第148話 人の世の回復へ
蹄で石畳を粉砕しながら、ゼノス・ブレギアスはガイエルの眼前に着地した。
魔獣人間の力強い尻から、1匹の毒蛇が尻尾の形に伸び、満身創痍のガイエルを威嚇するように牙を剥く。
獅子、山羊、荒鷲。3つの顔面で魔人兵たちを睨み据えながら、ゼノスは言った。
「おめえは大人しくしてなトカゲ野郎、くれぐれも手ぇ出すんじゃねえぞ。こちとら相手がザコばっかで全然、暴れ足りてねえんだからよ」
言葉と共に、大型の長剣がブンッ! と竜巻の如く旋回する。
その構えは、ガイエルの目から見ても、風格さえ感じさせる。この男が稀代の剣士である事は、認めなければならない。
レボルト配下の魔人兵が1体、メキメキと痙攣しながら、よろめき進み出て来る。
「リグロアの王子が、死に損なった挙句に魔獣人間と化し、ヴァスケリア女王の飼い犬として暴れ回っている……そんな話は聞いていた。お前の事か」
魔人兵が、魔人兵ではないものへと変わってゆく。
「化け物が、また1匹……ヴァスケリアに、味方しようと言うのか……!」
肉か臓物か判然としないものを押しのけて、大量の骨が迫り出して来る。
白い、巨大な甲冑のような骨格。
その内部では、岩石のような筋肉が強固に密集し、盛り上がり、息づいている。
剥き出しの頭蓋骨が牙を剥き、眼窩の奥で爛々と光を燃やす。
「化け物を味方につけた方が勝つ……そのような戦は終わらせる! この魔獣人間スケルトロルがな!」
「貴様らのような怪物どもを使って、我が国を侵略せんとするヴァスケリア……許せん」
別の1体が、蛇のように首を伸ばした。
ぬるりと伸長した、爬虫類の頸部。その先端で牙を振り立て、言葉を発しているのは、荒々しい猪の頭部である。
胴体はでっぷりと肥えていながら筋骨たくましく、背中からは羽毛の翼が広がってバッサバッサと暴れ羽ばたいてるが、この巨体を軽やかに飛翔させるのは不可能であろう。
「滅ぼす! この魔獣人間コアオークがなぁあッ!」
「バルムガルドは、我らが守る……」
1体の魔人兵が、言葉を発しながら砕け散った。
痛ましいほどに醜悪な肉体が、ズタズタに飛散していた。
その下から現れたのは……風、である。
目に見えるほどに激しい竜巻が、人型を成しているのだ。
頭部と思われる部分から1本だけ、螺旋状の角が伸びている。
「この戦、バルムガルドの勝利で終わらせる。この魔獣人間エアーコーンがな」
「もともと人間の戦だった! 貴様らのような化け物どもの出る幕などなかったのだ!」
4体目の魔人兵が、怒声と共に翼を広げていた。巨大で鋭利な、皮膜の翼。大型の刃、のようでもある。
それを両腕の代わりに広げているのは、甲冑をまとう人型の胴体であった。
首から上はなく、顔面は胸にある。金属製の胸甲が、人面の形に歪みつつ憎悪の形相を浮かべていた。
「この魔獣人間デュラバーンが! 貴様たちを永遠に退場させてやるぞ!」
レボルト・ハイマン……ジャックドラゴンを含む、計5体の魔獣人間、だけではない。
長剣のような爪を伸ばした魔人兵たちが、ガイエルとゼノスを取り囲んでいるのだ。魔獣人間化には至っていない、とは言えレボルト将軍自らが鍛え調練した精鋭部隊である。
3つの顔面で彼らを見渡しながら、ゼノスは言った。
「なあレボルト将軍。デーモンロードの野郎が本当に死んじまったんなら、あんたが戦う理由なんざぁもうどこにもねえと思うんだがな」
「デーモンロードが死んだからこそ、赤き魔人を生かしておくわけにはゆかぬのよ……そやつの歯止めとなるべき存在が、失われてしまったのだからな」
「俺がいるぜい」
ゼノスが、猛禽の爪を生やした左手の親指で、己自身を指した。
「この脳足りん赤トカゲ野郎が、何かバカやらかしそうになったらよ、俺がぶちのめして止めてやっから」
「貴様ら2匹……例えばエル・ザナード1世女王が、いくらか不愉快な思いをしたというだけの理由で……歯止め、どころか結託し、このバルムガルドを滅ぼすであろうよ……」
レボルトの震える呻きが、やがて叫びになった。
