35.栃栗毛
霞谷の郷へ向かう峻険な山道を栃栗毛の騎馬が一騎、猛烈な速さで駆け上っていく。
馬上の翼は、手綱を引く源三郎の胴にしがみついて、振り落とされないように必死だ。
「源三郎様。ここ、この勢いでは馬が、つつ、潰れてしまうのではないですか」
翼が激しい揺れの中を必死に源三郎の背中に叫んだ。
しかし源三郎は馬足を緩めようとはしない。
「問題ないさ。この馬は、俺が陸奥へ行った時に得た駿馬なんだ。俺はこいつを八幡大菩薩の騎馬だと信じてる代物よ」
「はあ。そうなのですか」
何を言っているのかよくわからないが、自信だけは満ち溢れている。
実際馬の良し悪しはともかく源三郎の騎乗技術は抜群だ。
先ほども馬上からの騎射という難業をいとも簡単にして見せたところからもそれは伺い知ることが出来る。
翼は正直、源三郎やその兄弟達が敵に回らなくて良かったと内心ほっとしてるところだ。
「見えた。あれだろう」
源三郎に言われて頭を横に出して馬首の先を見通すと、懐かしい家々が並ぶ村と景色が視界に入った。
「霞が晴れている――」
翼の瞳には、霞谷の村と、霞川の流れ、そして遥か先に悠然と屹立する滾山の山容、霧一つ無く見事なまでに広がっていた。
その美しい郷里の景色に見とれていると、ふと、村の先の小高い丘の上で木々が不自然に揺らいでいる。
じっと目を凝らすと、木々の下になにか巨大な黒い影が蠢いているのが見て取れる。
「源三郎様。あの丘の上。何かがいます」
翼の指さした方を源三郎も凝視したその時、大きな木の一本がなぎ倒され、人の身体とおぼしきものが土煙とともに宙を舞った。
そしてその人の身体を突然黒い触手のごとき靄が地面からせり上がって、
ばくり
と丸飲みにしてしまう。
「なんと。あれは――っ」
源三郎が驚きの言葉をあげた。
翼は表情を険しくさせて、木々の下を揺らめく黒い靄を凝視して、
「滾山の蟒蛇」
とつぶやいた。
「あれがそうなのか。はは。恐れ入った。あれほどに禍々しい姿とは」
「村へ向かっているようです。――源三郎様、申し訳ありませんがこのまま村の外れまで連れて行ってください。そこから先は私が何としても彼を食い止めます」
「おいおい。何言ってるんだ。俺は降りんぞ。共に行こうではないか。策はあるのだろう」
「ですが」
「それにどうもお前はこの馬を八万大菩薩の騎馬だと信じていないだろう。その真価を見せる絶好の機会じゃないか。ほら、もっとちゃんと捕まれ。行くぞ」
「えっ」
翼が言葉の意味を理解する前に、源三郎は脚で馬の腹を蹴りあげる。
馬は短く嘶いて、馬足をさらに速め、疾風のごとく山道を脇に逸れて、霞川の川原へと駆け下りた。
「あの。あっあああっ――」
馬蹄の音とともに、翼の慌てふためく声が谷に響き渡る。
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