第166話 聖なる万年平和の王国へと(前編)
アゼル・ガフナー。
大聖人ローエン・フェルナスと共に、唯一神教を作り上げた人物として知られている。最初の唯一神教は、ローエン派でもディラム派でもなく、アゼル派であったのだ。
レグナード王朝による弾圧からローエンを守って死んだ、と伝わってはいるが、それに関しては諸説ある。
レグナードの魔導師たちに捕えられ、人間ではないものに作り変えられた。それも、あり得ない話ではなかろう。
「もし、そうであるならば……」
バルムガルドで出会った時には魔獣人間ゴブリートとしか名乗っていなかった男に、ティアンナは問いかけた。
「レグナード魔法王国の時代から、今に至る300年余を……貴方は、生きてこられたとでも?」
「300年間、俺は眠っていたのよ。起こしてくれたのは、そこにいるゴルジ・バルカウスでな」
「アゼル・ガフナー……良い所へ来た。貴様の力、エル・ザナード1世陛下にお見せするのだ」
先程まで聖女アマリア・カストゥールであった白色の人型甲虫が、言った。
「魔人ガイエル・ケスナーと戦うには魔獣人間の力が必要不可欠であると、女王陛下にはおわかりいただかねばならぬ」
「言われずともガイエル・ケスナーとは戦う。だが、その前に……訊いておこう、権力者の小娘よ」
魔獣人間の燃え盛る眼光が、ティアンナに向けられた。
「この地にはな、唯一神教を……ローエン・フェルナスの教えを疑いもなく信じ、ただ日々の平穏のみを願って生きるだけの者どもが大勢いる」
「存じております」
とある家族を、ティアンナは思い返した。
母親はダルーハ軍の残党に殺され、父親はそれに絶望して魔獣人間に志願し、子供たちがそれを懸命に止めようとしていたものだ。
この地の民は、彼らのような人々が大半なのであろう。聖なる戦士になってしまうような者は、ごく一部に過ぎないのだ。
「あやつらに最も必要なものが何であるのか、貴様にはわかるか」
「復興のための、適切な支援」
即答しつつティアンナは、面頬の内側で苦笑した。
「……言葉にしてしまうと、空虚なものですね」
「言葉にしてしまえば何でもそうなる。愛、正義、平和……ふふっ。あやつらに最も必要なものは何か、俺にもわからん。だが最も不必要なものはわかる。聞きたいか?」
「ぜひとも」
ティアンナが言うと、アゼルの眼光がさらに激しく燃え上がった。
「……貴様たち、権力者の存在だ」
殺意の、炎だった。
「小娘の女王よ。貴様はこの戦の後、あやつらに何か手厚い施しでもしてやるつもりでいるのだろう? それはな、真に唯一神教を信ずる者たちにとっては干渉そして弾圧の第一歩でしかないのだよ。レグナードがそうであったように」
干渉も弾圧もしない。ヴァスケリア王家は国民に、信教の自由を認めている。いかなる宗教の信者に対しても一般国民同様、生活の安全と安定を保証しているのだ。
そう言い返す事が、ティアンナには出来なかった。
ダルーハ・ケスナーの叛乱によって、この地の民は生活の安全も安定も失った。
ヴァスケリア王家は、それらを何一つ取り戻してやる事は出来なかったのだ。
「弱き者どもが、己の心の中にいる神の教えのみに従って、清く正しく平和に生きる……それがな、ローエンの目指した唯一神教の姿だ。そうではない唯一神教など、この世には要らん」
アゼルの全身で、炎の体毛が燃え上がる。
太陽の紅炎にも似たそれが、激しく伸びてうねりながら、聖なる戦士たちを薙ぎ払った。
「唯一神よ、我らを……」
「聖なる、万年平和の王国へと……」
口々に祈りながら、聖なる戦士が10体、20体と、ひとまとめに火葬されて灰に変わる。
