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短編

喪失が終わらない

作者: 暇 隣人





 愛美の臓器を返してください。





 あれは私がタクシーの運転手をしていたときのことです。ちょうど日付が変わるか変わらないかくらいの時間で、窓やフロントガラスから見える外はどこかしこもすべて真っ黒に染まっていました。暗闇の中で乗り込んできたお客さんに「どこまで?」と聞くと、彼は何やらよくわからない調子で奇妙な言葉を喋るので、きっと酔っぱらいか何かだろうと思い、とりあえず一番近い駅まで走ることにしたのです。

 その客は顔の見えない雨合羽のような服装で、座席にもたれかかり、がくっと頭を前に倒したままでした。こいつは相当酔ってるな、と心配になった私は、できるだけ車体を揺らさないよう、けれど終電には間に合うくらいの速さで駅へと向かいました。

 駅まであと二分もあれば着くだろうかというところで、突然お客さんが高く大きな声をあげました。驚いた私が車を止めますと、そのお客さんはすぐとなりの座席に何かを叩きつけるように置いて、ガチャガチャとドアを鳴らして暴れるのでした。私はその迫力に面食らい、急いでドアのロックを外しました。するとお客さんは勢いよくドアを開け放ち、なぜか車が元走ってきた方向へと一目散に駆けていったのです。

 私はしばらくその後ろ姿を見届けてから、やっかいな客に出くわしたものだ、と大きくため息をつきました。それから後部座席を覗いてみると、わずかに運賃に足りていないほどの小銭と、四枚の写真が裏返しになって置かれていました。

 その写真を手にとって確認してみますと、写っていたのはどれも水着姿のグラビアモデルでした。なんだってこんな写真を置いていったのだろうかとますます困惑する私でしたが、写真に写っていたものを明かりの下ではっきりと視認すると、途端に血の気が引くような思いをしました。

 四枚の写真すべてにおいて、水着姿の女性の体の表面には、白色の文字で奇妙な言葉が書かれていたのです。


『愛美』

『臓器が必要だ』

『R 抗に 想像す』

『朝まで殺して』


 私はその意味を考えるよりも先に、一刻も早くこの場を去らなければならないという気持ちに襲われました。すぐさま運転席に戻って、駅へたどり着こうという一心でアクセルを踏みました。その後のことは、あまりよく覚えていません。





 私があの写真の言葉に驚いたのは、実のところ、『愛美』という名前の娘を持っているからでした。私には愛する妻と二人の娘がおり、その片方の娘の名前が『愛美』なのです。どうしてあの客が私の娘の名前を知っていたのか、それとも単なる偶然の一致なのか、私には判別しかねました。どうか後者であってほしいと願わずにはいられませんでしたが。

 タクシー運転手の仕事は変わらず続けていましたが、あのときと同じ客に出会ったことは一度もありません。同じ時間帯、同じ場所を何度走っても、それらしき人影はどこにも見当たりませんでした。

 もしかすると、あれは私の夢だったのかもしれません。しかしあの写真は今も変わらず私の手元にありますし、すべてが夢だったというのはどうにも考えづらい。問題の当人が現れない以上、それが確かであるかどうかはいまいち信用に足らないのですが。

 あくる朝、私がいつものとおり仕事に出かけようとしたとき、愛美の部屋から悲鳴のようなものが聞こえ、私は玄関から声をかけました。愛美の返事は聞こえず、いてもたってもいられなくなった私は愛美の部屋へと走りました。ドアを開けると中には誰もいません。しばらく呆然と立ち尽くした後、そうだ、愛美は朝早くから出かけて行ったのだっけ――と思い出し、すると先ほど聞こえた音は何かの聞きまちがいだったのだろうと落ち着きました。そこでようやく私は、屋内に革靴のまま上がってしまっていることに気づき、慌てて玄関へと戻っていきました。

 今にして思えばこれが予兆でした。

 絶え間ない振動が私の体を、あるいは精神を襲います。私は車の中にいて(だから振動が襲いくるのは当然のことなのですが)、駅のタクシー乗り場でしばらくお客さんを待っていました。

 無線が鳴り、何か事故でも起こったのだろうかと思いスピーカーの音量を慎重に上げると、聞こえてきたのはハサミがゆっくりと打ち鳴らされるような金属音でした。その音は私の視覚さえ操り、目の前には手術室のごとき青暗い部屋が現れ、部屋の隅にある椅子の上で私は縛りつけられていたのです。

