第152話 逆鱗
「し、醜悪なる地獄の悪鬼が! 邪悪の化身が! かかか必ずや唯一神の罰がぶっ」
それが、その男の最後の言葉となった。眼球が、脳漿の飛沫が、頭蓋骨の破片が、飛び散った。
潰れ散った男の名を、マチュアは知らない。唯一神教ローエン派の、そこそこ地位の高い聖職者であろうという事がわかるだけだ。
その聖職者が、腰を抜かし、尻餅をついたまま、踏み潰されていた。鉄槌のような蹄にだ。
魔獣人間グリフキマイラが、そこに着地していた。
着地と同時に、大型の長剣が振り下ろされる。
リグロア王家の剣。その幅広い刀身が、
「必殺! 爆裂斬り、喰らいやがれい!」
ゼノス王子の気合いと共に、深々と大地を裂いて土に埋まる。
怪力が、地中へと流し込まれてゆく。
そして、溶岩の如く噴出する。
マチュアの視界内あちこちで、聖なる戦士たちが、ことごとく砕け散った。
鈍色の金属屑をこびりつかせた有機物の残骸が、噴き上がった土もろとも激しく飛散する。
魔獣人間に成り損なった者たちが、魔法の鎧の量産品を着せられて『聖なる戦士』などと名付けられ、聖女アマリア・カストゥールの尖兵としてタジミ村を攻め、そしてゼノス・ブレギアスの迎撃に遭ったところである。
広大なタジミ村を貫いて流れるタズマ川の、下流域。山林から、川原へと差し掛かった辺りだ。
近辺の村落に攻め入ろうとしていた聖なる戦士の軍団が、片っ端から破裂してぶちまけられ、原型もとどめず散乱している。
ゼノス王子1人によって作り出された、その殺戮の光景を、マチュアは樹上から見つめていた。
8歳である。村の、同じ年頃の子供たちの中では、身体を動かすのが得意な方だ。木登りも下手ではない。
そんなマチュアに、ゼノスが声をかける。
「おう嬢ちゃん。もう、降りて来ても大丈夫だぜー」
猛禽の足そのものの形状をした左手を振る、三つ首の魔獣人間。
その頭上ではバルムガルド国王ジオノス3世が、楽しげにはしゃいでいる。獅子、山羊、荒鷲、3つの獣の頭部に囲まれながらだ。
ゼノス王子が、赤ん坊の国王を頭に乗せたまま駆け出したので、マチュアはつい追いかけて来てしまった。
来たところで、出来る事など何もないと言うのにだ。
戦いの場では、自分など何の役にも立たない。それは、メイフェム・グリムと行動を共にしていた時から、わかりきっていた事である。
軽めの傷なら、癒しの力で治す事が出来る。
癒しの力の使い方を教えてくれたのも、メイフェムである。
彼女はかつて、ゴルジ・バルカウスの一党に属していた。ゼノス・ブレギアスと共にだ。
だからと言って、この元リグロア王太子が、メイフェムの行方など知っているわけがない。それはマチュアとて、頭では理解しているのだが。
「ゼノス王子……あのう、メイフェム様は……」
するすると幹をつたって地面に降り立ちながら、しかしマチュアは言った。
「メイフェム様は……どこへ、行かれてしまったんでしょうか……」
「どこ行っちまったんだろうなあ。デーモンロードも、死んじまったってのに」
国王を騎乗させたまま、ゼノスは天を仰いだ。
「なあ嬢ちゃん……メイフェム殿が、デーモンロードの子供を孕んじまったって話。本当なんか?」
「はい……ティアンナ姫が、おっしゃってました……」
マチュアは俯いた。
自分を守るためにメイフェムは、デーモンロードに身を捧げたのだ。
(マチュアは……メイフェム様に、合わせる顔がありません……でも、会いたい……)
「……フェル坊の、友達だよな」
ゼノスが言った。
マチュアは、思わず顔を上げた。
「え…………」
「メイフェム殿の、子供がさ」
凶猛な獅子の口元で、ゼノスはにっこりと牙を剥いた。
「2人とも、俺の頭に乗っけてやんよ。マチュア嬢ちゃんもさ、子守り頼むぜ?」
「ゼノス王子……」
メイフェムが生んだ子供ならば、自分にとっては弟か妹のようなもの。
