第四章
激しい雨が傘を叩いた。小さな傘を開いて、家に帰る道を走っていた。風も強く、傘が飛ばされないか、少し心配になったが、濡れるのは別に気にならなかったので、構わず走った。
案の定、傘は見事に飛ばされた。その傘をじーっと眺めていると、後ろからのびてきた暖かい手が自分を包んだ。それと同時に、激しく髪を、肩を、服を、手を、足を打っていた雨も消えた。
後ろを振り向くと、優しくて、厳しくて、面白くて・・・暖かい顔が自分を見下ろしていた。
家までの道は、母の傘に入って、濡れないように歩いていった。
広場の近くのパン屋の隣をまっすぐ行けばもう家なのだが、母は何かに気づいたように立ち止まり、途中の細い道に入っていった。出てきた母の両腕には、しっかりと黒髪の少年が抱きかかえられていた。綺麗な顔をした少年だった。静かに、ただ眠るように、せわしなく小さな呼吸を繰り返していた。家に着くと、母は少年を自分のベッドに寝かせて、俺に紅茶を入れてくれた。
「その子、どうするの?」
俺がさりげなく聞くと、母は困ったようにうつむいた。
「雨に打たれて、倒れていたから、つい・・・」
俺もうつむいて言った。
「その・・・うちで、育てられないかな・・・その子。一緒に、暮らす、とか・・・」
少しずつ、言葉をくぎった絞り出すような声。
母はそれをちゃんと聞き取ってくれた。
小さく、低い声で、俺だけに聞こえるような声で母は言った。
「それは・・・駄目ね。」
「どうして!?この子、どうするの!?」
俺はつい声を荒げた。
母は口元に人差し指を当てて、俺を落ち着かせた。
「お金もないし、この子のためにも・・・」
どうしてこの子のためになるのだろう?どうして母はこの子を助けたのだろう?
この二つの疑問が、頭の中でぐるぐる回っていた。
・・・・・・・・・・・ぅう・・・
長い沈黙を破ったのは、母でも俺でもなく、それまで母のベッドで静かに寝ていた少年だった。母は駆け寄って、名前や住所、年齢など、さまざまな事を質問していた。意識がはっきりしてくると、少年はすぐに答えた。
その少年はティムと名乗って、俺より二つ年上の10才だと言った。しかし、わかったのはそれだけで、今まで住んでいたところも、思い出せるが場所はわからないというし、母の名も、父の名もわからないと言った。最後に母が、「どうしてあんなところに倒れていたのか」と聞いたとき、
「わからない。だが、もう慣れた。」
と言ったのが気になった。“もう慣れた”?前にも何度かあったということか。だとすると、この子の親はどうしようもない馬鹿だろうな。と俺は思った。
ふいに、母が俺に部屋の外に出るように言った。俺は「なんで?」と聞いたが、母が答えないのを見て、諦めて部屋の外に出た。母と、少年―――ティムが何を話していたのかはわからないが、しばらくするとティムの声らしき泣き声が聞こえたのは確かだった。俺はリビングのテーブルの上に飾られた花をぼーっと眺めながらその声を聞いていた。
紅茶は、もう冷めていた。
その夜ティムと同じ部屋で寝た俺は、「お前、可愛いな。」と、ティムが静かにつぶやいたのが聞こえた。『かわいい』なんて、初めて言われた。顔が熱くなったのを感じた。
「っそういえば・・・何で泣いてたの?き、今日・・・」
はぐらかすために出した話題だった。
「・・・ああ・・・なんでもない。」
なんとなく話したくなさそうだったから、「そ・・・そう。」と、考えなしに答えた。
「・・・お前の母親、優しいな。」
ズキン。心の中にあった棘が、体を突き抜けたように、痛みに似た、激しいつらさが俺を襲った。ティムの何気ない言葉は、まるで今まで母親の愛情を感じたことが無いみたいで、俺の涙を作るのには最上級の材料となった。
「うっ・・・ズッ・・・うぅう・・・・・・」
涙が次から次へと流れ出てきて、自分で制御できなくなるのに、そう時間はかからなかった。
