第169話 ガイエルとモートン
結局やる事に違いはない、というわけだ。ヴァスケリア王家も、ダルーハ・ケスナーも。
民衆に暴力を振るう。権力を持つ者は、それ以外の事を何一つやろうとしない。
「出て行け……と、おっしゃるのですか……」
困惑しつつもブラムト・マクドは、農具を振るう手を止めなければならなかった。
8歳になる息子リゼルは雑草をむしり、7歳の娘セシールは石を拾ってくれている。
親子3人、ようやく平穏に農作業など出来るようになった。
そう思っていたところへ兵士の一団がやって来て、このような事を言う。
「この地はヴァスケリア国王ディン・ザナード4世陛下の御直轄領と相成った。いずれ王国正規の民が配置される事となろう」
「お前たちは正規の民ではない、という事だ」
「真ヴァスケリアとか言ってよォ、税金も払わねえで好き勝手してやがったクソゴミどもにはぁ、この国に住む資格がねえって事だオラとっとと出てけやぁあああ!」
兵士の1人が、槍の長柄を叩き付けてくる。
ブラムトの額が、ざっくりと裂けた。
血飛沫を撒いてよろめくブラムトの腹に、別の兵士が蹴りを入れてくる。
「てめえらローエン派のクソどもがよおぉ、まっとうな国民の皆様にどんだけ迷惑かけやがったか、わかってんのか? おう、おう! おう!」
身を折り、畑の中に倒れ込んだブラムトを、兵士たちがなおもガスガスと蹴り転がす。
「アマリア・カストゥールが死んだからとて貴様ら、何食わぬ顔でヴァスケリア国民に戻る事が出来るとでも?」
「わかってんのかコラ。てめらはなぁ、反乱を起こしやがったんだぞダルーハみたく! 逆賊ってわけだ、わかるかオイ、わかってんのかぁああああああッ!」
「逆賊の土地と家財は我ら王国正規軍が押収する。命を取らぬだけ、ありがたいと思え!」
「つーか殺しちゃって良くね? こんなゴミ」
「ゴミの分際でよォ、反乱だの独立だの! てめえの生まれた国に文句あんなら最初っから生まれて来ンじゃねーってんだよクソ底辺が!」
口元を、長柄で殴打された。ブラムトの唇が切れ、歯が折れた。
リゼルが、セシールが、駆け寄って来る。
「おい、父ちゃんに何するんだ!」
「やめてよ、やめてええええええ!」
叫ぶセシールの身体を、兵士の1人が捕えて抱え上げる。
「底辺逆賊の分際でよぉ、ガキ作ってんじゃねえよ。俺らがもらっとくからよォー」
「可愛い嬢ちゃんじゃねえの。売るか? それとも、いただいちまう?」
「い、いただくに決まってんだろーがよぉおおお」
じたばた暴れるセシールを捕え運んで行こうとする兵士の足に、リゼルが噛みついた。
「痛ッ……てめ、オスガキにゃあ用はねえんだよ!」
逆上した兵士が、リゼルを蹴り飛ばす。
蹴飛ばされたリゼルを、また別の兵士が抱き捕えた。
「傷物にするんじゃねえよ。こっちの坊やもよ、そこそこの値段で売れるぜ?」
「税金も払えねえ底辺がよぉ、家族持つなんざあ許されるワケねーだろゴミが!」
「売れるものは売ってよぉ、迷惑こうむった国民の皆様にお詫びしてもらわねえとよおお」
「やめろ……」
血まみれの口で、ブラムトはどうにか言葉を発した。
「頼む、やめてくれ……子供たちだけは……」
「だから! 家族愛みてえなもん見せつけようとしてんじゃねえよ逆賊が! 宗教にしがみつくしかねえクソ底辺が!」
蹴りが、長柄が、暴力的に降り注いで来る。
(これなら……)
声にならぬ言葉をブラムトは、血まみれの口内に籠らせた。
(やはり……聖なる戦士にでも、なっていれば……良かった……)
悲鳴が、聞こえた。
リゼルやセシールの悲鳴、ではない。
セシールを抱き捕えていた兵士が、何やら捻じ曲がりながら喚いている。
解放されたセシールが、尻餅をつきながら呆然と見上げている。
自分を助けてくれた、1人の若者の姿を。