マチュアは一瞬、そんな事を思ってしまった。事はそんな類の単純な話ではないと無論、わかってはいる。
複数の、いくらか物々しい足音が聞こえた。
聖なる戦士たちが、またしても出現した、わけではなかった。
「こちらも、あらかたは片付いているようだな。ゼノス王子」
黄銅色の全身甲冑が、黒っぽい返り血でドロリと汚れている。
そんな血生臭くも力強い姿の、ブレン・バイアスであった。
タジミ村に元いた兵士の一団を、引き連れている。
「いよう、ブレン兵長。そっちはどうよ」
「クレスト村方面の敵は掃討した。貴公に加勢が必要とは思わんが一応、討ち漏らしがないかどうかの確認をな……民の暮らす場所に、残敵の潜伏など許されん」
「そうだなあ。1匹か2匹は、逃がしちまってねえとも限らねえ」
自身の作り出した殺戮の光景を、ゼノスは3つの頭部で見回した。
「まあ、残敵の狩り出しは我々に任せておけ。それよりゼノス王子には、ゼビエル村方面へと向かってもらいたい。敵の主力と思われる大部隊が、そちらから侵攻中であるとの報告を受けている……女王陛下が、お1人で迎撃に出られたらしい」
「うおお、相変わらず無茶すんなあティアンナ姫は」
ゼノスの全身が燃え上がった、ようにマチュアには見えた。
この魔獣人間は今、目に見えそうなほどに闘志を燃やしている。
「待ってろよ姫。今、俺が助けに行くぜい!」
「おい、国王陛下は置いて行け」
「おう、そうだな。待ってろフェル坊。叔父さん、今から全力でひとっ走りしなきゃいけねえからよ」
巨体を屈めたグリフキマイラの頭から、ブレンが恭しく、国王の小さな身体を抱き上げる。
「んじゃ、ちっと行ってくらあ!」
身軽になったゼノスが、ゼビエル村の方向へと駆け出した。
その姿は、すぐに見えなくなった。マチュアもブレンも、見送る事さえ出来なかった。
「マチュア殿……陛下を頼む」
ブレンが、国王を抱いたまま身を屈める。
厳つい黄銅色の手甲の上から、マチュアはジオノス3世を抱き上げた。
少女の小さな細腕の中で、フェルディはきゃっきゃっと明るくはしゃぎ、可愛い両手を振っている。
疾風の如く駆け去った、ゼノス王子に向かってだ。
アルド村方面の敵を殲滅した、という報告が入った。
撃退ではなく、殲滅である。1人残らず殺し尽くした、という事だ。
民間人の生活する領域に、生きて潜伏する敵を残さぬように。それが、魔法の鎧の勇者たちの方針であるらしい。
それに従ってシェファ・ランティは、アルド村近辺に群れた聖なる戦士たちを、殺し尽くしてきたようである。
彼らを率いていたらしい1人の聖職者が、容赦なく縄で縛り上げられていた。
「ば、罰が……唯一神の罰が、下ろうぞ……」
「下してみなさいよ、あんたたちの手で! 今すぐ、ほらあ!」
青い全身甲冑に身を包んだ少女が、右手に魔石の杖を携えたまま、左手で聖職者の身体を掴み引きずっている。
「シーリン様、戻りました。あの鎧どもは1匹残らず片付けましたけど……こいつは一応、何か偉い人っぽかったんで生け捕りにしました。尋問とか、します? しないんなら殺しますけど」
聖女アマリア・カストゥールの追従者の1人であろう。癒しの力など使えない、名ばかりの司祭。
その縛り上げられた身体をシェファは、シーリン・カルナヴァートの眼前に放り出した。
放り出された司祭に、近衛兵たちが槍を突きつける。
「御苦労様でした、シェファ殿」
シーリンはまず、言葉をかけた。
タジミ村の中央、議場として使われている広場。
ここの守りが手薄になる、とティアンナは危惧していたようだが、彼女がゼビエル村方面へと向かってからシェファが戻って来るまで、とりあえずは何事もなかった。
周囲に近衛兵たちを従えたままシーリンは、捕われのローエン派司祭を見下ろした。いくらか偉そうになってしまうのは、まあ仕方がない。
