第177話 魔法の鎧
足音が聞こえた。覚束ない足取りを感じさせる、弱々しい足音。
声も聞こえた。ごぼっ、と生々しい吐血の音が混ざり込んだ声。
「ガイエル・ケスナーを許せない……ふふっ、それは結構」
ティアンナは振り返り、息を呑んだ。
女の魔獣人間が1体、そこにいた。自力で歩行するのはまだ難しいのだろう。大木にもたれかかり、苦しげな呼吸をしながら血を吐いている。
「許せなければ、どうするのかしらね……貴女、あれと戦うの……?」
力強く引き締まりくびれた胴体の、あちこちから臓物が溢れ出している。
上半身と下半身が、まだ完全には繋がっていない。脊柱それに神経がどうにか修復され、ようやく辛うじて立ち上がり歩く事が出来るようになったところか。
そんな状態でも、ここにいる少女3人を殺戮するのは容易であろう。ティアンナもシェファも、魔法の鎧を破壊されたばかりである。2人でセレナ1人を庇って逃すのが精一杯か。
「その前に……私に、殺されるかも知れないと言うのに? ねえ……」
「メイフェム・グリム……何故……」
生きているのか、などという愚かな問いかけを、ティアンナはしてしまうところだった。
魔獣人間バルロックの右手が、白く発光している。その光が、繋がりかけた胴体に当てられている。
溢れ出していた臓物が、ずるずると体内に引きずり込まれ収納されてゆく。
癒しの力であった。
この女は魔獣人間であると同時に、唯一神の力を行使出来る聖職者でもあるのだ。ティアンナとて、失念していたわけではないのだが。
あの状況の中、上半身だけで這い回って下半身を捜し出す。魔獣人間であるにしても、想定外の生命力であると言わざるを得ない。
「1つ忠告してあげるわ、女王陛下……魔獣人間と戦う時はね、真っ二つに叩き斬ったくらいで安心しては駄目よ」
言葉に合わせ、バルロックの左手が微かに動いた。
シェファが、悲鳴を上げた。
魔法の鎧を失った少女の生身に、毒蛇のような鞭が幾重にも巻き付いている。ティアンナよりも豊かな胸の膨らみが、鞭と鞭の間から押し出されて元気に揺れる。
「シェファ……」
ティアンナが呼びかけている間に彼女は、魔獣人間の鞭に引きずりさらわれていた。
「なってないわね……一体、何をやってるのシェファ・ランティ」
強固に筋肉の締まった細腕でシェファを抱き捕らえながら、メイフェムは言った。
「貴女が真っ先にリムレオン・エルベットを追いかけなければ駄目でしょう?」
「お、追いかけて一体どうしろってのよ……」
「そんな事は追い付いてから考えなさい。とにかく貴女とリムレオンにはね、私に美しいものを見せる義務があるのよ」
意味不明な事を言いながらメイフェムが、シェファを縛り抱いたまま歩き出す。エミリィ・レアが飛び去り、リムレオン・エルベットが歩み去って行った方向へと。
「どこへ……行こうと言うのですか、メイフェム・グリム」
ティアンナは言った。言葉で止められる相手ではない。だが今や、止めるための力もない。
「……シェファを、どうしようと言うのですか」
「殺しはしないわ。殺すなら、この場で3人まとめて……ね」
女魔獣人間が、振り向きもせずに答える。
「この子はね、リムレオン・エルベットを追いかけなければならないの」
「そう……メイフェム・グリム。あんたはあんたで、追いかけて取り戻さなきゃいけないもの出来ちゃったのよね」
セレナ・ジェンキムが言った。
「でもね、わかってる? あんたの子供を呑み込んでさらって行ったのはね、あんたをボッコボコに打ち負かした女王陛下よりも、ずっと強い化け物になっちゃったエミリィさんよ。考え無しに追いかけたって」
「ゾルカの娘……そう、貴女には伝えておくべきね」
メイフェムは立ち止まり、セレナの方を振り返った。
「貴女のお父さんを殺したのは、私よ」
「知ってる。どうでもいい、とは言わないけど……」
「お父さんから引き継いだ研究を、せいぜい進めてみなさい。貴女でも着られて私を殺せるような魔法の鎧、そのうち出来るかも知れないわよ」
「……親父の理想が、まさにそれだったわ。弱っちい一般人でも、あんたみたいな化け物と戦えるようになる。戦いが終われば、普通に都合良く人間に戻れる。そのための……魔法の、鎧」
「私はね、ゾルカのその発想の原点に戻ってみるつもり。邪魔をしないでね」
シェファを捕えたまま、メイフェムが再び歩き出す。足取りの強さが、完全に戻りつつある。
生身で止められる相手ではない。ティアンナは、言葉を投げるしかなかった。
「魔法の鎧の、原点……そんなものが、あるとでも?」
