9.緒戦
ざんっ
放たれた矢は、剣尻鏃の十字型に夜の風を切り裂きながら、大蛇の黄土色の左眼を一撃で突き破った。
「ぐ、ぎぎぎぎ」
大蛇は奇声を発しながら広場の上でのた打ち回る。
黒い闇がまるで海の波のように大気を揺さぶり、波風に煽られて、家々の屋根が崩れ落ちる。
屋根の上から大弓で矢を放った葛貫もその乱風に巻き込まれて、中空に飛ばされると一度、二度と舞って、広場の外れへとどんっと落下してしまった。
仰向けに倒れた葛貫はすぐさま起き上がろうするが、視界いっぱいに漆黒の闇が覆い、怪しく光る片の眼が自身を睥睨しているのに気づいて動きを止めた。
早過ぎる。
人の意識をゆうに超えるその速さに葛貫は背筋が凍った。
「見鬼の者」
黒霞の大蛇の口からそう声が発せられた。
「否。空気を読む」
葛貫は精一杯の空元気で大蛇を睨み返した。
「人語を解するとは、矢張りただの太りすぎの蛇ではないな」
いつもの様におどけた調子で大蛇に語りかける。
「ならば問おう、儂は葛貫九郎と申す者。いずれ、名のある者ならば、その名を答えたまえ」
問に大蛇の片眼が驚きで大きく開かれた。
蛇体の身にまさか名を問われるとは思いも至らなかったのだろう。
わずかな間を挟んで、蛇は応える。
「もはや権輿は定かに非ず。時を経ては常成らず。今はただ藤原右兵衛尉高尹と我称す」
「なんと」
今度は葛貫が驚く番である。自らを討伐せんとした者の名を騙るとはこれ如何に。
「継いで名乗るは葛貫九郎となるべし――」
言うが早いか、蛇体の黒霞が大きく波打ち、黒い触手の様なものが何本も飛び出してそのまま弧を描いて葛貫の体を貫きにかかる。
「そうはさせん」
葛貫は握った刺刀を頭上へ向けて放った。
たんっ
刺刀は闇に紛れて張られた縄を切って、広場脇の家塀へ刺さる。
びゅううん
空気を切り裂く轟きとともに、今まさに、葛貫を貫こうとしていた大蛇の巨体が、広場の真ん中で真横に締め上げられ、葛貫を狙っていた触手はその衝撃で四散した。
大蛇を締め上げたのは太い縄。
その縄の先が、家の屋根を超えて闇の中へ延びていた。
その延びた先から、
ぶおおおおおおぉん
と大きな風切り音がしたかと思うと、大蛇の巨体が縄に引き上げられる。
浮き上がった大蛇は己をつかみ取る途方もない力の主を目で追うと、村はずれの巨木が、大きく撓って縄を引き上げる仕掛けが視界に過ぎった。
罠か――
大蛇は空に舞い上がると、そのまま巨体は人家の屋根の上へと落下する。
ずずん
という地響きとともに大蛇が落ちた家の屋根は倒壊し、その身体は家屋の中へと沈む。
しかも大蛇が落ちた土間には、何十もの槍が上向きに突き立てらており、蛇の胴をざくざくと突き破って貫く。
「がああああああ」
大蛇は血まみれになりながら、槍から逃れようと蠢くたびに別の槍がその体を切り裂いていく。
「おのれえええ。くずぬうううきいいい」
吠える大蛇の前に、葛貫九朗は衛府の太刀を佩いて、仁王立ちになった。
「この地には主を屠る千の罠を用意した。例え万古の神獣と謂えどもはや逃れる術はない」
葛貫、腰に手を回しながら大蛇に歩を近づける。
「今宵こそその長きに渡る暴虐の歴史に終止符を打たん。心得よ」
太刀を抜き放ち、下段に構え。
「いざ」
大蛇はもがくのを諦めると丸くなって突如体を膨らませた。そのまま、
ぱん
と弾けると、無数の黒い胞子となって、葛貫の眼前全て覆い隠すように広がる。
葛貫は然るに怯まず、にやりと豪気に笑みをみせる。
「尋常に」
言うやいなや、強い踏み込みからの跳躍、振り上げた太刀で黒霞の群れを一閃。
白刃が闇夜を切り裂いた――