見下ろされながら、司祭が呻く。
「元ヴァスケリア王女……シーリン・カルナヴァート妃殿下とお見受けする……何ゆえ、このような無体をなさるのか。我ら平和の使徒に、何たる、何たる事を」
「それは、こちらの言葉ですよ。ローエン派の方」
シーリンは言った。
「民の難儀につけ込んで、このバルムガルドを己がものにせんとする……平和の使徒たる方々の行いとは、とても思えませんが」
「そ、それは誤解というもの。我々は大聖人ローエン・フェルナスの教えをもって、この国をお救いせんと」
「具体的には、どのように?」
シーリンは、語調を強めた。
「そこにおられるシェファ・ランティ殿をはじめ、魔法の鎧に関わりある方々。それにメイフェム・グリム殿、レボルト・ハイマン将軍、ゼノス・ブレギアス王子、ガイエル・ケスナー殿といった人間ではない方々……皆様が魔族と戦い、その首魁デーモンロードを討ち、ダルーハ・ケスナー卿の復活という想定外の事態をも鎮め、それが目的ではないにせよバルムガルド王国を救って下さいました。その後になってローエン派の方々が、今更この国の民のために何をして下さると?」
「民を救う手段として、戦いしかお認めにならないとは……国政に関わる御身としては、了見の狭きも甚だしい。それではアゼル派の狂信者どもと同じではありませんか」
司祭が、まあローエン派らしい事を言っている。
「何かを守るため、などというのは詭弁に過ぎないのですぞ。いかなるものであれ戦いは、別の戦いと悲劇をもたらすものでしかないのです。戦いで傷を負った民の心を癒す事こそ、この国にまず必要なものでありましょう? その役目を、我ら唯一神教ローエン派が」
「魔獣人間の成り損ないに、魔法の鎧の出来損ないを着せて……あんなもの大量に引き連れて一体、何をどう癒すってのよ」
シェファが、司祭の胸ぐらを掴んだ。
青色の兜と面頬の上からでも、少女の怒りの形相が見て取れるようだ。
「困ってる人たちをローエン派に引きずり込んで、魔獣人間に作り変える! 失敗作は、あの聖なる戦士とかいうのにして使い捨てる! あんた方がヴァスケリアでやってるのと同じ事を、この国でもやろうとしてるってだけでしょうがあああ!?」
「せ、聖なる戦士はな、自ら志願した者たちなのだぞ……その信仰心を、無駄になど」
「この国でも志願させようってわけ!? 旦那さんやお父さんがいなくなっちゃった、女の人とか子供とかを! その人たちの心に、絶望に、つけ込んで!」
シェファの全身、青い魔法の鎧の各所に埋め込まれた魔石が、赤く発光する。
「デーモンロードが死んだのを見計らってから、救世主面してそういう事やり始める連中に! 一体、何が癒せるってわけ? ねえ? ねえ!? ねえちょっと答えなさいコラァ!」
「……いささか誤解があるようだな、シェファ・ランティ」
シーリンの傍らに立つ近衛兵の1人が、言った。
「デーモンロード健在なりし時から、あの聖なる戦士とやらいう者どもを率いてバルムガルドに入国し、魔族と戦っていた男がいる。ラウデン・ゼビルだ。奴の思惑はどうあれ、結果として幾つかの町や村が救われている。それだけは、あの男の名誉のために言っておこう」
若い兵士である。整った顔立ちは、近衛兵と言うよりも、貴族階級の騎士のようだ。
貴公子然とした、その容貌に、シーリンは見覚えがあった。
「だがな、他の者どもは違う。まさしくシェファ・ランティの言う通り、デーモンロードの死を見計らってこの国の窮状につけ込まんとする屑ども……生かしてはおかぬ!」
怒りの言葉と共に、その若き近衛兵は炎を吐いた。
まるで小さな太陽のような、火炎の球体。
シェファが、飛びすさった。
縛り上げられた司祭だけが、そこに残され、火球の直撃を喰らった。
焼死体も残らなかった。僅かな遺灰が、さらりと舞っただけだ。
