋ねてみた。すると真っ青な顔で教室を出て行って、しばらくすると同じくらい真っ青な顔をした教授が入ってきた。教室の外でなぜ知っているのかと尋ねられた。
冗談半分で言ってみたことが当たって驚いた私は、気味が悪くてその場から走って逃げ出してしまったが、あの時見た景色が現実にあったことに強く興味を引かれた。
後日、久しぶりにサークルに顔を出した。もちろん山田太郎の消息を辿るために。
しかし、その場にいる誰に聞いてもそんな面白い名前のやつはいないと答えた。おもしろいよね~酔ってたかな~と返事をしつつ、内心疑問だらけだった。
これはどこから来たのか。そして使って大丈夫なのか。
更に一週間、身体に異常が見られなかったので再び吸ってみることにした。我ながらバカだとは思ったが、好奇心には勝てない。
箱に残された本数は残り9本。喫煙所でベンチに腰掛け、人を待ち構える。タバコを吸うことでしかアイデンティティを保てなさそうな量産型男子大学生が訪れたタイミングで火をつけ、恐る恐る煙を吸い込む。吐き出す。
何も起らない。もう一口。
久しぶりのニコチンに脳がトリップしそうになるのを堪え、必死に頭上に目を凝らすが、浮かんだ煙は虚しく宙に消えていった。
やはり幻覚だったのかと少し残念に思いながら煙をふかしていると、量産型もタバコに火を付け吸い始めた。どうでもいいが、なんでサラッと隣座ってんだコイツ。
量産型も、煙を吐く。するとあの時のように煙が混じり合い、渦巻き始めた。そして同様に頭上に円盤を作る。どうやら二人ともタバコを吸い、吐いた煙が混ざることが条件のようだ。
しばらく眺めていると、また煙の向こうに景色が映った。今度は何処かの部屋のようだった。女性の部屋のようで、明るい色調で小ぎれいに整えられた一人暮らしサイズの部屋だった。そこで量産型と見知らぬ女性が言い争い、量産型が部屋から出て行ったところで煙は消えていった。
やってることも量産型じゃん、と思わず笑ってしまった。どうやら記憶が見られるということで間違いなさそうだ。この男はどうやら女性に振られことがあるらしい。
そこから3回、実験を行った。その結果、このタバコでみられる記憶はそのとき相手が考えていたこと。複数人同時に煙が混じった場合はこちらが視線を向けている人物に上に渦ができるということ、1本につき見れるのは一人の記憶ということだった。
教授は私を見ながら女子大生との浮気のことを考え、量産型は近くに座って振られた時のことを考えていたと思うと気分は良くなかったが、面白い玩具を手にした高揚感でそんなことはすぐに忘れた。
これをどう使おう。残りは5本。