30.破滅の罠
「淑貞殿」
その日の朝、淑貞は霞谷館の仮屋の前で、数人の郎党を従えた伊福部惟茂に声をかけられた。
「どうされたのですか。わざわざこのような山合いまで来られるとは」
「いや、ただの視察じゃよ。郡司として郡内の諸事を把握するというは大切な仕事なのでな」
「なるほど。ご苦労様です」
もちろん、そのような話を真に受けるほど淑貞も馬鹿ではない。また何か難癖をつけてこの霞谷の支配権を掠め取ろうと考えているのだろう。
だが、兄の話では国衙も朝廷も今回の霞谷郷のことに関して異論は出ていないようだ。何を言われようと聞き流していれば良いだけの話である。
「それにしても。葛貫殿にも困ったものじゃ。領主なら領主らしく、もう少し滅私奉公の精神を持ってもらいたいものじゃの。ああいうことを言われたら淑貞殿も困られるのではないか」
「なんのことでしょう。私は別に困ることは言われておりませんが」
「なんと。なるほどそうか、葛貫殿は、あの側女と淑貞殿の仲を気にしておられるかもしれませんな。まあそれぐらいの人心は読めるということか」
「側女――」
淑貞の眉がぴくりと動いた。惟茂はそのわずかな表情の揺らぎを見逃さない。淑貞の耳元に囁きかけるように口を開いた。
「そう。側女ですよ。あの女が、葛貫殿のことで私に助けを求めてきましてな。ですが郡司の私が関与することは芳しくないと教え諭して家に帰した次第です。なんと言ったかな、あの女、名前は確か――」
「初衣殿」
「そう。初衣じゃ。さすがは郷の再建を任されおる淑貞殿。領民のことをよく知っておられる」
「少し郡司殿のお話はおかしいのではないでしょうか」
惟茂の陰湿な他意を孕んだ言葉をさえぎるように淑貞は口を開いた。
「なぜ初衣殿が主人の問題を、全く関係のない郡司殿に相談したりするのでしょうか。郡司殿、あまりいい加減なことを吹聴なさらないほうが宜しいのではないですか」
「これはしたり」
惟茂は引かないどころか、更に淑貞を追い詰めるように歪な笑みを向けた。
「淑貞殿は領民のことを良く心得てると言いましたが間違いでしたの。今の話でわかりませんでしたかな。あの初衣という下女。葛貫殿の元へ奉公に差し出したのが誰か判っておられないのですか」
「な――っ」
淑貞の脳裏に最悪な想像がめぐる。
確かに初衣が村を出て戻ってくるまで何をしていたのか、はっきり聞いたことはない。
家族を失った若い女が四ヶ月近くも一人で生き延びるとなれば、やれることは限られてしまう。
「誰が好き好んで、あの男の世話係など買って出ましょうや。だからこの私が個人的に養っております女共の一人を宛がったのですよ。葛貫殿はそれを察し、手をつけようとなされたのでしょうが、本人が嫌がるのを無理やりというのはいかがなものでしょうな」
「馬鹿な。そんなことは――」
「あるわけないとは言えますまい。我らとは違い欲望を理性で抑える頭は持っていないのでしょうな。はっはっは」
あの人に限ってそんなことはあるはずがない。
だというのに淑貞は心の中に芽生えた猜疑の芽を刈り取ることができなかった。
「まあ余り気なさることでもない。所詮、一介の浪人と下女の話にすぎますまい。では私はこれで、失礼」
惟茂は言うだけ言うと、郎党達とともに村の中へと去って行ってしまった。
「――――」
残された淑貞は自問する。
いまの話は郡司の戯言にすぎないのだから気にする必要はない。
だが、もし。仮に、葛貫が本当に初衣を無理にでも我が物としてしまった時、自分は果たして今までと同じように葛貫と、そして初衣と接することができるだろうか。
無理かもしれない。
だが。やるしかない。
この村のためにも、己の想いは捨て、村にとって一番有益な選択をするしかないのだ。
新しい領主のもと一丸となって村を建て直す。
「うむ。そうだ。私はそうあるべきなのだ」
淑貞は自分の結論に大きく頷くと、決意を新に顔をあげ、葛貫の住まう滾大神の社へと歩き出した。
「そういえば、初衣殿はもう里から戻って来ただろうか」
結局昨日、一昨日と丸二日戻ってこなかった初衣だが、今日は帰ってくるだろう。家に荷物も残っているようだし、そもそも、突然いなくなる人ではない。
葛貫についてても、精神的な不安定さは少し収まりつつあるようだ。
さきほどの郡司の話が本当だとしても、葛貫は自棄になっていただけで本意ではないのかもしれない。
ちゃんと話を聞くべきだろう。
色々と問題も孕んでいるが、これから三人力を合わせて村の復興につとめることが出来れば、きっと色々なことが良い方向に向かうはずだ。
そして、きっと。必ず。
いつか。
初衣にも自分の想いが届くかもしれない。
淑貞はほんのわずかな希望を胸に秘め、破滅の罠が潜む滾大神社の拝殿の戸を。
開けた。




