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第155話 紅蓮の竜獅子

 悲鳴か、雄叫びか。絶叫か、あるいは咆哮か。

 凄まじい、叫び声であった。崩落した岩窟魔宮が、この上さらに崩れるのではないかと思えるほどに。

「……ほう?」

 何やら興味深げな声を発しながらガイエル・ケスナーが、リムレオンの身体を放り捨てた。

 物の如く投棄された少年の細身が、岩肌に激突する。

 魔法の鎧が全身でキラキラと砕け散ってゆくのを、リムレオンは感じた。

 細く頼りない生身に戻った少年の肉体が、よろよろと起き上がる。その右手中指に巻き付いた竜の指輪が、光の粒子に戻った魔法の鎧を吸収する。

 リムレオンは見回した。何かが、起こったのだ。

 自分を殺害する。それ以上に赤き魔人の興味を引き付ける、何事かが。

 ティアンナが、シェファを助け起こしながら息を飲んでいる。そのシェファも目を見開き、青ざめている。

 マディック・ラザンが、半ば地面にめり込んだまま呆然としている。

 ラウデン侯は巨岩にもたれ、起きながら悪夢を見ているような表情をしていた。

 シーリン・カルナヴァート元王女は、地に座り込んだまま固まっている。

 1人足りない、とリムレオンは思った。誰かが、いない。

「ブレン兵長……」

 名を呟き、見回してみる。

 ブレン・バイアスの姿が、見当たらない。

 代わりに1匹、怪物がいた。

 全身、炎に包まれた怪物。

 炎が、そのまま獣毛に変わってゆく。

 燃え盛るように揺らめく獣毛が、たくましい全身を包んでいる。

 体型は、人のそれだ。力強い戦士の肉体が、さらに筋肉を盛り上げながら獣毛を生やしているのだ。

 左手で、その怪物は何かを放り捨てた。

 生首ほどの大きさの、壺である。その口からは、湯気か煙か判然としないものが漂い出し、先程まで壺を満たしていたのであろう何かの禍々しさを物語っている。

「……許さんぞ……ガイエル・ケスナー……」

 怪物が、言葉を発した。

 気のせい、であろうか。ブレン・バイアスの声に似ている、とリムレオンは感じた。

「我が主君……リムレオン・エルベットに対する暴虐狼藉……許しては、おかぬぞ……!」

 言葉を発する口は、鼻もろとも前方へ大きく迫り出しながら、白く鋭い牙を並べ剥いている。

 それは、竜の鼻面であった。

 竜でありながら、獅子のタテガミを広げた怪物。そのタテガミを割って、鋭利な角が生えている。

 竜にして獅子、そして人型の戦士でもある怪物が今、赤き魔人と対峙しているのだ。

 ティアンナもシェファも、ラウデン侯もマディック司祭も、ただ息を呑むだけで何も言わない。

 リムレオンだけが、声を発した。

「ブレン……兵長……?」

「ゼノス王子も、ギルベルト・レインも、メイフェム・グリムも、そこなるガイエル・ケスナー殿も、あのデーモンロードでさえ、人の姿に化けておりましたな」

 牙を剥き、ブレンは微笑んだ。

「そのような器用な事は出来ませぬゆえ……ブレン・バイアスは死にました。若君よ、貴方が今見ておられるのは単なる幻」

 怪物が、その太い親指で何かを弾き飛ばした。

 飛んで来たものを、リムレオンはビシッ! と受け止めた。

 掌に穴が空きそうな衝撃をもたらしたもの。それは、竜の指輪であった。

「ブレン・バイアスの遺品でございます。何かに使えるようであれば御活用下さい」

「何を……言ってるんですか、ブレン兵長……」

 リムレオンの言葉を聞かず、ブレンは一方的な事を言った。