「あんた……!」
シェファが、着地しながら魔石の杖を構える。が、それ以上の事は出来ずにいる。
若き近衛兵……に化けた何者かが、右腕でシーリンの身体を抱き捕えているからだ。
容赦のない腕力で、楯の形に捕えられたまま、シーリンは呻いた。
「レボルト将軍……!」
「バルムガルドを救った者たちの1人として、私の名を挙げて下さった事……感謝いたします。シーリン・カルナヴァート王母殿下」
口から、両眼から、炎のような輝きを溢れさせながら、レボルト・ハイマンは言った。
「バルムガルドを裏切った身なれど、やれるだけの事はさせていただく。今しばらく、お付き合い願いましょう……悪竜転身」
近衛兵の甲冑が裂け、皮膜の翼が広がった。
黒い大蛇のような尻尾が伸び、凶暴にうねって宙を裂き、他の近衛兵たちを打ち据える。
甲冑の残骸をこびり付かせた屍がビチャビチャッ! と飛散した。
その様を、シーリンは上空から見下ろしている。
魔獣人間ジャックドラゴンは、シーリンの身体を恭しく抱き捕えたまま背中の翼をはためかせ、空中へと舞い上がっていた。
シェファが地上から魔石の杖を向けたまま、しかしやはり何も出来ずにいる。
自分が人質にされているからだ、とシーリンは思った。
「人質となるよりは舌を噛み切る、などとお考えになりませんように。貴女は、この国に必要な御方だ」
カボチャの裂け目そのものの口で、レボルトが囁く。
空中で捕われている、その想像を絶する圧迫感の中から、シーリンは辛うじて言葉を返した。
「元ヴァスケリアの王族である、私を……そのように、買いかぶって下さるの?」
「ヴァスケリア人であろうが何であろうが、バルムガルドには今もはや貴女しかいないのですよシーリン殿……聞け! シェファ・ランティ。そして伝えろ! 魔法の鎧の者どもに! ゼノス・ブレギアス、そして赤き魔人に!」
地上に向かって、レボルトは吼えた。
「貴様たちと結着をつける! 全ての結着をつけるゆえ、全員でシーリン・カルナヴァートを助けに来い! 災厄の始まりの場所……ゴズム岩窟魔宮へと、な」
おぞましいものが己の胎内で脈打っているのを、メイフェム・グリムは感じていた。
自分の腹を引き裂いて、おぞましいものを掴み出す。たやすい事ではないが、不可能ではない。
その後で、癒しの力を自分に使えば良いだけの話だ。
魔獣人間と化した、この身であれば、腹を裂いたところで即死する事はない。
それをせずに自分は今、逃げている。無様に膨らんだ腹を、両手で抱えるような格好で。
その腹が内包している、おぞましいものに、出来る限り負担をかけぬよう遅々とした足取りでだ。
(何を……私は一体、何をしているの!? 私は……)
「た、頼む! 頼むぞメイフェム・グリム!」
何体目かのデーモンが、叫びながら斬殺された。一閃した赤色の光に、両断されていた。
「魔族の、王子を……デーモンロード様の、御子を……」
両断された屍が、赤色光に灼かれ、サラサラと崩れて遺灰と化す。
「……魔族の王子など、生ませるわけにはいきませんよ」
死をもたらす赤色の光をまとう、細身の長剣。
赤く輝く刀身を揺らめかせながら、女王エル・ザナード1世は歩み迫って来る。
「いずれ奪う事になる命ならば……最初から、生ませはしません」
その優美な細身を包む魔法の鎧は、赤い。まるで返り血にまみれたかのようだ。
しかし彼女は、デーモンたちの返り血を浴びているわけではなかった。
「何をしておる、早く逃げろ!」
「我らとて、こやつが相手では……そう長く、止めてはおけぬ!」
猛々しく三又槍を振りかざし、女王に挑んでゆくデーモンたち。
赤く武装した少女の細身が、ゆらりと翻る。それと同時に、真紅の光が一閃。
魔力の赤色光を帯びた長剣が、空中に幾重にも斬撃の弧を描き出す。
