もふもふ禁止法発令中!〜俺達のもふもふを取り戻せ〜
「なんだって……!?チワワをもふるのに、500ドルだって!?」
「ああ。チワワは人気なんだ。この値段に不満があるのなら、他所を当たってくれ」
「ぐ……ッ!」
西暦1920年。ワメリカでは、後に悪法として知られるとある法律が施行されていた。
それは――もふもふ禁止法。
愛犬文化が生活に根付いていたこの国では、犬を愛するあまり、犬が人間からもふもふされる際に受けるストレスを考慮して、飼い主に犬をもふもふすることを禁止した。
その法律が施行されてから、数年。
愛犬家は法律が施行された当初こそ、愛犬の健やかな生活のためと、涙を呑んで己を律し、犬を眺めるだけにとどめていたのだが、時が経つに連れて、もふもふに対する欲求、それが出来ないことへの不満が募り――人々はもふもふ枯渇に喘いでいた。
そうなると当然のこととして、もふもふ禁止法があるにも関わらず、身近に犬がいると、もふもふしてしまう飼い主が後を絶たず、取締りが一向に追いつかない状況となってしまい――……最終的には一般家庭で犬を飼うことを禁止するまでに至った。
男――トニーは、ギリリと奥歯を食いしばった。
トニーの脳裏には、ある日の光景が思い出されていた。
『クーン、クーン』
『ジャック!どうしてなんだ!どうして、ジャックを連れて行くんだ!』
『お前ら飼い主が、もふもふするのを防ぐためだ。もふもふは犬の健康に良くない』
『そんなことはない!もふられると、こいつはすごく気持ち良さそうにするんだぞ!健康に悪いわけあるか!』
『知るか。偉い学者様が駄目だと言ったから、国の上層部が禁止にしたんだから』
『……ッくう!!ジャック……!お前だって、父ちゃんと一緒にいたいだろう!?』
『犬にそんなこと言っても解る筈ないだろう……。行くぞ』
『ま、待てッ!ジャックをどこに……!』
『国が用意した収容所さ……じゃあな』
『あああ!ジャック!待つんだ!ッジャァァァァァァァァァァァァァック!!!!』
思い出すのは、捜査員に首根っこを掴まれて、大きな瞳を潤ませてこちらを見ていた、愛犬ジャックの姿…。ジャックは今、どうしているのだろうか。ジャックはきちんと食べているのだろうか。そんなことばかりが、脳裏に浮かんでは消える。
「おい、どうしたんだ?チワワをもふれなくて、狂っちまったのか?」
「あ……」
男の言葉に、トニーは、ここが地下ドッグカフェであることを思い出した。
「……で、どうするんだ。払うのか?」
「……いや、またにするよ」
「そうかい。じゃあな」
トニーはくるりと踵を返すと、ゆっくりと薄暗い階段を登っていった。
ここ、地下ドッグカフェは、もふもふ禁止法が発令されてから、各地にひっそりと作られた、秘密裏に犬をもふもふできる秘密クラブだ。
金を支払えば、誰でも犬を存分にもふもふ出来る。愛犬家にとって、最後の聖地とも呼べる場所。
トニーはジャックをもふもふできない事によって持て余した両の手のひらを、ここで発散しようとしたのだが、あまりの高額にそれは叶わなかった。
トニーと入れ違いに、やけに布地が少ない女性の腰を抱いた、身なりのいい男と擦れ違った。途端、鼻をつまみたくなる程の強い香水の匂いがして、トニーは思わず舌打ちをしてしまった。
……あんなプンプン強い匂いを匂わせながら、犬に近付いたら、それこそ虐待だ……。
ワメリカ国民のもふもふを求める禁断症状は、いまや社会現象とまでなりつつある。
……手の震え、食欲不振、円形脱毛症、慢性胃炎。そういった症状を和らげるために、人々は地下ドックカフェに押し寄せた。その影響もあって、地下ドックカフェの料金は高騰していった。その金額は――先程受付の男が言ったとおり。庶民では手が届く金額ではもはやない。
