第175話 ドラゴン・ナイト(前編)
エミリィ・レアの豊かな乳房が、天空に向かってブルンぶるんっと揺れ暴れる。
うつ伏せになれば人間数人を容易く押し潰してしまうであろう、あまりにも豊満過ぎる胸の膨らみ。
それを誇示するが如く、エミリィは巨体を仰け反らせ、吼えていた。
愛らしい唇から迸り出るのは、人間の叫びではない。人間ならざるものの、咆哮だ。空を見つめる両眼は、とめどなく涙を溢れさせ、まるで天にまします唯一神に泣きながら何かを訴えかけているようである。
唯一神が、その訴えを聞き入れた。そしてエミリィの身体に降臨を果たした。
そうとしか思えぬ光景であった。
降臨した唯一神を受け止め損ねたかの如く、エミリィの細い両腕は砕け散って消え失せた。肩の辺りに、滑らかな断面が残るのみである。
そんな有様でありながらも、エミリィは唯一神を受け入れていた。そして人間ではなくなった。
今、両腕のない少女の裸身が、ティアンナとシェファを見下ろすほどに巨大化しつつ、悶え吼えている。
両脚は、怪物の前肢であった。
エミリィの下半身は、もはや原形をとどめてはいない。
胴から尻にかけての魅惑的な曲線は辛うじて保たれているものの、そこから下は巨大に膨れ上がって鱗に覆われ、大蛇のような尻尾を伸ばし、鉤爪のある四肢で四つん這いに大地を踏んでいる。
いや。今は前足の片方が地面を離れ、何か小さなものを運び上げている。
ティアンナとシェファをまとめて叩き潰してしまえそうな前足に、豆粒のようなものが載せられている。
赤ん坊であった。産衣ではなく6枚の翼に包まれた、人ならざる赤子。怪物の巨大な掌の上で、きょとんとしている。
巨大な、左右の前肢。その間で、怪物の胴体に小さな裂け目が生じていた。エミリィの、下腹部の辺りだ。
その裂け目の中に、怪物は赤ん坊を押し込んでいった。赤ん坊が、怪物の体内に飲み込まれていった。
エミリィの巨大化した美貌が、天を仰ぎ涙を流しながら、恍惚と蕩けている。
赤ん坊を飲み込んだ裂け目は閉じて消え失せ、代わりに凶暴なものたちが生え伸びた。
蛇、いや百足に近いか。何節もの甲殻で出来た、触手の群れ。びっしりと牙を生やしたそれらが、飲み込んだ赤ん坊を守護する形に暴れうねる。
それら以外にも、生えてきたものがある。
翼であった。
白く艶かしい少女の裸身と、異形の怪物との境目。エミリィの豊かな尻であるべき部分から、6枚もの翼が広がっている。羽毛の翼と皮膜の翼が、3枚ずつ。
この巨大な身体が、翼があるからと言って空を飛べるのかどうかはわからない。
ともかく、それは竜であった。かの赤き竜とは違う、白銀色の鱗をまとった四足の巨竜。
それが、首の代わりに少女の上半身を生やしている。牙のある触手も生やしている。
そんな怪物に、シェファが呆然と呼びかけた。
「エミリィ……さん……」
応えもせずにエミリィは、恍惚と緩んでいた表情を険しく引き締め、吼えた。
人語を発する能力を、彼女は失っている。
シェファとは旧知の間柄であるようだが、そのような人間関係を思い出す事も出来なくなっている。
今やエミリィにとって守るべきものは、体内に保護した赤ん坊のみ。それ以外の一切あらゆるものが、殲滅の対象なのだ。
ティアンナは安堵した。
シェファを殺さなければならない。その事態を、ひとまずは避ける事が出来そうだからだ。
それどころでは、なくなっていた。
百足のような触手の群れが、一斉に暴れ出したのだ。高速でうねり、伸びて牙を剥き、ティアンナとシェファを襲う。
電光まとう魔法の大斧を、ティアンナは跳躍しながら振るった。雷名を伴う横薙ぎの一閃が、牙のある触手たちを打ち払う。
立ち尽くすシェファの眼前に着地しつつ、ティアンナは雷の大斧をもう一閃させた。触手が2本、3本、シェファを襲ったところである。
帯電する斬撃が、百足のようなものたちを弾き返した。
「何で……どうして……」
