第164話 救世主の再来
ラウデン・ゼビル侯爵が、完全に人間ではなくなった。
力強い武人の両手指が、鋭利な鉤爪を伸ばしながら太さを増している。
竜の指輪が、ちぎれて落ちた。
魔法の鎧が、光の粒子と化して漂いながら、ちぎれた指輪に吸い込まれてゆく。
魔法の鎧、だけではない。人間としての全てを今、ラウデン・ゼビルは脱ぎ捨てたのだ。
「参りますぞ、女王陛下……!」
鉤爪のある五指で強固な握り拳を作りながら、魔獣人間ギルデーモンが踏み込んで来る。
赤熱する魔石の剣で、ティアンナは迎え撃った。
細身の刃が、赤く熱く発光しながら一閃し、だが弾き返される。
ラウデンが、拳を振るいながら斬撃を繰り出していた。
魔獣人間の前腕、手首から肘にかけて鋸の如く生え広がったヒレが、魔石の剣を打ち弾いたのだ。
まるで、ガイエル・ケスナーの斬撃のように。
「くっ……」
右手の痺れをこらえ、後退りをしながら体勢を立て直そうとするティアンナに、ラウデンがなおも容赦なく拳を叩き付けて来る。
「申し上げるまでもなき事なれど……赤き魔人の斬撃、この程度のものではありませんぞ!」
左腕の楯に、凄まじい衝撃がぶつかって来る。真紅の袖鎧をまとう細腕を、さらに防護する円形の楯。それが、ちぎれ飛んでしまいそうな衝撃だ。
「このラウデン・ゼビルごとき、一息で滅殺する事かなわずば、あやつと戦うなど夢の夢! わかっておられましょうな、女王陛下!」
(戦う……私が、ガイエル様と……)
今更、思い知るような事ではない、とティアンナは思った。
自分は、ガイエル・ケスナーと決別・敵対する道を選んだのだ。もはや後戻りは出来ない。何故ならば。
「私は、奪った……この手で、ゼノス王子の命を……!」
ティアンナの中で、魔力が燃え上がる。
全身を包む魔法の鎧が、燃え盛る魔力を宿して赤く発光した。
その真紅の光が、右手に、魔石の剣に、流れ込んで行く。
細身の刀身が、燃えるように輝きを増した。真紅に燃え輝く刃。
これで自分は、ゼノス・ブレギアスを殺したのだ。
ティアンナは踏み込んだ。
赤熱する斬撃が一閃し、空中に光の弧を描く。
その弧を、ギルデーモンが後方へ跳んで回避する。
回避された斬撃の弧が、そのまま発射された。飛翔する、真紅の光の刃。
まっすぐに襲い来るそれを、ラウデンは素手で迎撃した。鉤爪を備えた五指が開き、引き裂く形に振り下ろされる。
赤い弧形の光刃は、その一撃で粉砕された。
光の破片をキラキラと蹴散らしながら踏み込んで来る魔獣人間に、ティアンナは問いかけた。
「答えなさいラウデン・ゼビル。貴方が、人ならざるものとしての生き方を選んだ理由……それは赤き魔人ガイエル・ケスナーを斃すため。本当にそれのみ、ですか?」
「他に、何がござるか」
言葉と共に、鋸状のヒレが激しく一閃する。
それをティアンナはかわせず、左腕の楯で受けるしかなかった。
楯の表面で、焦げ臭い火花が大量に散った。防御しきれぬ衝撃が、少女の細い左前腕を容赦なく襲う。
真紅の面頬の下で歯を食いしばりつつ、ティアンナはなおも問うた。
「国境の戦で、バルムガルド軍兵士およそ四千人をことごとく殺戮してのけたガイエル・ケスナー……その戦いぶりをラウデン侯、貴方はどう御覧になったのですか。何を思いましたか。人の世を守るため、赤き魔人は滅ぼさねばならない。本当に、それだけですか」
「私は……ふっ、ふふふふふふ、いかにも女王陛下! 仰せの通りにございますよ。このラウデン・ゼビル、確かに思いましたとも」
問いかけと共にティアンナが突き込んだ細身の切っ先を、鋸状のヒレで受け流しながら、魔獣人間ギルデーモンは吼えた。
「赤き魔人……あの禍々しいほどに強大なる力、何としても欲しい! あのように成りたい! そう渇望いたしましたとも!」
凶猛な怪魚の顔面が、烈しく牙を剥き、両眼をギラギラと輝かせる。
「ダルーハ・ケスナーの如き逆賊が幾度、現れようと! レボルト・ハイマンがたとえ数百万の軍勢をもって国境を侵さんとしても! かの赤き魔人の力……軍略兵法の類を全て無意味なものとする、あの力……このラウデン・ゼビルに、せめて半分でもあれば……!」
渇望の光を燃やす、その両眼から、とめどなく涙が溢れ出している。
「いかなる侵略であろうと、退ける事が出来る……ヴァスケリアの守りは、磐石となる! 国を守り、民を安んずる……あの力……人をやめる事で、あの力が……いくらかなりとも、手に入るのであればと……」
「……貴方も、そうなのですね」
自分の姿を見ている、とティアンナは思った。
自分に、彼のような力があれば。彼のように、戦えたなら。