地下ドッグカフェは、いまや金持ちの為の施設となりつつある。犬を愛する心を持たない金を持て余した輩が、犬を女に見せびらかしたいがために利用する……そんな施設に。
ギィ、と錆びた蝶番の音がして、差し込んできた太陽の光の強さに、トニーは思わず目を窄めた。
乾燥した風が頰を撫ぜる。
つい先ごろまでは、この辺りも犬の散歩をしている人々で溢れかえっていた。けれども、いまやこの通りにいる動物といえば、耳障りな鳴き声を上げている鴉ぐらいだ。
びゅう、と吹き込んでくる風がどこか冷たく感じるのは、視界に犬たちが居ないからに違いない。
その時、風で飛ばされてきた新聞が、トニーの足元へと絡みついた。
トニーはそれを拾うと、新聞の記事へと視線を落とした。そして、ぐしゃり、とそれを握りつぶしてしまった。
……その新聞に載っていた記事。それは不法に犬を飼っていた愛犬家が、逮捕され、有罪になったという記事だった。
トニーの中から、沸々と怒りが沸き起こる。
……この状況を、なんとかせねばなるまい。
このまま放置しておけば、愛犬家たちは、犬によって埋められていたはずの、心の隙間のあまりの寒さに凍え、死んでしまうに違いない。
――そう。トニー自身が、死んでしまった妻の代わりに、ジャックを愛していたように。
――愛するものを強制的に政府から奪われた愛犬家たちのためにも、犬たちをもふる権利を……!俺が、取り戻す……!!
その時、ぐっと拳を握り、決意を込めて手元の新聞を見つめていたトニーの視界に、誰かの影が差し込んだ。
「アラン……お前」
「トニー。やっぱりここにいたか」
そこに現れたのは、トニーの親友であるアラン。
彼は、猫をこよなく愛する愛猫家である。
「……やるのか?」
「……ああ」
アランは静かにトニーに問うと、沢山の引っかき傷がある手で鼻を掻いた。そして、ふっ……と苦く笑った。
「まったく……仕方ねえな。俺も手伝おう。犬狂いにはリードが必要だろう?」
「危険だぞ……?」
「承知の上さ。親友」
「すまねえな。……親友」
トニーとアランは、視線を交わすと、にっと歯を見せて笑い合い、硬く握手をした。
**********
「ひ、ひぃ……!」
丸メガネをかけた、ひょろりとして顔色が悪い男は、銃口を向けられて更に顔色をなくした。
ここは、とある大学の研究室だ。その研究室の主は、ワメリカ中に知られている犬の研究の権威であり獣医である、ジャスミン・ブラウンである。
「……何故。何故、もふもふが犬にとって害があると発表した……?」
「うう……」
「貴様の発表した論文を元に、もふもふ禁止法が作られたと聞いている。……もふもふが、犬にとって悪影響がある……だと?ふざけるな!」
トニーはそう言うと、ブラウンのこめかみを、リボルバーの銃口を使って強く刺激してやった。
硬く、冷たい銃口がこめかみを抉る感覚に、ブラウンは口をぱくぱくさせて、汗を額から流している。
「な、ななななな!何が欲しいんだ……!金か!?ど、どうか命だけは……!」
「そう思うなら、さっきの質問に答えろ」
トニーは怯えるばかりのブラウンの様子に、内心焦りを滲ませた。
警備の目を盗んで大学に侵入したのだが、それもいつバレるかわからない。警備員に見つかったら厄介だ。なるべく早くずらかりたい。
……だが、焦りは禁物だ。急いては事を仕損じる。
トニーは焦る心を落ち着けるために、シャツの中にしまいこんでいたロケットを引っ張り出した。そして、それを片手で開けると、中の写真――……愛犬と妻が微笑んでいる写真に、軽く口付けをする。……すると、不思議と心が落ち着いてきた。
「……それは」
トニーがブローチを見つめていると、ブラウンもまた、まっすぐトニーを見つめていた。相変わらず顔色は悪く、冷や汗を流しては居るが、ブラウンの表情は落ち着いている。
「……死んだ妻と、愛犬だ」
「……君の、大切なひとなのかい」
「勿論だ」
「犬……も、かな」
