第179話 追悼・魔獣王子
堅苦しい話は、つつがなく終わった。
積もる話は、いくらでもある。
「まさか、な……こんな形で、あんたと再会する事になるとは思わなかったよ。レイニー・ウェイル」
ヴァスケリア王国、ガルネア地方。
聖堂の一室に、マディック・ラザンは旧知の客人を迎え入れていた。
「会いたくなかった、わけじゃあないが」
「お互い様だよマディック・ラザン。私としては、もう少し情勢が落ち着いてから……穏やかに和やかに、再会の場を持ちたかったものだ」
露台で欄干に身を預け、ぼんやりと風景を眺めながら、レイニーは微かに苦笑したようだ。
人間の農夫とオークの若者が、談笑しつつ農作業に勤しんでいる田園風景。
子供たちが笑いながら、畑と畑の間を駆け抜けて行く。人間の子供、ゴブリンの子供、ミノタウルスの子供。
「この地は……平和なのだな」
レイニーは呟いた。
「我々がダルーハ軍の残党に殺されかけた頃と比べて、まるで別天地だ。全てはマディック、君の手腕か」
「俺は、何もしてはいないよ」
かつて「真ヴァスケリア」と呼ばれ、独立戦争の渦中にあった五つの地方の塊。
ここに現在の平和をもたらしたのが何者であるのか、レイニーも知ってはいるはずなのだ。
「……そちらも平和なのだろう? 女王エル・ザナード1世陛下は、俺などよりもずっと優れた政治的手腕をお持ちだ」
「そちら、か。そちらとこちら、2つに分かたれてしまっているのだな。このヴァスケリア王国は、今や」
ダルーハ・ケスナーの反乱後、その混乱を上手く鎮める事が出来なかった、自分たちヴァスケリア王家の責任である。
女王エル・ザナード1世……ティアンナ・エルベットは、事ある毎にそう言っていたものだ。
彼女とは袂を分かち、もはや直接、会話をする機会は失われたと言っていい。
だから、と言うべきか彼女は、こうして使者を送ってくる。
ヴァスケリア王国中央聖堂大司教レイニー・ウェイルほどの、大人物をだ。
故クラバー・ルマン大司教の、一応は正式な後任である。
自分マディック・ラザンも一応、この地では大司教などと呼ばれてはいる。が、ヴァスケリア唯一神教会の公式代表者はレイニーの方であり、マディックとしても異論を唱えるつもりはない。
自分は、正式には唯一神教会を破門された身である。
マディック・ラザンの破門を解く。
それも今回レイニーが、女王エル・ザナード1世の使者として、あるいは大司教として、この地を訪れた理由の1つであった。
無論レイニーの方がマディックを、王都エンドゥールの中央聖堂に呼び出して、威丈高に破門を解いてやる事も出来たはずだ。
それをせず大司教自ら足を運んだのは、まずレイニー自身の誠意である事に違いはない。
だが、とマディックは思う。
エル・ザナード1世としては「自分たちの側が、まずは誠意を示した」という形を作っておきたかったのではないか。
彼女と直接、対話をする機会が、今のところは失われたままだ。が、使者を介しての対話と言うか交渉は、この先も続く。
魔法の鎧の同志として、ではない。一国の指導者と、一大勢力の政治的代表者としての、長く陰鬱な交渉事となるであろう。
事を荒立てるつもりはない。
エル・ザナード1世からの親書には、そう記されてあった。
貴君マディック・ラザン殿が国王となって独立国家を興すのであれば、ヴァスケリア王国としてはむしろそれを支持するであろう。無論、真ヴァスケリアという国名は変えていただく事になるにせよ、アマリア・カストゥール如き者を首魁に戴く反乱勢力が育つよりは遙かにましである。貴君が国家指導者としてその地を治める限り、最悪でもそのような事にはなるまい。国同士の和平を、せめて不可侵条約を、当方としては提案したい。
それが、親書の内容である。
遅くとも明日には、返書を仕上げてレイニーに託さなければならない。
「……良いのではないかな。君が、国王で」
レイニーは言った。
「偉そうな言い方になるが、君にはその資格があると思う。我々の中で……破門を受けてまで己の信念を貫いたのは、君だけだ」
「我々、か」
マディックは思いを馳せた。
ダルーハ・ケスナーの反乱以前、ディラム派が唯一神教の主流であった頃。
