第98話 新たなる力
リムレオン・エルベットは変わった。
変わってはいない、と信じたがっているエミリィ・レアの気持ちもわからないではないが、現実は受け入れなければならないとセレナ・ジェンキムは思う。
強盗団に落ちぶれる寸前の敗残兵たちが、1人また1人と倒れてゆく。
彼らの槍が切断され、長剣が弾かれ、微量の血飛沫が噴き上がる。
リムレオンの白いマントのはためきに合わせて、長剣が様々な方向に閃いている。
まるで舞踊のように優雅で柔らかく、獣のように高速で容赦のないその動きに、セレナは思わず見入ってしまった。
(この領主様がねえ……まさか、こんなに強くなるなんてねぇ)
何があったのか、詳しくはわからない。
とにかくリムレオンは1度、重傷を負って死にかけた。
何日か意識を失って目覚めた時、彼はまるで別人のようになっていた。
気が狂ったとしか思えないような鍛錬で己の脆弱な肉体を虐め抜き、師匠であるブレン兵長をも大いにたじろがせた。
結果、こんな戦いが出来るようになったのだ。
「僕は、自分の手で人を殺した事はない……」
ゆっくりと長剣を鞘に収めながら、リムレオンは言い放った。
「ささやかな、つまらない自慢さ……いつでも捨てられる」
ゲドン家の敗残兵たちは全員、倒れ伏して様々な部分からドクドクと血を流し、エミリィの両親の墓前を汚している。セレナの父親の墓前でもあるが。
「ひぃっ……ぐっ……」
「い、痛い……助けて……」
「痛いよう……母さぁん……」
血と涙を流しながら倒れのたうつ兵士たちに、セレナとしては、かけてやれる言葉が1つしかない。
「……ほら、言わない事じゃない」
全員、まだ辛うじて生きてはいる。が、放っておけば間違いなく死に至る。
ぞっとするほどの、手加減の技量だった。
エミリィがどう思おうと、リムレオン・エルベットは変わったのだ。
(強くなって、まあまあカッコ良くもなって……悪い変わり方じゃないと思うんだけどなぁ)
思いながらセレナは、放っておけば死んでゆく敗残兵たちを見回した。問題は、彼らをどうするかだ。
自分なら死ぬまで放っておく、とセレナは思うが、そう思わない者も当然いる。
「い、癒しを……」
エミリィが、癒しの力を使おうとする。それをリムレオンが止めた。
「何度でも言うよエミリィ・レア。この者たちに、癒しの力は使わないように」
「リムレオン様……」
エミリィが涙ぐむ。が、リムレオンは容赦をしない。
「今までゲドン家の方々を少し甘やかし過ぎた。彼らの振る舞いで、こうして迷惑を被る人々が出ている以上……ゲドン家とそれに与する者たちへの一切の援助・力添えを、領主の名において禁じなければならない。癒しの力の使用も含まれるよ、エミリィ」
冷たい口調で、リムレオンは言う。
が、この辺りが限界だろうとセレナは思った。
「……ここは、君の両親の墓前だったな。それにゾルカ・ジェンキム殿も眠っておられる。あまり領主の権力を押し通しても良い場所ではなかった」
「うちの親父は、別に文句言わないと思うけどね」
セレナが言うと、リムレオンは少しだけ笑った。暗い微笑だった。この少年は暗い表情の方が様になる、とセレナは感じた。
エミリィが、少しだけ声を弾ませる。
「そ、それではリムレオン様……」
「ここでは、君の好きなようにするといい……汚してはならない場所を、血で汚してしまった。それはお詫びする」
リムレオンが、律儀に頭を下げる。
墓前でなければ、彼はこの兵士たちを皆殺しにしていただろうか。その程度の殺戮は平気で行うのではないかと、最近のリムレオンを見ているとセレナは思える。
領主の許可を得たエミリィが、愛らしい両手を握り合わせて目を閉じ、祈りを念じた。
