第160話 禍いの不死鳥
まずは尻が見えた。がっしりと力強く引き締まった、鋼のような尻。
太股も見えた。荒々しい筋肉の塊、としか表現し得ない、左右の太股。
腹筋も見えた。妬ましくなるほど美しく凹んだ腹部で、綺麗に分かれた6つの隆起。
胸板も見えた。分厚く広く、たくましく頼もしい、思わず身を預けてしまいたくなる胸板。
鍛え込まれた男性の胸というのは、無様な脂肪の塊でしかない女の胸などよりも、ずっと美しい。
マントを脱ぎ捨てたガイエル・ケスナーの姿を呆然と眺めながらエミリィ・レアはふと、そんな事を思ってしまう。
無論、今はそんな場合ではなかった。
膝の上では、アレン・ネッドが死にかけているのだ。魔獣人間に、腹を刺された。
癒しの力の行使を、1秒たりとも怠ってはならない状態である。
一刻を争う状態にある重傷者は、しかしもう1人いた。
ガイエルの足元で、死体の如く横たわる少年。
その身を包む純白の全身甲冑に、大穴が穿たれている。
背中から入って、左胸へと抜けて行く大穴。
心臓を貫通している、のではないか。腹を刺されたアレンよりも、重傷ではないのか。
(リムレオン様……)
一刻を争う重傷者2名を比べようとしている自分を、エミリィは心の底から恥じた。
今ここで、癒しの力をリムレオン・エルベットに向けてしまえば、アレンが死ぬ。
「……ガイエル……ケスナー……」
白い面頬を吐血で汚しながら、リムレオンは言った。
意識のないアレンと異なり、辛うじて会話は出来る状態である。今のところは。
「……ここは、エミリィ・レアの両親……友達……それにゾルカ・ジェンキムが、眠る場所……どうか出来るだけ、汚さぬように……」
「承知した。魔獣人間のはらわたをぶちまけるような戦い方は控えろ、という事だな」
そんな事を言いながらガイエルは左手で、強化魔獣人間バジリコーンの右腕を掴み、捻り上げている。
捻られた前腕が、五指の代わりに生えた螺旋状の1本角をギュイィイイインッ! と回転させる。
リムレオンを、背後から刺し貫いた凶器。
それを猛回転させたところで、しかしガイエル・ケスナーの握力を振りほどく事など出来はしない。
「ぐっ、ぎゃああああああ貴様っ! 放せ、放さぬか痴れ者! 我ら平和の使徒に刃向かう、世俗の暴虐者がああああッ!」
右腕をメキメキと捻られながらバジリコーンが、悲鳴と怒声を一緒くたに響かせる。
その顔面、兜と面頬の形をした装甲の下で、眼光が禍々しく燃え上がった。
石化をもたらす、バジリスクの眼光。
それが魔獣人間の顔面装甲から迸り、ガイエルを直撃する。
「……喚くな虫ケラ。ここはな、どうやら神聖な場所らしい」
ガイエルはただ、睨み返しただけだ。
眼光と眼光が、ぶつかり合った。
魔獣人間の石化眼光が、砕け散っていた。
「貴様の、この壊れやすい肉体をだな。はらわたが飛び出さぬよう、気をつけて叩き潰さねばならん。実に難儀な話よ」
言葉と共に、ガイエルの右足が離陸する。がっちりと力強く筋肉の盛り上がった太股が、超高速で跳ね上がっていた。
膝蹴りが、バジリコーンの腹部に叩き込まれる。
強化魔獣人間の身体が、へし曲がりながら破裂した。
甲冑状の金属外皮が裂けてちぎれ、臓物が大量に溢れ出して飛散する。
「あ」
ガイエルがそんな声を出している間、飛散したものがエミリィの両親の墓石にビチャビチャと付着する。
一撃で原型を失った強化魔獣人間の屍を見下ろしながら、ガイエルが頭を掻く。そしてエミリィの方を向く。
「……すまん、申し訳ない」
「いえ……」
エミリィとしては、呆然とそう応えるしかない。