腐敗した教会組織に身を置く事を拒み、流浪の旅を続ける聖職者たちがいた。
今ここにいるレイニー・ウェイルとマディック・ラザン、それにクオル・デーヴィとアレン・ネッド。
いつしか、そこに美少女エミリィ・レアが加わり、アレンなどは彼女にかなり狂おしい思いを寄せていたようである。
その5人、再び揃って自由な旅に出る事は、もはやないのだ。
「……あんたには、話しておくべきだろうな」
マディックは意を決した。
「クオルが死んだ。殺したのは、俺さ」
「……私は、彼がアマリア・カストゥールに取り込まれてゆくのを傍で見ていながら何も出来なかった。私も君に、殺されるべきかな」
「俺など、傍で見ている事すらしなかった。破門という形で、さっさと逃げた……信念など、あるものか」
「ふ……逃げた事を恥じているようでは、な。王となるには少々、頼りないか」
レイニーは微笑んだ。
その表情が、すぐに沈んだ。
「……私からも話しておこう。アレン・ネッドが死に、エミリィ・レアは行方が知れない」
「何だって……」
「私が直接、見たわけではない。女王陛下が」
1度、レイニーは言葉を切った。
「陛下が……荒唐無稽な作り話をなさる御方ではない事、君も知ってはいるだろうが」
前王ディン・ザナード4世が、ダルーハ軍残党の凶刃にかかり崩御した、などという政治的な作り話をする女王ではある。
とにかく、レイニーは語った。マディックとしては、それほど荒唐無稽とも思えぬ話をだ。
「エミリィが……人ならざるものと化した、か」
「信じるのか、マディック」
「魔法の鎧を着て、戦っていればな。それはもう色々なものを見る。人間が人間をやめる事くらい、珍しくもない」
クオルと同じだ、とマディックは思った。エミリィは、唯一神そのものと接触をしたに違いない。
クオルは、実に中途半端な怪物と化してマディックに討たれた。
エミリィは、もっと恐ろしい怪物と化し、女王エル・ザナード1世自身による討伐を受ける事となった。
だが、魔法の鎧を装着したティアンナの力をもってしても討伐しきれず、エミリィは逃げた。巨大な、おぞましい怪物と化したまま。
アレンは、その戦いに巻き込まれて命を落としたという。
レイニーは、そう語った。
嘘ではないだろう、とマディックは思う。レイニーは、女王の話をそのまま語って聞かせてくれたに違いない。
そしてティアンナも彼に、少なくとも嘘は語っていない。
だが、全てを語ってもいない。
それはマディックの、特に根拠のない直感である。
「人ならざるものたちが、人の世に災厄をもたらす……ダルーハ・ケスナーの反乱以降、このような事が続いている」
エミリィもまた、災厄をもたらす「人ならざるもの」である。
レイニーは今、はっきりと、そう言ったのだ。
「我々は、選ばなければならない。その災厄に、人間として、人間の力で抗うのか。同じく人ならざるものの力に、頼ってしまうのか」
「あんたたちは前者、俺たちは後者だ。それでいいだろう」
マディックは言った。
「堅苦しい話は昨日、全て済ませたはずだ。その時の繰り返しになるが言うぞレイニー・ウェイル……不可侵条約ならば受けよう。お互いの往く道を侵すような事は、少なくとも俺はしたくない。その旨したためた返書は、すでに書き上げてある。後はそれを、あんたに持ち帰ってもらうだけだ」
「マディックよ、この地は確かに平和だ。しかしな、それがいつまで続くと思う」
政治的な、堅苦しい話は昨日、済ませたはずであった。
だがエル・ザナード1世が、ティアンナが、使者を介して本当に伝えようとしている事をレイニーは今、語っている。
「……ガイエル・ケスナー個人が、ひとたび機嫌を損ねでもしたら、たちどころに失われてしまう平和ではないのか」
「彼は、しょっちゅう機嫌を損ねているよ」
「その度に人が死んでいるのだろう。殺されているのは今ひとつ同情し難い人々であるから良い、とでも言うのか」
「ダルーハ・ケスナーがこの地を蹂躙し、アマリア・カストゥールが人々を弄んでいた時と比べれば、遥かにましな状況だ。今は、それで良しとするしかないだろう」
ダルーハのもたらした荒廃から、この地の人々を救う事が出来なかったのは、ヴァスケリア王家の責任である。ティアンナは、そう言うであろう。
