▼ ゆうしゃみならいの ゆううつの はじまり
今回は勇者見習い・レイ視点。
人生に選択肢は出ない。
絶えず『現在』が移り変わっていくだけだ。
私が神様に「勇者になれ」と異世界に転移させられたのも。
私が初めて遭ったのが魔王だったのも。
その魔王が勇者の教育係な上、死にそうな目にあったのも。
こんな目に遭ったことを多少呪いながら、こうやって今も生きていることも。
目に見える選択肢を選んだからじゃない。
というよりも、選択肢が出てきてくれたら、その中から選んだっていうのに!
「勇者見習い殿、そこまで」
底冷えするような低い声が後ろから掛かった。魔王の声だ。
そこまで分かっていても、おいそれと振り向く事はできない。
魔王が直視できないからだ。
たった一度だけその姿を直視しただけで、鮮明に思い出せるほど脳に焼け付いてしまっている。それほど魔王は衝撃的な姿をしているのだった。ただ、魅力と言い切るには微妙だけれど。
そう、魔王は……目が潰れそうなほど綺麗な顔が、さらりと溢れる髪の毛の中に収まっていた。髪の色は黒いけど、アスファルトにこぼれたガソリンのような光沢を放っていた。てろてろと光るので思い切り目に悪い。
体躯を所々覆っている外殻は、がしょ、と音がしそうなほど厳つくおどろおどろしい。表面は甲殻類のようでもあるし、鉱石のようでもあって、表面を逆撫でたら指に細かい針が刺さりそうな程小さく毛羽立っている。どうやって服を着ているんだろうか。
更にその全身を包む、霧や靄や、影のように揺らめくマントがなんとも恐ろしく、幻想的で、形容し難かった。
そんな形容し難い『それ』が、実際形を伴って動くと、もう目が滑ってしまう。
まずは優雅極まりない所作に見とれる隙すら与えない。とにかく衝撃的な情報量が多すぎてどこに焦点を当てていいのか分からないのだ。動くたびにマントが形容し難い流動体の形を変え、外殻は透けたり光ったりする。髪の毛はてろてろと様々な色の光沢を放ち、美しいというより不気味だ。
なまじ顔や所作が恐ろしく優美なだけに、他のおどろおどろしさが際立って、まともに直視なんかできない。
初めて会ったときはあまりの衝撃と威圧感に、魔界の人はそういうものなんだと思って、魔王ではなく『邪神官』とか『魔界の召還師』なんだと思っていた。召喚されて初めて見たのがこの魔王なんだから、この人が召喚したんだと思ってしまっても仕方ないと思う。
結局その威圧感や畏怖を呼び起こす圧迫感は、魔王だからと知って恐怖と驚愕が、納得と共に降ってきたのは言うまでもない。
未だに直視はできないけれど、今では、向かい合って話すときに顔を見るだけなら声が震えない程度には慣れてきている。
私は握った鉄剣──最近ようやく重さにも慣れてきた──をゆっくりと鞘に収めると、ぞろりと溶ける黒い靄の塊を視線から外した。これは私が倒すべき『敵』だ。魔王やイレシアの勇者であるアレクセイによれば『理性なき魔獣』と呼ばれる、百害あって一利なしの化物だ。
私が今居る魔界はその魔獣との最前線なだけあって、量が多く質も高い。半端な勇者では足を踏み入れることすら自殺行為だと言う。その魔界で見習いの私が魔獣を倒せているのは、この魔王が力の弱い魔獣を更に弱めて連れてきているからだ。
魔王の行う訓練は、それこそ初めは基礎体力を鍛えたり剣の型を教えたり、あるいは魔法を教えるものだったけれど、思ったよりも早い時期に実践訓練に移行してしまった。初めて城の敷地外に行った時、まだ私はしっかりと自覚していなくて、魔王をひどく恨んだ事を覚えている。
今もあの恨みを忘れたことはないけど、それでもこの人と付き合う内に、見えてきたものもある。
「この後は教養となる。イレシアの勇者を寄越してやろう。汗が気になるようなら自分で湯を用意して湯浴みをするがよい。やり方など今更検める事もないな」
この人は、ひどく不器用だ。
自分だって男にも女にも見えない顔をしているのに、私のことを「女とも男ともつかぬ」なんて言って結局私がどちらかなんて知ろうともしない。そのくせ自分が毛嫌いしているイレシアの勇者──アレクセイに私が女であると教えられた後から、こうやって居丈高な態度で気遣ってくれる。火の起こし方や水の探し方、盥や着替えの用意まで甲斐甲斐しく教えてくれて、魔王が高慢そうに振舞っていなければ、どんな甘言でもころりと騙されてしまっていたかもしれない。