その弧に触れたデーモンたちが、滑らかに切り刻まれながら光に灼かれ、血を噴き出す前に焦げて砕け、灰と化す。
返り血に汚れる事のない、赤熱の大殺戮であった。
その光景に背を向け、魔獣人間バルロックは逃げた。逃げながら、よろめいて大木にもたれかかる。
こんなふうに弱々しく動くだけで、負担がかかってしまうのだ。胎内で育ちつつあるものに。
徹底的に負担をかけ、潰してしまうべきなのだ。このような、おぞましいものは。
メイフェムは、そう思った。
思った事を実行出来ない、無様な女魔獣人間に、女王エル・ザナード1世がゆっくりと追い迫る。
彼女が今から行おうとしている事は、別に取り立てて残酷なものではない。
デーモンロードと女魔獣人間との間に出来た子供など、生かしておけるわけがないのだ。どのような怪物が生まれるものか、メイフェム自身でさえ想像がつかない。
大勢の民を守らねばならぬ者として、エル・ザナード1世は当然の事をしようとしている。
優美な面頬の前で、女王は赤熱する刃を立てた。
「……私を憎みなさい、魔獣人間」
「言われずとも……!」
おぞましく膨張した腹を、まるで庇うように抱きながら、メイフェムは応えた。
「エル・ザナード1世……私は、貴女が憎い。だから、この……おぞましいものを、この世に産み落とす事にしたわ。デーモンロード以上の怪物に、育て上げてやる……! さあ、私を殺しなさい小娘! 私を生かしておいたら、この世に怪物が解き放たれるのよ!」
「お見事……!」
エル・ザナード1世が、踏み込んで来た。
赤く輝く長剣が、まっすぐに突き込まれて来る。赤熱する光が、一直線にメイフェムを襲う。
そして、止まった。
赤熱する長剣は、魔獣人間バルロックの身体ではなく、別のものに突き刺さっていた。
メイフェムの眼前に突然、割り込んで来た、大柄でたくましい異形の肉体。その分厚い胸板に。
「いけねえ……そいつは、いけねえよ。ティアンナ姫……」
ゼノス・ブレギアス。魔獣人間グリフキマイラ。
その力強い背中から、赤く輝く切っ先が現れていた。
左の胸板から入った長剣が、背中へと抜けているのだ。
恐らく、いや間違いなく、心臓を貫通している。
その刃が、引き抜かれて行く。
グリフキマイラの巨体の向こう側で、女王がよろめいている。それが、メイフェムにはわかった。
「ゼノス王子……」
「メイフェム殿……早く、行きな……」
呻くゼノスの、背中の傷口から、赤い光が漏れている。
長剣は引き抜かれた。だが赤熱する魔力光は、グリフキマイラの体内に残っている。
ゼノスの肉体を、内部から灼いている。
メイフェムは片手を掲げた。鋭利に甲殻化した五指が、白い光を発する。
癒しの力。
淡く白い輝きが、グリフキマイラの背中の傷口に流れ込む。
だが、すぐに消えた。まるで、赤い光に蹴散らされるかの如く。
ゼノスの肉体は、もはや癒しの力を受け付けない状態に陥っている。すなわち、死んでいる。
刺し貫かれた左胸の内部では、恐らく心臓がすでに、デーモンたちの屍と同じく灼け砕けているはずだ。
そんな状態でありながら、ゼノスは言った。
「フェル坊の、友達……頼むぜ、メイフェム殿……」
メイフェム・グリムが、よろよろと逃げて行く。木立の奥へと、消えて行く。
それがわかってもティアンナは、追う事が出来ずにいた。
追いかけて殺す。そんな意思と行動力は、魔石の剣を通じてゼノスの体内に吸い取られてしまった。
「ゼノス王子……何を……」
ティアンナは後ずさりをした。背中が、大木の幹に触れた。その木がなかったら、崩折れ座り込んでいたかも知れない。
「貴方、一体……どういう、つもりなの……」
ゼノスは答えない。獅子の顔面で、微かに笑っただけだ。
もはや、声を出せる状態ではないのだろう。
何故。
その言葉だけが、赤い魔法の兜の内部で、ティアンナの頭を満たしながら渦巻いている。