「ああ。俺の家族だ」
トニーがそう答えると、ブラウンは瞼を閉じて、ふう、とため息を吐いた。
そして、何かに苦しげに唇を噛み締めて、ぼさぼさの頭を手で掻き混ぜると――小さく呟いた。
「何故あんな論文を書いたのか……それは、僕の家族を……モリアーノ一家に人質に取られたんだ」
「モリアーノ一家……?あの、ニャーヨークの五大ファミリーの中の、モリアーノ一家……?」
「そうだよ。あのギャングだ。そいつらは、政府の要人たちや、VIP相手のドックカフェ事業で大儲けするために、僕にあんな論文を書かせた」
「……犬をもふることを禁止すれば……人々がドックカフェに群がる。……単純なことだが、動く金はでかいだろうな。犬をもふることの魅力は、一旦やみつきになるとやめられない」
「ああ。そうだろうな。……君は、モリアーノ一家のボスを知っているか?」
「……知らないな。誰だ?」
「ジョゼフ・モリアーノ。……ワメリカ一のチワワ好きを公言している、チワワ狂いさ」
その言葉を聞いた瞬間、トニーは眉を顰め、口端を引き攣らせた。
……チワワ狂いのジョゼフ。それは、愛犬界でタブーとされる名だ。
ジョゼフは自分以外の人間が、チワワを愛することを異常に嫌がり、散歩途中にすれ違ったチワワ連れの愛犬家に攻撃的に喧嘩を仕掛ける、マナーのなっていない飼い主として、ブラックリストに載っているような男なのだ。
……それが、ギャングのボス?冗談じゃない。
「君の愛犬もチワワなのだろう?」
「……ああ。……ッ!まさか」
「恐らく、ジョゼフは収容所に入れられる予定だったチワワを、全て己の元へと集めているだろうね。俺のチワワは俺のもの。お前のチワワも俺のもの。……そう言っていた」
「ジャァァァァック……!!!」
トニーは途端に顔を青ざめさせて、部屋の出口へ向かって走り出そうとする。
……チワワ狂いのジョゼフ。別名甘やかしのジョゼフ……!奴の魔の手にかかったチワワは尽く、ジャーキーや甘味攻めにあって、標準体重から大きく逸脱する……!あの小さな体に、無駄な脂肪がついてしまう……!
トニーの脳裏には、ぽってりと太った愛犬の姿が思い浮かんでいた。……それはそれで可愛らしい、なんて考えがトニーの頭に一瞬過るが、頭を振って考えを改める。……愛犬が長生きするためには、適度な運動と、適度な食事、それと適正な体重……!それは、絶対に外せないのだ!
愛犬がいまもジョゼフの魔の手にかかっているであろうことを考えると、トニーは今すぐにでも飛び出して行きたかった。……が、それをブラウンが止めた。
「待って。君は、ジョゼフの屋敷がどこにあるのか、知っているのかい」
「……いや」
「まったく、もう。愛犬家は自分の犬のことになると、一気に視野が狭くなる。……ほら、これを君に」
「これは?」
「ジョゼフの家の地図と――……警備員に見せるIDだ。これを裏口の警備員に見せれば、簡単に中に入れるはずだ」
「……簡単に?」
「僕は獣医でもある。やつが自宅で大量のチワワを飼っていることは公然の秘密だけれど――……おおっぴらに獣医を呼びつける訳にもいかないらしくてね。裏口から目立たないようにいつもコートの襟をたてて顔を隠して、これを見せながら入るんだ。……だから、警備員は僕の顔を知らない。僕のコートも貸そう。少しぐらいは時間稼ぎになるだろう」
そういう、ブラウンの表情はどこか晴れ晴れとしている。急変した態度に、何か裏があるのではないかと、トニーが疑わしい目でブラウンを見つめていると、ブラウンはどこか疲れたような顔で笑った。
「……僕のせいで、愛し合っている家族が引き離されるのは、望むところではないからね。君には、僕の家族を救出してほしい。そうすれば、僕は正式にあの論文を取り下げる。そうすれば、あの悪法の根拠がなくなるからね。もふもふ禁止法を廃止するために活動している議員にでも協力を仰げば、きっと上手く事が運ぶはずだ」