倒れている兵士たちの身体が、淡く白い光に包まれる。
セレナはふと訊いてみたくなった。
「ねえ領主様、この連中が性懲りもなくまた悪さしたら、どうするの?」
「全員殺す。領主様じゃなく俺がな」
応えたのは、リムレオンではなかった。
男が1人、雑木林の中から姿を現していた。頬骨の目立つ顔をした、中背ながら体格のたくましい男。
「ギルベルトさん……一体どこ行ってたの」
セレナは文句を言った。
「こういう連中やっつけるの、領主様じゃなくて貴方の仕事でしょうが」
「俺の身体は1つしかなくてな。こちらはこちらで、いろいろあるのさ」
言いつつギルベルトは、大事そうに携えて来た物をリムレオンに手渡した。
書類が入っていると思われる、筒である。
「レイニー司教から預かって来ました。急ぎの書簡だそうで」
「……マディック・ラザンから、だね」
リムレオンは受け取り、筒の蓋を抜き取った。
本当はマディックではなくシェファからの手紙が欲しいのではないか、とセレナは思ったが言わずにおいた。
(……ったく、仲直りしないまんま出てっちゃうんだから)
若干の年齢差はあるものの、マディック・ラザンは地味ながら誠実・堅実な男である。シェファとはある意味、リムレオン以上に良い組み合わせだ。このまま2人に旅先で親密になってもらい、リムレオンは手近なエミリィ・レアあたりで間に合わせる。
それはそれで丸く収まるのではないかと、セレナは思わなくもない。
エミリィが、よろめいて倒れそうになった。セレナは駆け寄り、支えた。
「ちょっと、大丈夫?」
「え、ええ……ありがとう、セレナさん」
気力が尽きかけているようだ。
その甲斐あってというべきか、リムレオンに切り倒されていた兵士たちが、とりあえず痛みは失せた様子でよろよろと立ち上がっている。この人数である。エミリィ1人の力では全快というところまでは行かなかったようだが、命に別状ない程度までは回復したようだ。
そんな敗残兵たち全員をギロリと見回し、ギルベルトが言った。
「この場にいたのがエミリィ殿や領主様で良かったなあ貴様ら。俺が最初からいたら今頃、ここには死体の山が出来ているところだ」
頬骨の目立つ精悍な顔が、ニヤリと歪みながらメキッ……と痙攣する。
敗残兵たちの間に一瞬、怯えが走った。
この男が人間ではないかも知れない、という事くらいは、何となくわかったようである。
辛うじて人間の姿を保ったまま、ギルベルトはなおも言う。
「せっかく拾った命、馬鹿をやって無駄に捨てる事がないように……と1度だけは言っておく。2度目はないぞ」
「……退却」
指揮官が、一言だけ号令を下す。辛うじて1人も死なずに済んだ兵士たちが、互いに肩を貸し合いながら、そそくさと逃げ去って行く。
セレナは、思わず怒鳴った。
「ちょっと! エミリィさんに、ありがとうくらい!」
「い、いいですから」
セレナをなだめながらエミリィが、気遣わしげにリムレオンの方を見た。
丸まっていた書簡を広げたまま、彼は微動だにしない。ゲドン家の敗残兵たちなど構っている場合ではない様子でリムレオンは、マディックからの報告書に見入っている。
綺麗な顔には、深刻そのものの表情が浮かんでいる。
「ねえ……どうしちゃったの、領主様」
セレナは、とりあえず声をかけた。
「マディックさんってば、そんなに大変なお知らせを」
「大変なんてものじゃない……これは、僕の大失態だ」
重く、暗く、リムレオンは呻いた。
「僕は……今から、バルムガルドへ向かう」
「は?」
わけがわからずにいるセレナに構わずリムレオンは、何やら1人で決意を固めている。
「領主など、やっている場合ではなくなった。3人とも、後の事はよろしく頼む」