ヴァスケリア北部でダルーハ軍の残党を皆殺しにしてのけた時と、同じである。彼は、あの時から全く変わっていない。人助けのためならば、平気で殺戮を行う。
「が……ガイエル・ケスナー……」
クオル・デーヴィが息を呑み、後退りをする。
その右手、中指に巻き付いた蛇の指輪が、白い光を発し続けている。
癒しの力、だけではない。強化魔獣人間たちに攻撃防御両面において唯一神の加護をもたらす、聖なる輝き。
加護を得ていたバジリコーンが、しかしガイエルの一撃で粉砕された。一撃で、生命を絶たれた。その屍は、癒しの力を含む白色光を浴びても再生する事なく、ガイエルの足元で無残にぶちまけられたままだ。
「何故……貴方が、このような場所に……あ、相も変わらず暴虐を為すのか! 独り善がりの正義を、暴力で押し通すのか!」
「ほう、俺の行いが正義に見えるのか」
墓石に付着したものを素手で拭い取りながら、ガイエルは言った。
「まあ何だ、正義でも悪でも中途半端はいかん。俺のした事はな、いささか中途半端であった……地ならしが足りなかったのだよ。貴様らのような輩が蠢き回って不愉快な事をやらかす余地を、残してしまった」
残る魔獣人間2体に、ガイエルは全裸で向き直った。
長く赤い髪が、風もないのに揺らめきうねって、力強い裸身を撫でる。まるで炎のように。
「俺はただ不愉快なもの、気に入らんものを叩き潰すだけだ。それを正義と呼ぶなら呼べ。悪と呼ぶなら呼ぶがいい。何にせよ貴様たちは死ぬ」
その秀麗な顔が、凶猛に歪む。微笑か、怒りの形相か。
「綺麗な死体には、ならんぞ……まあ、はらわたが飛び散らぬよう努力はしてやる」
「ガイエル・ケスナー……そうか、貴様か。噂に聞く赤き魔人」
強化魔獣人間ファイヤースライムが、甲冑状の全身を赤熱させる。草が、木の葉が、周囲で焦げて萎び始める。
「聖女アマリアは、おっしゃった。この世で最も悪しきもの、いかなる慈悲をもってしても救い得ぬ存在……それが、赤き魔人であると」
「救えぬものは滅ぼすしかあるまい、我ら平和の使徒が! 唯一神より賜りし、この力で!」
強化魔獣人間サティロマミーの全身で、金属の包帯がほどけて蛇の如くうねる。
そして、クオル司祭による唯一神の加護を帯びて白く輝きながら、ガイエルを襲った。
光をまとう、包帯状の刃。
何本ものそれらが、様々な方向からガイエルを切り刻みにかかる。
白い光が、砕けて飛び散った。金属の包帯が、全てちぎれていた。
「まさかとは思うが、貴様は今……俺を、切り刻もうとしたのか? 丸腰の俺を、無手の俺を、裸の俺を」
言いつつガイエルが、力強い左右の素手をゆらりと舞わせている。
手刀、であったようだ。エミリィの目では捉えられない速度で、サティロマミーの斬撃を全て弾いてちぎったところである。
「恐ろしい、何と残虐な」
「ひっ……」
弱々しい声を漏らし、後退りをするサティロマミーに、ガイエルがゆっくりと歩み迫る。凶猛に、微笑みながらだ。
「と、なれば……俺も、残虐にゆかねばなるまい」
「ほざくな、悪魔が!」
ファイヤースライムが、赤熱する全身をドロリと不定形化させながらガイエルを襲う。
溶岩のようになった魔獣人間が、横合いからガイエルの裸身を包み込んでいた。
「灼き尽くしてくれるぞ! この聖なる炎をもって!」
「ほう。デーモンロードの炎と比べて、ぬるま湯ですらない……こんなもので、俺をか」
嘲り言葉を紡ぐ、ガイエルの唇が、まとわりつく不定形の魔獣人間に触れた。
愛でるような接吻……いや違う。啜っているのだ。赤熱する液体金属と化したファイヤースライムを、まるで酒でも飲み干すかのように。