「無礼な物言いになるがレイニー大司教よ。俺は前王ディン・ザナード4世も、現女王陛下も、実によくやってくれたと思っている。ダルーハによって破壊されかけた国が、ここまで立ち直った。紛れもなく御兄妹の功績だ」
「……ガイエル・ケスナーの存在あってこそ、と女王陛下は考えておられる」
「それが我慢ならないというのは傲慢であり忘恩! 女王陛下に1度、直接、申し上げた事だがな」
マディックはつい、声を荒げてしまった。
「彼女はな、人間の世から人間ではないものを全て排除しようとしている。断言するぞ。この地にエル・ザナード1世の支配が及んだら間違いなく、あそこを楽しげに走り回っているオークやゴブリンの子供たちも皆殺しにされるだろう。俺は、そんな事を認めるわけにはいかん」
「人間と、そうではないものの平和的共存など……いつまでも続くと、君は本当に思っているのか」
レイニーの口調は、暗い。
「バルムガルドで何が起こったか、君は見て体験したのではないのか。ガイエル・ケスナーの思惑ひとつでヴァスケリアは、かの国の如く、魔物の支配する領域となってしまう……魔物は、人間よりもずっと強いのだぞ。今は、お情けで仲良くしてくれている。だが時が経てば」
「人間を喰い物にする、か。ガイエル・ケスナーが、そんな事をするかどうか。最終的には、彼個人を信じるかどうかという問題になってしまうな。俺は信じているが」
彼は、デーモンロードとは違う。魔族の繁栄など考えてはいない。人間を喰い物にして益を得ようなどという、発想そのものが彼にはない。
目の前で起こっている事にしか、興味がない。それがガイエル・ケスナーだ。
目の前に、気に入らぬ人間がいれば殺す。哀れむべき人間がいれば、まあ助けてやる。
彼は、それだけなのだ。
それだけしかない怪物を、唯一神として祀り上げる。怪物の威を借りて、支配者の如く振る舞う。領内に魔物を住まわせる。
それが今、マディックの行っている事だ。
一国の女王としては、確かに看過出来る事態ではないだろう。独立を支持する、などとティアンナは親書では述べているものの、本心はどうなのか。
「ガイエル・ケスナーを……最終的には、この世から消す。それが女王陛下のお考えなのだろう」
マディックは言った。
「だが、その手段が果たしてあるものかな。まさかとは思うが魔法の鎧を頼みにしているのだとしたら、それは愚かな事だと彼女には伝えて欲しい。デーモンロードを運良く斃す事が出来た……魔法の鎧は、あそこが限界だ。どれほど時間を稼いでも、あれ以上のものにはならない」
「女王陛下が、時間を稼いでおられる……と。君はそう思っているのだな」
「魔法の鎧を、改良強化するための時間をな。俺に言わせれば無駄な事だ」
魔法の鎧など、ガイエルに対しては、どの程度のものでしかないのか。それはティアンナ自身、あの岩窟魔宮での戦いで思い知ったはずである。
「それに今、ガイエル・ケスナーに……この世から消えてもらうわけには、いかないんだよ」
「聞いている。北の国境に、軍が集結しているそうだな」
エセルナード、ザナオン、サフラシア、ロードマグナ……この4カ国が同盟を結び、総勢6万人にも及ぶ連合軍を編成してヴァスケリアに攻め込もうとしている。その情報は、ティアンナも掴んでいるはずであった。
その6万人の兵員ことごとくに、魔法の鎧が軍装として支給されている。
自分のせいだ、とイリーナ・ジェンキムは己を責めていたものだ。
いくらかは手応えのある皆殺しになるか、とガイエル・ケスナーは言っていた。
「かの赤き魔人に……頼ってしまうのか、君たちは」
「当然だ。量産品とは言え、魔法の鎧の装着者が6万人だぞ。ガイエル・ケスナーに戦ってもらわなければ、どれだけの民が虐殺されるか」
言いつつマディックは、睨むようにレイニーを見据えた。
「彼は、弱い人間たちを守ってくれる。無償でだ。これを拒絶しなければならない理由は一体何だ?」
「今はそれで良いかも知れない。だが未来はどうなる? 人ならざる強大なものに頼るだけの、自力では何も出来ない人間ばかりになってしまうとは思わないのか」