豪奢な肩当てで留められたマント。その中から力強い左手が現れ、兵士の腕を掴み捻り上げている。
その捻れが腕から肩へ、肩から胴体へと伝わり、兵士の全身そのものが螺旋状に歪んでいるのだ。
「いいなあ……お前たちは、実にいい」
豪奢なマントを羽織った若者が、ぐっ……と、さらなる捻れを加えたようである。
「薄汚い事をしでかして、俺を嫌な気分にさせてくれる……」
兵士の胴体が、捻れながら裂けちぎれ、臓物を噴出させる。
「嫌な気分になったところでな、こうして……殺す。皆殺しにする」
感慨深げに息をつきながら、若者は手を離した。
捻れた屍が、さらにビュルビュルと臓物をぶちまけながら崩れ落ちる。
「これに勝る快感はあるまい?」
などと言われても、ブラムトは応えられない。
とにかく若者の赤い髪が、風もないのに揺らめいている。まるで炎のようだ。
「月に2度か3度は、これをやらんとな。どうも鬱々としてしまう」
秀麗な顔には、兵士たちに対する敵意が全く浮かんでいない。
だが兵士たちの方は、この赤毛の若者に対する敵意を漲らせていた。
「な……何だ、てめえ!」
敵意と一緒に突き込まれる何本もの槍を、若者は片っ端から素手で掴み、指の力だけでへし折っていった。
「俺の視界に入ってくれて、本当にありがとう」
言いつつ若者が、折り取った槍先の1つを投げつけた。
リゼルを捕えていた兵士が突然、首から上を失った。
少し離れた所に立つ大木の幹に、兵士の生首が飾り付けられた。貫通した槍先で、固定されている。
死体の腕を振りほどいて脱出したリゼルが、セシールに駆け寄る。
ブラムトの子供2人を庇護するかのように、若者はマントを広げ、はためかせた。
斬撃の嵐が、マントの下から暴れ出し、吹き荒れていた。
兵士たちの生首が、ことごとく宙を舞う。
赤毛の若者が、マントの下に隠し持っていた剣を振るっている……否。彼は、武器など持ってはいない。
ブラムトの動体視力では捉えられない速度で兵士たちを斬首しているのは、生身の手刀であった。
分厚い掌が、強靭な五指が、刃の形にまっすぐ伸びて人体を叩き斬る。
どこかで見た事がある、とブラムトは思った。
これと同じ光景を、自分はかつて1度、目の当たりにした。
あの時も、この若者は一切、得物を用いる事なく、ダルーハ軍の残党を皆殺しにしてくれたものだ。
人間ではないものに、変わりながら。
「あ……貴方は……」
身を寄せてきたリゼルとセシールを抱き寄せながら、ブラムトは声を震わせた。
「貴方様は……ぁ……」
妻の仇である男たちを皆殺しにしてくれた、あの時とは違う。人の姿のまま彼は今、殺戮を行っていた。
兵士たちの、首を手刀で刎ね、顔面を拳で粉砕し、腹を貫手で抉り裂く。
生首が宙を舞い、眼球と脳漿が飛散し、臓物がちぎれ飛ぶ。
兵士たちをことごとく肉の残骸に変えながら、若者は言った。
「頼む、逃げるなよ。追うのが面倒だ」
まだ何人か生き残っている兵士の誰もが、しかし応えない。
ある者は青ざめて硬直し、ある者は泣きながら震え、ある者は小便を漏らしている。
「き……貴様……ぁ……」
1人が、どうにか声を発した。
「こんな……王国正規軍たる我々に、こんな事をして……無事に済むと思うのか……国王陛下のお怒りが、貴様を」
「モートン王子はな、話せばわかってくれる御仁だ」
その兵士の腹に、若者の太く鋭利な五指が突き刺さった。
腹筋が、脂肪と臓物が、ぐちゃぐちゃと掻き分けられてゆく。
「望まぬ王冠など頭に載せて、忙しい日々を送っておられる。貴様ら末端の兵隊が馬鹿をやらかすのを、いちいち取り締まってなどいられまい……だから、まあ手伝って差し上げるとしようか」
兵士の身体が、真後ろに折れ曲がった。
その体内で若者が、脊柱を握り折ったようである。