「今、確信に至った……ゼノス・ブレギアス! 赤き魔人同様、貴様も生かしてはおけん!」
カボチャの裂け目そのものの口から、叫びと共に火球が放たれる。3つ。
燃え盛る流星の如く飛来するそれらを、ゼノスは炎で迎え撃った。
獅子、山羊、荒鷲。3つの口から火炎の吐息が放射され、レボルトの火球を焼き払う。
爆発が起こった。
凄まじい爆炎が、ゼノスとガイエルを一緒くたに焼き殺さんと荒れ狂う。
それを押しのける形に魔獣人間グリフキマイラは、3つの口から炎を吐き続ける。爆炎が押されて拡散し、弱まってゆく。
そう見えた瞬間、全ての炎が消え失せた。突然の暴風によって、吹き消されていた。
魔獣人間エアーコーン。竜巻で構成されたその身体が、激しい気流となって渦を巻き、吹き荒れ、ゼノスとガイエルを襲う。
風の、刃であった。
「うぬッ……!」
ガイエルの全身で、血まみれ火傷だらけの皮膚が、さらにズタズタに裂けた。鮮血が飛散し、赤い霧となる。
いくらか派手に血は出たが、皮膚が切れただけだ。
人間の肉体であれば筋肉も臓物も細切れにされているところであろうが、ゼノス・ブレギアスの肉体に痛手を与えられる攻撃ではない。
案の定、グリフキマイラの巨体からは、微かな鮮血の霧がしぶいただけだ。
この怪物を、しかしほんの一瞬、怯ませるくらいの事は出来たのか。
その一瞬の間に、他の魔獣人間たちが踏み込んで来ていた。
右からはスケルトロル。左右の手に1本ずつ、凶悪な形の武器を握っている。牙の生えた長剣、とでも呼ぶべきか。肉食獣の上顎骨と下顎骨を、そのまま得物として加工したかのような形状だ。
左からはデュラバーン。甲冑の形に金属化した身体が、巨大な翼をゼノスに向かって一閃させる。それは飛翔ではなく、斬撃のための翼であった。
ギロチンの刃のようでもある翼が、牙のある双剣が、グリフキマイラに斬りかかる。
ゼノスは避けず、生意気にもガイエルを背後に庇った格好のまま、リグロア王家の剣を横薙ぎに振るった。
それは防御であり、攻撃でもあった。
大型の刀身が唸りを発し、スケルトロルの双剣を弾き返しつつ、デュラバーンの翼を打ちのめし受け流す。
よろめく魔獣人間2体に、しかしさらなる攻撃を加える事もせず、ゼノスは硬直した。
その腹部に、4体目の魔獣人間の攻撃が突き刺さっている。
コアオーク。大蛇のような首が高速で伸び、猪の顔面が、その巨大な牙でグリフキマイラの腹筋を穿っていた。
「ただの牙ではないぞ……魔獣人間のはらわたをも腐らせる、猛毒の牙よ」
伸びた頸部をゆっくりと縮め、ゼノスの腹から毒牙を引き抜きつつ、コアオークが勝ち誇る。
「敗戦国リグロアの残党が、今になってバルムガルドに刃向かうなど!」
「……なるほど、こいつぁなかなかの毒だ。てめえら程度の魔獣人間なら確かに、あっさり死んじまうかもなあ」
ゼノスが、暢気な声を発している。尻尾の形に生えた毒蛇を、己の太股に噛み付かせながらだ。
「な……何っ……」
コアオークが狼狽し、今度はゼノスの方が勝ち誇る。
「はっはっは、毒をもって毒を制すってやつだ。おいコラ、俺の物知りっぷりに恐れ入ったか無学のトカゲ野郎」
「……前を見ろ」
3つの頭部を全てこちらに向けて自慢する魔獣人間に、ガイエルはそれだけを忠告した。
いくらか遅かった。
レボルト・ハイマン……魔獣人間ジャックドラゴンが、ゼノスに斬りかかったところである。
分厚い片刃の長剣が、会心と言うべき形に一閃する。
愚かしい油断をしながらもゼノスは、大型の長剣で辛うじて防御の構えを取った。
辛うじて、の構えで防御しきれるような、甘い一撃ではなかった。
リグロア王家の剣は、ゼノスの右手から叩き落とされていた。
右手が得物を失うと同時に、しかし左手が反撃を繰り出す。猛禽の足そのものの形をした左手。
カギ爪による斬撃が、ジャックドラゴンを襲う。
それをかわしたレボルトに向かって、ゼノスは踏み込んだ。剣を叩き落とされた右手が、それに固執する事なく拳を握る。
踏み込んだ蹄が石畳を叩き割る、と同時にゼノスは叫んだ。