ゼノス王子は何故、こんな事をしたのか。
その結果、何が起こったのか。自分は、何をしてしまったのか。
足音が聞こえた。慌ただしく、何者かが駆け寄って来ている。
「エル・ザナード1世陛下……それにゼノス・ブレギアス王子! このような所に、おられましたか。一大事でございます!」
王母シーリン・カルナヴァートを護衛する、近衛兵の1人だった。
「も、申し訳ございません。我らの力不足と不手際で……レボルト・ハイマンが王母殿下を拉致、岩窟魔宮へと逃げ去った由にございます!」
「わかった。レボルトの野郎、俺らを誘い出して決着つけようってんだな」
もはや言葉を発する事も出来ない、はずのゼノス王子が、力強い声を発した。
左胸板の、赤い光を漏らす傷口を、片手で隠しながらだ。
「義姉さんを助けに行くのは、俺らに任しとけ。おめえら、とにかく村の連中を騒がせねえようにな」
「はっ。すでにシェファ・ランティ殿が、単身で岩窟魔宮へと向かわれました。ラウデン侯やマディック司祭が現在、それを追っております」
ブレン兵長やリムレオン、それにガイエル・ケスナーも、それを知って駆け出す事になるだろう。岩窟魔宮近辺で集結、という形になりそうだ。
先走ったシェファの身に何事も起こらなければ、の話だが。
「……行きなよ、ティアンナ姫」
近衛兵が駆け去って行ったのを確認しつつ、ゼノスは近くの大木にもたれた。
そして、翼ある背中で幹を擦りながら、座り込む。
「義姉さんを、助けねえと……俺も、すぐ行くからよ。ただ、ちょっと……俺、ティアンナ姫に思いっきりブッ刺されて……勃っちまったからよう……」
隆々としたものが、ゼノスの股間で屹立している。
「一発、抜いてから行くわ……じ、じっと見てねえで、先に行っててくれよう恥ずかしいよう」
「…………」
シーリン・カルナヴァートを、救出しなければならない。
自分の姉だから、ではない。彼女はこのバルムガルド王国に、そしてヴァスケリア王国にとっても欠かすべからざる存在である。彼女がバルムガルドにおいて実権を握っていてくれる限り、ヴァスケリアとも良好な外交関係が維持出来るのだ。
2国のために、何としても救出せねばならない。
ティアンナは、それだけを考えた。
他の一切を頭から追い出しながら、ゼノスに背を向けた。
振り向かず、ただ言葉だけを、ティアンナは残した。
「私を守ってくれた貴方よりも、私に奴隷のように尽くしてくれた貴方よりも……私に逆らって誰かを守る、今の貴方が……一番、素敵よ。ゼノス王子……」
地ならしが足りなかった。それは間違いない。
だが、とガイエル・ケスナーは思う。全ての元凶は結局のところ、自分たちケスナー家なのだ。
ダルーハが叛乱を起こした。自分は、それを止められなかった。
結果、大勢の民が死んだ。生き残った民は、復興もままならぬまま絶望し、ローエン派に身を投じた。
そして聖なる戦士などというものに成り果て、他国を侵略せんとしている。
償いなど、出来はしない。ケスナー家のやらかした事は、もはや償えるようなものではないのだ。
出来る事があるとしたら、ただ1つ。後始末だけだ。
それは、償いの類とは全く別のものである。
「俺が……俺自身の、寝覚めを少しでも良くするために、やる事だ」
全身の、赤い甲殻と鱗が、ドロドロに汚れている。
聖なる戦士たちの、もはや返り血とも呼び難い体液を、先ほどまでガイエルは浴び続けていた。
自分はただ殺戮を行っていただけだ、とガイエルは思う。
結果としてタジミ村内、いくつかの村落や集落が、ローエン派の暴虐から救われたようである。それはまあ、それで良いのだが。
魔法の鎧の装着者たちも今頃、タジミ村のあちこちで戦っているのだろう。そしてゼノス・ブレギアスも。
何のかんのと言ったところで結局あの男は、無辜の民という輩を救わずにはいられないのだ。