 台の上で眠っていたのは、まちがいありません、私の娘の愛美でした。麻酔が効いているのか、愛美は台上でびくともしないまま、生きているのかどうかもわからないほど静かに横たわっていたのでした。

 ふと私の耳にハサミの音がよみがえってきました。私の視界の右側から手が生えてきて、親指と人差し指にハサミが握られていました。チャキ、チャキ、と鳴るハサミの刃が、私の顔のすぐ近くでゆらゆらとうごめいています。

 無線が途切れて、私はタクシーの中へと戻ってきました。私はすぐさま懐から例の写真を取り出し、そこに書かれた文字をできるだけゆっくりと暗誦しました。

 愛美。臓器が必要だ。R、抗に、想像す。

 朝まで殺して。

 思わず身震いする私の体は、その文字列に隠されたとても嫌な予感を読み取ってしまったようでした。私は恐れました。あの光景はつまり、愛美が臓器を奪われるそのイメージなのではないかと。あの手が持っていたハサミは手術をするためのもので、ハサミで愛美の肌を切り裂き、その内側にある臓器を誰かが持って行ってしまうのではないか――と。

 私はすぐさま車を発進させ、愛美が通う学校へと向かうことにしました。たどり着いたときはもう夕方で、部活をやっている生徒たち以外はほとんど帰ってしまっているようでした。駐車場からしばらく校門の方を眺めていましたが、愛美が出てくる様子はありません。愛美は部活をやっていないので、無事ならばもう家に帰っているはずでした。

 私は帰路につき、玄関の明かりをつける間もなく愛美の部屋へと向かいました。ドアの隙間からは暗い廊下と対照的に明るい光が漏れでていて、愛美の好きな音楽が小さい音量で鳴らされているのが聞こえました。よかった、どうやら愛美は無事のようです。私はあまりの疲労でその場に倒れて、そのまま意識を失ってしまいました。次に起きたときには、いつのまにか部屋のベッドの上に戻ってきていました。愛美が運んでくれたのでしょうか――その真実も今となってはわからないままです。





 私があの手術室での光景を見てしまってから、愛美の身に異変が起きはじめました。幻聴かと思っていた甲高い悲鳴が以前より頻繁に聞こえてきて、部屋にいるはずの愛美がどこかに姿を消してしまっていたり、逆にいないのかと思えば部屋からは明かりが漏れ出ていたりするのです。時には電灯が点滅するように、ぴか、ぴか、と光っているときもありまして、いったい娘はどうしてしまったのだろうと思わずにはいられませんでした。

 しかしこうして現に、部屋に明かりがついていて物音がするということ、それは愛美が(たとえどんな容態であれ)行方不明ではないということを指し示すたしかな証拠ですし、だからたった一度しか見ていない、白昼夢にも似たようなあの光景を不安がって警察に連絡するだとか、そんな大げさなことをしてしまうのも気が引けるというものでした。だから私は愛美のことについてある程度放任したまま、それでも毎日必ず一度は様子を伺うようにしていたのです。

 楽観的すぎた、と言われればそれまでです。否定する気もありません。しかし仮に私が悲観的であったとして、何がどう変わったというのでしょう?

 真夜中のことです。私が自室のベッドの上で眠っていると、愛美の部屋の方からいかにも苦しそうな唸り声が聞こえてきたのです。私は急いで愛美の部屋の前まで行き、呼びかけながらノックをしました。愛美の様子は依然として変わらず、さすがに心配になった私は部屋のドアを開けました。

 そこには、いたる中身が抜け落ちた愛美の姿がありました。

 どう表していいのかわかりません。外見だけはたしかに愛美のそれでした、しかし……痩せこけていると言ってしまっていいのでしょうか? 何か特別な変化があるわけじゃない。傷跡もありません。意識もきっとある。だから、本当のところ、よくわかりませんでした、それでもただ、抜け落ちている。削ぎ落とされている。取り除かれている。愛美という身体が、人格が、気配が、奪われている。失われている。喪われている、のでした。

 私の脳裏にはすぐさまあの光景が浮かんできました。ハサミの音。暗い手術室の青色。私の当たってほしくない予想は当たってしまったのかもしれない。愛美が、愛美の臓器が、ハサミで刻まれた皮膚と皮膚の間から、ずるりと引き抜かれてしまっていたのだと。きっとそうに違いないのだと、私は確信しました。……それは錯覚だったかもしれません。あるいは錯覚であってほしいと願う私の虚像でした。ただただ私は、ベッドの上で眠ったまま苦しんでいる、呻いている愛美の姿を見るのがつらくて、静かにその部屋を後にしました。