「必殺……爆裂拳!」
怪力を宿した右拳が、暴風の如く唸る。
レボルトは、それを楯で受けた。
左前腕で楯型に広がった甲殻が、絶妙な角度で爆裂拳を受け流す。
「ぐっ……!」
受け流しながらもレボルトはよろめき、踏みとどまって転倒をこらえた。
楯の角度を僅かにでも誤っていたら、その左腕は楯もろとも砕け散っていただろう。相変わらず、恐るべき防御の技量であった。
「将軍!」
スケルトロルが、デュラバーンが、レボルトを援護すべく、再びゼノスに斬りかかる。
左右2本の、牙の剣。ギロチンの如き刃の翼。
それら斬撃を、ゼノスは跳んでかわした。背中の翼をバサッ! とはためかせながらだ。跳躍か、あるいは飛翔か。
ともかく空中に逃れたグリフキマイラを、強風の渦が襲う。
魔獣人間エアーコーン。その身体が、風の刃となって渦巻き吹きすさび、グリフキマイラを切り刻みにかかる。
3つの口から炎を吐きながらゼノスは羽ばたき、空中で激しく身を翻した。
錐揉み状に回転する魔獣人間の巨体を、炎の渦が包み込む。
それは、紅蓮の防護膜であった。
吹きすさぶ風の刃が、炎の渦に押され弾かれる。
砕け散ったように拡散した竜巻が、辛うじてエアーコーンに戻りつつ落下した。
炎の渦を蹴散らすようにして、ゼノスも落下して行った。
否、それは落下ではない。空中から地上へ向けての、突進である。
「新・必殺! 爆裂蹴りだオラァ!」
重量と怪力を宿した蹄が、魔獣人間コアオークを叩き潰していた。
羽毛の翼を広げた巨体が、潰れながら砕け散る。
大蛇のような頸部が、ちぎれた。
毒牙を生やした猪の生首が、ちぎれた頸部を引きずって高々と宙を舞い、破裂する。
ガイエルは、息を呑むしかなかった。
(こやつ……戦いの才能だけならば、俺よりも……上、か)
短期間の修練と実戦で、次々と新しい技を開発・会得してゆく魔獣人間の剣士。
このゼノス・ブレギアスという男、人間であった時から、素質の塊のような戦士だったのは間違いない。
それが魔獣人間と化し、今や下手をするとデーモンロードやダルーハ・ケスナーをも上回りかねない怪物へと成長しつつある。
「俺も、うかうかしてはいられんな……」
呟きながらガイエルは、リグロア王家の剣を拾い上げてやった。
「楽に、死なせてやれ」
声をかけ、放り投げる。
危なげなく柄を握り、受け取った長剣を、ゼノスは叩き付けるように振るった。スケルトロル及びデュラバーン、2体の魔獣人間に向かってだ。
「へっ……行くぜ、元祖必殺! 爆裂斬り!」
牙の双剣が、刃の翼が、砕け散った。
スケルトロルの巨体が、吹っ飛びながら砕けてゆく。その全身で骨格がひび割れ、強固な筋肉が歪み潰れる。
デュラバーンも、翼の片方を失っただけでは済まなかった。全身の甲冑がひしゃげて破け、そこから臓物が噴出している。
爆裂斬りの勢いは、しかしそれだけでは止まらない。
横薙ぎに振り切った剣を、ゼノスは即座に天空へと向け、振り下ろした。
その切っ先が、唸りを発しながら、石畳を穿ち切り裂く。
馬鹿力が、破壊力の波動に変換され、刀身から地中へと流れ込む。
そして、レボルトを足元から襲う。
「うっ……ぉおおおおおッッ!」
石畳が砕け、大量の土と共に噴出した。
レボルトは跳躍しようとしたが間に合わず、力の噴出をまともに食らっていた。
その全身あちこちで黒い甲冑がひび割れ、細かく剥離する。
鮮血の飛沫と甲殻の破片を撒き散らしながら、レボルトは吹っ飛んでいた。
「将軍……!」
「おのれ貴様!」
楼閣の外壁に激突し、落下し、立ち上がれずにいるレボルトを、スケルトロルとデュラバーンが庇いにかかる。両名とも、辛うじて死んではいない己の肉体を、将軍の楯としている。
「っとォ……いけねえ、いけねえ。やっぱ3匹まとめてだと、一撃じゃ殺してやれねーなぁ。失敗失敗、もう1回」
ゼノスが大型の長剣を構え直した、その時。風が吹いた。
目に見えるほどの竜巻が、死にかけた魔獣人間3体を包み込んで吹きすさぶ。
エアーコーンである。