しかしそれが、私が魔王に信頼を寄せる理由でもあった。
魔王は、私に対しては『何の期待もしていない』。
私が何も知らない赤ちゃんのようなもんだと思って、私の様子を常に伺っている。観察など興味がない、なんて口にしながら、動向を目ざとく見守っている。
私をかよわい雛鳥かなにかだと思っているに違いない。実際、私にはなんの力もない。
「分かりました、ありがとうございます」
「早うせよ、勇者見習い殿」
魔王がそう言って視線を外し、遠くを見つめる。照れているのか、興味をなくしたのか、さっぱり分からない。
でも、この人の顔をやっとじっくり観察できるこの一瞬が、ちょっとした楽しみになっている。
……やっぱり、直視できるのは顔だけだけど。
「よう、レイ」
簡単に汗を流して居室に戻れば、中でアレクセイが待っていた。
アレクセイは魔王とはまた違った魅力を持った男の人だ。さすがに自分が期待していた通りまずまずの美形で──と言っても、勇者という人々はある一定は美しい顔をしているらしい。私が美形かと言われたら疑問に思ったけれど、この世界の美形の考え方はかなり広義的だか特殊だかで、私の顔は整っていると思われるんだとか。それを考えれば、中でもアレクセイは一際美形の部類に入るんだろうな、と思う。
話を戻して、彼はどちらかと言えば人間らしい魅力を持っていた。魔王が容赦なく打ちのめしてくる恐ろしさなら、アレクセイはこちらを受け入れてくれそうな暖かさを感じた。
「調子はどうだ」
「へとへとです」
「そりゃ良かった」
アレクセイは目を三日月にしてにやりと笑う。何かを含んだような笑みが得意な人だ。
魔王曰く、今いる勇者の中で最高峰に君臨する勇者と言うのが、彼、アレクセイだそうで。
出会った頃には全くわからなかったけど、ある程度死線を超えさせられた今なら、こうして隙だらけ格好の今でも、何かあればすぐ反応できるようにしている事が分かる。分かる、というのも、彼が『そうしているのに気づかされている』と言い換えても良い。
アレクセイはこうしていつも私を試している。
「さて、こないだはどこまでやったかな」
と、忘れたように言うのに、実はしっかりと覚えているのが何ともいやらしい。
軽口を叩くフリをして私の記憶力を試しているのがありありと分かってしまう。
たとえ私が忘れていたとしても怒らないけれど、そうと分かるとしつこいほど復習させるのだ。悪気はないし親切なのだろう、だけどアレクセイも魔王と同じく私に『何の期待もしていない』のがよくわかる。コレくらい覚えられるはず、なんて期待のひとつもかけてくれないのだ。
魔王からそう思われると安心するのに、アレクセイだとちょっともやもやする、不思議な気持ちだ。
「ガートルード女王の支配の終りまではやりました、けど……今日は歴史じゃなくて」
「ああ、教養だな。そろそろぼちぼちと始めなきゃならないからなあ。特にレイ、お前はどこの界層にも属してないんだから、盛大なお披露目になるだろうし」
「私でもやっぱりそう言うの、やるんですね」
予想はしていた事だ。
ここの歴史を少し齧った身として、勇者誕生の発端が太古に起きた大戦争であることを考えれば、その脅威に現在も脅かされている人々に勇者の存在を広めるのはおかしくない。
本来は自分の属する界層──この世界はいくつかの層で構成されているらしく、人間界は四層で構成されている。ちなみに魔界は一層だ──でお披露目をした後、別界層の権力者に挨拶に目通り願う……といった流れになると聞いた。
「まあな。また面倒だよなぁ、主役の相手は王侯貴族連中ばっかりだし。ああ、そういや魔王サンや俺たちと上の連中の美意識は違うって事は覚えとけよ」
えっ、と思わず声が漏れて、アレクセイを見上げると、アレクセイは意地悪そうに笑っていた。なかなか様になるのがムカつくところだ。
「姿が美しいだけではダメだってことだな。優雅さ、優美さ、流麗さ……ま、なんでもいい。所作が洗練されてなきゃナメられるって事だ。うーん、大変だぞ、レイ」
ちらっと眺められて、なんだかムッとする。ひとを出来ない子みたいに!
