第170話 プリンス・オブ・ダークネス
歩いている。つまり、地面があるという事だ。
アレン・ネッドに理解出来るのは今のところ、それだけである。
ひたすら、歩き続けていた。ローエン派の同志たちと昔、あてもなく旅をしていた、あの頃のように。
頼れる先輩であったレイニー・ウェイル。曲がった事の大嫌いなマディック・ラザン、いくらか夢見がちなクオル・デーヴィ。
いつしか、そこに天使のようなエミリィ・レアが加わり、5人でヴァスケリア各地を旅して回ったものだ。
今は、誰もいない。
荒涼とした大地をアレン1人、とぼとぼと歩いている。
見回しても、誰もいない。何もない。建物もなく、木の1本も見当たらない。
草すら生えていない乾いた地面と、昼か夜かも判然としない空が見えるだけだ。
地平線に向かって歩きながら、アレンは全裸であった。貧相な肉体を隠すものが何もない。
衣服も、荷物もない。当然、食料や路銀などあるわけがない。
それを心配する必要はない、とアレンは何となく理解していた。
いくら歩いても、今の自分は疲れない。腹も空かない。宿も食事も必要ない。
(私が……死んでいるから、かな……?)
だとしたら自分は何故、どのように死んだのか。
アレンは、何も思い出せなかった。
自分が今、歩いてどこへ行こうとしているのかも、わからない。
ぼんやりと、アレンは空を見上げた。
太陽がない。月も、星もない。
雲ひとつ見当たらない、青空……なのであろうか。夜空にも見える。
光源が存在しない、にもかかわらず周囲を視認する事は出来る。ほの明るいのか、薄暗いのか。
いつの間にか、アレンは立ち止まっていた。じっと空を見上げたまま。
太陽も雲も、月も星もない空。虚空、と言って良いだろう。何も存在しない虚空。
否、本当にそうなのか。
あまりにも巨大なものは、目に見えない。視覚で、その姿を完全に捉える事は出来ない。レイニー・ウェイルが以前、そんな事を言っていた。
例えば、我々の足元に広がる大地。我々の周囲に満ちた空気。これらが、ひと固まりとなって途方もなく巨大な球形を成している。それが世界の有り様なのだ、と声高に唱えて教会を破門された聖職者がかつていたらしい。彼曰く、我々はその巨大な球の表面を蟻の如く這い回る存在なのだそうだ。
半ば笑い話として、レイニーはそう語っていたものだ。
その巨大な球に匹敵し得るものが、この空には浮かんでいるのではないか。
いや、と言うよりも。自分が今、見上げて空と認識しているものは、その巨大球の表面の一部でしかないのではないか。
そんな事を思いながらアレンは、その場に跪いていた。
太陽も雲もない虚空を成す、とてつもなく巨大なものに、重圧をかけられたかの如く。
重圧、威圧感、なのだろうか。少し違う、ような気もするが、とにかく自分は拝跪せねばならない。アレンはただ、そう感じただけだ。
懐かしい、とも感じた。
跪かなければならないほどの、この途方もなく巨大な何かを、自分は昔から知っているようにも思える。常日頃、親しんでいるようにも。
考える事もなく、アレンは理解していた。
「唯一神よ……」
ごく自然に、その言葉が出た。
「私は……下僕アレン・ネッドは今、貴方様の御もとへ召されたのですか?」
唯一神は、何も応えない。
人間の問いかけに神が直接、応えてくれる事はないのだ。
いつの間にか、アレンは目覚めていた。
簡素な寝台の上で毛布をかぶり、横たわっている。自分のそんな有り様に、アレンはしばらく気付かなかった。
民家の屋内、であるらしい。
宿無しの貧乏司祭であるアレンを、恐らくは何日も泊めてくれた人がいる、という事だ。
その恩人が、寝台の傍で椅子に座っている。そして息を呑み、声をかけてくる。
「アレン……目を、覚ましたのね? わかる? あたしが誰なのか……」
「……エミリィ……」
声を発するのも一苦労だった。起き上がる、となれば尚更だ。
長らく動かしていなかった身体を、エミリィが助け起こしてくれた。
細腕のたおやかな感触と、胸の柔らかな感触に包まれ、アレンは口もきけなくなった。自分はやはり死んで天国にいるのではないか、と一瞬思った。
「アレン……良かった……」
エミリィが、アレンにしがみつくように泣き崩れる。
抱き止める、べきなのだろうがアレンの腕は動かない。
ようやく眠りから覚めたはずの身体が、麻痺している。硬直している。
声を出すのが精一杯であった。
「何が……あったのか、私は思い出せないんだけど……」
「貴方が……あたしを、守ってくれた……ただ、それだけよ……」
エミリィの声が、嗚咽で震える。
「ありがとう……だけど、もう2度と……あんな無茶はしないで」
「無茶を……したのか、私は……」
何も、思い出せない。
何やら危険な出来事があって、エミリィが助かったのだとしたら、彼女を守ったのは少なくともアレンではないだろう。
「エミリィ……君が助かったのは、唯一神の思し召しだよ。私は何も」
