第172話 女王の戦い
国王ディン・ザナード4世崩御、そして女王エル・ザナード1世の再即位。
その正式な布告が発せられたのは、数日前の事である。
布告に曰く、国王ディン・ザナード4世は、ダルーハ軍残存勢力の放った刺客の凶刃に斃れた。
先頃まで真ヴァスケリアと名乗っていた独立勢力によって殲滅された、はずのダルーハ軍残党が、実は生き残っていて王都エンドゥール地下に巣食っており、王国の転覆を企てていたのだという。
「そのような話を、信じる者がいると……女王陛下は、よもやお思いですか」
自分の姪である女王に向かって跪いたまま、カルゴ・エルベットは声を絞り出した。
「どうか、お答え下さいますよう……国王陛下、いえ前国王陛下は一体いかなる御最期を遂げられたのですか」
「伯父上とお話しするのも、随分と久し振りの事……お元気そうで何よりです」
城壁の上からエンドゥールの街並みを見下ろし見渡しながら、女王エル・ザナード1世……ティアンナ・エルベットは淀みなく言った。
「お聞きになりまして? リムレオンが、メルクトへ帰らずに行方をくらませてしまったとか」
「存じません。サン・ローデル領主の地位を放棄した時点で、あの者はもはや我が息子ではありませぬゆえ」
「そのような……冷たい事を、どうかおっしゃらないで伯父上」
ティアンナが、こちらを向いた。
しなやかな細身を申し訳程度に防護する、下着のような甲冑。その上から、豪奢なマントを羽織っている。艶やかな金髪を凛とした感じに飾り立てているのは、半ば髪飾りに近い小型の王冠だ。
王の装い。それが、傲然と似合っている。似合い過ぎている。
すでにこの世にいない妹に、カルゴは語りかけていた。
(マグリアよ、お前の娘は……今や、完璧な女王だ。前王陛下は私を必要として下さったが、この女王には私の補佐など必要ない……)
「リムレオンを、バルムガルド王国まで連れ出して色々と便利に引き回してしまったのは私」
ティアンナは言った。
「伯父上には、何とお詫び申し上げれば良いものか……てっきり、メルクトへ帰っているものとばかり」
「あやつに関して女王陛下に申し上げる事など何一つありませぬ……いえ、1つだけ。リムレオン・エルベットは、メルクトに、己が故郷に、逃げ帰って来る男ではございません。あやつにとって故郷は、逃げ帰る場所ではないのです」
「逃げる事は、恥ずべき事……と、伯父上はお考えですか?」
「愚かな考えです。何があっても逃げてはならぬ、などと……我が父レミオル・エルベットが、そのような旧態依然たる思想の持ち主でありました。祖父・孫としての面識など全くないはずのリムレオンが、しかしレミオルのそのような部分を私よりも多大に受け継いでしまったのです」
息子リムレオン・エルベットが、バルムガルドで一体何をしていたのか、カルゴは無論知らない。
とにかく結果、リムレオンにとっては、意気揚々と故郷へ帰って来るわけにはゆかぬ何事かが起こった。それが何であるのか、カルゴとしては知らぬまでも想像はつく。
(愚か者が……どれほど心折れ、嘆き悔やんだところでな、ブレン兵長が生き返る事などないのだぞ……)
その言葉を直接、あの息子にかけてやったところで意味はない。リムレオンとて、それは言われるまでもない事であろう。
両親として、リムレオンのためにしてやれる事など、自分にも妻ヴァレリアにも、ありはしないのだ。
「……そのような事よりも、女王陛下!」
「前王ディン・ザナード4世に関して、私の口から語るべき事など何一つありません」
ティアンナは言った。
「ですから伯父上、どうかお訊きにならないで……」
「女王陛下……私は……」
口を噤むべきだ、とカルゴは頭では理解していた。