全身にまとわりつく溶岩のようなものをズズッ、じゅるるるる……っと残さず吸引した後、ガイエルは口元を片手で拭い、息をついた。
「ふーっ……不味い。だがまあ栄養にならん事もないか」
裸の全身は、全くの無傷である。
美しく割れた腹筋を軽く叩きながらガイエルは、残る1体の強化魔獣人間へと向かって、ずかずかと容赦なく歩を進めた。
「ひ……ひいっ、ま……まま待て、どうか待たれよ」
サティロマミーが、命乞いを始めている。
「わ、我らは平和の使徒であるぞ。お互い、対話による解決を目指そうではないか」
「わかった、では対話をしようか。まずは俺の言い分を聞いてもらう」
逃げ腰のサティロマミーを、ガイエルは物の如く掴み寄せた。強靭極まる素手が、鋭利な金属包帯の束をぐにゃりと握り歪める。
「お前を殺す……以上、俺の話は終わりだ。さあ次は貴様が話す番だぞ」
などと言われて話が出来るような状態ではなかった。
サティロマミーの全身が、ガイエルの手によってメキメキと折り畳まれてゆく。
胴体がへし曲がって左腕と右脚それに頭部を挟み込み、その上から右腕と左脚が巻き付けられる。
歪な球体と化しつつある強化魔獣人間を、さらに金属包帯でぐるぐる巻きにしながら、ガイエルは言った。
「どうした、早く貴様の言い分を述べてみろ。俺1人に話をさせておいて自分では何も喋らんのか。それでは対話にならんぞ? おい」
まるで荷造りでもするかのように手際良くガイエルは、サティロマミーを丸めて縛り、巨大な金属の球体へと作り変えてしまった。
それをガイエルは、片足で思いきり蹴り上げた。
丸まった強化魔獣人間が、歪み、へし曲がりながら高々と宙を舞う。
そして、空中で破裂した。
様々なものが飛び散り、この場には落下せず、しかし森のあちこちに撒き散らされた。
片手を庇にして見上げながら、ガイエルは呟く。
「対話による解決とは、実に難しいものだなあ。戦った方が遥かに楽だ」
「貴方と対話をするには……貴方に、近付かなければならない……」
吐血の咳をしながらリムレオンが、弱々しい声を発している。
「僕も含めて……この世には、それすら困難という者がほとんどだ……ふふっ、僕たちに出来る事……なんて……」
クオルの姿が、いつの間にか見えない。
逃げたのであろうが、追うつもりがガイエルにはないようだ。もはや立ち上がれぬリムレオンを、じっと見下ろしている。
「人間たちに……あまり、ひどい事をしないで下さい……と……貴方に、お願いをする……それだけ、なのかも知れない……」
「その願いを俺が聞き入れない時は、どうする」
リムレオンの傍に、ガイエルは片膝をついた。
「俺がダルーハやデーモンロードのような事をやらかし始めたら? お前たちは、どうするつもりだ。俺を殺して止めようとは思わんのか」
「無理だよ……」
リムレオンの声が、もはや聞き取れない。
膝の上で死にかけているアレンの身体に癒しの力を流し込みながら、エミリィは気が気ではなかった。
アレンを見捨て、リムレオンに癒しの力を注ぐ。それをせずにいられる自分が、揺らぎかけている。
「集中しろ。アレン・ネッドを助けてやれ」
見透かしたように、ガイエルが言った。
「リムレオン・エルベットは俺が助ける……助かるかどうかは、本人次第だがな」
「もう……いいんだよ、ガイエル殿……」
吐血で汚れた面頬の下で、リムレオンが微笑んでいる。儚げな笑顔が、透けて見えるようだった。
「貴方がどう言おうが、僕にはわかる……ガイエル・ケスナー、貴方は大勢の人々を……守ってくれる……だから、頼む……これからも……」