そのゼノス・ブレギアスが、大木の根元に座り込んでいる。
ガイエルは立ち止まり、声をかけた。
「おい野良犬、何をさぼっている。いや、貴様は今や飼い犬だな。この村の人々に、番犬あるいは猟犬として飼われているだろう? 働け。餌代に見合った仕事をしろ」
「……てめえか」
獅子の顔面で、ゼノスは微笑んだ。
その隣の山羊そして荒鷲の頭部は、すでに死んでいるように見えてしまう。
「せっかく、気持ち良く抜けるとこだったのによォー……そのツラぁ見たせいで全部、台無しじゃねえか……」
「おい貴様……」
ガイエルは身を屈め、ゼノスと目の高さを合わせた。
信じ難いものが、見えた。
ゼノスの、分厚い左胸。小さな傷口から、赤い光が漏れている。
傷口は小さい。だが、その赤熱する光は今、この男の体内を灼き尽くしにかかっている。
この赤い光を、自分は知っている。
特に根拠もなくガイエルは、そんな事を思った。
「ゼノス・ブレギアス……貴様……!」
「ガタガタ騒いでねえで、岩窟魔宮へ行け……レボルトの野郎がな、義姉さんをさらって行きやがったらしい」
そんな事は、どうでも良かった。
「一体、何があった……誰が……」
言いかけて、ガイエルは気付いた。これほどの愚問はない、と。
誰々にやられたから、仇を討ってくれ。
このゼノス・ブレギアスという男が、そんな言葉を口にするわけがないのだ。
わかっていながらガイエルはしかし、愚かな問いかけを止められなかった。
「何が……一体、誰が……おい、答えろ貴様……」
「ガタガタ騒ぐなっつってんだろ! ビシッとしろガイエル・ケスナー! てめえ、わかってんのか!?」
ゼノスが吼えた。ガイエルは硬直した。
幼い頃、父ダルーハの怒声を浴びた時でさえ、ここまでは身体の芯に響かなかった。
「わかってんのか、おい……兄さんたち魔法の鎧の連中を……義姉さんに、マチュア嬢ちゃんを……フェル坊を、ティアンナ姫を……守れるのはな、てめえしか……いねえんだぞ、もう……」
「ゼノス……」
ガイエルは、手を伸ばした。
自分よりいくらか筋肉の厚い魔獣人間の巨体を、抱え起こそうとした。
だが、それは出来なかった。
「…………頼む…………ぜ…………」
ゼノスが、にこりと牙を見せた。
胸の傷から、赤い光が溢れ出す。
凄まじい量の遺灰が、ガイエルの全身を汚した。
「……俺は……」
屍すら遺さなかったゼノスに、ガイエルは語りかけていた。
「貴様に……数々の借りを、作ったままだ……一切、返す事の出来なかった俺を……嘲笑うのか、ゼノス・ブレギアス……」
答えなど、返って来ない。
灰にまみれた己の両腕を見下ろしながら、ガイエルはしかし言った。
「貴様はな、俺が……いずれ、叩き殺す予定だった……他の誰でもない、この俺がだ」
見ればわかる。
ゼノスは、全く戦っていなかった。戦わずに一方的な攻撃を受け、心臓を刺し貫かれたのだ。
赤熱する光をまとう、恐らくは細身の長剣によって。
この男が、ここまで無抵抗に攻撃を受け入れる。そんな相手は、1人しかいない。
「…………貴女ではない…………俺が、だ…………」
ガイエルは、立ち上がっていた。
左右の前腕から生え広がった刃のヒレが、赤く、熱く、発光を開始する。
「こやつがな、俺ではなく……貴女に、殺されなければならない……その、理由は……?」
聖なる戦士たちの返り血と、そしてゼノスの遺灰。
死の汚れにまみれた、赤き魔人の全身から、炎に似たものが立ちのぼり揺らめく。
闘気の、揺らめきだった。
「わからんなぁ……俺の頭では、いくら考えても……わからん……」
顔面甲殻が、ひび割れ砕け散った。
美しいほどに白く鋭い牙の列を、ギリッ……と噛み合わせながら、ガイエルは語りかけた。すでにこの場にいない、1人の少女に。
「答えて、もらうぞ……ティアンナ・エルベット……」




