第168話 聖なる万年平和の王国へと(後編)
緑色の光が、マディック・ラザンの全身を包み込み、魔法の鎧として実体化を遂げる。
「その鎧は……」
イリーナ・ジェンキムが、息を呑んだ。
「私が貴方に、餞別として与えたものよ。わかっているの? マディック・ラザン……餞別の、意味……」
涙をこらえている、ようでもある。
彼女が、自分との再会で涙を流す。こらえる。そんな事があり得るのか、とマディックは思った。
「餞別とは、別れの印……貴方と私はね、お別れをしたの。もう会ってはいけないのよ……ねえ、本当にわかっているの? 役立たずのマディック・ラザン……」
「俺は君に会いたかったけど、それが目的でここへ来たわけじゃあない。単なる通りすがりさ」
緑色に武装した聖職者の若者が、魔法の槍を振るい構えながら言う。
「もちろん……クオル・デーヴィ、お前に会いに来たわけでもない。だけど会えて良かった、お前を始末する事が出来るからな」
「それは、こちらの台詞だよ背教者。唯一神の、そして聖女アマリアの名の下に!」
出来損なった魔法の鎧が、巨大化したかのような金属の怪物。
そんなものに成り果てたクオル・デーヴィ司祭が、両手を振りかざして叫ぶ。
「貴様に、聖なる罰を下す!」
その両手は五指ではなく、鎌状の刃である。
巨大な蟷螂の前肢にも似た、金属製の両手が、左右立て続けに振り下ろされてマディックを襲う。
「無論、唯一神の罰は受けるとも……だがな、それを下すのは貴様ではない!」
魔法の槍が、マディックの声に合わせて猛回転した。
蟷螂を思わせる左右の刃が、弾き返されて火花を散らす。金属化したクオルの巨体が、大きく揺らいだ。
そこへ、マディックは踏み込んだ。槍の動きを、回転から刺突へと切り替えながら。
穂先が、白色の光を帯びる。唯一神の、聖なる加護。
その輝きを帯びた魔法の槍が、クオル司祭の下腹部に突き刺さった。金属の巨体が、痙攣する。
「我、汝殺すなかれの破戒者とならん……」
マディックが祈り、念じた。
金属製の下腹部に突き刺さった聖なる力が、一気に膨張した。
「唯一神よ、罰を与えたまえ!」
膨張した力が、クオル司祭の体内に激しく流し込まれる。
巨体のあちこちで、甲冑化した外皮が破裂した。白色光が、鮮血のように噴出する。
マディックは、槍を引き抜いた。
半ば原形を失いかけたまま、クオルが後退りをする。
あちこち破裂した巨体の内側から、しかし新たな金属外皮が盛り上がってくる。
「これは……?」
マディックが息を飲んでいる間に、金属の巨人は再生修復を終えていた。
「貴様の邪悪なる抵抗など、無駄な事だ背教者……私の身体には今や常時、癒しの力が働いている」
クオルは笑った。金属化した顔面が、メキメキと歪む。
「聖女アマリアが、この身に唯一神の加護を施してくれたのだ!」
「例の、蛇の指輪か……」
元々はイリーナ・ジェンキムが、魔法の鎧の量産品を管理・収納・操縦するために作り出したものである。
それを、やがてローエン派の聖職者たちが所有するようになった。イリーナが、聖女アマリア・カストゥールに取り込まれたからだ。
その際アマリアによって、蛇の指輪には聖なる、だが禍々しい力が付与された。
所有者を、このような金属の怪物に変える力……だけではない。
「常時、癒しの力が働いている……だと」
マディックは、魔法の槍をブンッと構え直した。
「それは、お前……唯一神の加護でも何でもないぞ。唯一神の力を、不正に盗み取っているだけだ。いかさま聖女がその指輪に施した、邪悪な力でな」
「まだ言うか! 聖女アマリアを、まだ愚弄するのか背教者!」
言葉と共に、クオルは光を吐き出した。まるで竜の炎のように。