「あんたは、それで大丈夫なのか?モリアーノ一家に命を狙われるんじゃないのか」
「……このことが終わったら、僕は家族を連れて、身を隠すつもりだ。……もう、こんなことに巻き込まれるのはこりごりなんだよ」
「それは良いが……家族とは?」
「ああ……あそこを見て欲しい」
そう言って、ブラウンは研究室の一角を指差した。
そこには、大きなゲージが置かれていて、中で何かがゆっくりとした動きで動いていた。
ブラウンはゲージの中を覗き込んで「この子の妹が、ジョゼフに捕らわれているんだ」と、中にいるそれに優しげな視線を向けている。
それを見たトニーは大きく目を見開いて――そして、笑った。
「了解した。……ブラウン。お前の家族、必ずや救出しよう」
「お願いするよ」
「それにしても――犬の研究の権威の家族が――……イグアナだとはな」
ブラウンは肩を竦めて、楽しそうに笑った。
「僕はもふもふより、つるつる派なのさ」
「へえ。それは興味深いな」
「……!興味があるのかい!?触ってみる!?この子は姉のバネッサというんだ!」
「……い、いや。それはまたの機会に……」
「機会をくれるんだね!君はなんて優しいんだ!爬虫類は素晴らしいんだよ!今度絶対に触っておくれよ!きっと直ぐにメロメロになるはずだ」
――ああ、忘れていた。犬狂い以上に恐ろしい……爬虫類マニアの熱意の凄まじさを。
墓穴を掘ってしまったトニーは、頬を染めてイグアナのことについて語りだしたブラウンから、気付かれないように、徐々に距離を取った。
**********
ニャーヨークの高級住宅街。その一角にジョゼフの屋敷は在った。
トニーはブラウンから借りたコートを羽織って、白衣を中に着込み、如何にも獣医らしい格好でその場に立っていた。
白い外壁に、2階建てのその建物からは煌々と明かりが漏れている。
そして、その建物の中からは「キャンキャンッ」という、小型犬特有の甲高い鳴き声が外まで丸聞こえだった。
しかし、その建物の前を通る住民も、警邏している警官も知らぬふりで素通りしている。
その光景から、如何にモリアーノ一家が恐れられ、権力と癒着しているかが伺えた。
「……ジャック」
トニーは腰に携えたリボルバーに軽く触れながら、愛犬の無事を祈った。
――今、助けに行くからな……。
トニーは、助けた愛犬を胸に抱きながら、思い切りもふれる未来を思い描いて、決意を新たにした。
裏口の方へ回ると、煙草をふかしている目付きの悪い男が居た。
その男は、ぷかりと煙草の煙を吐き出すと、こちらをじっと見てきた。
コートの襟で顔を隠したトニーは懐からIDを取り出すと、それを提示しながら裏口を潜ろうとした。
……その時、その男がぽん、とトニーの肩を叩いてきた。……思わず、小さく震えてしまったトニーは、心臓が激しく鼓動するのを感じながら、ゆっくりと足を止めた。
男は手に枯れ葉を握っていた。どうやら、男はトニーの肩に着いた木の葉を払ってくれただけのようだった。
……思わずほっと息を吐くと、男は、
「屋敷の中に、お犬様が誤飲しそうなゴミを持ち込んだら、あんたボスに殺されるぜ。お医者様」
と、非常に物騒なことを言い出すものだから、トニーは思わず肝を冷やした。
屋敷の中は、大変な状況になっていた。
至る所に居る、チワワ、チワワ、チワワ……。
恐ろしいほどの数のチワワが、そこらじゅうを駆け回っており、家の内装もボロボロになっている。
使用人が、かろうじて排泄物は片付けているけれども、壁紙は破れ、家具は齧られ、壊れたおもちゃが散乱する状況は、犬にとっていい環境とは決して言い難いだろう。
走り回るチワワの中に、ジャックが居ないかとこっそりと探すけれども、愛犬の姿はみつからない。
……トニーは、案内してくれている使用人にばれないように、こっそり溜息を吐いた。
