第一章 オーク商店③
「さ、次は総務経理だ」
「総務経理」
エリカはオウム返しにつぶやいた。
「ああ。金を扱ったり事務仕事をしてくれてる、会社で最も大事な部署だな」
いやそれは知っている。
知っているが、まさかオークの会社に総務経理まであるとは思わなかった。これでは本当に普通の会社のようだ。
そんなことを考えるエリカをよそに、ガイアは廊下の奥にある扉を開ける。
「よう、お疲れ。ちょっと邪魔するぞ」
「あら社長。ずいぶんお早いお帰りでしたね。釣れなかったの……って、その子は?」
するとそこにいたのは、やはりオークたちだった。太い指で器用にペンを持ち、書類仕事をしている。その光景に、エリカは頭がクラクラとしてくる。
「実はな……」ガイアは事情を手早く伝えると、「というわけで、今日からうちで働くことになったエリカ=ウッドマンだ。契約を結んでやってくれ」
ずいぶんと大雑把だな、とエリカは感じた。
「はい、契約ですね。わかりました」
「って、いいのか!?」
「……えっと、エリカさん、でよろしいでしょうか? 今日は判子はお持ちで?」
総務経理のオークのひとりが立ち上がって近づいてきながら丁寧な口調と笑顔で聞いてくる。
「え、判子……?」
「ええ。正式に雇用契約を結ぶのですから、もちろん判子が必要なのですが……」
「判子……判子は今日は持ってきてないな」
何しろエリカはオークの討伐に来たのだ。まさか判子が必要になるなんて思いもしなかったし、当然手元にはない。
「では、拇印で結構です。……社長。エリカさんの雇用形態は何ですか?」
「契約だ。トォルたちの怪我が治るまでの二ヶ月、あいつらの代わりに働いてもらうだけだからな」
「わかりました。今、新しい契約書作りますね。雇用期間は二ヶ月。エリカさんには何をしてもらうんですか? さすがに人間の女性の方にトォルくんたちと同じ作業はできないでしょうし……」
「同じだ」
「……社長。いくら彼女がトォルくんたちを戦闘不能……いえ、業務不能に追いやった女騎士見習いさんとはいえ、人間の女性ができるとは思えませんが……」
総務経理のオークが咎めるように言う。
「だいたい、不意討ちだったんでしょう?」
「確かに最初は不意討ちだった。しかし、それでもトォルとアインを気絶させた後は、三対一だ。それをこいつは俺以外の二人をきっちり打ち倒しやがった。俺はこいつに無限の可能性を見た。……それに」
「それに?」
「女でも、こいつは人々を守る騎士の見習いだ。内定のためとはいえ、勘違いだったとしても、ひとりでオークと戦おうなんて立派じゃねぇか」
そう言われ、エリカはどうしていいのやらわからず、所在なさげに立ち尽くしているところを総務経理のオークの視線に晒される。
ガイアの言う通り、彼女がここにやってきたのは内定のためだし、そもそも彼らを襲ったのも完全にエリカの勘違いによるものだ。それを感心したように言われるのは、何と言うか良心の呵責でいたたまれなくなる。
やがて、総務経理のオークは諦めたように大きくため息を吐き、
「……わかりました。契約書を用意します。エリカさん。本当によろしいのですね?」
「あ、ああ……」
頷くエリカだが、正直ここで首を横に振る度胸はない。
「では少しお待ちください。…………っと、ありましたね」
幾分の間の後、総務経理のオークは一枚の用紙を取り出した。そして、そこにすらすらと何かを書いてエリカに差し出す。
用紙の一番上には、「雇用契約書」と書かれていた。
その下に、「オーク商店(以下、甲とする)と____(以下、乙とする)は、以下の条件に基づき雇用契約(以下、本契約とする)を締結する。」と続いている。
「あの……これは?」
「見ての通り、雇用契約書だ」
「こよーけーやくしょ……?」
ガイアがごく当たり前のようにガイアが答えたが、エリカはさっぱりわからない。見ての通りと言われても、こんなものはエリカは初めて見た。
「何だ? お前、就活をしてるくせに雇用契約書も知らないのか? そんなんじゃブラックな職場で死ぬまで働かされるぞ」
「そんなこと言われても……」
エリカは就職はおろか、アルバイトすら行ったことがない。このような契約書を結んだ経験がないのだ。
「しょうがねぇな……教えてやるよ。雇用契約書ってのは、まぁ文字通り雇用関係の契約を結ぶためのもんだ。まず見るのは業務内容」
ガイアが用紙に書かれている表のいちばん上の項目を指す。業務内容と書かれてる隣には、「狩猟および精肉作業」と書かれていた。
「ここには文字通り、業務の内容が書かれてる。うちだと山に入って害獣の駆除がてら狩猟と、獲ってきた肉を加工――精肉の作業だな」
「ふむふむ」
「次の項目は『雇用形態』だ。お前はトォルたちが治るまで――まぁお前の学校の夏休みの間だけの雇用だから期限付きの雇用形態になる。いわゆる有期雇用だな」
「ゆうきこよう……?」
いきなり知らない言葉が出てきて、エリカは思わずうろたえてしまう。