シェファが、呆然と呟く。
「あたしを、守ってくれるの……? あたし……女王様に、刃向かって……」
「ねえシェファ。私が貴女を殺したがっている、などと……まさか本気で思っているわけではないでしょう?」
変わり果てたエミリィ・レアと距離を隔てて対峙し、シェファを背後に庇いながら、ティアンナは言った。
「貴女は私の、大切な友達、かけがえのない仲間よ……ふふっ。言葉にすると本当に、空々しくなってしまうわね」
「ティアンナ姫……」
女王様、ではなく、そう呼んでくれた。ティアンナ、と呼び捨てにしてくれるまで、あと一歩か。
「……逃げなさいシェファ。エミリィさんと戦う事など、貴女には無理」
「馬鹿にっ……しないでッ!」
シェファは、魔石の杖を構えた。
青い魔法の鎧をまとう少女の全身で、魔力が燃え上がる。それが、杖の先端の魔石へと集中してゆく。
そして、迸った。
真紅の光がドギュルルルルルッ! と太く熱く束ねられて一直線に宙を裂き、エミリィを襲う。
6枚ある翼の1つが、ふわりと動いて軽くはためき、赤い魔力光の束を打ち払った。
シェファの渾身の攻撃魔法が、火の粉のような光の飛沫となって散り消えた。
青い面頬の中で、シェファは驚愕したようである。
赤い面頬の中で、ティアンナはまたしても安堵した。シェファがエミリィを殺す。そんな事態は、どうやら避けられた。
その逆ならば、しかし充分に起こり得る。
エミリィは今や、善悪の分別を持たぬ、単なる力の塊と成り果てたのだ。
袂を分かつ前に、マディック・ラザン司祭が言っていた。唯一神とは善なるものでも悪しきものでもない、単なる力であると。
人々に善悪どちらをもたらすかは、その力を部分的にでも行使する事の出来る、聖職者の心次第であると。
唯一神という、意思なき力の塊。その一部が、彼女の身体に降りて宿った。
1人の聖職者の少女を、彼女の心そのものの姿に変えたのだ。
赤と青、2色に武装した2人の少女を見下ろしながら、エミリィは涙を流し、微笑んでいる。
そして、叫んだ。声にならぬ絶叫、咆哮、あるいは慟哭。それに合わせて、涙がキラキラと飛散する。
それは、召喚であった。
唯一神という名の力が、ふわふわと実体化しながら、エミリィの周囲を小鳥の如く飛び回っている。
巨大な異形と化したエミリィと比すれば、小鳥である。
だがティアンナから見れば、怪鳥であった。白い、人型の怪鳥が3体。
それらは鳥であり、人でもあった。素手であるようにも、武器を持っているようにも見える。醜いのか美しいのかも、よくわからない。
翼をはためかせ、ゆらゆらと空を旋回する、3体の謎めいた何か。
見上げながら、ティアンナは呟いた。
「天使……」
翼ある、美しい男女の姿で描かれる事の多い存在。
だが、人の目に見える形で実体化を遂げたとしたら、このような奇怪で不気味なものになるのではないか。
根拠のない確信をティアンナがしている間、その天使たちは叫んでいた。あるいは、歌っていた。
優雅に羽ばたきながらの歌が、そのまま光になった。
表記不可能な奇怪なる音声が、目に見える破壊力の塊となって、降り注ぐ。襲い来る。
そして、シェファを直撃した。
青い魔法の鎧が、砕け散った。
「シェファ!」
襲い来る光を、ことごとく魔法の大斧で打ち弾きながら、ティアンナは叫ぶ。
光の粒子をキラキラと飛散させながら、生身のシェファが地面に投げ出され倒れ伏す。
「終わり……おしまいね、これで……」
起き上がりもせず、シェファが呻く。血まみれの唇で、弱々しい言葉を紡ぐ。
「エミリィさんは、赤ちゃんを守ってるだけ……間違った事なんて、してない……」
「シェファ……やっぱり……」
セレナ・ジェンキムが、木陰から走り出て来てシェファを助け起こそうとする。
「思った通りね。あんたって……リムレオン様が傍にいないと、今いち駄目。ほら起きて、今は逃げないと!」