ガイエル・ケスナーの傍で、ティアンナが常に思っていた事だ。
(ガイエル様……貴方が、この世におられる限り……)
ここにいない若者に、ティアンナは心の中から語りかけていた。
(人々は、人外の力に対する希求を、渇望を、決して捨てる事が出来ない……)
「私だけではござらぬぞ女王陛下。御覧ぜられよ、この戦場を!」
ヒレと鉤爪を備えた剛腕で、ラウデンは荒々しく戦場を指し示した。
聖なる戦士たちが、口々に祈りの言葉を唱えながら、シェファ・ランティの振るう雷の杖に粉砕され、降り注ぐ火球に灼き砕かれ、あるいはギルベルト・レインの拳と蹄に叩き潰されてゆく。
東西南北どこを向いても、視界に入るのはそんな光景だけだ。
「赤き魔人の力に愚かしくも魅了され、安易に力を求めたる者ども……生かしておいては、なりませぬ」
言葉に合わせ、ギルデーモンが猛然と踏み込んで来る。
鉤爪が、拳が、鋸状のヒレが、立て続けに一閃する。
ティアンナは左腕を小刻みに動かし、楯の角度を微調整しながら、その連続攻撃を受け流した。
魔法の袖鎧に防護された細腕が、叩き折られてしまいそうな衝撃。それが3度、4度と楯に打ち付けられて来る。
ティアンナは、後退を強いられていた。
「いかが? これが魔獣人間の力ですわ、女王陛下」
声が聞こえた。涼やかに耳朶をくすぐる、若い女の声。
敵の増援であった。
聖なる戦士の新たなる大部隊が、戦場に到着したところである。
「魔獣人間というものを、よくご存知の方には申し上げるまでもなき事なれど……改めて認識していただく事が、どうやら出来ましたわね」
その増援部隊の先頭に立っているのは、高位司祭の法衣をまとう5人の聖職者。うち4名が男、1人は尼僧である。
恐らくは全員が、強化魔獣人間であろう。
若い尼僧がもう1人、その5名に護られる格好で、優美に佇んでいた。
肉感的な凹凸を清楚に引き立てる法衣。被り物から艶やかに溢れ出した、目映い金髪。
禍々しいものを包み隠しているのであろう、人形のような美貌。
初対面の女性である。が、何者であるのかティアンナにはわかった。
「聖女アマリア・カストゥール……貴女が?」
「エル・ザナード1世陛下……ようやく、お目通りが叶いましたわ」
微笑みながら聖女アマリアが、司祭5名による護衛の輪から歩み出して来る。
「ラウデン侯……私に、女王陛下とお話をさせて下さいません?」
「…………」
ギルデーモンが1度だけアマリアを睨み、動きを止めた。
魔獣人間の猛攻から、ティアンナはとりあえず解放された。
そこへアマリアが、涼やかな声を投げかける。
「私どもの作り上げた、魔獣人間という力……魔法の鎧と比べましても、決して捨てたものではないと自負しておりますわ。いかが?」
「何のための力なのですか、聖女殿……ローエン派の方々が一体、何事を為すために、このような力を必要となさるのですか」
ティアンナの視界の中で一瞬、美しい聖女の姿が、ある1人の男の醜悪極まる姿と重なった。
ムドラー・マグラ。
聖女と呼ばれるこの女性は、あの男と同じだ。
ムドラーは、ダルーハ・ケスナーの威を借りて、おぞましい研究を行っていた。
一方アマリア・カストゥールが借りているのは、ダルーハの暴威ではなく、唯一神教の権威である。
「ローエン派の教義を利用して、人々を魔獣人間への道に引き込もうとは……聖女アマリア、貴女の行いはムドラー・マグラ以下であると断言せざるを得ません」
「ムドラー・マグラは、女王陛下が御自身でお討ちになられたのでしたわね」
「あの男と同じように、貴女にも……この世から、消えていただかねばなりません」
今、剣の届く間合いの中にいるのがラウデン・ゼビルではなくアマリア・カストゥールであれば、自分は躊躇いもなく斬殺しているだろう、とティアンナは確信した。ダルーハの面前で、ムドラーを討ち取った時のように。
「唯一神の御もとで、大聖人ローエン・フェルナスに許しを乞いなさい」
「ねえ女王陛下、本当はおわかりなのでしょう? 人々が大聖人ローエン・フェルナスの教え通り平和に生きるためには、平和を守る力が必要であると」
「魔獣人間などという力は、必要ありません」
「魔法の鎧だけで充分と、本当にお思いなのですか?」
涼やかな問いかけの言葉が、ティアンナの心に突き刺さる。
「魔法の鎧だけでは不足であると、御身をもって学ばれたはず……バルムガルド、岩窟魔宮において」
6色揃った魔法の鎧。その力で、デーモンロードを斃す事は出来た。
その力が、しかし全く通用しない相手もいた。
