第二章 初めての労働①
世界観の説明も終わったので、ここからエリカのお仕事が始まります。温かく見守ってあげてください。
第二章 初めての労働
働くオークたちの朝は早い。
まだ東の山から日が出始めたような時間に、彼らは寝床から起き上がる。そして着替えたら食堂へと集まっていく。そこには新入社員のエリカの姿はない。彼女には「この時間」のことは知らせていなかった。
彼女が知る必要はないし、参加する必要もない。
「おはよう、みんな。それでは始めようか」
朝というにはまだ早すぎる時間、外では鳥のさえずりくらいしか聞こえない静寂の中、ガイアがひっそりと告げる。
村の人間たちには決して知らてはいけない、オークたちの秘密の時間が始まるのだ。
* * *
「んっ、んん……」
オークたちが目覚めてからしばらく経った後、窓から差し込む日の光に導かれ、エリカは目を覚ました。
山の麓の村とはいえ夏の日差しはなかなかに厳しく、カーテンをくぐり抜けてエリカの寝ぼけ眼を強く刺激する。低血圧気味な彼女であったが、おかげですんなりと起き上がることができた。
「ここ、どこ……?」
目覚めた直後、そこが慣れ親しんだ自室ではないことに訝しんだエリカだったが、意識がハッキリと覚醒して昨日のことを思い出す。
そうだ。自分はオークを退治しようとしたら返り討ちに遭って捕まり、オーク商店の契約社員になったんだった。
言葉にすると何だこれはという気分になるのだが、事実は事実だ。今日からエリカにとって初めての労働が始まるのだ。
初日から遅刻はさすがにまずい。まさか寝坊してはいまいな、今はいったい何時くらいなのだろうかと、カーテンを開けて窓の外を見る。日の上り具合からしてだいたい六時をちょっと過ぎたくらいか。
業務は八時からだ。それまでだいぶ余裕がある。
エリカは寝間着から着替えながらさてどうしようかと考える。
確か食堂で朝食が出ると聞いていたが、もう食べれるのだろうか? いや、朝食が出来上がるのは七時半くらいで、そのあたりの時間にナタリーが起こしに来てくれるという話だったはずだ。早めに起きてしまったから起こしてもらう必要はなくなったが、それならまだ作っている途中に違いない。下手をしたらまだ起きていないかも。
(散歩でも行くか……?)
エリカは昨日来たばかりだで、村のことをほとんど知らない。知っているのはオーク商店の建物と今いる社宅、それと昨日歓迎会が行われた村の食堂くらいなものだ。
これから二ヶ月ほどこの村に滞在するのだ。時間を潰すがてら散歩をして村のことを知っておくのは良いアイデアのように感じた。
そうと決まれば、エリカは部屋を出る。みんなまだ寝ているのか、だいぶ静かだ。
起こすのも忍びない。騎士学校で身につけた、足音を殺す方法を実践しながら一階へ降りる。
しかしそこでエリカは信じられないものを見るのだった!
「な、何だこれは!?」
それを見た瞬間、エリカは思わず叫んでしまい、食堂にいるオークたちに気づかれた。
「……見たな」
ガイアが低い声でつぶやく。その声音からは怒りとも何ともつかない感情が滲み出ていた。その言葉にエリカは軽く怯むが、それでも問いかけるのをやめない。
「何をやっているのだ、これは!?」
なんと食堂に揃ったオークたちは、ホワイトボードに貼られた紙に書かれた言葉を読んでいたのだ!
その姿はまるで…………。
「何って勉強に決まってるだろ……」
「勉強!? 何の!?」
「……………………人間の言葉の勉強だよ」
「人間の言葉の勉強、だと!?」
エリカはおうむ返しでつぶやいた。
なぜそんなことをする必要が、とエリカの頭の中でクエスチョンマークが乱舞する。
しかし、ふとその理由に思い当たる。
そうだ。昨日、湯浴み場で遭遇した時にガイアは言っていたではないか。
――だって俺らとお前たちとじゃ種族違うし……。
「まさかとは思うが……お前たち、喋れないのか? 人間の言葉を……」
「そのまさかだ。というか、俺たちはオークだぞ? 本来は人間の言葉なんか喋れるわけがないだろ」
「でも……喋れてるじゃないか」
しかもすごい流暢に。
「だから勉強したんだっての。人間と取引するためには人間の言葉を喋れる必要があったからな」
「…………」
あまりに予想外すぎた答えにエリカは絶句する。
理屈はわかる。人間だって国が違えば使う言語が違ったり、同じ国でも訛りや方言で使う言葉が違うことはよくあることだ。ましてや種族すら違うオークが自分たちと同じ言語を使っているのは確かにおかしいではないか。
「ちなみに俺たちの本来の言葉はこんな感じだ。……みんな」
ガイアが呼びかけると、直後、豚の鳴き声に近い何かがオークたちの口から放たれた。きっとこれがオークたちの言語なのだろう。エリカには到底理解できなさそうだ。
「……な? 必要だろ?」
「ああ……十分すぎるほどに理解した」
「苦労したんだぞ。人間の言葉を喋れるようになるまで」