「私は、前王陛下……モートン・カルナヴァート様に、賭けておりました。この国を、より良き方向へ……王侯貴族としては、あまりにも青臭い思いを、あの御方に託していたのです」
「兄上が聞けば、喜ぶでしょうね」
ティアンナが微笑んだ。
母であり、カルゴの妹であるマグリアの面影を残した、優しい笑顔。
その優しさの下に、この姪はしかし今、カルゴにとっては正視し難い何かを隠している。
「繰り言になりますが、私はあの御方に賭けていた……賭けに敗れた以上、何もかもを失うしかありませぬ。この命を含めて」
「伯父上? 何を……」
「そなたを信じる事は出来ぬと言っておるのだ、ティアンナ・エルベット」
カルゴは言い放った。
「国王陛下を弑し奉ったように、私の首を刎ねるが良い。マグリアの娘が、暴君への道を歩む……その様を、生きて見続けようとは思わぬ! 一足先にマグリアに詫びておかねばならぬゆえ、さあ早く私を殺すが良かろう」
「伯父上……」
困ったような微笑を浮かべたまま、ティアンナがこちらへ歩み寄ろうとしている。
豪奢なマントの下で、何かがキラリと陽光を反射した。
たおやかな指に巻き付いた、竜の指輪。
リムレオンやブレン・バイアスが持っていた力と同じものを、この女王も保有している。
ブレン亡き今、エル・ザナード1世を止める事が出来る者など1人もいないという事だ。
彼女が今、伯父である自分の首を本当に刎ねようとしているのだとしても、止める手立てはない。
だが、ティアンナは止まっていた。
困ったような微笑が、微かに硬直し引きつっている、ようである。
カルゴの傍に、いつの間にか1人の少女が佇んでいた。
瑞々しい太股が、いささか際どい高さまで露わになった、短い衣装を着用している。そして、片手には魔石の杖。
どうやら攻撃魔法兵士であるらしい、その少女が、カルゴを背後に庇って女王と対峙した。
「敵わないでしょうけど、あたし女王様に楯突いて叛乱、起こすわよ……カルゴ様に手ぇ出そうってんなら、ね」
シェファ・ランティだった。
魔石の杖を握る右手、その中指で、竜の指輪が輝いている。
「やめよ、シェファ・ランティ」
カルゴは命じた。
「お前までもが、死ぬ事はない……」
「伯父上。どうか、そのような恐ろしい事おっしゃらないで下さいな」
ティアンナの笑顔は、変わらない。
「シェファも。ふふっ、恐い顔をしているわね……今更言う事ではないけれど貴女、私が嫌いでしょう?」
「今のところ、この世で一番……ね」
「そんなシェファと私、お友達になりたいのよ。共に戦う仲間だとは、すでに思っているけれど」
ティアンナが、ゆらりとシェファの傍を通り過ぎる。
「お互い、憎み合って反目していても……仲間になれる、お友達になれるわ。ガイエル様とゼノス王子のように、ね」
「あの2人が、嫌い合って反目していた……なんて、まさか本気で思ってるわけじゃないんでしょ?」
カルゴの近くで2人の少女が、謎めいた会話をしている。
「ガイエルさんから、うっかり大切なものを奪っちゃった。だから、もう後には引けない……そんなふうに思ってるのよね。そういうヤケクソさは嫌いじゃないから、付き合ってあげる」
「……伯父上、いえカルゴ・エルベット侯爵」
シェファの言葉には応えず、ティアンナは言った。
「不在のリムレオン・エルベットに代わって、貴方にメルクト及びサン・ローデルの領主を兼任していただく事にします。が、その前に……サン・ローデルで、私の思惑を果たさせていただきますね」
「ご随意に……私ごときに、断りを入れる必要など」
「そうは参りません。かの地を実質的に掌握しておられるのは、私ども王族ではなくエルベット家の方々ですものね」
振り向かず、歩みを止めずに、ティアンナは言った。