トニーは表情のない使用人に案内されて、二階へ上った。そして、一番奥にある立派な扉の部屋へとたどり着いた。
そっと扉を開けると、中も大変な数のチワワで溢れていた。
そして、その部屋の一番奥、大きなベッドに奴はいた。
「……やあ、獣医か。よく来た。今日も診察を頼む」
トニーはその男を見た瞬間、顔を顰めた。
男はだらしなく太った裸体をベッドに横たえ、その周囲に沢山のチワワを侍らせていた。
辛うじて下着は身につけているものの、男は汚らしい毛をぼりぼりとまるまるとした指で掻きながら、こちらにドロリとした視線を向けた。
そこかしこに置かれた皿には沢山のジャーキーや、ドックフードが山盛りになっており、チワワたちは食欲が赴くままにそれに食らいついている。
オスメス関係なく、ぶくぶくころころと太った体をしたチワワたちは、部屋に入ってきたトニーを見るなり、けたたましく吠え始めた。
「はははは! 今日も、わしの天使たちは元気いっぱいだ」
他人に吠え立てている犬たちを諌めるでもなく、愛おしそうに見つめているその男がジョゼフだった。
トニーは躾も全くされておらず、適切な食事量も守られていないチワワたちの様子に、内心怒りが沸々と沸いてくるのを感じながらも、なんとかして感情を押し殺し、そっとジョゼフへと近づいた。
――後ろ手にリボルバーを握って、ジョゼフの息の根を止めるために。
しかし、その歩みはある所まで行くと、止まってしまった。
ジョゼフがだらしない身体を横たえるベッドの奥、そこに小さな子犬用のケージを見つけたからだ。
「ジャ、ジャァァァァァァック……!」
トニーは思わず、そのケージの中に居た愛犬の名を呟いてしまった。
小さなケージの中に閉じ込められているジャックは、トニーの声を聞いた瞬間に、ぴくりとその耳を動かして、ぷるぷると小さなしっぽを振った。そして「きゃん!」とトニーを呼ぶように、潤んだ瞳で吠えたのだ。
その瞬間、トニーの瞳から涙が溢れ、たまらずそこに座り込んでしまった。
ゴトリ、と鈍い音を立ててリボルバーが地面に落ちる。
すると、それを見たジョゼフが、慌てたようにベッドから身体を起こした。
「……銃だと……!? 貴様、いつもの獣医ではないな!」
ジョゼフは枕元から、銃を取り出すとトニーに向かって銃口を向けた。
トニーというと、未だジャックから視線を外すことが出来ずに、滂沱の涙を流していた。
「……なんだ?お前は。俺を殺しに来たのだろう?何故泣いているんだ……ああ。もしかして」
ジョゼフは、トニーの様子をまじまじと見ていたかと思うと、にやりと嫌らしい笑顔を浮かべた。
「そのチワワちゃんの飼い主か。……わしの元から、そのチワワちゃんを取り戻しに来たんだな!馬鹿め!」
ジョゼフは、短い足をバタバタと動かして、高いベッドから苦労して降りると、銃口をトニーに向けたまま近づいてきた。
「お前のような飼い主の元へいるより、わしのもとに居るほうが幸せに決まっているだろう!この世の全てのチワワは、わしのもとで幸せになる。そう、決まっているのだ!」
「……ふざけるな!」
ジョゼフがそういった瞬間、トニーは銃口が向けられているのにも関わらず、全力でジョゼフを殴った。
がつん!と酷い音がして、ジョゼフは床を滑るように飛ばされてしまった。
たらり、とジョゼフの鼻から血が流れる。
その姿を見ていたトニーは、更に殴りつけようとジョゼフの元へと行こうとして、ここでようやくジョゼフが銃を向けているのに気がつき足を止めた。
「……来るな!」
「……なにが、お前のもとで幸せになる、だ」
トニーはうつむき加減で、小さく呟いた。
ジョゼフは銃口を向けられても尚、全く怯えもせずにその眼差しから殺意が消えないトニーに恐怖を感じていた。
……この男は、一体何なんだ。銃が怖くないのか!……犬狂いなのか……!?