「唯一神にすがりながら、清く正しく平和に生きる事が出来ぬ……このような者どもは何故、生まれる?」
アゼルが問いかける。ティアンナは、答える事が出来ない。
答えは、しかし明らかであった。
彼らが人の世を捨て、聖なる万年平和の王国を目指してしまう理由。それは人の世に、希望を見出す事が出来なかったからである。
「それって……権力者のせいになっちゃうわけ? ねえ」
雷まとう杖を構えながら、シェファ・ランティが口調険しく問う。
「政治が悪いとか領主がしっかりしてないとか言って、リム様を困らせてた……メルクトやサン・ローデルの連中と、同じ事言ってるようにしか思えないんだけど」
「そう思うならば、俺を止めて見せるのだな」
アゼル・ガフナーが、こちらに歩み迫る。
魔法の鎧の上からでも感じられる熱量に圧され、ティアンナは後退りをした。
「ローエンの目指した唯一神教に、権力者は必要ない……ゆえに排除する」
「アゼル・ガフナー……貴方は……」
本物だ、とティアンナは根拠もなく確信した。
この燃え盛る魔獣人間は、紛れもなくローエン・フェルナスの盟友、唯一神教の開祖たる大聖人アゼル・ガフナーなのだ。
「取り戻そうと……守ろうと、しておられるのですね。大聖人ローエン・フェルナスの志した、真の唯一神教を」
「ふ……大聖人か。あの男はな、そんな大層な人物ではない」
凶猛な肉食猿のような顔面が、炎の毛髪に彩られながらニヤリと歪む。
「弱き者どもを、ただ守りたい……それだけの男であった。それをな、後の世の貴様たちが……大聖人などと仰々しく祭り上げ、利用した。300年間、あやつの名は利用され続けたのだ。権力者どもによって」
「300年を生きる身でありながら、青臭い事をほざくもの……ただ権力者を否定するだけか」
魔獣人間ギルデーモン……ラウデン・ゼビル侯爵が、牙を剥いて嘲笑う。さりげなく、ティアンナを背後に庇いながら。
「わからんのか。広範囲に渡って大勢の人間を守ろうとするならば、権力というものはどうしても必要となるのだ」
「レグナードの為政者どもも、それと同じ事を言っていたものだ」
言葉と共に、アゼルが近付いて来る。
太陽が近付いて来る、とティアンナは感じた。
「政治権力とは民衆を守るためにある。だから逆らってはならぬ、我らに任せておけば悪いようにはしない……とな。それを信じた唯一神教徒たちが一体いかなる弾圧を受けたのか、それはまあここで語る事でもない」
短く、だが筋骨たくましい腕が、炎の体毛を揺らめかせながら跳ね上がる。
紅炎の如く伸びた体毛が、聖なる戦士の、最後の一部隊を焼き払った。
「この哀れな者どもはな、ローエンの考えた単純明快極まる唯一神教に、為政者・権力者の思惑が混ざり込んだ、1つの結果ではないのか」
「その咎は1人このラウデン・ゼビルのもの、女王陛下に憎悪を向ける事は許さぬ!」
「美しいな。その美しき忠誠の心が、権力者どもを延命・増長させる。レグナードは偉大なる魔法王国であったが結局は、そのようにして腐り果てた。民は苦しみ、やがて唯一神教が生まれ、お人好しのローエン・フェルナスがそれを取りまとめる事となった。奴が目指したものは、ただ1つ……権力者も為政者も必要としない、民衆の平和な暮らしだ。奴がもはやこの世におらぬ今、俺がそれを作り上げるしかあるまい」
正しい、とティアンナは思った。
このアゼル・ガフナーという男は、何も間違ってはいない。正しい事を、圧倒的な暴力をもって成し遂げようとしている。
暴力に秀でた者には、それが出来るのだ。
「……ゆえに死ね、権力者の小娘よ」
「痴れ者が……! エル・ザナード1世陛下に対し、何たる無礼であるか!」
怒り狂っているのはゴルジ・バルカウスである。