「赤き魔人ガイエル・ケスナー……もはや6色揃う事のない魔法の鎧で、あの怪物に抗し得るとでも?」
魔獣人間ならば、ガイエル・ケスナーに抗し得るのか。
そう言い返そうとして、ティアンナは口籠った。
1人、いた。
ガイエル・ケスナーと互角に戦える魔獣人間が、1人だけ。
「ゼノス・ブレギアス……彼は、本当に残念でしたわ。ですが良いでしょう、エル・ザナード1世陛下。貴女は人間の世を守るという確固たる信念を持って、ゼノス王子の命を奪った。その信念で、どうかお認めいただきたいのです」
アマリアの美貌から、包み隠されている禍々しいものが腐臭の如く漂い出した。
「ヴァスケリア王国が、魔獣人間という戦力を保有する事を。もちろん補助として、魔法の鎧も必要となるでしょう。ヴァスケリアの人民全てを実験材料とする事が出来れば、いずれゼノス王子にも匹敵し得る魔獣人間が生まれるかも知れませんわ。赤き魔人を討ち、人ならざる者どもの暴虐から人の世を守るためには、もはやその朧げなる可能性に賭ける他」
小さな太陽のような火の玉が無数、宙を飛翔した。
全て、アマリア1人に集中して行く。聖女1人を焼き殺すべく。
護衛をしている司祭5名の1人が、まずは人間の姿を脱ぎ捨てた。
法衣がちぎれ飛ぶ、と同時に炎が溢れ出し、轟音を立てて渦を巻く。
アマリアを防護する形に吹き荒れる炎の渦が、降り注ぐ火の玉を全て薙ぎ払った。
猛火と猛火がぶつかり合い、激しい相殺を引き起こす。
炎の渦も火球の雨も、火の粉に変わりながら飛び散り、消えてゆく。
何匹もの、金属製の蛇が見えた。いや、蛇と言うよりは……竜の首、であろうか。
それらが、牙を剥いた口元で、吐いた炎の残滓をメラメラとくすぶらせている。
恐らくは魔法の鎧と同質の金属で出来ている、火竜の首。
十数本ものそれらが、1つの巨大な頭部から生えている。まるで毛髪のように。
その頭部は、司祭の胴体でもあった。
醜悪な人面の形に凹み隆起した、大型の金属塊。それが甲冑のような四肢と、十数匹もの火竜を生やしているのだ。
その巨大な金属人面が、口を開いた。腹部が横一直線に裂けた、ようにも見える。その裂け目が、牙を見せ舌をうねらせながら声を発する。
「聖女アマリアに暴虐を働く者……この強化魔獣人間ドレイクデューサが、滅してくれるぞ」
「相変わらず、魔獣人間作りはお手の物ってわけね」
全身を包む、青色の魔法の鎧。その各所に埋め込まれた魔石を赤く燃え輝かせ、いくつもの火球を発生させながら、シェファ・ランティがおかしな事を言っている。相変わらず、とは何の事か。
青い面頬の下で彼女は、強化魔獣人間ドレイクデューサなど見てはいなかった。
アマリア・カストゥールただ1人を、シェファは見据えている。睨んでいる。
「わかった……わかっちゃったのよね聖女様。あんたが一体、何者なのか」
確信の念に満ちた、口調である。
「確かリム様は、少なくとも1回あんたに会ってるのよねぇ……あのボンクラ領主、何でそこで気付かないんだか」
「……どういう事なの、シェファ」
ティアンナは訊いた。
「貴女は、彼女と面識が?」
「面識、なのかしらね……御本人とは、会った事ないんだけど」
アマリアを睨み据えたままシェファが、謎めいた事を言っている。
「忙しかったから、あんたの事なんて忘れてたわ。忘れた頃に湧いて出て、相変わらずのトチ狂った様ぁ晒してくれるもんねえ、アマリア・カストゥール……じゃなくてゴルジ・バルカウス」
「……何を……言っているの? シェファ……」
狂っているのはシェファの方ではないのか、とティアンナは一瞬つい思ってしまった。
「ゴルジ・バルカウスは……確か、デーモンロードに」
「殺されちゃったのよねえ、御本人って言うか本体は確かに」
シェファは言った。
「だけど、ティアンナ姫は知らなかった? こいつね、鬱陶しい分身が大量にいるわけよ。ここにいるのが最後の1匹、ならいいんだけど。ねえ?」
シェファに同意を求められたアマリアが、微笑した。
いや、それは笑顔なのか。
表情筋が、人間ではあり得ない歪み方をしているように、ティアンナには見えた。
人形めいた美貌が、おぞましく崩れてゆく。
「愚か者の大司教クラバー・ルマンを始め、有象無象ばかりであった……ゆえに、ローエン派の中枢部に潜り込んで主導権を握るのは容易い事であった」
耳をくすぐる涼やかな声で、アマリア・カストゥール……いや、ゴルジ・バルカウスは言った。
「聖なる教えを唱えるだけで、民衆は己の意思で魔獣人間の材料になってくれる……レグナード滅亡の遠因となった唯一神教、大いに利用させてもらったぞ」