「サン・ローデル地方、ゼピト村に……ガイエル・ケスナーと戦うための力が、存在している。ラウデン・ゼビル侯爵の遺言です。私はそれを己の目で確かめなければいけません。いくらか荒々しい事になるかも知れません、どうかお見逃し下さい……と、伯父上には先に申し上げておきましょう」
法衣があられもなく割れて開き、むっちりと強靭な太股が現れる。
鍛え込まれた左右の美脚が、猪の太い頸部に巻き付いていた。まるで白い大蛇のように。
内股の間でゴキ……ッと粉砕の感触が生じた。
股間にしゃぶりついて来たオークの首を、こんなふうにへし折った事もある。
思い出しながらメイフェム・グリムは、脛骨の折れた猪の屍を解放し、立ち上がった。
「ば……バケモノ……」
呆然と見つめていた村人の1人が、正直な言葉を漏らしている。
「畑、荒らし回ってた奴を仕留めてくれたのは感謝するよ……だけど、あんたやっぱりバケモノだ!」
「何を今更。それより早く血を抜かないと、お肉の味が落ちるわよ?」
メイフェムは微笑みかけた。
村の男たちが数名、おずおずと進み出て来て猪を棒に縛り付け、担ぎ上げ、運んで行く。
見送りつつメイフェムは、法衣の汚れを払い落とした。
こうして尼僧の装いをするのも、随分と久し振りではある。
サン・ローデル地方、ゼピト村の農地。開拓され畑になった場所と、未耕の荒地とが、混ざり合っている。
そこでメイフェムは、産後の体調を確かめていた。
身体は問題なく動く。この村に何が攻めて来ても、戦う事が出来る。
以前、ゴルジ・バルカウスの一党に属する者として、この地では大いに悪逆無道を働いた。
その罪滅ぼしをしよう、などとは無論メイフェムは毛の先ほども考えてはいない。
「村の人たちの、ためになる事を……しているんでしょうね、貴女は」
同じく唯一神教の法衣をまとう1人の少女が、歩み寄って来て声をかける。
「けれど誰も……少なくとも、あたしは貴女を許しはしませんよ」
「ふふっ。私はね、誰かに許して欲しいなんて思った事は1度もないの」
応えつつメイフェムは、少女の細い両腕と豊かな胸に抱かれて楽しげにしている小さな生き物を、じっと見据えた。
「私はただ戦うだけ。戦えない魔獣人間に、存在する価値はないから……それよりエミリィさん、ありがとうね。ケリスの面倒を見てくれて」
ケリス。己の胎内から現れ出でた生き物を、メイフェムはそう名付けた。
羽毛の翼が3枚、皮膜の翼が3枚。計6枚の翼を産着の如くまとう赤ん坊が、エミリィ・レアの柔らかな抱擁の中からメイフェムを見上げてくる。
ふっくらと丸みを帯びた、仔犬か仔豚を思わせる顔。くりくりと輝く黒い瞳。
凶猛な怪物である両親の面影が、今のところは全く見られない。
「この子、大人しいですよね」
怪物の赤ん坊を抱いたまま、エミリィは言う。
「それに全然、泣きません。いつも、こんなふうにニコニコして……とっても強い赤ちゃんだと思います」
「……父親がね、化け物だから」
思い起こしてみる。
赤き竜との最終決戦の前夜、ケリス・ウェブナーは1度だけ、メイフェムを抱いてくれた。
あっという間だった。子供も、出来なかった。
一方デーモンロードは、じっくり一晩かけてメイフェムを凌辱し尽くした。結果このような、人間でも魔族でも魔獣人間でもない赤児が生まれてしまった。
牡としての強さにおいて、やはり雲泥の差があったという事だろう。
「ふふっ、よしよし……やっぱり、お母さんの抱っこの方がいいわよね」
身体を揺らしながらエミリィが、そんな事を言っている。
赤ん坊を抱く少女。
メイフェムは、奇妙なものを感じた。懐かしさか、あるいは既視感か。
「おチビちゃん……」
「それ、あたしの事ですか? わけのわかんない事言ってないで、ほら自分で抱っこして下さい。母親なんですから」
エミリィが、ケリスの小さな身体を押し付けて来る。