「モートン王子か……ふふっ、久しぶりに会ってみたいものだなあ」
「た……助けて……許して、下さいぃ……」
残った兵士たちが這いつくばり、土下座をした。
「お、俺たち命令で……上からの命令で、仕方なく……」
「なかなかいいぞ。そう、命乞いだ。そうこなくてはな」
平伏する兵士の頭を1つ、若者は素足で踏みつけた。マントの下には、どうやら何も着ていない。
「命乞いしている者をだな、こう……このように、だ」
兜が破裂し、頭蓋が割れ、潰れた脳が地面に広がってゆく。
「虫ケラの如く、踏みにじる……これに勝る快感、そうはあるまい。なあ?」
同意を求められたブラムトが何も応えられずにいる間にも、兵士たちは若者によって殺害、と言うより破壊されてゆく。人ではなく物のように。
「ひいいい! し、仕事なんだ! 女房と子供がいるんだよおおおお!」
「妻や子のために一生懸命、悪事を働く、健気な者どもがだ」
命乞いをする兵士の身体を、若者は無造作に掴んで引き裂いた。
「俺のような、ただ残虐なだけの怪物によって殺し尽くされる……ふふっ、痛快な話だと思わんか」
力強い裸足が、マントを蹴散らすように跳ね上がり、右往左往する兵士たちを薙ぎ払う。
斬撃そのものの蹴りが、大量の臓物を飛び散らせる。
泣き声が、聞こえた。
「ひどい……あんまりですわ、竜の御子様……まさしく悪鬼の所業ですわ!」
女性の、と言うより女の子の声。
黒い、優美な姿が1つ、いつの間にかそこにあって震えわななき、その黒さを涙と一緒に振りまいている。
「リムレオン様を……ひとしずくの芳醇なる生命を、あんな! あのような!」
禍々しいほどに美しい、1人の少女だった。
その白い肌と好対照をなす黒い衣服が、ひらひらと揺らめきながら、黒色そのものを周囲に拡散させている。
何枚ものコウモリの翼が、乱れ羽ばたいているようでもあった。
逃げ惑う兵士たちが、その黒い翼によって切り刻まれ、飛び散り、ぶちまけられる。
「ひとしずくで芳醇どころではない、どえらい生命が生まれるかも知れんのだぞ。めでたい話ではないか」
赤毛の若者は笑った。
兵士の最後の1人を、暗黒の翼で寸断しながら、少女は泣いている。
「リムレオン様が……あの儚く美しいリムレオン様がぁ……まるでダルーハ・ケスナーのような怪物に成ってしまわれるうぅ……」
「それ以上かも知れんぞ、ブラックローラよ。あのリムレオンという男にはな、化け物としての凄まじい伸び代があると俺は見ているのだ」
「……お友達を欲しておられるのですね、竜の御子は……対等に殴り合い殺し合いの出来る、お友達を」
ブラックローラ、と呼ばれた少女が涙を拭う。
「結果、御自身がお命を失う羽目になられても貴方様は御満足でしょうがローラたちとしてはね、そうは参りませんのよ? 竜の御子様には魔族を統べ、導いていただかなければ。ですから、お命どうか大切になさって下さいませね」
「俺の命など気にせず、貴様らも好きに生きてゆけば良いではないか」
竜の御子と呼ばれた若者が、いささか辟易しているようである。
「俺など担ぎ上げて一体、お前たちは何をしようと言うのだ。まったく」
「貴方様でなければ……人間の方々と我ら魔族との間に、和平は成りませぬ」
1人の老人が、いつの間にか、そこに跪いていた。
老人というか、年老いたゴブリンである。
「竜の御子よ、貴方様には何としても生き抜いていただかねばなりませぬゆえ、どうか御自愛を」
「約束だ。魔族と人間の和平、とやらのため出来る限りの事はする」
言いつつ竜の御子が、兵士らの残骸をちらりと見渡す。
「だが俺はな、人間であろうと魔物であろうと、このような輩は生かしておかんぞ」
「……御意のままに」
頭を垂れた老ゴブリンが、ブラムトと視線を合わせた。