「さあ、お逃げ下さい。もはや幻に過ぎぬこの身、とは言え……これなる赤き魔人を一時、足止めしておく程度のお役には立ちましょうぞ」

「……面白い。足止めを、してもらおうか」

 ガイエルが右腕を掲げ、拳を握った。

 赤熱する刃のヒレが、ジャキッ! と広がった。

「一瞬ダルーハ・ケスナーと見間違えたぞ。あの男をもう1度、いや何度でも叩き殺すつもりで……戦うと、しようか!」

 赤き魔人の踏み込みに合わせ、刃のヒレが横薙ぎに一閃する。

 ブレンも同じく踏み込み、拳を振るった。岩塊のような右拳が、横殴りに弧を描く。

 剛腕と剛腕が、ぶつかり合うように交差した。

「ぬ……っ」

 赤熱するヒレの斬撃は止まり、だがブレンの拳は止まらない。

 竜のような獅子のような怪物が、右の剛腕をそのまま横殴りに振り切った。赤き魔人の右腕と交差したままだ。

 怪力に引きずられてガイエルがよろめき、どうにか倒れず踏みとどまる。

 そこへブレンが、蹴りを叩き込んだ。

 巨大な左足が、獣毛をなびかせながら暴風の如く唸り、ガイエルの身体をへし曲げ吹っ飛ばす。

 つい先程まで岩窟魔宮の天井であった巨岩に、ガイエルは激突した。

 巨岩が砕け、無数の小さな岩が赤き魔人を埋めてしまう。

「……ほう……この……ッ!」

 降り注ぐ岩を押しのけ、起き上がろうとするガイエル。

 その首に次の瞬間、ブレンの右腕がガシッ! と巻き付いていた。

 毛むくじゃらの剛腕で赤き魔人を捕えたまま、ブレンが巨体を翻そうとする。

 振り回されそうになったガイエルが、しかし重心を落として踏ん張りながら、ブレンの力強い胴体に両腕を回す。

 翼と尻尾を備えた赤色の異形が、超高速で反り返り、橋の形を成した。

 ブレンの巨体が宙に浮いて弧を描き、後方へと叩き付けられる。タテガミと角を生やした頭部が、岩の地面に激突した。

 その地面にビキビキッ……と亀裂が走り、リムレオンの足元に達した。

 ガイエルが即座に起き上がり、倒れたブレンに向かって右足を振り下ろす。

 凶器そのものの爪を生やした足による踏みつけを、ブレンは転がって回避した。巨大な毛玉が転がったように一瞬、見えた。

 赤き魔人の右足が、ひび割れた地面をさらに踏み砕く。細かな岩の破片が、大量に舞い上がる。

 かわしたブレンの方を振り向きながら、ガイエルは拳を振るった。

 いや。その時にはすでにブレンの拳が、ガイエルの顔面に叩き込まれていた。

 赤き魔人が、強風に舞う木の葉の如く吹っ飛んで地面にぶつかり、だが即座に立ち上がって身構える。

 そちらへ向かって、ブレンは巨体を前傾させながら吼えた。

 竜の大口が、獅子の咆哮を放ちながら、猛火を吐き出していた。

 デーモンロードの炎の鞭を思わせる、紅蓮の大渦。その中でガイエルの赤い甲殻がひび割れ、鱗が、強固極まる筋肉もろとも焼け焦げてゆく。

 次に吼えたのは、ガイエルの方だった。

 焼けただれた魔人の異形が、しかし猛火の大渦を蹴散らし、炎の飛沫を飛び散らせながら駆け出していた。ブレンに向かってだ。

「ブレン・バイアス……強い、強いぞ貴様あああああああっ!」

 タテガミをまとう竜の頭部が、激しく揺らぐ。2度。

 ガイエルの拳が、立て続けに打ち込まれていた。右、左。

 3発目は拳ではなく、右前腕のヒレであった。赤熱する甲殻の刃が、ブレンの首筋に向かって閃く。

 鮮血の蒸発する臭いが、漂った。

 ガイエルの斬撃が、ブレンの分厚く生えたタテガミに阻まれて、強固な首筋を完全に切り裂く事が出来ずにいる。少量の血飛沫が、赤熱の刃に灼かれてシューシューと微かな音を発する。