「私も、ゾルカもダルーハも20年前、赤き竜やデーモンロードと戦った」
言葉と共に、メイフェムの後ろ姿が遠ざかって行く。シェファの姿もだ。
「特に、あの赤き竜は……ガイエル・ケスナーに勝るとも劣らない怪物よ。いくらダルーハでも、あの頃はまだ人間だった。生身でどうにかなるような戦いではなかったわね」
ダルーハ・ケスナーが、魔法の鎧を装着する。恐ろしい想像ではある。
だが今メイフェムが語っているのは、魔法の鎧が無かった頃の話である。
ティアンナは、ある事に思い至った。
「まさか……」
「そう。吟遊詩人どもの歌う、様々な物語を思い出して御覧なさい。勇者とか英雄とかいった連中は物語の最後、魔王の類と戦う事になるわよね。まあ何の準備も無しに生身で魔王と殴り合う馬鹿もたまにいるけれど、大抵は」
「勇者の剣……英雄の、聖なる鎧……」
「そういうものがね、私たちにもあったのよ」
メイフェムは言った。
「赤き竜との最終決戦……その時の、私たちの最強装備。今はね、私しか知らない場所に封印してあるわ」
「その封印を解きに行くのに、シェファが一緒でなければならない理由はないはず!」
ティアンナは叫んだ。もはや叫ばなければ聞こえぬ距離である。
「彼女を放して! シェファを、私に返しなさい!」
「魔法の鎧の自己修復……丸一日、かかるのでしょう? それが済んだら追いかけて来なさい」
メイフェムの声は、叫ばずとも通る。
「女王の立場も、何もかも捨てて……友達1人を取り戻しに来ると言うのなら、相手をしてあげるわ」
「…………!」
魔法の鎧が無ければ、お前は何も出来ない。そう言われたのだ、とティアンナは感じた。
そして、それは事実なのだ。
「……おわかりの事、と思いますけど」
シェファもろとも遠ざかり、見えなくなりつつある女魔獣人間の後ろ姿を見送りながら、セレナが言う。
「女王陛下のお立場を放り捨てて追いかける、なんてもう駄目ですよ。ここへ来られたのだって無理矢理なんですから。政務も滞っています。一刻も早く、王都へお戻りにならないと」
「……人間は本当に、何も出来ない生き物なのね」
ティアンナは呻いた。
「人間ではない者たちが、私から……リムレオンを、シェファを、奪ってゆく……魔法の鎧のような力が無ければ、それを止める事も出来ない……もう貴女が頼りよ、セレナ・ジェンキム」
「……わかっています。まだ、これがありますから」
セレナの掌に1つ、竜の指輪が載っている。ラウデン・ゼビル侯爵の遺品である。
「親父……ゾルカ・ジェンキムは元々、人間の可能性なんてものに大した期待はしていませんでした。結局は外付けの力に頼らなきゃ何も出来ないのが人間なんだって事、赤き竜との戦いで思い知ったんでしょう。だからこその、魔法の鎧です」
筋骨たくましいオークが、剣や戦斧ではなく農具を振るい、畑を耕している。
その畑の持ち主である人間の夫婦が、労いの言葉を投げかける。
オークと人間が、一緒に弁当を広げ、談笑している。
人間の子供とゴブリンの子供が、元気よく一緒に走り回っている。
そんな風景を、のんびりと見回しながら、マディック・ラザンは歩いていた。
「聖なる、万年平和の王国……そんなものが、本当にあるのだとしたら」
隣を歩くイリーナ・ジェンキムが、暗い声を発する。
「この有様が、それに最も近いのかも知れないわね。アマリア・カストゥールは、この地に何も恩恵をもたらさなかった。ただ災厄を引き起こしただけ。私も、その片棒を」
「時間をかけて、償ってゆくしかないと思うよ」
マディックは、そう応えるしかなかった。
「この地の人々のために、君にしか出来ない事。俺は、あると思う」
「出来損ないの魔法の鎧を、大量生産する……それが一体、何の役に立つと?」
食事も休息も必要としない労働者たちが、大いに人々の役に立っている。
今も少し見回せば、中身のない鈍色の鎧歩兵たちが、オークやトロルと共に農具を振るい、丸太を運んだりしている様が視界に入る。
それを言ったところで、イリーナを慰める事にはならないだろう。
「おお、これは大司教様」
道行く村人たちが、集まって来た。
「おかげ様をもちまして、耕地の立て直しは順調に進んでおります」
「そのようだね。まあでも俺のおかげという事はない。大司教なんて大層な呼び方は」
「……この地の人々を守り導いているのは貴方なのよ、マディック・ラザン」
イリーナが言った。
「もう少し自信を持って、堂々と振る舞いなさい……私も認めなければね。貴方はもう、役立たずのマディック・ラザンではないのだから」