エリカの脳裏に、山奥で今見ている光景のようにオークたちが言葉の勉強をしている姿がよぎる。何ともシュールだなぁと他人事のように感じるエリカ。
昨日からの一連の出来事に、今まで抱いていたオークのイメージがどんどん崩れ去っていく。
「しかし、何だってこんな朝早くにこんなことを……」
「だって恥ずかしいじゃねぇか」
「…………は?」
「村の奴らは俺たちが人間の言葉を喋れるのを当然のように思ってる。何だか知らんが、人間の社会の中ではそれが常識みたいに広がってるらしい」
「…………………………」
魔物の中でも特にオークは人間と接点を持つことが多かった種族だ。その影響か、真偽こそわからないものの、オークに捕まって脅されたり暴行されたという類の話は人々の間でもよく語られている。そのあとには、だからオークには近づくなとか遭遇したらすぐに逃げろと続き、エリカ自身も何度となく聞いた話だ。
種族すら違うオークが人間の言葉を普通に喋るという、よく考えれば嘘だとわかる妄信も、そういった話とともに広がっていった偽りの常識だろう。もっとも、その根底にあるのは自分たちとは違う魔物という存在に対する恐怖なのだろうが……。
「しかも俺たちは取引のために人間の言葉を喋って村の連中の前に出ちまった。そのせいでやっぱりオークは人間の言葉を喋れるって余計に思われちまったみたいでな……。いまさら実は喋れませんでしたなんて言えない空気になっちまったんだ」
「それは……」
気の毒だとは思うが、早めに言わなかったお前たちの自業自得では? とエリカは思ったが、神妙そうな顔を浮かべるだけに留めておく。
「以来、俺たちは人間の言葉を喋れるように毎日勉強をしているというわけだ」
「なるほどな……」
話はわかった。勉強というのならば特に害があるわけではないだろう。むしろ人間に寄り添おうとしているのだから文句はない。
安心し、改めて散歩に行こうとするエリカだったが、
「ところでお前はなんでこんな朝早くにいるんだ?」
「ああ、目が覚めてしまってな」
ガイアに呼び止められた。
「いつもこんな朝早いのか?」
「そういうわけではないのだが……初日から遅刻するのもまずいから二度寝が怖くてな。せっかく早起きしたんだし、村に何があるのかを知るがてら散歩でもと思ってこれから行くところだ」
「お前、騎士なんだろう? 訓練とかはいいのか?」
「ああ、それもするが、そんなに時間はかからない」
「そうか、つまり……暇なんだな?」
「え?」
その瞬間、エリカにはガイアがにやりと笑ったように見えた。しかもじりじりとガイアを始めとしたオークたちがじりじりと歩み寄ってくるではないか。
「いや、まぁ、暇といえば暇だが……」
エリカは詰め寄られた分だけ後ずさりしながら答える。
「それはよかった。実は俺たちだけじゃ勉強するにも限界があってな……ネイティブの助けが欲しかったところだったんだ」
そこまで言われ、エリカは悟った。
(こいつら……私から人間の言葉を教わるつもりか!?)
オークたちの勉強に付き合う。それはいい。オークとはいえ、ガイアたちは悪いオークではないだろう。覚えた言葉を悪いように使うことはないと思う。
問題は時間だ。
今までの話を聞く限り、彼らは自分たちが人間言葉を喋れないことを恥ずかしいと思っているようだ。そのため、村の人たちにばれないように人間の言葉を勉強しようとしているわけで、つまりは誰にも知られない時間帯を選んで勉強をしているのだ。この朝早くに。
このエリカ、そこまで朝は強いほうではない。できればいつまでもぬくぬくと眠っていたい性分だ。
オークたちに言葉を教えるのはやぶさかではないが、朝早くに起きるのは嫌だなと思っているのだ。
「そ、そうだ! レイ! レイに教わればいいじゃないか!」
我ながら、この言い訳はうまいぞと思った。自分は二ヶ月後にはこの村を去る存在。それよりはずっと村にいるレイに教わったほうが後々都合がいいはずだ。
しかし――。
「だからレイも俺たちが普通に喋れると思ってるんだっての」
そう言われればそうだった。
「俺たちの秘密を知られたからにはただでは逃がさんぞ……」
「そんな台詞はもっと重要な秘密の時に言ってくれ!」
ばっと逃げだそうとするエリカだが、出入口には一際大きなオーク――ザクイーが立ちはだかっていた。その傍らには彼の所属する班の班長であるベルゼが立っている。
「悪ぃな、嬢ちゃん。観念して俺たちに言葉を教えてもらうぜ」
「くっ……」
出入口を塞がれて進退窮まるエリカ。こうなったら強引にでも……と思う彼女だったが、
「もちろん手当つけるぞ。月給に五万ゴールド追加でどうだ?」
「やる! ……ハッ!?」
「よし、交渉成立だな」
「うわああああああああああ何を即答してるんだ私のバカバカバカ!」
「昨日からちょっと思ってたけど、お前ってホント即物的だよな」
「うるさい! そんな言葉知ってるなら教えてもらう必要ないだろ!」
決着はあっさりとつき、エリカはオークたちに言葉を教えることになった。