「……なるほど、自分からシェファさんに謝りに行っちゃうわけね」
セレナは納得してみた。
「謝ったんだから許せよ、みたいな態度だけは取っちゃ駄目よ? ああいう子は、謝り方間違えると余計にこじれちゃうから」
「……シェファは関係ない。これは僕が片付けなければいけない問題」
などという言葉をリムレオンに最後まで言わせず、エミリィが叫んだ。
「ちょっと、関係ないってどういう事ですか! そういう言い方ないんじゃないですか!?」
「お、落ち着いてエミリィさん」
今度は、セレナがエミリィをなだめなければならなかった。
「やはり……無理矢理にでも仲直りをさせておくべきだったかも知れませんなあ」
苦笑しながらギルベルトが、横からマディックの手紙を覗き込む。
「……なるほど、デーモンロードが復活しましたか」
「僕が……あの怪物を倒し損ねたせいで、バルムガルドの人々が……」
「そんな事をおっしゃられては、我々も同罪という事になってしまいますが」
ギルベルトは言った。
「しかし領主様、こちらでも厄介事が起こっていないわけではありませんぞ。放ったらかしにしてもらっては困ります……これはセレナ・ジェンキムよ、お前にも一応は関わりのある事だ」
突然、話を向けられて、セレナはたじろいだ。
「お前たち姉妹……仲は、あまり良くなかったよな?」
「何よ……まさか、姉貴が何かしでかしたっての? あれから会ってないんだけど」
「監督不行き届き、などと言いたいわけではないんだが……」
いささか言いにくそうに、ギルベルトは一呼吸おいた。
「……レイニー司教が命を狙われた。見覚えのある、空っぽの鎧どもにな」
「何だって……」
リムレオンが、それにエミリィも絶句している。
「そいつらを使っていたのは、中央大聖堂から来たとおぼしき司祭殿だ。どうやらローエン派の偉い人たちが、魔法の鎧を造れる奴を雇ったらしい」
魔法の鎧を造れる人間。ゾルカ・ジェンキム亡き今となっては、もはや1人しかいない。
「姉貴が……?」
そんな声を漏らすのが、セレナは精一杯だった。
「まあ確かにな……自分の技術をどこかに売り込む、くらいの事は考えて当然だろうが」
ギルベルトは頭を掻いた。
「要はエミリィ殿、ローエン派もあんたのような人格者ばかりではないという事だな。ろくでなしが大勢いる。悪いのはそいつらであって、イリーナ・ジェンキムには何の罪も」
「……気ぃ遣ってくれなくていいよ、ギルベルトさん」
セレナは言った。
「あのバカ姉貴、頭おかしいのが一向に治ってない。見つけたらぶちのめしてくれていいから、本当に」
ちらりとゾルカの墓石に目を向け、心の中で語りかける。
(そもそも、あんたが死んじゃったせいだよ親父……親離れ出来ないバカ娘、放ったらかして)
「厄介事ばかり、というわけか……セレナ」
リムレオンが、声をかけてきた。
「魔法の鎧を強化してくれる事は、出来るだろうか?」
「……ごめん、それ以上は無理」
以前、リムレオンの魔法の鎧を1度だけ強化した。強化出来る余地が、充分にあったからだ。
「いいさ。鎧に頼らず僕自身が強くならなければ、という事だろう」
リムレオンは右拳を握った。その中指で、今や父の遺作となってしまった指輪がキラリと輝く。
魔法の鎧を封じ込めた、竜の指輪。それを、シェファとブレン兵長も持っている。マディック・ラザンの鎧は、父ではなく姉イリーナが造ったものだ。
何だかんだ言ったところで、姉のその技術は認めなければならない。あの粗悪な量産品である空っぽの鎧歩兵さえ、セレナには造る事が出来ないのだ。
そんな姉の技術を、悪用している者たちがいるとしたら。
(あたしに……何が出来るの?)
