37.光
闇。
また真っ暗な闇だ。
その暗黒の闇の中を翼は落ち続けていた。
四方を見渡してみても明かり一つ無く、自分の存在すら認識できない、夜より深く暗い。
足元は落ちてゆく先を見ることさえ出来ない。
ただ、延々と落ち続けているので、ここは底なしの世界なんだろうと思う。
翼はこの暗い闇を知っていた。
家が大蛇に襲われ家族が殺されたあの日、翼は家の床下からこの闇をたしかに見ていた。
黒く旋回し風を巻き起こした闇は、果てしなく暗い闇の渦だった。
この闇とは一体何なのか。
恐らくそれが滾山の蟒蛇そのものであり、全ての謎の答えになるのだろう。
そして、それを見出さなければ、翼は誰を助けることも、自身がここから抜け出すこともできない。
翼には今、それを知るための知識を持ち合わせている。
宇治大納言が翼に語った大蛇の歴史は筆舌に尽くしがたい壮絶なものであった。
ある者は弟に手足を捥がれ討ち棄てられた妄念が狂気を孕み、人々から畏れられて大蛇と化た。
ある者は家運を守るために家族の手によって母子で大蛇に供された。
二人は雨水を啜り恐怖と飢餓のなかで命を繋いで大蛇を討ち果たすが、妄念に支配されたどちらかが、どちらかを喰い殺し大蛇となった。
ある者は大勢の部下を連れて大蛇討伐に向かうが、部下の逃亡と、託されていた名刀が偽者だとわかり、素手で大蛇と一騎打ちすることになってしまった。
しかし九死の一生を勝ち取って大蛇を討ち果たすが、下山の途中で逃げた筈の部下達の急襲に遭った。
もともとこの遠征自体が、この者を暗殺するために仕組まれた謀略だったのである。
この者は裏切の中で、理性を失い狂気を撒き散らして大蛇と化した。
この残酷な物語全てに共通するものは何なのか。
そして、今再び、大蛇という闇が生み出された原因は何なのか。
宇治大納言は闇の名を「妄念」と呼んだ。
源三郎は後にその話を聞いて、それは「狂気」だと言った。
しかし、翼は大蛇の物語に立ち会って、この闇がそういうものではないと思っている。
この闇はそう、「認識」なんだろうと思う――
翼はそっと闇に向かって大きく広げた片手を伸ばした。
ずぶずぶ
と柔らかい感触の中に沈み込んだ手は、腕の付け根まで闇に飲み込まれてなくなってしまったようだ。
翼は続けてもう片方の手を伸ばしていく。
「葛貫様。やっとここへ戻って来れました――」
「私にはあなたがどれほどの苦しみや悲しみを感じたのかわかりません。でもこれだけは言えます」
「あの暗い床下で怯えている私に差し出されたあなたのあの手は、私にとって今もたった一つの希望なんです」
「だから。あの時あなたがそうしてくれた様に、今度は私はあなたに手を差し出します。だから、お願いします。どうか、」
「どうかこの手に応えて――」
翼は闇に広げて伸ばした両手を、覆うように抱き寄せた。
すっと空を切る冷たい感覚。
しかし、翼はまだ諦めていない。
これは「認識」なんだ。
全ての答えは最初から提示されていた。
あの陰陽師の告げた言葉が核心なんだ。
蛇は人が勝手に作り出した幻影にすぎない。そう最初から言っていたではないか。
誰も蛇になんてなっていないし、闇などそこにはない。
人が妄念や狂気を闇と呼び、闇と認識したとき、それは闇という存在になる。
闇を作り出しているのは、蛇となった人ではなく、人を蛇と呼び怖れる者達だ。
簡単な話なんだ。
だから、私が。
ここには闇は無いと信じる。
恨みや猜疑、妄執や狂気、そして愛や希望は全て同質の「感情」にすぎない。
そこに善悪はなく明暗などはないと信じる。
そして、あなたの生きる意味がここにあるんだって伝えたい――
すっ
っと、かすかに暗闇の中の指先が何かに触れた。
「――っ」
翼は闇の中で、その小さな存在を必死に手繰り寄せる。
本当に小さなその存在に向かって、翼は目を閉じると、もう一度両手を広げて。
力いっぱいにそれを。
抱きしめた。
ぶわわわわっ
っと。
まるで、波が砂浜から一気に引いていくように、暗闇を形づくっていた無数の小さな黒い胞子が、翼の腕や足や、身体を通り抜けて、四散する。
端切れていく闇の合間から差し込んでいく光の筋。
それはどんどんと明るさを増して、闇をあっという間に溶かす。
翼が最後に両手をしっかりと重ねたとき、闇は最後の欠片も失い完全に四散した。
翼はそっと目を開く。
翼の腕の中には、懐かしい人が驚いた表情を浮かべながら立っていた。
翼は笑顔をうかべてその人に向かって口を開いた。
「お久しぶりです。葛貫様―――」