たった今、マディックが槍で叩き込んだものと同質の光。唯一神の、聖なる力。
だがそれは、禍々しい破壊をもたらす力でもある。物に当たれば物を壊し、人に当たれば人を殺す。
「我が力、聖女の力を、愛を! その穢れた身で思い知るが良いわぁああああああっ!」
襲い来る光の吐息をかわそうとして、マディックは踏みとどまった。周囲では、それに背後でも、村人たちが逃げ惑っている。
槍を構え、護りを念じる、しかなかった。
念に応じて、マディックの眼前でも聖なる光が生じた。それが楯の形に固まってゆく。
巨大な光の楯に、クオルの吐いた光の奔流が激突する。
「クオル……お前は、わかっているのか……」
眼前で揺らぐ楯を気力で保持しながら、マディックは言った。
「唯一神が、いかなるものであるのか……お前は、見た事があるのか。俺たちが仕える唯一神というものの姿を」
「無論! 今も見えているとも。私にこの力を、間近から直に授けて下さる唯一神の御姿が!」
聖なる破壊光を吐きながら、マディックは叫んだ。
「聖女アマリアが、この私を生ける身のまま! 唯一神の御もとへ導いてくれているのだ! この聖なる悦び、背教者にはわかるまい」
「わかるとも。この力……お前には今、確かに唯一神の存在が見えているようだ」
光の楯を、今にも粉砕してしまいそうなクオル・デーヴィの息吹。
その凄まじい圧力を、マディックは確かに感じていた。
「俺もな、今までの戦いの中……デーモンロードに殺されかけ、ガイエル・ケスナーに殺されかけながら、何度も垣間見てきたものさ。唯一神というものの、姿をな」
曲がりなりにも実戦を経験した。
それは自分マディック・ラザンの、聖職者としての未熟な力を、そこそこ鍛え上げる事にはなったのだ。
「力……そう、唯一神とはすなわち力だ。善でも悪でもない、強大なる力の塊そのものが、虚空に浮かび存在している。それが唯一神……俺たち聖職者は、修行を重ねさえすれば、その力の塊にいささかなりとも接触する事が出来る。その力の、ほんの一部だけを現世で行使する事が出来るんだ。あくまで、一部だけ……」
マディックの声が震えた。面頬の中で、涙が溢れ出して来る。
「なあクオル……聖職者として半人前の俺と比べても修行の足りていない、お前がだ。いかさま聖女のくれた道具に頼って、強大な力の塊に接触などしたら……一体どうなるか、本当にわかっているのか!?」
「何を……」
言葉を吐こうとするクオルの口が突然、光の放射を止めた。
代わりに、右肩から、背中から、左脇腹から、光が溢れ出す。
魔法の鎧が出来損なったような金属の巨体、その各所が破裂していた。
本来は口から放出されるべき聖なる破壊光が、それら破損箇所から迸り出て村じゅうに拡散する。
「ぐっ……ぎゃ……こ、これは何事……」
「お前では無理、という事だよクオル……その、力の暴走を止めるのはな」
マディックの涙は、止まらない。
かつて、旅をした。
ディラム派が隆盛を極める唯一神教会にあって、ローエン派の教義に聖なる救済の道を見出し、清貧を貫きながらヴァスケリア各地を旅して回った4人の聖職者。その中で最も夢見がちで、それゆえ高い志と理想を抱いていた若者が……今、おぞましい怪物と成り果て、自滅しつつある。
「アマリア・カストゥールが……お前を、そこまで歪ませ……腐らせた……」
などと悲嘆している場合ではなかった。
クオルの全身を食い破り迸った光が、逃げ惑う村人たちを襲う。
何かの群れが、それを阻んだ。
転倒した若者を、子供を抱いた母親を、よぼよぼと足元のおぼつかぬ老人を、何かが庇った。
鈍色の、甲冑歩兵たち。中身のない、魔法の鎧の量産品。