 ガイエルが目を見張り、ブレンが微笑んだ、ように見えた次の瞬間。

 獣毛をまとう左右の剛腕が、赤き魔人を抱き締めていた。

「ぐぅ……ッ!」

 ガイエルが、呻きを漏らす。

 その力強い異形の全身が、ミシミシッ……と悲鳴を発した。ひび割れていた甲殻の一部が、完全に砕けて剥がれ落ちる。

 人間の身体、例えばリムレオンであれば即座に骨も肉も臓物も潰れて原形をなくすであろう死の抱擁が、赤き魔人を拘束していた。

「うぬっ……ぐぉあああああああああっっ!」

 ガイエルが、苦しげに吼えている。

 それは怒号であり、悲鳴でもあった。

 赤き魔人に悲鳴を上げさせながら、ブレンもしかし苦痛の声を発している。

「ぐっ……こ、これまで……ッ!」

 その全身で、獣毛が激しく揺らめいた。まるで炎のように。

 否。獣毛が、タテガミが、全て本物の炎に変わっていた。

 熱風を巻き起こす紅蓮の炎が、ブレンとガイエルを包み込んで燃え盛る。

 圧殺と焼殺を同時にもたらす、ブレンの必殺攻撃なのか。

 吹き荒れる熱の旋風を片腕で防ぎながら、リムレオンは感じた。違う、と。

「ガイエル・ケスナー……貴殿の父上は、本当に化け物であったのだな……」

 炎の中で赤き魔人を抱き捕えたまま、ブレンが笑う。

「このような、ものに……耐え抜くとは……ッ」

「ブレン・バイアス……貴様……!」

「無理矢理に抑え込んではいたが、もはや駄目だ……俺では、竜の血には耐えられん。古の竜が、本格的に俺を焼き殺しにかかっている……貴殿もろともだ!」

 竜の血液に灼かれながら、ブレンは牙を剥き、吼えた。

「見ての通りだ、若君ッ……俺は、もはやこれまで! 全員を引き連れ、退却なされよ!」

「ブレン兵長……!」

「急げ!」

 赤き魔人を抱き締める腕力が、メキメキと強まってゆく。

「この化け物を……首尾良く、道連れに出来るかどうか……今一つ、自信がないのだ……」

 道連れ。

 この兵長は一体、何を言っているのだ。呆然と、リムレオンはそう思った。

 赤き魔人を道連れに、ブレン・バイアスは一体どこへ行こうとしているのか。

「駄目だ兵長……そんな事は、サン・ローデル侯たる僕が許さない……」

 自分は今やサン・ローデルやメルクトの領主ではない。ブレンの主君ではない。

 そんな事はわかっていながら、リムレオンは命令を叫んでいた。

「僕には、貴方が必要なんだ……任務に戻れ、ブレン・バイアス!」

 叫び、駆け出そうとするリムレオンの細い肩を、何者かが背後からガッシと掴む。

「……退くぞ、リムレオン・エルベット」

 ラウデン・ゼビル侯爵だった。

 その手をリムレオンは振り払おうとするが、振り払える力ではない。睨み、叫ぶ事しか出来なかった。

「貴方は……ブレン兵長を、見殺しにするのか!」

「貴様はブレン・バイアスを無駄死にさせるのか!」

 怒声を返され、リムレオンは言葉を失った。

 その代わりのように、シェファが叫ぶ。

「ちょっと……何やってんですかブレン兵長!」

 押し寄せる熱風に逆らって駆け出そうとする少女を、ティアンナとシーリンが2人がかりで掴みとどめている。

 止められながらもシェファは、悲痛な声を発した。

「冗談やめて下さい! この際はっきり言っときますけどね、ブレン兵長の冗談って基本的に全ッッ然面白くないんですよ! やめて下さい本当に!」