 朝まで殺して。私は夜が明けてしまうのが怖い。心地よい安らぎを湛えていた仄暗く重い酸素たちが、光を増すにつれてより冷たく、蒸発するように溶けていってしまうのが怖いのです。それは気管の入り口をぴったり閉じてしまいたいほど軽やかで、肺の中にある安心を風船のようにして根こそぎ吐き出してしまいそうな、そういう風な息苦しさなのです。

 愛美の声は一晩中聞こえてきました。いや、本当はずっと前からこうだったのかもしれない。私がはじめて、愛美の悲鳴を幻聴したと気づいたその瞬間から。もしくはもっともっと前からずっと、私の耳には愛美の悲鳴が届いていた? わからない。私にはわかりません。いつからこうなってしまったのだろう? 気がついたときにはもう現実だった――そんな程度の実感しか私の頭には響いてきませんでした。それが情けなくて、怖ろしくて、何も考えられないまま眠りにもつけません。

 朝はやってきます。たったそれだけのことが、私にとってはただただ怖いのです。





 愛美がああして眠っている以上、私が娘にしてあげられることは何ひとつ無いように思えました。しかし驚くべきことに、私はもしかすると愛美を助けてあげることができるかもしれません。そう気がついたのはタクシーの運転手をしていて、スーツ姿のお客さんが私に問いかけてきたのです。

 大丈夫ですよ。

 耳を疑いました。何が大丈夫なのか? 私はバックミラー越しにお客さんの顔を見ました。それは冷ややかな笑顔で、私の眼孔の裏側に粘りついてくるような気持ち悪さ。彼は私が思わず唾を飲み込んだのを確認して、ちょうど鳩尾に当たると思われる場所を、とんとん、と叩いてみせました。

 彼の冷ややかな顔がさらに歪んで見えます。

 私は、……私は、こんな想像なんてしたくない。馬鹿げている。そんなことはありえない。ならば、それなら、彼はなぜそんな振る舞いをするのか? あの仕草と表情に意味があるのなら、私はそれを手に入れなければならない。そうして生まれてきた予想はあまりにもくだらなくて、くだらないからこそ私の心を揺さぶってくるのです。

 あれは愛美の臓器だ。

 彼がゆっくりドアの取っ手に手をかけるのを見て、私はしっかりドアロックがかかっているのを確認し、シートベルトを外して後部座席の彼の首根っこを締め上げました。貼りついたような冷笑が私の背筋を震えさせます。私は彼の鳩尾の位置を探り、たしかにそこには、愛美の呼吸が息づいているのを感じました。つまり彼の内側に愛美の臓器がある。あのハサミを持った手に奪われたであろう愛美の臓器が今たしかにここにあるのです。いてもたってもいられず私は、シャツのポケットに刺さっているペンを引っこ抜いて、思いっきり客の首元へと突き刺しました。客はうなだれ、傷口からはほんのわずかに血が滲み出てきていました(そこはまるで深い空洞のようになっていて、たとえばスポンジに大きく穴をあけたときのようなそれでした)。私はすぐにペンを引っこ抜き、愛美の臓器を傷つけないように彼の皮膚をペン先で削り取っていきました。その感触は砂場の砂を掘り返すときのようで、手応えがあるようでないような、触感が幻覚しているのです。泥めいた内側の奥に見えたのは紛れもない、愛美の大切な臓器のひとつ、でした。私はそれを運転席の後ろに挟んであるビニール袋にゆっくりとしまい、一刻も早く自宅へ急がなければと、強くアクセルを踏みました。

 私が愛美の部屋の前に辿りつくと、いつもと同じように愛美の悲鳴が聞こえてきます。けれど普段のそれよりは小さく、か弱い悲鳴でした。私はそっとドアを開けて、愛美の臓器が入ったビニール袋を愛美のすぐ側に近づけます。すると愛美の苦しそうな呻きはぴたっと止んで、私の手にかかっていた重みがするりと抜けていきました。ビニール袋を開くと、そこにはもう何も入っていません。臓器は無事に愛美の身体へと帰ったのでした。

 愛美の悲鳴は止まりました。

 よかった、本当によかった。もう私は、娘の悲惨な声を聞かなくても済むのです。どっと疲れが押し寄せてきて、動悸もほんの少し速く脈打ってきました。ようやくすべてが終わった。愛美はもう無事だ。それは私にとって何よりの安心でした。毎夜、鼓膜をがりがりと削ってくるような不安と喪失感に苛まれることはもうないのだと思うと、意識するまでもなく全身の緊張がほどけてしまいました。

 あふれるほどの安堵が私の全身を駆けめぐります。心臓は落ち着いて、もうすっかり元通りです。私はこれで、今までの生活に戻ることができる。家族みんなで笑いながら過ごしていたあの日々に、やっと戻ることができるのだと、そう確信したのです。

 臓器が必要だ。

 Rという文字に何か心当たりはある?