それらが、暴走する聖なる光を楯で受けた。
「役立たずのマディック・ラザン、何をしているの!」
イリーナが、右手中指で蛇の指輪を輝かせながら叫ぶ。
「魔法の鎧で悪しきものを討ち滅ぼし、偉大なるゾルカ・ジェンキムの名を世に知らしめる! 私はそのために貴方を選んだのよ、魔法の鎧をまとう者として!」
動く鎧たちが、楯もろとも砕け散った。
相殺の形に、聖なる破壊光も消えた。
穴だらけになった金属の怪物が、しかし次の破壊光を全身から漏らし始める。
その時には、マディックは魔法の槍を振るっていた。そして眼前の、光の楯を打ち砕く。
破片がキラキラと飛翔しながら巨大化し、鋭利に伸びてゆく。
聖なる光の楯1枚が、5本もの光の投槍に変化しながら、マディックの周囲に浮かぶ。
「かつての友を、殺める……その罰は、いずれ受けよう。さらばだクオル・デーヴィ」
魔法の槍を、マディックは号令の形に振るった。
光の投槍5本が一斉に飛び、クオルの全身に突き刺さる。
あちこち破裂していた金属の巨人が、さらに穿たれ切り裂かれ、原形を失い……そして爆発した。
火柱、と言うより光の柱が生じ、天を衝く。
その柱の中で、クオルは跡形もなくなっていった。
細く消え失せてゆく光の柱を、じっと見つめるマディックに、イリーナが声をかける。
「……役立たずの割に、よくやったわねマディック」
「俺は……役立たずのままだよ」
「ええ……そうね、貴方は役立たずだわ!」
イリーナが突然、怒り始めた。
「貴方が私の役に立ってさえくれれば! 貴方が、私の……」
激怒しながら、彼女は涙を流している。
自分が泣いている場合ではない、とマディックは思った。
「私の……傍に、いてくれさえすれば……私は……」
「イリーナ……?」
「私は、あんな事を……せずに……」
イリーナは涙を流し、震え、青ざめている。
「……助けて……マディック……私を助けて……私の役に、立ちなさい……」
「……聖なる戦士の事か」
「私のせいで……大勢の人が、あんなふうに……お父様の技術を、私は……あんな事に……」
「聖なる戦士たちを大勢、殺してきた俺が……偉そうな事は、言えない」
慰める事など出来ない。
イリーナのために何か出来る事が、マディックにあるとすれば、それは1つだけだ。
「俺も君も、その事に関しては……一生、苦しみ続けるしかないと思う」
一緒にいる。共に、苦しみ続ける。
それを口に出す事までは、マディックは出来なかった。
唯一神とは、善なるものでも悪しきものでもない。
かつて5人一緒に旅をしていた頃、レイニー・ウェイルがそんな事を言っていた。
唯一神の御力が人々に、救いと災い、どちらをもたらすか。それは私たち聖職者の心1つで変わってしまう。私たちが、だから善なる心を持ち続ける努力を怠ってはならない。
となると、だ。何が善で何が悪か、という難儀極まるところへ踏み込む事になってしまうな。
レイニーは、そんなふうに苦笑していたものだ。
彼はやがて司教に就任し、ここサン・ローデル地方において教会を統べる身分となった。
マディック・ラザンは教会中枢のありように異を唱えて破門され、やがて魔法の鎧を着て過酷な戦いに身を投じる事となる。
クオル・デーヴィは逆に教会中枢に取り込まれ、聖女アマリア・カストゥールの盲信者となった。
そしてアレン・ネッドは今、昏睡状態に陥っている。
「唯一神は……少なくとも善なる存在ではない、という事? だって、アレンを救っては下さらない……」
エミリィ・レアは呟いた。
癒しの力で、傷は完治している。アレンの、肉体は生きているのだ。だが意識が戻らない。