「俺は……冗談など、言った事はないぞ。いつだって本気だ」

 ブレンの体内で、何かが高まってゆく。それが、リムレオンにはわかった。

 竜の血がブレンを、高まりゆく炎の塊に変えつつあるのだ。

「だから、これも本気で言う……よく聞いておけよ、シェファ……」

「ブレン兵長……」

「若君を……頼む……若君、おさらばです。どうか……」

 炎の轟音が、ブレンの声を掻き消した。

 竜と獅子の戦士。赤き魔人。

 怪物2体を包み込んで荒れ狂う猛火の渦は、今やほとんど爆発の炎と化している。

 渦巻き荒れ狂う爆炎の中でブレンが、ガイエルの首筋に喰らい付いていた。

 竜あるいは獅子の牙が、赤き魔人の頑強な首筋肉を、いくらかは噛み裂いた。鮮血が噴出した。

 その鮮血が激しく発火し、ブレンの顔面を灼く。

 灼かれながらもブレンは、赤き魔人の首筋から牙を引き抜かず、剛腕の力を緩めず、ガイエルを食いちぎろうとする。圧殺せんとする。焼き殺さんとしている。

 ラウデン侯に引きずられながらリムレオンはもう1度、ブレンの名を叫んだ。

 その叫びはしかし、爆炎の轟音に押し潰された。

 猛り狂う爆発の火柱。その中でガイエルが、己に食らいつくブレンの巨体を抱き締めていた。

 愛おしそうに。本当に、愛おしそうに。



 ゴズム山脈は、火山帯ではない。

 だが、それはまるで噴火のような光景だった。

 爆炎が、岩窟魔宮を粉砕しながら、高々と天空を灼く。

 その様をリムレオンは、ただ眺めていた。

 ブレン・バイアスの命が燃え猛る様を、呆然と見つめるしかなかった。

 ラウデン侯爵に引きずられるまま、どれほど走ったのかはわからない。

 とにかく先程まで自分らのいた岩窟魔宮が、噴火の如き爆炎に焼き砕かれる光景を遠目に見守る場所に、リムレオンたちはいた。

 ゴズム山中の、さほど険しくはない岩場である。

 リムレオン、だけではない。シェファが、マディックが、岩の上に座り込んで口もきけずにいる。

 シェファは青ざめ、マディックは、聖職者らしからぬ険しい表情を硬直させていた。

「……ひとまず、タジミ村に帰るべきであろう」

 言葉を発したのは、ラウデン侯である。

「王母シーリン・カルナヴァート殿下の救出には成功した。目的は、果たしたのだ」

「そのために……ブレン・バイアス殿が……」

 シーリンが、消え入りそうな声を発した。

「私を救う事が……あの方の命に見合う、戦果なのですか……?」

「そのような事、お考えになりませぬように」

 ラウデンが言った。

「ともかく貴女には、タジミ村へ……ジオノス3世陛下の御元へと帰還する義務がおありです。さあ、参りましょう」

「その前に1つ、確認しておく事がある」

 言葉と共に、マディック司祭が立ち上がった。

 険しい表情が、1人の少女に向けられた。

 少し離れた所に佇んで岩窟魔宮の方を見つめている、1人の少女に。

「ティアンナ・エルベット……御自身の言葉で語らねばならない事が、貴女にはあるはずだ」

 この男は聖職者のくせに何を怒っているのだ、とリムレオンは思った。

 ブレン・バイアスが死んだのだ。神に仕える者であるならば、まず祈りを捧げるべきではないのか。

(そんな事をされても……ブレン兵長は、帰って来てはくれないけれど……)