「未来を作るためには、今を守らなければならない。未来にいささかの危うさを感じるとしても、それは今ある平和を放棄する理由にはならないだろう。ダルーハ・ケスナーのもたらした災厄と荒廃から、ようやく解放されつつある人々に、あんたは自力で戦争をやれと言うのか? 魔法の鎧の軍勢を相手に」
レイニーは俯き、黙り込んだ。
論破した、という気分に一瞬だけ陥った自分を、マディックは恥じた。
論破など、したところで意味はないのだ。
「未来の事など、俺たちがあれこれ考えるのは思い上がりでしかない。それよりもレイニー! 俺たちのやるべき事があるだろう。クオルもアレンもいない今」
「……エミリィの事か」
「そうだ、彼女を何としても助ける。生き残った俺たちの、それが使命であり義務だ。人間ではなくなった姿のまま行方をくらませたのなら、探し出すのはそう難しい事では」
そこで、マディックは気付いた。
レイニーが、俯いたまま身を震わせている。
泣いているのか。泣き落としとは彼らしくもない、とマディックが思いかけた、その時。
レイニーが倒れ、血を吐いた。凄まじい量の血反吐が、露台にぶちまけられた。
「レイニー!」
マディックは駆け寄り、何か小さなものを爪先で蹴飛ばした。
陶器の小瓶。レイニーの手から、転げ落ちたところであった。
「毒……」
マディックは息を呑んだ。
「レイニー、あんたはこんなものを持ち込んで……」
「……所持品の検査を、しっかりとやらないから……こういう事に、なる……」
レイニーの笑顔が、吐血の赤黒い汚れにまみれたまま青ざめてゆく。
マディックは彼を抱き起こし、祈りを念じた。癒しの力による解毒。今は、それしかない。
レイニーの全身が、淡く白い光に包まれている。マディックもよく戦闘時に用いる、光の防護膜だった。
それが、レイニー自身の意思によって、彼の身体を包み込んでいるのだ。そして敵の攻撃でもない、マディックの解毒の力を跳ね返してしまう。
「悪いがマディックよ……君に、癒してもらうわけには……いかない……」
レイニーが、最後の言葉を絞り出す。
「私は君に、殺された……ので、なければならない……」
「あんたは最初から……ここで、死ぬつもりで……」
今、マディックは理解した。
女王エル・ザナード1世は、自分たちとの和平も不可侵条約も望んでいない。そんなものは、時間稼ぎのための方便ですらない。
彼女の目的は、時間稼ぎではないのだ。
「……今すぐ……戦争を起こすつもりか、彼女は……」
「親書を携えた、女王陛下の正式な使者が……マディック・ラザンによって、毒殺された……世間の人々は、そのようにしか見ない」
レイニーの震える手が、マディックの法衣を掴む。
「……誤解してくれるな、女王陛下の御命令ではない……私が、申し出た事だ」
「そのように仕向けたのだろう、あの女王は……!」
屍に変わりゆくレイニーを、マディックは怒鳴りつけていた。
「クオルが、アマリア・カストゥールに取り込まれたように! あんたもまた、ティアンナ・エルベットに支配されてしまったんだ! こんな愚かしい事を、疑いもせずにやらかすほど!」
「偽りの聖女でしかなかった、アマリア・カストゥールとは違う……エル・ザナード1世は、本物の……」
レイニーは、またしても血を吐いた。
浴びせられた血の汚れを拭いもせず、マディックは呻いた。
「好機、と見たのかティアンナは……6万の連合軍が北から攻め入ろうとしている、ガイエル・ケスナーの注意がそちらに向いている今こそが……この地を攻め滅ぼす、好機だと……」
「わかってくれないか、マディックよ」
レイニーは言った。
「人間ではないものを、神と崇める国など……この世に、あってはならないんだ……」
それが、最後の言葉だった。
エル・ザナード1世は、本物の。彼は先程、そう言いかけた。本物の何であるのか、もはや聞く事は出来ない。
だが、マディックは断言出来る。
「本物の……怪物だ。ある意味、ガイエル・ケスナー以上の」
赤き魔人をも超える怪物が、あの時、この世に生を受けてしまったのだ。
彼が死んだ、あの時に。
レイニーの屍を抱き起こしたまま、マディックは語りかけていた。この場にいない、この世にいない、1人の魔獣人間に。
「貴方は……死ぬべきではなかったんだよ、ゼノス・ブレギアス……」