犬狂いとは、もふもふ禁止法が発令されたあとから現れ始めた、犬をモフられないストレスで狂ってしまった狂人のことである。その数は年々増えていると聞いているが――まさか、この男も。
ジョゼフは、ごくりと唾を飲み込んだ。
ブツブツと何事かを呟いているトニーの様子は、狂っているとしか言いようがなかった。
――パァン!
とうとうジョゼフはトニーに向かって一発発砲した。
その弾はトニーの太ももを貫通したけれども、トニーはうめきもしない。
トニーはちらりと、自分の血が流れ始めた足を無感動に眺め、ぐるりと顔をジョゼフの方へと向けた。
その瞳には、ジョゼフに対する憎しみが溢れんばかりに込められていた。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……何故、俺のジャックがあんなにやせ細っているんだ」
「それは」
「お前のもとにいるチワワは全て幸せなのだろう?何故、俺のもとに居たときより痩せている」
「あの犬は、餌を与えてもこちらを警戒して、食べようとしないのだ。……そのうち、心を開いて食べるはずだ。だから、落ち着くまであのゲージに……」
「ジャックは繊細なんだ。しかも、小さな頃から俺と嫁と三人で暮らしてきた。こんなに沢山の犬と触れ合う機会も中々なかった……この環境は、ジャックにとって負担でしか無い!」
「……それは、そのうち慣れて」
「慣れる前に、弱って死んでしまったらどうするんだ!」
「そんなことはない!生命の危機を感じる前に、食事はするはずだ」
トニーは目に怒りを滾らせると、ジョゼフの首を鷲掴みにした。
ひゅぅ、とジョゼフの気管が狭まり、おかしな音がジョゼフの喉の奥から漏れた。
「犬一匹、健康に管理もできないお前が、犬を語るな。……犬は。もふもふは人々の癒やしだった。それを、お前の私利私欲で奪おうなどと」
「ぐ、がはっ…………!」
「ジャックは、俺にもふられるととても気持ちよさそうにしているんだ。もふもふが犬を害するなんて、絶対に有り得ない。……少なくとも、俺は認めない」
トニーは、そう言うとジョゼフの首を更に強く締め上げた。
――このままでは殺される。
そう思ったジョゼフは、震える手で握った銃を持ち上げて、トニーのこめかみに突きつけた。
そして、なんとか指先に力を込めて、引き金を引こうとするけれども、現在進行形で首を締め上げられているせいで、上手く指先が動かない。
「……チワワは。飼い犬は、お前の玩具じゃないんだ……!」
トニーがそういった瞬間、ジョゼフは憎々しげに顔を歪めて、思い切り銃の引き金を――……
「――……そこまでだ!」
その時、部屋の入口の大きな扉がけたたましい音を上げて開かれた。
そして、沢山の男たちが部屋になだれ込んできた。
それに驚いたチワワたちが、パニックに陥ってキャンキャンと吠え立てる。
侵入してきた男たちは、チワワを手際よく捕まえて、持ち込んだゲージに手際よく放り込んでいった。
「トニー。お前の手を汚すことはないさ」
「アラン……」
「……げほっ、げほっ、げほっ……」
アランの顔を見た瞬間、トニーは力が抜けたのか、ジョゼフの首から手を離した。
ジョゼフは新鮮な空気を求めて、床で這いつくばって息を荒げている。
トニーは泣きそうな顔になって、アランを見上げた。
「ブラウン氏の証言によって、ジョゼフ・モリアーノに強要されて論文を発表したことが証明された。もふもふ肯定派の議員たちによって、もふもふ禁止法を廃止する方向に動いている。……お前が、ブラウン氏を説得してくれたお陰だ」
「ブラウンが……?まだ、彼の大切な家族を助けていないっていうのに」
「ブラウン氏いわく、もうこれ以上大切な家族を奪われて悲しむような人間を増やしたくないそうだ」
「……それは」
「……ここにいるチワワたちも、もふもふ肯定派団体によって、家族のもとへと帰される。……トニー。俺達の勝利だ」
トニーはその言葉を聞いた瞬間、また涙が溢れてくるのを感じた。
――そのとき、足元で蹲っていたジョゼフが、銃を持ち上げたのが見えた。
それを視界に認めたトニーはひやりとした。
……まずい!撃たれる……!