「人間の方……どうか心清く、正しく生きて下さいませ。さすれば竜の御子は、貴方がたをお守り下さいます」
「どのようなおバカをやらかせば、竜の御子様を怒らせる事となるのか、見ておわかりとは思いますけど」
ブラックローラが言った。
「要は慎ましく悪目立ちせず、ひっそり生きなさいという事。貴方がたがそうし続けて下さる限りはね、ローラたちも虫ケラ1匹1匹を探して踏み潰すような事いたしませんから。よろしくて?」
「心清く……正しく、生きてゆきます……」
竜の御子に向かって、ブラムトは恭しく拝跪した。
「ですから、どうか私どもを……私の子供たちを、お守り下さい……唯一神よ」
「お前は何を言っているのだ」
困惑しかけた竜の御子に取って代わって、ブラックローラが尊大な声を発した。
「いかにも人間たちよ、こちらの竜の御子は唯一神の生まれ変わり……否。お前たちがレグナード滅亡時より唯一神と呼び崇めている存在こそが、すなわち竜の御子ガイエル・ケスナー様であらせられる。さあ、跪いて救いをお求めなさい。先程ローラが言ったように、清く正しく慎ましく虫ケラの分際をわきまえて生きる限り、竜の御子は貴方たちを守って下さいますわ」
「おいブラックローラ、貴様……」
「人間たちの哀れな勘違いに、応えて差し上げなさいませ」
リゼルもセシールも、教会でそうするように手を合わせ、小さな身体を跪かせている。唯一神の化身……竜の御子ガイエル・ケスナーに向かって。
その様を見下ろしつつ、ブラックローラは笑った。
「この地の人間たちにとって竜の御子よ、貴方様こそが神に等しい存在なのですから……ね? また偽物の聖女やら何やらが現れて、この愚か者たちを煽動するよりは」
「……俺の地ならしが足りなかったせいで、そのような事が起こった。この地の人間どもを守るのならば、今度は徹底的にやれという事か」
困ったように、ガイエルは頭を掻いた。
「……まあ、引き受けてしまった事だからな」
この若者がいかなるつもりであるのかは、もはや関係ない。
勘違いだの、魔族がどうのという話も出ていたようだが、ブラムトの知った事ではない。
このガイエル・ケスナーという若者こそが、唯一神なのだ。
強大なる怪物として天下った、唯一神ガイエル・ケスナー。
彼が、自分たちを今度こそ、聖なる万年平和の王国へと導いてくれる。
ブラムトにとって、この地の民にとっては、それこそが全てだった。
かつてこの王宮は、有象無象としか言いようのない者たちで溢れかえっていた。
ダルーハ・ケスナーが、あらかた始末してくれた。とは言え、このような輩はいくらでも湧いて出るものである。
ヴァスケリア国王ディン・ザナード4世……モートン・カルナヴァートは、それを実感せざるを得なかった。
「実に困った事をしでかしてくれたものよな、ボエル・ドム侯爵」
縛り上げられ、近衛兵2名によって左右から取り押さえられている壮年の男性貴族に、モートンは玉座の上から声をかけた。
「アマリア・カストゥールそれにラウデン・ゼビルといった指導者を失った今であれば、かの地を切り取り放題……と。そう思ってしまったのかな?」
「そ、そのような……そのような事は……」
ボエル・ドム侯爵が、怯えている。
モートンは、とりあえず苦笑して見せた。
「まあ国王たる私がな、迅速な手を打てずにいたのは確かだ。貴殿に付け入る隙を見せてしまった。そこは一国の王として反省せねばなるまい」
「へ、陛下は比類なき……英邁この上なき王者であらせられます。その慈悲をもって、どうかお許しを……」
「暗愚な王子として、気楽に過ごしていた頃の私であればな。その世辞も、耳に心地良く聞いていられたのだが」
モートンは溜め息をついた。