 それはすごく身近で、だからこそなかなか気がつかない。自暴自棄な抵抗に身を委ねてみても、訪れるのは倦怠感とどうにもならない無力さだけ。

 想像するまでもない。失っていく心地を胸に刻みつけなければ。ほんの少しずつすべてが変わり、復元され、修正されて、もうじき夜は明ける。考えることを諦めて。

 想うことに戸惑わないで。喪失はこうしてやってくる。

 息を潜めて、足跡を食らいつくしに。何もかもを、無かったことにするために。喪っていく心地を胸に刻みつけなければ。

 もうじき夜は明ける。

 だからお願い。

 指に触れる、温い柔らかさを思い出して。ためらわないで。

 ゆっくりと力を入れて。いつまでも、残しておこうと思わないで。いつまでも、残ると思わないで。

 もうじき夜は明ける。

 だからお願い。

 わたしをずっと、朝まで殺して。





 助けてください。助けてください。喪失が、喪失が終わらないんです。もう何度も失っている、何もかも喪っている、それなのにまだ失って、それなのにまだ喪うんです。もう限界なんです。愛美の身体がどんどん空になる。空洞なんです、ほとんどすべて。

 私は救えたと思っていたんです。でもそうじゃなかった。愛美はずっと、今もまだ失い続けている。臓器がないんです、無くなっているんです。あの時と同じだ、あのハサミが愛美の臓器を奪っているんだ。もう大丈夫だと思ったのに。きっと平気だと思っていたのに。

 駄目でした。何もかも、元通りになんてならない。

 手術台の夢を見ます。ビニール袋に、取り返した臓器を入れて。妻がいなくなりました。部屋がなくなっている。ハサミの音。振動が私を揺さぶるんです、あの四枚の写真……今ではもう、あれが本当に四枚だったのか、本当はもっとあったのかもしれない。思い出せない、というより、既に無い。娘もいなくなりました、愛美の臓器を持っていたから。臓器は愛美の元に帰りました。もうすぐ夜が明ける。娘は消えた。蒸発する酸素のように。

 お願いします。私は怖いんです。道を行く人、みんなが愛美の臓器を持ってる。わかるんです。鼓動がここまで伝わってくる。何度も取り返しました、愛美の部屋まで持っていって……それでも駄目だ。無駄なんです。また失う。愛美の臓器は消える。誰かが持っていくんだ。気づかないうちに、奪われているんだ。

 私はそれを取り返さなければならない。だけどもう、疲れてしまいました。同じことを繰り返し続けることに。

 そのすぐ後ろで、いつも同じはずの風景が、ほんのわずかに、入れ替わって行くことにも。

 この家はこんなに狭かったでしょうか?

 あの暗い部屋にいたのは誰?

 写真は本当に三枚だけでしたか?

 客は女性だった?

 何が当然?

 なぜ血が吹き出ないのだろう?

 あの悲鳴は幻聴でしたか?

 学校はどこにありますか?

 雨は降っていた?

 私には家族なんていただろうか?

 どんな予兆?

 砂場?

 タクシーを運転していたのはいつ?

 皮膚は閉じられないのですか?

 夢ですか?

 どうして革靴がある?

 後部座席の客はどこに?

 ビニール袋は破けていた?

 妻と娘の名前は?

 臓器が無くなるのはなぜ?

 今日は何日ですか?

 Rという文字に心当たりはあるか?

 私はいま、何を失っているんですか?

 何を喪っていないんですか?

 教えてください。

 助けてください。

 終わらないんです。

 いつまで経っても、喪失が。

 もうわからないんです。

 どうしたらいいのかわからない。

 愛美は今も苦しんでいる。臓器がすべて無くなる前に、取り返さなければ。

 お願いです。たとえ、他のすべてを無くしてしまっても。

 愛美だけは、失いたくない。

 あの娘だけは、喪いたくないんです。





 だから、どうかお願いです。

 朝まで殺して。

 愛美の臓器を、返してください。





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