「忘れたか貴様、それとも見て見ぬ振りをしているのか」
ガイエルは立ち上がり、軽く右手を掲げた。力強い五指が、鉤爪の形に曲がる。
「俺はな、ブレン・バイアスを殺したのだぞ。憎むべき仇に貴様一体、何を丸投げしようとしている」
何を言っているのだ、とエミリィは思った。
ブレン兵長が死んだ。それもガイエル・ケスナーに殺された。
そのような事、あるはずがないのだ。
「仇を討て、リムレオン。俺を殺せるまで生き続けろ」
「僕は、ブレン兵長に死なれた……貴方は、ゼノス王子に死なれた……」
リムレオンは叫んでいるようだが、もはや蚊の鳴くような声にしかならない。
「大勢の人が、大切な誰かを失う……もう嫌だ……嫌なんだ……だから……」
「……悪竜転身」
眼前に掲げた右手、その指と指の間で、ガイエルは両眼を赤く輝かせた。
美しい筋肉がメキメキッ! と変異してゆく。
冠のような角が伸び、マントにも似た翼が広がり、赤い大蛇の如き尻尾がうねる。
強化魔獣人間たちに『赤き魔人』などと呼ばれていた怪物が、そこに出現した。
この姿でガイエルはかつて、エミリィたちの眼の前で、ダルーハ軍残党を大いに殺戮してのけたのだ。
「聞け、リムレオン・エルベット」
語りかけながらガイエルが、左腕を曲げた。鱗をまとう二の腕が猛々しく膨れ上がり、鉄球のような力瘤を成す。
そこにガイエルは、右手を近付けた。
「かつてな、竜の血を浴びて人間をやめた男がいた。貴様は1度その男の魂を受け入れて見せたろう? ……真似くらいは、出来るはずだ」
鋭利に甲殻化した五指。かつてダルーハ軍兵士を鎧もろとも引き裂いて見せた、その指先が、鱗をまとう力瘤に突き刺さる。
鮮血が溢れ出し、リムレオンの全身に降り注いだ。
そして発火した。
白い全身甲冑がゴオッ! と燃え上がっていた。
魔法の鎧も、その中身である少年の細い肉体も、轟音を発する炎の中で焼け砕けてゆく。
エミリィには、火葬の光景にしか見えなかった。
「リムレオン様……」
アレンに癒しの力を施しながら、呆然と呟いてしまう。
苦しむ暇もなくリムレオンは、遺灰に変わってしまったのではないか。
遺灰をなおも焼き尽くすかの如く燃え猛る火柱に、ガイエルは語りかけた。
「あのブレン・バイアスですら、最後まで竜の血に耐え抜く事は出来なかった。もちろん貴様など、ひとたまりもあるまい……生身であるならば、な」
リムレオンに届いているとは思えない言葉を、構わずガイエルは続けた。
「だが、魔法の鎧と上手く融合する事が出来れば……あるいは」
「あるいは……何ですか……」
エミリィは問いかけた。
「リムレオン様は……どうなって、しまわれるんですか……?」
「さあな。灰も残さず、この世から消えて失せるか……俺など問題にならぬほどの何かとして、この炎の中から蘇るのか」
赤き魔人の姿が、炎に照らされて、さらに禍々しい赤みを帯びている。
「1人、蘇った男がいる。そいつはなあリムレオンよ、1人の大切な人間に死なれてトチ狂い、大いに馬鹿をやらかした……ブレン・バイアスに死なれた貴様も同じだ。生き延びてトチ狂え。馬鹿をやれ」
炎の中でリムレオンが、その言葉を聞いている。
ガイエルは、そう信じて疑っていないようであった。
「俺への憎しみで生き延びろ、リムレオン・エルベット」
(ガイエル・ケスナー……貴方は……)
心の中で、エミリィは問いかけた。
(貴方もまた、大切な誰かを失ってしまったのではないですか? その誰かの代わりを……貴方は、リムレオン様に求めていらっしゃる……)