とりあえず、メイフェムは受け取った。抱き上げてみた。
だあ、だぁ……と、ケリスが嬉しげな声を発する。マチュアに抱かれていたフェルディ王子のように。
「その子は確かに、人間じゃないのかも知れません。だけど1つの命が貴女の中から出て来た事に違いはないんです」
ローエン派の尼僧らしい事を、エミリィは言っている。
「命の重さを感じる事は、貴女のような人でも出来ると思います」
「命……」
数多くの命を、自分は今まで奪ってきた。
そんな事よりも、しかしメイフェムには1つ、気になる事があった。
「ねえエミリィさん……村はずれの森の中で、おかしな炎が燃えているわよね? 命と言えば私、あれに何だかとてつもない命のようなものを感じてしまうのだけど」
「あれは……」
エミリィが口ごもった。メイフェムは、さらに言った。
「あれが一体、何なのか……私は大いに知りたいけれど、まあ説明しにくいのならいいわ。いずれわかる、という気もするし」
ケリスが、6枚の翼をもぞもぞと動かしている。
抱き、揺らしながら、メイフェムは笑いかけた。
「ふん……お前、もしかして空を飛んでみたいの? ちょっと放り投げてみましょうか」
「やめて下さい!」
怒るエミリィに、メイフェムはケリスを押し付けた。
「悪いわね……もうしばらくの間、預かっていてもらえる? ちょっと面倒な事になりそうだから」
不穏そのものの気配を、メイフェムは先程から感じてはいた。
殺意を隠そうともしない何者かが、歩み寄って来る。
エミリィと同じ年頃の、2人の少女。
まるで姫君と侍女である。2人とも美少女ではあるが、単純な美醜ではない、格式の違いのようなものが確かに存在している。
格の低い方の少女に、メイフェムはぎろりと眼光を向けた。
「シェファ・ランティ……貴女また、リムレオン・エルベットと別行動を」
「メイフェム・グリム……あんた一体、何やってんのよ……」
メイフェム以上に、シェファは憤っていた。
「あんたみたいな、頭のおかしいバケモノ女が……何、子供なんか生んじゃってるわけ? あんたのお腹から出て来た赤ちゃんなんて……生かしておけるわけ、ないじゃない……」
「シェファさん……何を、言ってるんですか」
ケリスを抱いたまま言葉を挟もうとするエミリィに、シェファは微笑みかけた。ひび割れそうに引きつった、今にも砕け散ってしまいそうな笑顔。
「久しぶり、エミリィさん……駄目よ、バケモノの赤ちゃんなんて抱っこしてたら。そんなもの捨てて、ちょっとここから離れててくれない? 説明は後でするから」
「必要ないわ、シェファ」
格上の少女が言った。
しなやかな細身に、下着のような鎧をまとった少女。
「説明も、言い訳も、必要ない……私はただ、小さな命を奪うだけよ。路傍の花を踏み潰すように」
「エル・ザナード1世女王……」
法衣の下で、全身の筋肉がメキッ……と痙攣するのを、メイフェムは止められなかった。
「そう……あの時の続きを、しようってわけね」
「あの時とは違います。貴女を守る者は、1人もいません」
「いいわ、ゼノス王子の仇! 討ってあげるッ!」
メイフェムの全身で法衣がちぎれ、翼が広がった。皮膜と羽毛、左右で形の異なる翼。
女の曲線を辛うじて保ったまま、力強く禍々しく筋肉を隆起させた、女魔獣人間の異形。
自分の母親の正体を目の当たりにしながらもケリスは、エミリィの腕の中で、きゃっ、きゃっ……と楽しそうに笑いはしゃいでいる。
「貴女たち母子は……ラウデン侯の遺言とは、恐らく無関係なのでしょう。ですが、こうして出会ってしまった以上」
女王エル・ザナード1世……ティアンナ・エルベットのたおやかな右手で、竜の指輪が赤く輝く。まるで、燃え盛るように。
「私は、ガイエル・ケスナー以上に残虐な事を……淡々と、片付けるだけの事……武装、転身」