逃すまい、とするかのように、天使3体のうち2体が歌い叫ぶ。
絶叫のような、慟哭のような、聞き取れぬ歌詞のようでもある声が、禍々しい光となって天下り、少女たちを襲う。
「早く逃げて、2人とも!」
ティアンナは叫び、長柄を振るった。
うずくまり抱き合うセレナとシェファの頭上で、大斧がブンッ! と弧を描き、襲い来る光を粉砕する。
その間。天使の残る1体が、猛禽のように降下して来た。
巨大な牙か、鉤爪か、あるいは何かしら得物を手にしているのか。
その攻撃を、とにかくティアンナは斧の長柄で弾き防いだ。焦げ臭い火花が散り、赤く武装した少女の細身が後方に揺らぐ。
「くっ……!」
ティアンナが辛うじて倒れず踏みとどまっている間に、天使がさらなる攻撃を加えてくる。爪か牙か手持ちの刃物か、よくわからぬものが超高速で一閃した。
一閃で、幾度もの直撃がティアンナを襲う。
いくらか厚みを増した、赤い魔法の鎧。その全身各所で、血飛沫のような火花が散った。中身である少女の細身に、容赦のない衝撃が流れ込んで来る。
歯を食いしばりながら、ティアンナは思いきり踏み込んで行った。
魔法の大斧が、雷鳴を発し、電光をまとい、そして天使を直撃する。
よくわからぬ形をしている天使の肉体が、さらに謎めいた形に歪み潰れながら真っ二つになり、電光に灼かれ、爆散した。
魔法の大斧も、砕け散っていた。
キラキラと舞い散る光の粒子を蹴散らすように、何かが猛々しく宙を泳いでティアンナを襲う。
百足のような、甲殻の触手。
エミリィの身体から生え伸びたそれが、ティアンナの全身を絡め取り、締め上げる。
「あっ……ぐゥッ……!」
悲鳴と一緒に、ティアンナは血を吐いた。
魔法の鎧は、一瞬にして締め潰され、粉砕されていた。光の粒子が、竜の指輪に流れ込み吸収されてゆく。
生身のティアンナを触手で拘束したまま、エミリィは相変わらず、涙を流しながら微笑んでいる。
「……エミリィさん……こっ……これが……ッ」
全身の骨を、臓物を、容赦なく圧迫する束縛力の中で、ティアンナは呻きながら空を見上げた。
天使たちが、空を埋め尽くしていた。
ティアンナが辛うじて1体を倒している間、もはや数えきれぬほどの天使たちが召喚されていた。
「これがっ……貴女の、心なのですね……」
誰も殺し合わない、戦いのない世界。赤ん坊と母親が、幸せになれる世界。
それが、エミリィの願いだ。
1人の聖職者の、その願いが、こうして唯一神という力を召喚したのだ。
「優しい世界を……作り上げるために……」
泣き微笑むエミリィに、ティアンナは語りかけた。
「今ある、この優しくはない世界を……貴女は、破壊しようと……」
セレナが、シェファが、地面に座り込み、すがり合うようにしながら呆然と空を見上げている。
群れをなし滞空する天使たちが一声、歌っただけで、まずはここにいる生身の少女3名が死ぬ。
続いて、ゼピト村が滅ぼされる。
近隣の町が、村が、ことごとく殲滅される。この天使たちによって。巨大な異形と化した、エミリィ・レアによって。
「それを責め咎める資格など……私には、ないのかも知れませんね……エミリィさん……私の心の中には、今の貴女よりも醜くおぞましいものが……」
人間の世界から、人間ではないものを排除する。たとえ赤ん坊であろうと、人間ではないものの存在は認めない。
美しい行いではないだろう、とティアンナは思う。
心の中の醜悪なものが、今の自分の顔には滲み出ているのかも知れない、とも。
「今の私は……とても、醜い顔を……」
みしっ、と身体の中で何かが潰れかけている。ティアンナは、またしても血を吐いた。
全身に巻き付いた、このムカデのようなものに、あと僅かでも力が籠ったら自分は死ぬ。
もはや誰も助けてはくれない。ゼノス・ブレギアスは死に、ガイエル・ケスナーとは決別したのだ。
血を吐きながら、ティアンナは苦笑した。
