2.来訪者
その日。
葛貫九郎は、いつものように肘をついて横になり、所々が朽ちて綻びた板床を眺めながら終日を怠惰にすごしていた。
遠くで短く人の声が聞こえてふと顔を上げると、社へと続く長い石段を何人もの男たちが列になって登ってくるのが見える。
つい先日追い払った輩共よりは組応えはありそうな男たちである。
そのいでたちや、足並みなどを見るに、おそらく国衙の兵たちなのであろう。
その数は十から十五といったところで、いかに葛貫といえども寝たままでは相手できそうにない。
葛貫が面倒くさそうに体を起こし、社殿の真ん中にどかっと胡坐をかいて座ったとき、石段を登り詰めた兵士たちが有無を言わせず殿中へ上がり込み、葛貫の周りを取り囲んだ。
「これは、穏やかではない」
葛貫は雲脂まみれの頭をカリカリと掻きながら苦笑いを浮かべた。
兵士たちに少しばかり遅れて、身なりの整った細身の男があらわれる。
「前の上総介忠常殿の家人、葛貫匡常殿とお見受けする」
葛貫は黙して答えず。
「私は国府の健児所別当霞谷和比人と申す。ひとつお願いがあってまかり越した」
「頼みごとをする態度ではないと思うが」
言われて霞谷と名乗る男は兵士たちを見渡し、「確かに」と応じて、兵士たちを社の外へと下がらせた。
二人になると霞谷は、葛貫の正面に座り込むと、膝を叩いて顔を寄せてきた。
「貴方の武名は聞き及んでおります。私は貴方を害するものではない」
「郡司の子飼いを打ちのめしたことなど、何の武名と誇れるか」
「いや、その事ではない。私はかつて病床の忠常公の介抱役を任されたことがある。その時ある若者の話を聞いたのだ」
霞谷は国衙で口にした話を葛貫の前でも披露する。武勇比類なきその若者の逸話を葛貫は目を閉じてじっと聞き続けた。
話を終えた霞谷は、その場に両手をつくと葛貫に向かって頭を下げる。
「葛貫殿。我らは貴方のような人をずっと待っていた。どうか今一度その力、この地の民の為、いやこの国に生きとし生ける全ての者の為、お貸しいただけませぬか。もし我らに助力いただけるなら、この社殿を貴方の舘としてお譲りいたす。更には――」
霞谷が続けようとするのを、葛貫の大きく開いた手が制した。
「申し訳ないが。その話は断らせてもらう」
「最後まで話を聞いては下さらぬか」
「無用。儂はもう戦場に立つつもりはない」
「なぜですか」
「儂がこの地に流れてきた訳をご存知か。里の者は主君の菩提を弔う忠臣などと噂するが、そんなものではない」
「儂は、裏切り者の平忠常をこの手で殺すために、地の果てから追ってきたのだ――」
葛貫は若き日、自分を重用してくれた主君に忠誠を尽くし、三州国衙との合戦に先駆けとして参じて数々の功名をあげた。
葛貫は信じていたのだ。
主君忠常が自身の祖父平将門の大望を継ぎ、都の強欲な支配から民を解放し、東人による国を興して真の泰平を手に入れんとする心意気を。
そして、ある日。
忠常は突然朝廷の軍に降伏した。
新しく任官された将が、忠常が主家と仰ぐ権門の家人であったというその理由だけで。
そして忠常は家臣ではなく、息子二人の助命を降伏の条件とした。
葛貫は瀕死の傷を負って捕らえられ、蝦夷の地へ流されてしまった。
「忠常の頭にあったのは領地の拡大と一族の保身、そして主家への奉仕にすぎなかった。結局儂らは中央の政争の具とされ踊らされていたにすぎん」
葛貫はただ復讐だけを生きる糧とし、傷を癒し、流刑地を逃れるのに何年もかけた。
そしてたどり着いたこの濃州で忠常の死を知った。
「復讐が叶わないと知った今、もはや儂には国や民に捧げる牙も爪もない。ただ飯を食って屁をこいて、死んでゆくだけの身の上なのだよ」
「儂がここに居付く事が具合が悪いのならば、ここを去るとしよう。国衙に弓を引くことも、国衙のために弓を引くことも、どちらも本意ではない」
葛貫はこれ以上迷惑かけないよう、三日のうちにこの廃社を旅立つと告げた。
霞谷は、葛貫の強い意思を曲げる言葉を見つけられず、ただ頷くことしか出来なかった。
去り際、霞谷は「ここを出て何処へ向かわれるのか」と問うと、葛貫は思案をめぐらせて答える。
「何処なりとも」
霞谷は改めてその場に座り込み一筆の書状を認めて、路銀を詰めた袋とともに葛貫に手渡した。
「行く宛が無いのであれば、京に上りそれを頼りたまえ。我が祖はかつて、紀臣氏の耳目であった。今もその縁故を頼れるはずだ」
葛貫は思いがけぬ温情に礼を返して霞谷を見送った。
そして約束の三日後。
旅支度を整えた葛貫は一年の間世話になった社殿を後にし、あてのない旅へと出立することになった。