セレナは拳を握った。少女の繊細な拳。その中には、この場にいる誰にもまだ見せていない、ある物が握り込まれている。
ゾルカ・ジェンキムの、もう1つの遺作。
まだ未完成品だ、と生前のゾルカは言っていた。
お前の手で改良を重ね、完成させて欲しい。そしてエル・ザナード1世陛下に、お渡ししてくれないか。あの御方こそ、最強の力を持つにふさわしい。
そう言って父は、その未完成品をセレナに預けた。より優れた技術を持った姉にではなく。
だからセレナは、エル・ザナード1世女王に会わなければならなかった。そのため彼女の親族であるエルベット家に下働きとして潜り込み、女王への謁見の機会を窺った。
窺っている間に、しかしエル・ザナード女王は行方不明になってしまった。
渡す相手がいなくなってしまった未完成品を、少しでも完成に近付けるべくセレナは、リムレオンを、シェファを、ブレンやマディックを、言い方は悪いが利用した。彼らのまとう魔法の鎧を、整備の名目で研究解析し、彼らが蓄積した戦闘経験情報を複製した。
そして今、自分の右手の中にあるものに、複製した情報を入力し続けてきたのだ。
(あたしは、これを……どうすればいいの? 親父……)
セレナは少しだけ拳を開き、握っているものに、こっそりと視線を落とした。
それは、竜が環を成した意匠の指輪だった。
エヴァリア、ガルネア、レドン、バスク。
ダルーハ・ケスナーの叛乱で特に激甚な被害を受けたこの4地方にレネリアを加え、独立国家を立ち上げる戦略があった。
国名は真ヴァスケリア。バルムガルド王国を後ろ楯とする、名ばかりの独立国家である。
その後ろ楯が失われた今、真ヴァスケリアは本物の独立国として自らを守らなければならない。
大領主として5地方を治めるラウデン・ゼビルは、そう思う。4地方の領主たちを殺害して彼らの所領を奪った自分の、それが最低限やらねばならぬ仕事であると。
幸いに、と言うべきか。生前の4領主は、いかにも地方貴族らしく、ダルーハの叛乱以前から不正な蓄財に励んでいた。その財を、ラウデンは全て没収した。
ラウデン自身にも、レネリア地方の軍事費として貯えてきたものがある。無論、正当な税収の中からやりくりしたものだ。
没収したもの、貯えてきたもの、全てを真ヴァスケリアの財政に注ぎ込んで運用した。
それが功を奏し、5つの地方の民衆は辛うじて飢える事なく、バルムガルドの援助なしで暮らしてゆけている。今のところは、である。
早急に片付けなければならない問題が、2つあった。
1つは、ローエン派の信徒たちである。
宗教的特権にすがって税を納めようともしない彼らを、とにかく徹底的に取り締まらなければならない。と言うよりも、宗教的特権そのものを廃止しなければならない。
その腐りきった宗教的特権を象徴する人物が今、力なく長椅子に身を沈めたまま、やつれ青ざめている。
クラバー・ルマン大司教。
ヴァスケリア王国内の唯一神教ローエン派を、代表・統轄する人物である。少なくとも、表向きは。
そんな人物が今、生かしておくのが哀れになるほど憔悴していた。
この場で斬殺してやるのが大司教本人のためでもあるのではないか、とラウデンは半ば本気で思った。
ヴァスケリア王国王都エンドゥール。王宮近くに立つ唯一神教中央大聖堂の、胸焼けしそうなほど豪奢に飾り立てられた応接の間である。
長椅子に座っているのは、大司教クラバー・ルマンの他、応接される立場である3名。自分ラウデン・ゼビルと、聖女アマリア・カストゥール。そして彼女の従者のような形で伴われて来た、1人の若い娘である。
アマリアとそう年齢の違わぬ、少女と呼べなくもない娘。
アマリアと同じく法衣に身を包み、アマリアほどではないにせよ美しい。
名はイリーナ・ジェンキム。
非暴力を謳うローエン派が入手してしまった暴力、そのものと言うべき人材である。
計4名の中で、まずアマリア・カストゥールが言葉を発した。