その両手、計10本もの長剣のような爪から、紫色の電光が迸る。
「女王陛下はな、魔獣人間の力をもって人の世を治め守って下さる御方よ! そうでなければ人の世の平和は保てぬと、貴様ごとき痴れ者の怪物には理解出来ぬか!」
罵声と雷鳴を伴う電光の嵐が、魔獣人間ゴブリートを襲い、砕け散り、静電気の如く弱々しく消滅した。
アゼルの片手の一振りで伸びうねった紅蓮の体毛が、紫色の電撃嵐を蹴散らし、掻き消しながら、なおも伸びてゴルジを直撃する。
つい先程まで聖女アマリア・カストゥールであった怪物は、焦げ砕けながら熱風に舞い、灰と化した。
「直接的に唯一神教を穢した貴様も無論、生かしてはおかんよ。ゴルジ・バルカウス……レグナードの悪しき亡霊よ」
アゼルは、にやりと牙を見せた。
「もっとも、な……俺も、大して違いはせぬか?」
「女王陛下、お逃げ下さい!」
ラウデンが叫びながら、両腕を一閃させる。
左右前腕に生え広がった鋸状のヒレが、紅蓮の荒波を断ち割った。ゴブリートが全身で炎の体毛を燃え上がらせ、伸ばし放ってきたところである。
断ち割られた炎が、ラウデンとティアンナの周囲で火の粉と化し、燃え散り消えてゆく。
「ほう……」
感嘆の息をつくアゼルに、横合いから疾風が襲いかかる。青銅色の疾風。
魔獣人間ユニゴーゴン……ギルベルト・レインであった。石の松明2本を両手で振るい、ゴブリートに殴りかかる。
炎の体毛が燃え上がり、迎撃の形に渦を巻いた。
その猛火の渦を、ギルベルトが炎の棍棒で粉砕する。
火の粉を蹴散らしながら、ユニゴーゴンの蹄が唸る。
地形をも変える蹴りが、ゴブリートを直撃した。
否。短くも力強い両腕で、防御されている。
小柄な魔獣人間の身体が、防御の姿勢のまま後方へと吹っ飛び、軽やかに翼を広げながら着地する。
「貴様たちほどの魔獣人間が、まだ生き残っていたとはな……嬉しくなるぞ。つい本気を出してしまうほどになあ!」
叫びと共に、ゴブリートの姿が消えた。
目で追える動きではなかった。
ギルベルトが後方を向きながら、石の松明2本を防御の形に振るう。2本とも、砕け散った。
ゴブリートの飛び蹴りが、一閃したところである。
ユニゴーゴンが、返礼の蹴りを放った。鉄槌のような蹄が高速離陸し、重い唸りを発して弧を描く。
重量と軽快さを併せ持った回し蹴りが、燃え盛る魔獣人間の小柄な肉体を粉砕する。
粉砕されたのは、しかし残像だった。
アゼルはすでに、ギルベルトの斜め後方に着地している。
燃え盛る掌が、ユニゴーゴンの脇腹に触れた。
甲冑の如き青銅色の外骨格。その上から魔獣人間の体内へと、炎が、熱量そのものが、流し込まれる。それがティアンナにはわかった。
「シェファ……逃げろ……!」
体内を、臓物を、声帯までも灼かれながらギルベルトが、無理矢理に声を絞り出す。
「女王陛下、あんたもだ……! 早く……」
青銅色の外骨格が、剥がれ落ちた。
大量の灰がザァーッと溢れ出した。
「ギルベルトさん……!」
シェファが、叫びながら息を詰まらせる。
もはや応えずギルベルトは、灼け崩れて灰と化し、地面に溜まった。その中に、焼け焦げた青銅色の金属外皮が破片となって沈んでゆく。
「貴様……!」
ラウデンが踏み込もうとした、その時にはアゼルが跳躍していた。いや、飛行か。
そう見えた時には、アゼルは急降下を敢行していた。まるで燃え盛る隕石のように。
その隕石が、ギルデーモンを直撃する。
ティアンナの眼前で、地面が広範囲に渡って抉れ凹み、隕石孔となった。
魔法の鎧がなければ焼け死んでいたであろう高熱の衝撃波を全身に浴び、よろめき、踏みとどまりながら、ティアンナは聞いた。
ラウデン・ゼビルの、最後の言葉を。