「お前・・・泣いているのか・・・?」
「だっ、て、こっ声っがっ、さみ、さみ、し、そうで・・・っ!おかあっさんっティム、いなかっ、た。みたいなっいいかたっーーーっ!」
頭の中が真っ白になって、自分がなにを言っているのかわからなくなっても、涙は止まってくれなかった。
「・・・。」
ベッドが軋む音がした。母のベッド。いや、ティムのベッド。すぐにその音は自分のベッドで鳴り、ティムが俺のベッドに腰掛けているのがわかった。
「・・・うっ、グズッ・・・―――――っ!!」
いつも俺の頭をなでているごつごつの大きい仕事人の手じゃない、小さな、暖かい手が俺の頭をなでた。
「遺伝。というやつか・・・ノア・・・だったな?お前も優しいな。・・・・・・泣くな。お前が思ってるほど辛い事ではない。それに――」
そこでいったん言葉を止めた。俺も顔を上げて、ティムの整った顔を見つめていた。涙は、いつの間にか止まっていた。
「―――それに、そんなに泣かれたら、俺が悪い事したみたいだろう。」
そこまで言ったら、ティムは俺に微笑んだ。心臓が跳ね上がるのを感じた。顔が熱くなってきて、つい顔を背けた。
(こんな顔も、できるんだ。ずっと冷たい表情だったから、てっきり冷たい人かと思った・・・)
それは氷が溶けて水になるようにゆっくりと、天使が微笑んだように優しく、俺を包んでいた。
「さあもう寝ろ。あの優しい母親に怒られるのは、さぞかし怖いのだろうから。」
俺は無言でうなずいて、ふかふかの毛布にもぐりこんだ。ティムは一度立ち上がったが、「あ。」と言って俺のほうに向き直ると、「おやすみ。」といって、俺の額にキスをした。俺は、なにかごまかすように丸くなって毛布に顔までうずめた。俺の顔は、よく熟した林檎にも負けないくらい、真っ赤になっていたことだろう。くすくす・・・というティムの笑い声を最後に、俺は深い眠りについた。
次の日、ティムは隣のばあさんの家にひきとられた。
あの時、俺は、あいつに・・・ティムに、好意を寄せていたと言っていいだろう。
それも、あいつがルナに会うまでの間だけだったが。世間があいつを狂わせ、俺をも狂わせるまで・・・俺は、あいつが好きだった。
今思い出しても、恥ずかしくなるような話だ。ティムは、いつの間にか、言葉づかいも、性格も変わって、まるで別人のようになった。原因は、そう。世間のねじくれた常識と、ルナ。
あの昔話をルナに話したら、ルナは絶対ショックをうける。いや、いっそそれくらいの復讐をしてしまおうか。なんて、何度考えただろう。自分を見失いかけたことがある。何度も、何度も。そのたびに、その邪な考えが浮かぶたびに、あの声が聞こえてくる。子供っぽくて、頼りなくて、ティムが大好きで、そのせいで、ティムを変えてしまった存在。どうしても、憎めない存在。
「いっそ、憎ませてくれたら・・・」
そうしたら俺は、楽になれるのだろうか・・・?憎んで、憎んで、憎んで憎んで憎みつくす・・・。
だめだ。やっぱり、俺にルナを憎むことはできない・・・。
そう、悪いのはルナじゃない。ルナはただ純粋に恋をしただけだ。俺と、同じように。
「どうか、なさいましたか?」
とつぜん後ろから声をかけられて、びっくりして慌てて振り向いたノアは、女の顔に、驚きと、戸惑いの表情が浮かんだのを見た。
「な、なんでもねえ!ティムなら、すぐ来ると思うよ!」
むりやり笑って言ったノアの顔に、おんなの手が伸びた。
「え・・・・?」
頬に、何か温かいものが触った。軟らかいそれは、ノアの頬を拭うように上から下へ移動した。そこでやっと自分が涙を流していることに気づいたノアは、自分の頬に触れた。冷たい涙が、手を伝って流れていった。
疲れた。5回くらい「女」を「おんんあ」って打った
(「ONNA」→「ONNNNA」)「N」打ちすぎた;;