(姫君が……守られる役割を、放棄する。それは、すなわち……こういう事……)
足音が、聞こえた。
こんな時、常に助けに来てくれたゼノスやガイエルと比べて、いくらか弱々しい足取りである。よろめいている、ようであった。
続いて、炎が見えた。
まるで赤色の衣が風に揺らめくかのように、その少年は炎をまとっている。炎に全身を灼かれながら、よろめき歩いている。倒れて焼死体となるのは時間の問題か。
否。
その炎は、少年の肉体を灼いてはいない。
ガイエルやゼノスと比べて、随分と頼りない細身の裸体ではある。
頼りなく見える細い筋肉は、しかし精一杯、鍛え抜かれて無駄なく引き締まったものである事を、ティアンナは見抜いた。
そんな細い少年の裸身が、衣のような炎を発しながらも火傷ひとつ負う事なく、どこからか歩いて来てこの場に現れたのだ。
たおやかな顔立ちは、女装でもさせれば自分より美しくなってしまうのではないか、とティアンナは思った。
そんな少年の美貌が、両眼を赤く猛々しく輝かせている。
まるでガイエル・ケスナーの眼光だった。
「…………リム様…………」
シェファが、あり得ない事を呟いている。
「ねえ……リム様……なの?」
「リムレオン……!」
あり得ない言葉を、ティアンナも思わず口にしていた。
「……貴方なの? リムレオン……貴方が何故、そのような……」
「リムレオン……それは……誰だ……?」
炎まとうリムレオン・エルベットが、言葉を発した。
少年の、端正な唇から発せられる言葉。だがそれは、ここではない、とてつもなく深く暗いどこかから響いて来ているようでもあった。
「……君たちは……誰だ……?」
「リムレオン、貴方は……!」
ティアンナは血を吐いた。
「貴方が、何故そのような……ガイエル様のような目を、しているの……貴方は、リムレオンなのよ……」
「僕が……誰であるのか……そんな事は、どうでもいい。僕は……」
右手を掲げながら、リムレオンは見上げた。禍々しく羽ばたく天使たちが、空を埋め尽くす様を。
「僕は……守らなければ、ならない……何から、誰を……?」
少年の全身で荒れ狂う炎が、掲げられた右手に集まって行く。
巨大な炎の塊を、リムレオンは握り込んだ。炎の拳だった。
天使たちが、一斉に歌う。
聞き取れぬ歌詞が、光となって地上に降り注ぐ。
同時にリムレオンが、
「今は……この敵から、君たちを……!」
燃え盛る右拳を、思いきり振り下ろしていた。
美しく引き締まった裸身が、勢い激しく屈み込んで地面を殴打する。声と共に、炎の拳で。
「悪竜……転……身……」
炎が、地面を粉砕し、大量の土を舞い上げながら全方向に広がった。
うずくまって抱き合うシェファとセレナを防護する形に、炎の荒波が高々と噴出して空を灼く。天使たちの降らせた光が、ことごとく灼き砕かれて消滅する。
ティアンナは、地面に投げ出された。
全身を縛っていた甲殻の触手が、焦げて砕けて灰と化している。
リムレオンの炎は、彼自身が守る対象と認識した相手には火傷ひとつ負わせる事なく荒れ狂い燃え盛り、彼が敵と認識したものを焼却してゆく。
「リムレオン……」
立ち上がれず上体を起こしながら、ティアンナは弱々しく呼びかけた。
応えずリムレオンは、地面を殴る姿勢のまま白骨化している。
荒れ狂う炎が、彼の肉体を焼き尽くしていた。肉も臓物も灰に変わり、骨格の周囲で熱風に舞う。
その美貌は無機質な頭蓋骨となり、眼窩の中で真紅の光を爛々と燃やしていた。
猛々しく燃え狂っていた炎が、やがて骨格を包み込んで渦を巻く。
炎が、新たな筋肉に、内臓組織に、変わってゆく。
人間ではないものとして、リムレオンは今、再生を遂げつつあった。
「リムレオン……貴方は……貴方までもが……」
自分の声など、もはや届きはしない。それをティアンナは、理解してはいた。
「貴方までもが……そちらへ、行ってしまうの……? リムレオン……」