「本当に……余計な事しかなさらない御方」
軽蔑しきったような溜め息を、つきながらだ。
「大司教猊下は本当に、わかっておられるのかしら? 私たちローエン派がいくら平和を叫んでも、避けられない戦いの時がやがて来ると……癒しの力の使い手は、1人でも多く確保しておかなければなりません。なのにレイニー・ウェイル司教殿を、亡き者にしようなどと」
「れ……レイニー・ウェイルは以前より、聖女アマリアに批判的な……それに、エルベット家の懐柔という使命を怠ったゆえ……」
大司教の哀れっぽい言い訳を、アマリアは容赦なく断ち切った。
「そのエルベット家を攻め滅ぼすために、ゲドン家の方々を利用する……策略にしても、あまりに稚拙。現王政を武力で支えるエルベット家を、そんな手段で倒せるのなら、誰も苦労はしません」
今やヴァスケリア最強の武力を有するエルベット家が、強力に支えているからこそ、モートン・カルナヴァートなどという暗愚な男が国王ディン・ザナード4世を名乗っていられるのだ。
即位前に思われていたほど暗愚ではない、実は明君なのではないか。そんな評価も聞こえては来る。だがラウデンに言わせれば、前王エル・ザナード1世の政治路線をそのままなぞっているから、暗愚ではないように見えるだけだ。
ヴァスケリア王国の支配者にふさわしいのは、女王エル・ザナード1世のみ。
その兄ディン・ザナード4世など、真の改革者である妹の威光を着ただけの暗君に過ぎない。
暗君に過ぎないヴァスケリア現国王が最近、しきりに和平の使者を送って来ている。和平と言えば聞こえは良いが、要するに大領主ラウデン・ゼビル及びローエン派を懐柔し、この独立5地方を元通りに併合しようという肚なのだ。
女王エル・ザナード1世の健在なりし時であれば、ラウデンとて喜んで併合を受け入れるところである。
だが女王の生死が定かならざる今、その兄という立場で威張り散らしているだけの元副王などに、この真ヴァスケリア5地方を委ねるわけにはいかないのだ。
「まず何としても、エル・ザナード1世陛下に復位していただかなければなりません。ヴァスケリア国王にふさわしいのは、あの御方だけなのですからね」
アマリアが言った。生死不明の女王が生きていると、彼女は信じて疑っていないようである。
「そのためには現王ディン・ザナード4世陛下に退いていただかなければ……」
「だ、だから私は! 暗愚なる現国王の後ろ楯となっているエルベット家の力を、削いでおかなければと思ったのだ!」
クラバーが、言い訳を叫んでいる。
「聖女アマリアよ、私は貴女の意を酌んで動いている! 貴女の、役に立つために……」
「大司教猊下、貴方は何の役にも立っていません」
ラウデンですら一瞬、肝が寒くなるほど冷たい声を、アマリアは発した。眠たげな、霞がかかったような両眼に、得体の知れぬ輝きが宿る。
「……少し、黙っていなさい」
「…………!」
クラバーはますます青ざめ、息が詰まったように黙り込んだ。
もはや、この男は死んだも同然であろう。
唯一神教徒の宗教的特権は、これで問題なく廃止する事が出来る。ローエン派教徒であろうと、税を払わなければならなくなる。徴兵にも応じなければならなくなる……否。税はともかく徴兵は、ラウデンとしては見送りたいところであった。ローエン派信徒に限らず、真ヴァスケリアに住まう民には、出来る限り兵役を課したくはない。
生産業のための人員を、戦争などという非生産的極まる事業に割いてしまうのは、君主としては本来、可能な限り避けるべき愚行なのだ。
そしてそれは、ラウデンが片付けなければならない、もう1つの問題にも関わってくる。
「侯爵閣下……バルムガルド王国の情況は、いかがでした?」
アマリアが、もはやクラバー大司教など存在しないかの如く訊いてくる。
もう1つの問題。それは現在、バルムガルド王国を支配する魔物たちだ。