けれども次の瞬間、ジョゼフの表情が絶望に彩られたのを見て、何事かと顔を上げた。
アランは一匹のチワワを抱えていた。
そのチワワは黒毛で、大きな瞳を持ち、ぽってりと太っていた。
その犬は、余分な脂肪で膨れたピンクのお腹をさらけ出して、アランのもふもふテクニックによって、だらりと弛緩して、全身をアランの腕に預けていたのだ。
「チェリーちゃん……!貴様、チェリーちゃんに触るな!汚れる」
「ふふふ。そうかな。……チェリーちゃんは、大層気持ちよさそうだぜ?」
「そんなわけないだろう!チェリーちゃん!パパのところへおいで……!」
ジョゼフは焦って立ち上がると、アランからチェリーを取り戻そうと腕を伸ばした。
……その次の瞬間。
「ぐるるるるるる!」
――ガブリ。
チェリーはジョゼフに牙を剥いて、その手に噛み付いたのだ。
「……わ、あああああああああああああ!」
ジョゼフは痛みに悶絶し、自分の愛犬に噛まれた衝撃で涙を零した。
その全身についた脂肪を震わせながら、地面を転がって悶絶している。
そして痛みが収まる頃、ジョゼフは呆然と口を開けたまま、遠くを見つめて動かなくなってしまった。
チェリーはジョゼフがチワワに嵌ったきっかけとなった犬であり、一番付き合いが長い犬だったのだ。
彼女を心から愛していたジョゼフは、チェリーに噛まれたことがショックで動けなくなってしまった。
「……これで、奴も終わりだな」
アランはそんなジョゼフを見て、にやりと笑った。
トニーはアランの表情を呆れた顔で見て、それから首を傾げた。
「……その犬、随分と気持ちよさそうだ」
「ははは、これか?」
アランはニカッと白い歯を見せて笑うと、猫に引っかかれて傷だらけになった手をトニーに見せた。
「……長年、我儘で気ままな猫を買っているとな。どこがそいつのいいところなのかが、すぐに分かるようになるんだよ。……猫が嫌がって攻撃してくる前に、如何にもふり落とすか。……猫好きには必須のテクニックなのさ」
「そりゃあ、すごいな。チワワ程度じゃあ、問題にもならないか」
「……それでも、俺の手の傷は毎日増える。……猫ってものは、奥深いものだよ」
「猫好きってのは、生傷の絶えない――生粋の戦士がやるもんなんだな」
「ははは、そりゃあちげえねえや」
トニーとアランはそういうと、強く握手を交わした。
「これからが忙しくなるぜ。親友。……もふもふ禁止法を、廃止するためにはまだまだかかる」
「ああ……でも、少し時間をくれないか」
「……なにかあるのか?」
「俺にはやらなきゃいけないことがある……」
トニーはそう言うと、救出されたジャックを抱えた男がこちらにくるのを見つめた。
「これから、こいつにメシを腹いっぱい食わせて、元気になったら――風呂に入れて身体を洗って、ついでに肛門腺を絞って、ブラッシングして、トリミングをして、爪を切って、耳の掃除をして、歯磨きをして、散歩に連れて行かなきゃならない」
「……」
「ああ、ボール遊びと、綱引きもしなきゃな。こいつ好きなんだ……」
幸せそうにジャックを受け取ったトニーを、アランはなんとも言えない表情で見つめた。
「……それは、忙しいな……」
「ああ! 忙しいんだ!」
そういったトニーの顔は、きらきらと眩いばかりに光り輝いていたという。
この作品は向日葵様主催の「世界に向かってもふもふ愛を叫ぶ」企画参加作品です。
なんちゃって禁酒時代風。本当に、なんちゃってです(笑)