11.杯中の蛇影
「来た」
葛貫が叫ぶ、その視線の先の暗闇から、白く巨大な何かが転がってくる。
石だ、しかもとてつもなく大きい。
それだけではない。
郷を取り囲む全ての山から、郷へ向かって崩れ落ちてくる大量の土砂や、巨大な石――
どどどどどどどどどどどっ。
どん。
大地が鳴動して、土砂は霞谷郷を埋め尽くした。
広場の中央、葛貫の立つ辺りだけを残して。
大蛇の身体も、最初に落ちてきた巨大な石の下敷きとなって、びくびくと蠢動している。
「ここだ」
ここしか勝機はない。
葛貫は肩に噛み付く大蛇の頭を切り落とすと、すぐさま太刀を構えて、五つ目の大蛇の巨大な頭に向け跳躍した。
大蛇は命の危機を感じて、霞へと姿を変えようとしていた。
急げ。わずかな機を狙って貫くしかない。
葛貫は太刀を正面に構えて手をぐいっと伸ばすと、まさに消え去ろうとしている大蛇の眉間へ向けてそれを突き立てた。
ぶわっ
感触がない。刀の切っ先は、霞の中で空を貫いただけだった。
「やはり無理か」
焦りで手がふるえ、刀がカタカタと鳴った。
何故切れない。なぜこの蛇は霞に変われるのだ。無謀な戦いであったのか。
何か、打開の手は――
不意に、里を去る老婆の言葉に思い至る。
楽広の蛇影。
杯中に映った弓の影を毒蛇と見誤り、恐怖に怯える男の話だったか。
思い込みで無い物を有ると思ってしまう馬鹿な話だが。
しかし。
有る物を無いと思い込んでしまうこともありうるのではないか。
「加茂の卜占の真意はそれか」
蛇は霞になってなどない。
思い込みだ。
霞に変わったと見せているだけで、実体はそこにそのまま存在するのではないか。
つまり、この黒い霞の先には―――
「今度こそ逃がさん」
葛原、足をもう一度踏み込むと、更に黒霞の渦の中へ向かって刀の切っ先を強引に押し込んでいく。
ずずずと風圧に抗って突き押すと、
かつっ
とかすかに硬いものにあたる感触。
蛇鱗だ。
やはり、この霞の先に蛇の実体がある。
今度こそのその喉笛を貫いてみせよう。
「とどめ」
葛原はもう一度振りかぶり、大蛇の喉元に太刀を力いっぱい突きたてた。
どすっ
っと貫いた瞬間、大蛇を覆う霞が音も無くふっと全て消え去る。
残ったのは人の背丈ほどの黒くうごめく蛇のごとき、何かだ。
大石に身体を押しつぶされ、その喉元を刀で貫かれながら暴れるそれは、唾を吐きながら何かを口走っている。
「おのれぇ、葛貫ぃ、忘れんぞ。必ずお前に死より恐ろしい地獄を見せてやる。お前の次はこの国の者全てを喰らいつくしてやる。必ずだ、必ず皆殺しに――」
ざんっ
葛貫の太刀が横に払われ、その首が飛ぶ。
言葉を失った蛇の如きそれは、またたくまに黒い泥のようにその場溶けて、消え滅びた。
「鎮まり給え」
葛貫は目を伏せて、消え行く影に言向けた。
カン
何かが落ちる音がして足元を見ると、土の棒のようなものが転がっている。
それを持ち上げると青く錆びているようだ。
「刀、いや剣か。銅の鈍」
青く錆びたその剣に、葛貫は思い当たる節があった。
おそらくこれは、「大蛇麁正」だ。しかも銅造りの贋作とは。
なぜ、藤原高尹は偽物をつかまされたのだろうか。
その理由がわかるわけはないが、おそらくこれが彼が敗れた理由の一つなのだろうことは理解できた。
その無念も今果たせただろう。
「終わったな。全て」
いつのまにか東の空から朝日が昇り始めていた。
谷を覆っていた霞が薄れ、日の光が土砂で崩壊した霞谷郷へと差し込む。
その真ん中で、葛貫は空を見上げながら勝利の余韻に浸っていた。
ずきっ
ふいに左肩の痛みが増した。
蛇に噛まれた肩がはげしく痛む。噛まれた所がよくなかったのだろうか。
あわてて左肩に右手を伸ばそうとしたとき。
どさっ
右手が肩から落ちた。
「え――」
これで章結です。
次から後半部になります。