「国王の名を騙って軍を派遣し、かの地を奪う……貴殿の行動は、確かに迅速であった。だが悲しいかな、派遣した軍兵の質に問題があったようだ。勝手に住民の土地を奪ったり、女子供を略取したりと、やりたい放題をやらかした結果……この世で最も怒らせてはならぬ者に、目をつけられてしまった」
1度は会って、何かしら話をつける必要はあるのかも知れない、とモートンは思う。
「……いかんよボエル侯爵。貴殿が馬鹿な事をしてくれたせいで、またしても、あやつが動いてしまったではないか」
「あの方は」
声がした。
凛と響く、若い女の声。少女の声。
「義侠心の塊です。弱い者に迷惑をかける行為を、それがいかに些細な事であっても決して見逃しはしません。ボエル侯爵、貴方のような人がいる限り」
柱の陰から、その少女は姿を現していた。
まるで下着のような甲冑をまとう小柄な細身は、しかし無駄肉ばかりのモートンとは比べ物にならぬほど鍛え込まれている。
「あの方が、人間を殺さずに済ませて下さる事などあり得ません。そして貴方のような人が、いなくなる事もあり得ません」
ボエル侯爵を取り押さえている近衛兵2人に、少女が軽やかに歩み寄る。
1人の腰から、少女はすらりと長剣を抜き取った。
近衛兵らも、それに居並ぶ廷臣たちも、この少女の姿を目の当たりにして驚かない。平然としている。
彼女が生きていた事を、知っている。
(根回しは万全、という事か……)
モートンは苦笑し、ボエル侯爵は唖然としている。
「え……エル・ザナード1世……」
「……生き恥を、晒しております」
言いつつティアンナが、長剣を一閃させる。
切断された縄が、ボエル侯爵の身体から滑り落ちる。
呆然とする侯爵に、もう1人の近衛兵が長剣を差し出した。
「その剣をお執り下さい、ボエル・ドム侯爵」
ティアンナは告げた。
「私を斬り殺してごらんなさい。そうすれば私は死んだまま、最初から居なかったも同然となります。貴方が王族殺しの罪に問われる事もありません」
「何を……企む、この小娘……長らく死んだふりなど……!」
よろりと立ち上がったボエルが、差し出された長剣を手に取った。
「私の軍兵が、ほぼ皆殺しにされた……わけのわからぬ怪物によってだ。貴様の、差し金か……」
「あの方は、私の言う事など聞いては下さいませんよ」
「以前から噂はあった。女王エル・ザナード1世は、恐ろしい怪物を飼い操っていると……このっ……魔女がぁああああああああッ!」
ボエルが猛然と斬りかかり、ティアンナがかわす。
血飛沫が迸り、謁見の間の床を汚した。
その汚れの中にボエル侯爵は倒れ込み、二度と動かなくなった。
ティアンナの手に握られた長剣は、いつの間にか血に染まっている。
モートンとしては、とりあえず褒めるしかなかった。
「相変わらず、見事な手並みよ」
「これしきの腕では、力では、何も出来はしません……あの方に対しては、ね」
血染めの長剣を携えたまま、ティアンナは言った。
その剣を握る右手の中指では、竜の指輪が冷たく輝いている。
もはやブレン・バイアスもギルベルト・レインも亡き今、この場で彼女を止める事の出来る者はいないという事だ。
ティアンナは、まず訊いてきた。
「カルゴ・エルベット侯爵は、今どちらに?」
「あちこち忙しく走り回っておるよ。あの男は私と違って有能な政治家だ。仕事も多い」
彼を、今から起こるであろう事態に巻き込まずに済むであろうか。モートンはまず、それを考えた。
「兄上……陛下は一体どうなさるおつもりですか」
先頃まで『真ヴァスケリア』として独立国家の体を成していた地方群……ガルネア、エヴァリア、バスク、レドン、レネリア。
これらの地を、国王としていかに差配するつもりなのかと、ティアンナは訊いているのだ。
「早急に、新たなる領主を決定するべき……なのであろうが」
モートンは腕組みをした。