「ねえアレン。あたしね、唯一神を信じられなくなり始めていたの」
涙を拭いながら、エミリィは言った。
「だけど、貴方は助かった……だから、もう少し信じても……いいのかな?」
話しているうちに、アレンは朧げながら思い出し始めたようである。
「そうか……私を、またしても助けてくれたのはガイエル・ケスナー……」
エミリィと2人、村の中を歩きながら、アレンは微かに笑った。
「そして、私を癒してくれたのはエミリィ、君だよ……何だ。私は全然、君を守ってなどいないじゃないか」
「……貴方が何と言おうと、アレンはあたしを守ってくれた。あたしにとっては、それが全て」
エミリィは俯いた。アレンの顔を、まともに見る事が出来ない。
あの時、自分は癒しの力を使いながら、アレン・ネッドとリムレオン・エルベットを天秤にかけていたのだ。
(そうよ。唯一神を信じられない、なんて言う資格……あたしに、あるわけないんだわ。アレンもリムレオン様も問題なく助けられる力が、あたしになかっただけ……あたしが、未熟なだけ)
エミリィは、己にそう言い聞かせなければならなかった。
「それでエミリィ……ガイエル・ケスナーは一体どこに?」
「北へ行く、と言っていたわ」
北……かつてダルーハ軍、及びその残党によって蹂躙され尽くした、あの地へ。
そこで何をするつもりなのか、ガイエル自身は口にしなかったが、言われるまでもない事ではあった。
「何が起こったのか、はっきりとはわからないけど……北は、落ち着いたみたい」
国王ディン・ザナード4世率いる親征軍が、凱旋の体で北から帰って来たのだ。真ヴァスケリアを名乗る独立叛乱勢力の討伐成功を、声高に喧伝しながら。
その喧伝によると、叛乱首魁たる聖女アマリア・カストゥールは死んだらしい。
信徒を救うため自ら命を投げ出したとも、実は逃げ延びて再起を図っているのだとも言われている。
何にしても、かの地における唯一神教ローエン派の勢力が、壊滅に等しい状態に陥ったのは間違いない。恐らくは親征軍ではなく、ガイエル・ケスナーの力によって。
かの地は、ヴァスケリア王政の下に帰属した。
そのはずであったが、しかし新たな領主が決定したという話は聞こえて来ない。
それどころではない、真偽定かならぬ不穏な情報が囁かれている。
国王ディン・ザナード4世が、病に倒れた。あるいは、刺客の刃にかかった。
その刺客を放ったのは、聖女アマリアを狂信する北ローエン派の残存勢力であるとも、未だ生死不明の前女王エル・ザナード1世を擁立せんとする一派であるとも、バルムガルド王国であるとも言われている。
情報は錯綜しているが、ともかく国王の身に何かが起こったのは間違いない。
アレンが、意識を失っている間の出来事である。
今、意識を取り戻した彼にとって、しかし重要なのは国王の安否ではないようだった。
「うん、思い出したよエミリィ……私を助けてくれたのは君であり、ガイエル・ケスナーであり、そしてリムレオン・エルベットでもある。彼は、私が支えなければならなかったと言うのにな」
アレン曰く、生死不明となった前ヴァスケリア女王エル・ザナード1世は健在で、どういうわけかバルムガルド王国内でリムレオンと行動を共にしていたらしい。
そして魔族との戦いでブレン兵長が死に、リムレオンの心が折れた。
生きる気力すら失いかけたリムレオンを、エル・ザナード1世はアレンに託した。
アレンに連れられ、ここサン・ローデルへと帰還したリムレオンが、魔獣人間との戦いで瀕死の重傷を負った。
そしてガイエル・ケスナーの手により今、蘇りつつある……のか、どうか定かではない。
村はずれの森の中で、あの炎はまだ燃え続けている。
「リムレオン殿は……今、どこに?」
アレンの問いに、エミリィは答えられない。
「エミリィ……まさか、彼は……」
自分を守って命を落としたのではないか、とアレンは思っているのだろう。
あの火柱を、彼に見せるべきなのか。迷いながら、エミリィは足を止めた。
ゼピトの村人たちが、何やら不安そうに集まっている。村の広場に、差し掛かった所でだ。
全員、思い思いの農具を手にしていた。畑仕事のため、ではなく戦うために。
エミリィは、とりあえず声をかけた。
「皆さん、どうしたんですか?」
「おおエミリィ……そちらの司祭様、目を覚まされたようですな」
「本当に、お世話になりました。ありがとうございます」
アレンはまず、頭を下げた。
「何か、お困りでしたら……御恩返しの、真似事をさせていただきたいと思うのですが」
「い、いや困っているわけじゃあない。と言うか、まあ困ったと言えば困ったかな」
村人の1人が、そんな事を言いながら、広場の片隅にちらちらと視線を向けている。
彼らが何を困っているのか、すぐに明らかになった。
広場の片隅では、1人の女性が木陰に佇んでいる。そして、赤ん坊を抱いている。
アレンが、いくらか慌てて目をそらせた。
その女性が、赤ん坊に乳を飲ませているからだ。