「サン・ローデル……ゼピト村に……赤き魔人と戦う……最後の力が……女王陛下! どうか人の世を……」
言葉を残しながら、ラウデンは隕石孔の中心部で灰となり、熱風に舞い散っていた。
その真っただ中で、ゴブリートの小柄な身体がユラリと立ち上がる。
「見ての通りだ、権力者の小娘よ……貴様は、このように一瞬で死ぬ。痛みも苦しみもない」
言葉と共に1歩、ティアンナに向かって踏み出しながら、アゼルはいきなり翼を閉じた。小さな身体を、黒革の翼で包み込んでいた。防護幕をまとう形にだ。
そこへ、赤色の光の束がドギュルルルルルルッ! と激突する。極太の、魔力の光。
シェファの構えた魔石の杖から、迸っていた。
それをゴブリートが、黒革のマントにも似た翼で防御している。
赤い魔力光の束が、その翼を穿てずに真紅の光の飛沫を散らせ続ける。
好機だ、とティアンナは思った。
翼による防御が及んでいない部分……頭上。狙うべきは、そこだ。
ティアンナは跳躍した。
そして、空中で魔石の剣を構える。下方への刺突の構え。
細身の刃が、魔力を流し込まれて赤く熱く発光する。
ゼノス・ブレギアスの命を奪った刃。
その切っ先を、ゴブリートの角ある頭部に向けたまま、ティアンナは跳躍の頂点から急降下に転じた。
赤色光を帯びた刃が、アゼルの脳天を穿つ……寸前で、黒革の翼が開いた。開きながらの羽ばたきで、シェファの魔力光は砕け散った。
炎のような光の飛沫を散らせながら、アゼルが身を翻す。
燃え盛る頭髪を掻き分けて生えた角が、空中より突き込まれて来た魔石の剣を打ち弾く。
赤熱する細身の刃が、砕け散った。
次の瞬間ティアンナの全身で、魔法の鎧も砕け散っていた。
下着のような甲冑をまとう少女の細身が、吹っ飛んで地面に激突する。
「ぐっ……う……ッ!」
ティアンナは血を吐いた。
ゴブリートの、恐らくは肘打ち。いかなる攻撃を食らったのか見当はついても、かわす事は出来なかった。
粉砕された魔法の鎧が、光の粒子となってキラキラと、竜の指輪に吸い込まれて行く。
「良い攻撃であったぞ、小娘……」
アゼルが片手を掲げ、炎の体毛を揺らす。その手が振り下ろされるだけで、ティアンナは一瞬にして灰と化すだろう。
「権力者でありながら、自ら戦う……殺すには惜しいが、貴様はどうもな。唯一神教にとって、レグナードの為政者どもよりずっと禍々しい存在となるように思えてならん」
「一部同意……だけど殺させはしないっ!」
ほぼ魔力を使い果たしたシェファが、無謀にも魔石の杖でゴブリートに殴りかかろうとしている。
そちらを見もせず、アゼルは言った。
「シェファ・ランティ、と言ったな。一時とは言え、デーモンロードを相手に共闘した貴様を殺しはせん。立ち去れ」
「……そう言われて、立ち去れると思う?」
やめなさい、早く逃げて。
そう叫ぼうとして、ティアンナはまたしても血を吐いた。折れた肋骨が、体内のどこかに突き刺さっている。
何かが、視界をかすめた。
ふわりと揺らめく、マントの裾。
「悪戦苦闘をしているようだな、ティアンナ」
声をかけられた。
「傷付き倒れ、地を這いながらも上り詰めて行くのだな。男どもの命を踏み台として、ようやく辿り着ける高みへと」
その若者は、豪奢な肩当てでマントを固定している。
男にしてはいくらか長めの赤い髪が、熱風に舞う。
「……いいぞ、もっとあがけ」
秀麗な顔立ちが、ティアンナに向かってニヤリと凶猛に歪んだ。
「あの男の気持ちが、俺は少しだけわかったような気がする……弱い者が精一杯、蟷螂の斧を振りかざしてあがく様。なかなかに愉しいぞ、ティアンナ」
マントの下は例によって全裸なのだろう、とティアンナは思った。