「……それって、アレクセイさんじゃなくて魔王さんみたいにするって事ですか?」
「お前、地味にちくちく刺してくるなあ」
アレクセイは軽く苦笑した。
実際、しなやかで隙がない所作のアレクセイでも、魔王と比べれば粗野な印象が強い。
あのおどろおどろしい姿で、恐ろしく優雅に振る舞える魔王と比べるのもどうかと思うけれど。
「あの人が教えてくれるならこの上ないけど、こういう事に関しては一切関わらないし興味がなさそうだからなぁ。魔王サンがするのは人間を勇者にすることだけだし、そもそも俺たちとは作法が違う」
私とアレクセイなら、断然アレクセイの方が魔王との付き合いが長い。
何年の付き合いだとか、私の知らない所で何があったのか、どんな言葉を交わしたのかは知らないけど、アレクセイは別段魔王の事を嫌っている訳ではなさそうだ。むしろ、敬意とか、敬慕のような感情を垣間見せる。
魔王は彼の事を毛嫌いするような素振りを見せているのに、不思議だ。
「……確かに、一般的な常識とか、歴史とか、そう言うのは全部アレクセイさんが教えてくれてますね」
魔王はこの世界についての知識の、いわゆる座学の分野についてはアレクセイに一任していた。「本来なら魔王が教えるべき範囲である事を人任せにしている」とアレクセイが抗議したものの、魔王は「己の属する集団の観念を知らぬ者に、我輩が教示する事など何一つない」ときつく一蹴した。そんな様子に居ても立ってもいられなくなって、迷った末に何度か伺いを立ててみたけれど、アレクセイと同じように返されるばかりだった。
しかしそれを聞いてアレクセイは早々に抗議を諦めてしまったようだ。初めて見る、少ししょげた顔をしていた彼に納得がいかず再度の抗議を試してみるよう遠まわしに言えば、
「ま、勇者として見習いが取れたら、ここに来ることなんてほとんど無いに等しいからな。人生のほとんどを人間界で過ごす事になるなら、そっちの方がいいさ」
と今と同じように語ってくれたのだった。
「でもちょっと、納得いかないです」
「え? 何が?」
「魔王さんに職務放棄されてる気がします」
アレクセイは、職務放棄でダラダラしている姿の魔王を頭に思い浮かべたのか、ぶふ、と吹き出した。
……やっぱり優雅とは程遠い。この人から教養を学んで本当に大丈夫なんだろうか?
私が『あえて』アレクセイの肩を持ったのは、この辺りに理由がある。
この人に教わって果たして本当に教養が身に付くのだろうか。いくら最高峰の勇者と言えど、信用するには疑わしい。
「まさか、魔王サンに限ってそんなことは無いだろうよ。そのまま、言うとおりなんだろうさ」
そうしてアレクセイが継いだ言葉は、何だか良く分からない親密さを匂わせて、何だか良く分からないけれどうんざりした気分になった。