「あの女を……どうしたものか、と思ってな」
農具を手にした男たちが、困惑している。
「とりあえず、赤ん坊が産まれるまで面倒は見た。これからだよ、問題なのは」
「産後の経過は悪くない。あんなふうに外を出歩いてるんだからな。あの女、元気を取り戻してるって事だ」
元気を取り戻した彼女が、何かしら暴力的な事を始めたら。
それに農具で抵抗しようというのは、いささか無謀が過ぎると言わざるを得ない。
村人たちが彼女を殺害する、その機会と呼べるものがあったとしたら、出産時をおいて他にはない。
しかし、そんな事が出来る村人たちではなかった。
「あの人は……?」
アレンの問いに、エミリィは答えた。
「身重で、行き倒れになっていたの。貴方が目覚める少し前に、子供は産まれたんだけど」
「それなら……」
祝うべき事ではないのか、などとアレンは言いかけ、村人らの様子を見て口をつぐんだようである。
彼は知らない。あの女性が、かつてこのサン・ローデル地方で何をしたか。ゴルジ・バルカウスの一党に与して、いかなる無法を働いていたのかを。
農具を携えたまま村人たちは困惑しているが、その困惑の底には間違いなく、憎悪に近いものがある。
赤ん坊が、満足したのだろう。木陰の女性が、着崩していた胸元を直した。
それを見計らったかのように、アレンが歩み寄って行く。エミリィが止める暇もなかった。
「初めまして、私はアレン・ネッドという者です。こちらの村で厄介になっている身……恐らくは、貴女と同じでしょうか」
「……司祭様ね、貴方」
赤ん坊を抱いたまま、彼女はちらりとアレンを観察したようだ。
「それも、癒しの力を使える本物の……今時珍しいと思っていたけど結構、いるものねえ」
「……唯一神の御力を、貴女からも感じます。私の使う癒しの力など、貴女の足元にも及びませんよ」
アレンの口調が、いくらか改まった。
「ローエン派、アレン・ネッドと申します」
「メイフェム・グリム……貴方たちの忌み嫌う、アゼル派よ」
名乗りながら、彼女は微笑んだ。
「唯一神の御名のもとに、私を殺してみる? 村の連中は、そうしたがっているようだけど」
「その子が産まれるまで、貴女をこの村に居させてくれた方々が、そんな事をするはずがないでしょう」
「そう……なのかしら、ね」
人間ではない母親の胸に抱かれた赤ん坊が、だあ、だぁ……と声を発している。
男か、女か、そもそも人間と呼べる存在なのか。
何しろ母親は魔獣人間である。父親は、わからない。
「何にしても私……この村のために、何かするべきでしょうね」
「そんな事、誰も期待していません」
エミリィは歩み寄り、言い放った。
「貴女はとにかく、赤ちゃんの事だけを考えていて下さい。この村のためになんて、考える資格すらないんです貴女には」
「お、おいエミリィ……」
アレンはうろたえ、メイフェムは笑っている。
「ねえエミリィさん。貴女、言っていたわね? 人の命がどういうものか、私みたいな女でも赤ん坊を産めばわかるって」
言いつつ彼女は、腕に抱いた我が子を少しだけ、見せびらかした。
「だけど残念、わからないわ私。だってほら見ての通り……産まれたのは、人じゃないから」
産衣に包まった赤ん坊……否、それは産衣ではなかった。
母親似、なのであろうか。見目美しく育つであろうと予想させてくれる、愛らしい新生児。
その白く小さく柔らかな身体を包んでいるのは、布の産衣ではなく翼である。
聖典に記された大天使のような、左右計6枚の翼。羽毛の翼と皮膜の翼が、各3枚。
よく見ると頭にも、木の芽のような突起物がある。髪の毛が生え揃うと同時に、それは角となって伸びてゆくだろう。
もしかしたら尻尾も生えているかも知れない、とエミリィは思った。
「男の子よ」
メイフェムは言った。
「少なくとも顔は、まあ父親似じゃなくて良かったわ。だけど、この先……父親にも母親にも負けない、とんでもない怪物に育っていくでしょうね。こんなもの産ませちゃって良かったの? ねえエミリィさん」
「…………名前を……」
息を呑み、呼吸を整えてから、エミリィは言った。
「……付けて、あげたんですか……?」
「名前……そうねえ、どうしようかしら」
一瞬、メイフェムは天を仰いだ。
そして、呟いた。
「…………ケリス……」
その呟きが、やがて笑いに変わっていった。
「ふ……ふふふ……ねえ、貴方を裏切って出来た子供に……貴方の名前を付ける私ってどう……? ふふっ、あっはははははは……」
「……唯一神よ、新たなる命に聖なる護り……とこしえに、もたらされん事を」
アレンが、祈りを捧げている。
「私は知った。唯一神とは、我々の心の中にのみ在るもの……ではない。私たちが常日頃、唯一神と呼んでいる力は確かに存在する。そう、あれは力だ。虚空に浮かぶ、巨大な力の塊……善悪の意思はない、差別の意思もない。全ての命に、等しく加護をもたらす存在でなければならない。それは、私たち次第なんだ」