 喉に血の味が広がるほど、ブレンの名を叫んだ。もう声が出ない。呟く事も、出来はしない。

「私は……ゼノス・ブレギアスを殺しました」

 ティアンナが言った。どうでも良い、とリムレオンは思った。

 ブレン・バイアスが死んだ。それに比べれば全てがもはや、どうでも良い。

「そのためにガイエル・ケスナーの怒りを買い、ブレン兵長が命を失う事になりました。全ての責任は、私にあります」

「そんな事を追及してるわけじゃない。俺が訊きたい事は1つ……何故、ゼノス王子は死んだのか?」

 マディックの声が、震えている。

「死ななければならないほどの何を、彼はしたのだ」

「私は……ゼノス王子による妨害に遭い、メイフェム・グリムを討ち漏らしました。それが許せなかったのです」

「メイフェム殿が……!」

 シーリンが、息を呑んだ。

「あの方が、タジミ村にいらしたの!?」

「姉上にとっては恩人、ですが私にとっては……禍の種を胎内に宿した、悪しき存在でしかありません」

「だから殺そうとしたのか……先生を、その子もろとも……」

 マディックが、涙を流し始める。この男は、怒り狂うと泣き出すのだ。

「結果、貴女はゼノス王子の命を奪った……そして、止まる事が出来なくなった!」

 わけのわからない事を、マディックは喚き始めた。

「間違いなくゼノス王子は貴女を、あるところへ繋ぎ止めていた! それを貴女は、御自身の手で断ち切った……ゼノス・ブレギアス、メイフェム・グリム、ガイエル・ケスナー! 人間ではない彼ら彼女らを、人間の世から切り捨てる! その道を歩み始めるのかティアンナ・エルベット! エル・ザナード1世!」

 ティアンナが何をやり始めようと自分には関係ない、とリムレオンは思う。

 何しろ、ブレン・バイアスが死んだのだ。自分に出来る事など、もはや何もない。

「ねえマディック司祭。貴方には、わかるかしら?」

 ティアンナの口調は、穏やかだ。

「人間ではない方々に、戦いを、汚れ役を、全て押し付ける。そして自分は何もしない……これは、とても幸せな事よ。強大な力に守られるまま、安全な場所で綺麗事を口走っていられる。こんな幸せは、どこにもないわ。だからね、駄目なのよ」

「何がだ……」

「人間の世界に、こんな幸せがあってはならない。ガイエル様もゼノス王子も、あってはならない幸せを私に押し付けてくれたわ。だから」

「だから存在してはならない、とでも言うのか! ガイエル・ケスナーもゼノス・ブレギアスも!」

 涙を流しながら、マディックは激昂している。

「貴女も俺も他の人々も、あの2人によってどれほど守られ助けられてきたか! 少しは考えた上で言ってるのか!」

「もちろんよ。貴方よりも誰よりも私は、あのお二方に守られてきたわ。自分1人では何も出来ず、殿方に全て押し付けて綺麗事を言うだけの姫君に、私は成り下がっていた」

 怒り狂うマディックに対し、ティアンナは冷静だ。

「それでは駄目。人間は、自力で戦わなければいけないのよ。人間ではない方々に守られているだけでは……人身御供を捧げて保身を図る、愚かで哀れな存在から、人間はいつまでも脱却出来ない」

「ダルーハ・ケスナーの叛乱に立ち向かった、その時から……貴女はずっと、その思いを育て続けてきたんだな」

 マディックは、涙を拭った。

「だけど俺は、やはり貴女は間違ってると思う。恩義を忘れて、何が人間の自立だ! そんな道を貴女が本当に歩み始めると言うのなら……俺は、ここまでだ」

 涙を拭い、ティアンナに背を向けながら、マディックは言った。

「貴女には、ついて行けない。力を貸すわけにはいかない……俺の力なんて元々、大して役には立ってなかっただろうけど」

「そんな事はない」

 ラウデン・ゼビルが、言葉を挟んだ。

「貴公は我らにとって守りの要だ。その力、女王陛下に敵する立場で用いると言うのなら……生かしておくわけにはいかんぞ、マディック司祭」

「おやめなさい、ラウデン侯爵」

 マディックを追おうとするラウデンを、ティアンナは片手を上げて制した。

「私などの傍にいなくとも、マディック司祭は大勢の人々を救う力をお持ちです……善き道を、歩んで下さい。その道の先で、願わくば再会を」

「ゼノス王子を、過失で死なせてしまった。そのせいで貴女は一時的に乱心しているだけ、である事を俺は願う。唯一神に祈っている」

 躊躇いない足取りで、マディックは去って行く。

「悔い、悼み、悲しみ、祈り、涙を流す……ゼノス王子のために貴女が出来る事なんて、それしかないんだぞティアンナ・エルベット……」

 言葉と共に小さくなって行くマディックの背中を、リムレオンは呆然と見送った。

 マディック・ラザンが去った。自分はそれを、止められなかった。

 自分には、何も出来ない。

 何故なら、ブレン・バイアスが死んでしまったのだから。

 この場に残った者たちを1度、見回してから、ティアンナは言った。

「リムレオン、シェファ、ラウデン侯も。私を許せないと思うのなら、この場でお別れしましょう。姉上、私をバルムガルドの法でお裁きになりますか? 貴女が課して下さるのなら、私はいかなる刑罰も受けますが」