「想像を絶する、としか言いようがないな。バルムガルドは今や人間の国ではない。魔物ども、魔獣人間、そしてあの赤き魔人……人ならざる者どもが、道を歩くだけで人を殺す。そんな、もはや国とも呼べぬ暴虐の荒野と成り果てておる」
己の目で、ラウデンはそれを確認してきた。己の身で、実感してきた。
人間ではない者たちが、その強大なる暴力をもって、人間を守る真似事をしている。真似事に過ぎない。人間ではない者たちが少し機嫌を損ねたり方針を変えたりしただけで、人間たちはたやすく皆殺しにされてしまうからだ。
それが、今のバルムガルド王国である。
「あの怪物どもが、国境を越えて真ヴァスケリアを蹂躙する前に、こちらから奴らを攻め滅ぼす……イリーナ・ジェンキムよ、お前の力はそのための役に立っておるぞ」
「私の力が……役に立っているの?」
身を固くし、クラバー大司教の如く俯いていたイリーナ・ジェンキムが、ラウデンの言葉に弾かれて顔を上げた。
「私は……かつて体験した戦いで、何の役にも立たなかったわ。そんな私の力を、貴方たちは……役に立てて、くれるの?」
「自信をお持ちなさいな。貴女の力は、聖なる力……」
アマリアが、にっこりと笑った。同性をも魅了してしまう笑顔、なのであろう。
「戦う力を持たない私たちのために、唯一神がお遣わし下さった……貴女は、聖なる戦いの天使なのですよイリーナ・ジェンキム。もっと誇らしげに、堂々と振る舞いなさい。そして私たちを、導いて下さい」
「ああ……聖女アマリア……私の力を、貴女のお役に立てられる……」
イリーナが、涙を流しながら微笑んでいる。アマリアに死んで欲しいと言われれば、本当に死にかねない。そんな笑顔だ。
今まで誰かに誉められた事がなかった娘なのだろう、とラウデンは思った。そこに、アマリア・カストゥールはつけ込んでいる。
「イリーナ、貴女の力を……かわいそうなクラバー大司教猊下にも、分け与えて差し上げましょう」
もはや死んだも同然と思われたクラバー大司教が、アマリアに名を呼ばれて突然、生気を蘇らせた。
「聖女アマリアが……私に何を、分け与えて下さると?」
「私の役に立てる力を……」
微笑みながらアマリアは、美しく繊細な五指を絡めるようにして、クラバーの片手を優しく握った。
大司教の片手の中に、何かを握り込ませたようにも見えた。
歓喜に身を硬直させるクラバー大司教に、聖女アマリアの豊麗な肉体が、まるで高級娼婦の如く擦り寄ってゆく。
ラウデンは顔をそむけた。魔物や魔獣人間よりも、おぞましいものを見ている。そんな気がしたからだ。
このアマリア・カストゥールという女をこそ、まず真っ先に叩き斬るべきではないのか。ラウデンは、何度もそう思った。が、この女には力がある。バルムガルドからの怪物どもによる侵攻から、真ヴァスケリアを守る事が出来る、強大な力が。
イリーナ・ジェンキムにも、同等の力がある。それはラウデン自身、バルムガルドにおいて体感してきたばかりだ。
今や真ヴァスケリア5大地方は、この小娘2人によって守られていると言っても過言ではない。
心臓が止まってしまうのではないかと思えるほど歓喜に震えているクラバー大司教に、アマリアが睦言の如く何かを囁きかけている。
よく聞こえないが聞きたいとも思わず、ラウデンは右の拳を握った。
(この女が何を考えているのかは、知った事ではない……私はただ、戦うだけだ)
バルムガルドで体験してきた戦いを、思い返してみる。
デーモンロード。赤き魔人。3つ首の魔獣人間……想像を絶する怪物ばかりであった。
あのような者どもが国境を越えて真ヴァスケリアへと攻め込んで来る前に、こちらから手を打たなければならない。
(私自身が戦えば……徴兵による軍備増強など、しなくて済むのだからな)
ラウデンの右拳で、中指にはめられた指輪がキラリと光った。
竜が環を成した意匠の、指輪だった。