「アレンが怪我をしたのは、あたしのせいです。唯一神よ、貴方を責めるのは御門違い……そんな事わかってます! だけど……」
熱さを感じさせない炎が、目の前で燃え盛っている。
1人の少年が今、この猛り狂う火柱の中で、灼かれ続けているのだ。あれから今まで、何日もの間ずっと。
少年の肉体しか焼かない炎。それを発生させた若者は、言っていた。
燃やすものが無くなれば火は消える。この炎が燃え続けている間は、リムレオン・エルベットは生きているのだ……と。
アレンもリムレオンも今、辛うじて生きてはいる。だが明日はわからない。1時間後には、死ぬかも知れない。
「善い人たちが、次々と傷ついて……倒れていく……何故ですか? 唯一神よ……」
神に問いかけても、答えなど返っては来ない。聖職者として最低限、心得ておかねばならない事の1つだ。
わかっていながらもエミリィは、問わずにはいられない。
「……ブレン兵長が……死にました。何故ですか……?」
ブレン・バイアスが死に、そのせいでリムレオンは心折れ、アレンが彼を支えようとしていた。
そして2人とも、エミリィの目の前で倒れた。唯一神の使徒による暴虐に遭ってだ。
「もしも、アレンが死んだら……リムレオン様が、死んでしまったら……唯一神よ、あたしは貴方を信じられなくなる……かも、知れません」
「信じるものではないわ……唯一神はね、利用するもの……」
声がした。弱々しい、女の声。
「あれは単なる、力の塊なのだから……それを知ったのは私も、つい最近……なんだけど、ね……」
行き倒れの病人。エミリィはまず、そう思った。
確かにそうとしか見えない1人の女性が、木陰からよろりと現れたところである。
ボロ布も同然のマントに身を包んだ、若い女性。目深に被ったフードから、長い髪が溢れ出している。
光の当たり方によっては白髪にも見えてしまう、銀色の髪だった。
「大丈夫ですか……しっかりして下さい!」
エミリィは駆け寄った。
その女性が、大木の根元に座り込み倒れ込みながら見上げてくる。
青白い美貌を目の当たりにして、エミリィは息を呑んだ。
美しい、だけではない。自分はこの女性を、どこかで見た事がある。
この村で、ではなかったか。
思い出せないが、今はそんな事よりも、この女性の容態である。
図々しいのを承知の上で、エミリィは彼女を抱き起こした。
「一体、どうなさったんですか……」
「お気遣いありがとう。だけどね、大した事じゃないのよ……厄介な荷物を、抱えているだけ……」
言いつつ彼女は、エミリィの手を取って己の身体へと導いた。マントに隠された、腹部の辺りへと。
丸く、膨らんだ腹。
その中で、彼女の言う「厄介な荷物」が息づいているのを、エミリィは掌に感じ取った。
「お腹に……赤ちゃんが……」
「女にとって……一番、厄介な荷物よね……」
まだ20歳前後と思われる若い妊婦が、苦しそうに微笑む。
「私ね、悪い事は大抵やらかしてきたけれど……子供を産んだ事だけは、ないのよね。これが……陣痛、というもの……なのかしら……」
「貴女は……!」
エミリィは、ちらりと視線を動かした。ゾルカ・ジェンキムの墓標が見えた。
この村で、彼を殺害した女がいる。
ゴルジ・バルカウスの一党として、このサン・ローデル地方に魔獣人間という災厄をもたらした女性がいる。
彼女の名を、エミリィは今はっきりと思い出していた。
「メイフェム・グリム……!」
「ゾルカの導きと思って、私を……助けてくれる? それとも殺す? 今の私なら……」
「今、人を呼んで来ます。大人しくしていて下さい」
エミリィは言い放った。
「貴女みたいな人でも、赤ちゃんを産めば少しはわかるでしょう……人の命が一体、どういうものなのか」