風で構成された身体の中にあって、唯一の実体とも言うべき1本角が、光を発していた。
癒しの光、である。
スケルトロルの全身から、拭い去ったかの如く亀裂が消え失せた。潰れていた筋肉が、力強く盛り上がってゆく。
デュラバーンの翼も再生し、鋭利に巨大に広がった。破裂していた甲冑が、噴出していた臓物を内部に吸い込みながら修復されてゆく。
そして、ジャックドラゴンも。
ボロボロになった外骨格の下で筋肉が隆起し、その表面が固まって、新たな甲殻を成す。
「ほう……せっかく頑張って負わせた痛手が、最初からなかった事にされてしまったな」
ガイエルは声を投げた。
「加勢が必要か? ゼノス・ブレギアス」
「寝言は寝てから言いやがれ。何なら今、眠らせてやんぜぇー」
「やめなさい」
愚かしいやりとりを止めてくれたのは、ティアンナだった。
ラウデン・ゼビル侯爵もいる。マディック・ラザンもいる。
シェファ・ランティもいて、1人の老婆に肩を貸し、支え合うようにしている。
いや、よく見ると老婆ではない。痩せ衰えて髪が真っ白に染まった、若い娘のようだ。
ブレン・バイアスもいる。同じく誰かに肩を貸し、立っている。
こちらは男だ。憔悴しきった若い男、と言うより少年。ブレンの力強い腕に支えられ、辛うじて倒れずにいる。
痩せこけた顔は、どこか、ほんの少しだけ、ティアンナに似ている。
その顔が、ガイエルの方を向いた。
微笑んでいる、ようである。今にも死にそうな笑顔。だが、死にかけているのはガイエルも同じだ。
「リムレオン・エルベット……」
名を呟いてみる。
ティアンナの、母方の従兄であるという。
今は衰弱死寸前という状態だが、体調が万全の時でも、ティアンナには片手で捻られてしまうであろう。
そんな少年が、しかしダルーハ・ケスナーの支配を、自力で跳ね除けたのだ。
「いよう兄さん、死にかけてやがんなあ」
リムレオンの弟であるはずもないゼノスが、馴れ馴れしい事を言っている。
「けど助かったんだなあ、よしよし。ティアンナ姫にゃ死ぬほど感謝しねーと駄目だぜえ」
自分も、このゼノスという男には感謝しなければならないだろう、とガイエルは思った。
無論、謝礼の言葉など死んでも口にはしない。
いずれ借りを返す。それだけだ。
ティアンナが言った。
「私は何もしていないわ。それよりゼノス王子、よくガイエル様を助けてくれたわね。褒めてあげる」
「いぇーい! ティアンナ姫に褒められたぜええ。どうだコラ、うらやましーだろうが」
ガイエルに向かって勝ち誇りながら、ゼノスが演武のような踊りを踊る。この男は、ティアンナに褒められても咎められても悦んでしまうのだ。
柔らかな光が突然、ガイエルの全身を包んだ。
火傷と裂傷でボロボロになっていた皮膚が、再生してゆく。血まみれの筋肉を、包み隠してゆく。
癒しの力であった。
「ここまでだ、レボルト将軍」
マディック・ラザンが、こちらに向かって片手を掲げている。
「ガイエル・ケスナーもゼノス王子も、俺が傷を治す。ローエン派の聖職者が言う事ではないが……貴方たちに、もう勝ち目はないぞ」
「……勝ち目はなくとも、我らはお前たちを滅ぼさねばならぬ」
言葉と共に、レボルトが片刃の長剣を掲げる。
攻撃の構え、ではない。威嚇でもない。
退却の、合図であった。
「人の世に、人ならざるものの力を残しておくわけにはゆかぬ……人の世の政に、介入させてはならん。それを貴女は、本当に理解しておられるのだろうな? エル・ザナード1世女王よ」
魔獣人間たちが、魔人兵の群れが、将軍の合図に従い後退りをする。
そう見えた時には、彼らの姿は消え失せていた。
凄まじい退却の速度である。鍛え抜かれた軍の動きであった。レボルト本人も、いつの間にかいなくなっている。
問いかけを受けたティアンナは、何も言わない。
人ならざるものどもの暴虐が、いかなるものか。彼らが人の世の政に介入した場合、何が起こるか。殺戮の嵐が、どれほど吹き荒れるのか。
ティアンナほど、それを見知っている人間は、この中にはいないであろう。ガイエルは、そう思った。