「……こうなっては、もはや放っておくしかなかろう。何しろ、あやつが唯一神の化身などと謳われながら君臨してしまったのだからな。手の打ちようがない」
「バルムガルドの傀儡国家となりかけていた頃よりも……アマリア・カストゥールが聖女として崇められていた時よりも」
ティアンナが言った。
青い瞳が、玉座上の兄をじっと見据えている。
「かの地は、ずっと危険な独立国家となってしまいます。それを放置せよと、陛下はおっしゃるのですか」
「放置せぬならば何とする。義侠心おもむくまま好き放題に振る舞う、あやつを……力で、止めよと?」
睨む、に等しい眼光を、モートンは返した。
「ガイエル・ケスナーを力で止める……これがいかに馬鹿げた夢想であるか、知らぬお前ではあるまい」
「馬鹿げた夢想を実現せねば、ヴァスケリアに未来はありません」
誰よりもガイエル・ケスナーによって助けられ守られてきたはずの少女が、そんな事を言っている。
「ガイエル様には……この世から、消えていただきます」
「道を歩くだけで人が死ぬ。そのような怪物が人の世に存在してはならぬと、お前は考えているのだろうな」
モートンは言った。
「国が総力を挙げて、あやつと戦わねばならんと。国王たる私は、そのために方針を定めよと。お前は言うのだな」
「ガイエル様がいらっしゃる限り人々は、暴力を渇望し、暴力を信仰する心を、捨て去る事が出来ません。いずれヴァスケリアの民は、力を求めるあまり自ら魔獣人間になろうとする者、あるいは力で守られる事に馴れきって自身では何も出来ない者、力ある相手に人身御供を捧げて保身を図る者、ばかりになってしまいます。魔族の支配下にあった、バルムガルドのように。偽りの聖女に蹂躙された、真ヴァスケリアのように」
「ダルーハよりも、アマリア・カストゥールよりも……あやつに君臨させておいた方が、色々ましではないのか。かの地の民にとっても、我らにとっても」
モートンは、少しだけ笑って見せた。
「1度はっきりと言っておこう。私ディン・ザナード4世はヴァスケリア国王として、ガイエル・ケスナーとの友好関係維持を考えている。それを許せぬならば、どうする? 元女王よ」
「……兄上は、夢をお持ちでしたね」
血染めの長剣を携えたまま、ティアンナが兄国王に歩み寄る。
近衛兵も、廷臣も、誰も止めない。根回しが済んでいる、という事だ。
「捨て扶持を与えられて安穏と暮らす……その夢、私が叶えて差し上げます」
「見果てぬ夢であったなあ」
モートンは天井を見つめた。
天井などなければ、空を見上げているところだ。
その目を再び、妹に向ける。
「……夢は、夢。ティアンナ・エルベットよ、今のそなたにヴァスケリア王国を託すわけにはゆかぬ」
「お見事。ならば兄上、どうか剣をお執り下さい」
「冗談はよせ。勝負になど、なるわけがあるまい」
モートンは思う。
この妹に対し、これほど優しい気持ちになれた事が、今まであっただろうか。
「……変わったな、ティアンナ。バルムガルドで一体、何があったのだ?」
ティアンナは答えない。
モートンは、構わず言った。
「何か大切なものを得ながら、すぐにそれを失ってしまった……己の手で、壊してしまった。そのせいでな、お前の心も壊れ始めている……私には、そう思えてならん」
「……それを世迷い言というのですよ、兄上」
ティアンナの、声が聞こえる。表情は見えない。
モートンは、空を飛んでいた。
首を刎ねられたのだ、とすぐに気付いた。
ガイエル・ケスナーとは1度会って、話をつけなければならない。先程はそう思ったが、しかし話す事など大してあるわけではなかった。あの男が、政治の話など出来るわけがない。
だが、久しぶりに会ってみたい。
それがモートン・カルナヴァートの、最後の思考となった。