「俺は何もしてはいないよ。今この地を本当に守っているのは、俺などではなく唯一神……実存する神の、強大な力さ」
「……本当に上手いこと、神様の存在をでっち上げたものね。感心するわ」
イリ一ナは誉めてくれたのだ、とマディックは思う事にした。
「その彼が、この辺りにいると聞いたが」
「……あちらに」
村人の1人が、木立の方に片手を向けた。
「放っておいて欲しい、とおっしゃっておられましたが」
「……そうだな。出来れば、放っておいて差し上げたい」
マディックは、木立へと歩み寄って行った。
「強大な力の持ち主とは、良くも悪くも放ってはおかれないもの。何しろ我々弱者は、あなた方が道を歩いただけで死んでしまう。その一挙手一投足、息遣いにまで注目せざるを得ないよ」
「……難儀な話だ」
大木の根を枕に横たわったまま、その若者はぼやいた。
美しく筋肉の引き締まった裸身に、豪奢なマントが布団のように被さっている。
イリーナの顔が、引きつった。マディックは咳払いをした。
「鬱陶しかろうが、どうか聞いて欲しい……ガイエル・ケスナー、外を出歩く時は服を着てくれないか。出来れば屋内にいる時も」
「屋内で、大人しくしていろと言うのか」
ガイエルが、じろりと眼光を向けてくる。
「貴様に擁立された神として、色々もったい付けて振る舞えと」
「……マディックはね、貴方のような怪物に、神様としての立ち位置を用意してあげたのよ。少しは感謝なさい」
イリーナが、命知らずな事を言っている。
マディックは青ざめたが、彼女は止まらない。
「怪物が世の中に受け入れられるにはね、神様として振る舞うしかないのよ。それらしくしたらどうなの」
「俺が、神であるものか」
虚空を見つめながら、ガイエルは言った。
「モートン王子を守れなかった、俺などが……」
強大な力を持ちながら、こうして個人の生き死にに心動かされる。ある意味、危険な事なのだろうとマディックは思わなくはない。
「今この地には、王や領主の類がいないのだったな」
「王、と言うか神は貴方だガイエル・ケスナー。我々唯一神教会が、貴方の威を借りて自治体制のようなものを維持している」
「ならば別に、モートン王子が名目上の支配者でも良かろう」
ガイエルは言った。
「このような、平和だけが取り柄の辺鄙な場所でなあ、何の実権も持たずに捨て扶持だけをもらって安穏と暮らす……それがな、あの御仁の夢だったのだ。今なら、叶えてやれるのに……」
「平和が取り柄……その平和を守っているのは、貴方ではないか」
マディックの言葉に、ガイエルは苦笑したようだ。
「俺でなくとも、誰かがやっていたさ。確かにな、ダルーハの残党どもが大いに暴れていて、それを片付けるのが自分の役目などと俺は勝手に思っていた。だがな、俺がそれをやらずとも、例えばゼノス・ブレギアス、あるいはアゼル・ガフナー、その辺りの連中が俺などよりも上手くやっていたかも知れんぞ。実存する唯一神などと貴様は俺を持ち上げてくれるが……さて。俺が本当に神の如く振る舞い始めたら一体、何が起こるかな」
苦笑、ではない。
にやリと牙を剥き、ガイエルは不敵に愉しげに微笑んでいる。
「俺は思うのだがな。それなりに強い奴が調子に乗って何かを始めたら、それを阻止するための力が絶対どこかで働く。世の中とは、どうやらそのように出来ている。ダルーハ・ケスナー、デーモンロード、それに赤き竜とやらもそうだろう。どいつもこいつも調子に乗ってやらかし始めた途端に殺された。俺が、そいつらと同程度の脅威……と見なされているとしたら」
力強い裸身が、むくりと起き上がった。
「俺をこの世から排除するための力が、そろそろ働き始めているかも知れんな。その中心にいるのはティアンナだろう。彼女がな、魔法の鎧で俺を殺しに来るのだ」
「……魔法の鎧に、そんな力があるかしら」
イリーナが、呟くように言った。
「父……ゾルカ・ジェンキムは、魔法の鎧にそこまでの信頼は置いていなかったと思うわ。父が重要視していたのは人間の可能性、魔法の鎧はそれを少しでも高めるためのものでしかない、と……私にもね、それが全くわかっていなかったのだけど」
「確かに……俺たちは魔法の鎧で、デーモンロードを斃した。俺たちの力なんかじゃない、紛れもなく魔法の鎧の力。だけど」
この場にいない女王に、マディックは心の中で語りかけた。
(魔法の鎧が全て揃って、しかもブレン兵長やラウデン侯の代わりがいたとして……今の貴女に、あの時と同じ事が出来るのか?)