「雇用には期間の定めがない常用雇用と、期間の定めがある有期雇用ってのがあるんだ。正社員は常用雇用だな。それ以外、例えば契約社員とかアルバイトが有期雇用になる」
「そうなのか……」
「これな、契約社員ならわかりやすいが、準社員とかサブ社員とか、わかりにくく表記してるところあるからな。気を付けろよ。……で、だ。お前の場合は期限付きの雇用だから、契約社員として雇う」
「う、うむ……わかった」
そう言われれば、正規騎士として内定したと思った先輩が実は臨時騎士……つまりアルバイト扱いだったという恐ろしい噂話を友人から聞いたことがある。それも名前こそ正規とついていたのに、ちょっとだけ名前が違っていたという話ではなかったか。
ぞっとしながらエリカは契約書の項目を上から順に見ていく。
業務内容、雇用形態の次には雇用期間、就業時間、就業場所、時間外労働、休日、休暇、賃金形態、保険、備考、と続いていた。
「雇用期間は今日から二ヶ月だな。就業時間は朝の八時から夕方の五時。休憩時間は昼の一時間になってる。ちなみにみんな一斉に休憩を取る形だ。会社全体で仕事と休憩のメリハリをつけることにしてる。休憩時間中は何をしててもいい。みんな思い思いのことをやってる。ああ、そうそう。昼食は食堂があるからそれ使っていいからな。けっこう美味いぞ。あと、時間外労働、俗に言う残業ってやつだが、基本的にはなしだ。もし仕事が残っててもよっぽど急ぎじゃない限りは次の日に回すように。しっかり休め。休日労働もなし。その休みだが、毎週土曜日と日曜日の完全週休二日制だ。祝日も休みになる。休暇は有給休暇も認める。ただ、さっきも言ったが、二ヶ月の雇用だし、トォルたちの代わりだからあんまり休んでもらうと困るがな。賃金形態についてだが、月給がトォルたちの治療費を天引きして、基本給が三十万ゴールド。そこに残業代などの諸手当がつく。深夜手当は二十五パーセントアップだ。まぁうちはほとんど残業ないけどな。社会保険や労災も完備してるぞ。ここまでで何か質問はあるか?」
と、ガイアの説明がいったん終わる。
(質問、と言われても……)
いろいろと一気にまくしたてられて、わかるところもちょっとわかりにくいと感じたところもあるが、正直、質問と言われても何を聞けばいいのかわからないというのが本音だ。
「……ま、いきなり言われても困るだろうな。聞きたいことができたら追々聞いてくれてもいい。とりあえず、この用紙に書いてあることに同意できたら下に署名な」
「あ、ああ。わかった」
ガイアの言葉に頷きながら、エリカは雇用契約書を眺める。
内容は、今ガイアに言われた通りだ。書かれていることは、エリカの知識の範疇では、おかしくないように感じる。
ふと、気になる。
「こういったことを聞いていいのかわからないが……」
「おう、何だ?」
「給料はいつ払われるんだ?」
「ふむ、いい質問だな」
「毎月二十五日に、一括でひとりひとり手渡しで支払います」
ガイアの言葉を引き継いだのは、総務経理のオークだった。
「ちなみに、〆日は二十日です」
「失礼、〆日とは……?」
「給料の計算を締める日のことです。つまり先月の二十一日から今月の二十日までの勤怠で支払われる給料が決まるわけです。それによって決まったお給料を二十五日に支払う形です」
「なるほど、そういうことなのか……って、あれ?」
総務経理のオークの説明を受け、エリカの頭に新たな疑問が浮かんでくる。
「給料は定額ではないのか? 勤怠で変わってくるのか?」
「もちろん、基本給は同じです。アルバイトならば時給の計算もありますが、ただ、うちは時給計算の社員はいません」
「ではみんな同じ給料をもらうのではないのか? それなら勤怠によって給料が変わることもないのでは……」
「いいえ、それは違います。残業代や休日出勤などの計算がありますから」
その言葉に、エリカは「あっ」と叫びそうになった。
「さっきも言った通り、うちは基本的には残業はねぇ。もちろん休日出勤もな。ただ、それはあくまでも基本的に、だ。規定時間外や休日に害獣が村に下りてくることもある。そんなとき、俺たちが休み返上で退治するんだ」
「もちろん、休日出勤の場合は休日出勤手当がつきます」
「まぁそういうことでな、勤怠によって給料が変わることもある。その計算の期間が、二十一日から翌月の二十日だってことだ。わかったか?」
「ああ……」
ガイアたちの説明は、言われてみればごく当たり前のことだった。そこに気づけなかったことに、エリカは恥ずかしくなり、穴があれば入りたい気分だ。
(くそ、オークのくせになんでこんなにしっかりしてるんだ……)
そんな八つ当たりのようなことを思いながら契約書を改めて眺め、そういえば、と気になることができた。そんなことも知らないのかとバカにされるのではと一瞬足踏みするが、恥の上塗りだ。こうなったらどこまでも気になることは聞いてやる。
「なぁ、この契約社員ってのはいったい何なんだ……?」