「ティアンナ……貴女は……」

 シーリンが、何かを言おうとして言えずに絶句した、その時。

「法の罰など、受けさせはせん」

 重く響く声が、シーリンとティアンナを、ラウデン侯を、シェファを、リムレオンを、威圧し硬直させる。

 こちらを見下ろす岩の高台に、その怪物は立っていた。

 ひび割れた甲殻、焼けただれた鱗。強固な筋肉が所々で赤く露出し、禍々しく脈打ち、熱く発光している。

 負傷した全身から、炎にも似た闘気を発して揺らめかせながら、赤き魔人は佇んでいた。

 その右手に握られた何かが、煙か湯気か判然としないものを立ち上らせている。

「ガイエル・ケスナー……」

 リムレオンは、呆然と問うた。

「それは……何かな? 一体……」

「ブレン・バイアスの心臓よ」

 まるでリンゴでも齧るかのように、ガイエルはそれに食らいついた。

「ふ……絶妙の焼き加減だ。貴様らには、やらんぞ」

 剥き出しの白く鋭い牙で、ブレンの心臓をがつがつと食らうガイエル。

 リムレオンは再び、問いかけていた。

「ガイエル・ケスナー、貴方は……ブレン兵長を……食べて、しまったのか……?」

「程良く焼き上がったところで、肉も骨も臓物もな……ふふっ、俺は……」

 ガイエルの声が、震えを帯びる。笑っているのか、あるいは泣いているのか。

 泣いているのだとしたら、ブレンの死を悲しんでくれているのか。

「俺はな、生まれてから今まで……こんな美味いものを、食べた事がない……」

 炎のような闘気が、轟音を立てて燃え上がり、渦巻く。

 その中で、赤き魔人の負傷した肉体に異変が生じた。

「人である事を捨ててまで戦い抜いた、戦士の命が……力が……俺の身体に、漲ってゆく……」

 露出していた筋肉の表面が固まって皮膚となり、鱗を生やし、あるいは強固に隆起して甲殻を成す。

 ブレンが命を捨ててまで負わせた傷が、全て無かった事にされていた。

「ブレン・バイアスは今……俺の、血肉となった。俺の中で生きている、などと言ったら怒り狂うか? リムレオン・エルベットよ」

 燃え盛る闘気の渦の中から、無傷のガイエル・ケスナーが姿を現した。

 気のせい、であろうか。

 元々力に満ち溢れていた筋肉も、真紅の甲殻も、一回り近く分厚さを増しているように見える。

 自分があまりにも非力だから巨大に見えてしまうのかも知れない、とリムレオンは思った。

 シェファとリムレオンを、シーリンを、ラウデン侯爵を、その細い生身の肉体で庇うかのように、ティアンナが立った。下着のような鎧をまとう小柄な細身を、赤き魔人の眼光に晒した。

「ガイエル様……!」

「殺すならば自分1人に、などと言いたいのだろうが、そうはいかんぞ」

 こちらの全員を紅蓮の眼光で睥睨しながら、ガイエルは言った。

「……ゼノス・ブレギアス、それにブレン・バイアス。男2人の命を踏み台にして、貴女は一体どこへ上り詰めて行くのだろうな」

 言葉に合わせ、ガイエルがこちらに背を向ける。

 広い翼がバサッ! とマントの如く翻り、赤い大蛇のような尻尾が獰猛にうねる。

「見届けさせてもらうぞ、ティアンナ。それまで命は預けておく」

 力強い翼を背負いながら、赤き魔人は歩いて立ち去ろうとしている。

 魔人とは言え、人型の生物である。飛行は苦手なのかも知れない。

 それが、しかしこの怪物の弱点になり得るなどとは、リムレオンには思えなかった。

 地上で戦おうが、空中から攻撃する手段を入手しようが、自分たちがガイエル・ケスナーに勝てるわけがないのだ。

 ブレン・バイアスが、もういないのだから。

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