第147話 未練の男
燃え盛る闘気が、拳の形を成してガイエルを襲う。
それはまるで、大気との摩擦で炎を発する隕石のようであった。
「ぐぅ……っ!」
ガイエルは、上下の牙をガッチリと食いしばった。
そこに、ダルーハの拳がぶつかって来る。
隕石を思わせる衝撃が、頭蓋骨の中身を揺るがす。
視界が一瞬、暗転し、その闇の中で火花が散る。
よろめいた己の両足を、ガイエルは懸命に踏みとどまらせた。
倒れずに済んだ、と思った瞬間、今度は呼吸が止まった。
ダルーハの拳が、ガイエルの鳩尾にめり込んでいた。
しっかりと噛み合わさっていた上下の牙が、否応なく開いてしまう。
呼吸の回復と同時に、ガイエルは血を吐いていた。
吐血の飛沫が空中で発火し、小規模な爆炎と化してダルーハを襲う。
闘気の塊である身体が、戦闘経験豊富な生身の戦士の動きで、それをかわした。
かわす動きに合わせて、片足が跳ね上がる。
燃え猛る闘気が、蹴りの形を取りながら、ガイエルを直撃する。
赤き魔人の胸板で、両肩で、ひび割れていた甲殻が何ヶ所か、剥離しながら飛び散った。
鮮血が霧の如く漂い、発火し、よろめくガイエルの周囲で炎の渦となる。
それを蹴散らすように、ダルーハが猛然と踏み込んで来る。
「さあさあ、どうした小僧! 蟷螂の斧で貴様、1度は俺を仕留めて見せたであろうが!?」
隕石のような拳が、左右立て続けに顔面を直撃する。
脳漿に血が混ざるのを、ガイエルは感じた。
「あれから、ぬるい戦いばかりで鈍ったか! 今一度、鍛え直してくれようか!?」
「……御免こうむる。もはや、あんたから学ぶものは何もない」
よろめく両足でしっかりと踏ん張り、赤熱する爪を石畳に食い込ませながら、ガイエルは左手を掲げた。
掲げられた掌にバチッ! と熱い衝撃が叩き込まれて来る。
甲殻生物の節足にも似た五指で、ガイエルはそれを握り捕えた。
ダルーハの拳を、掴み止めていた。
「貴様……」
「親父殿。あんたはな、もう死んでいるのだよ」
ガイエルの体内で、竜の血が燃えた。
肩と胸板の、甲殻が剥がれ落ちた部分から、鮮血が噴出する。噴出しながら、発火する。
爆炎の荒波が、ダルーハを直撃した。
燃え盛る闘気で組成された身体が、激しく揺らぐ。たくましい人型が一瞬、崩れかけた。
強固な拳はしかし、ガイエルの左手の中で、しっかりと形を保っている。
握り締めながら、ガイエルは語りかけた。
「俺の心の中で生きている、というやつだ。思い出の中へ帰ってくれ、親父殿。あんたと、おふくろ様はな、俺の思い出の中でいつまでも仲睦まじく暮らしているよ」
「ふ……幾度も、同じ事を言わせるなよ小僧……」
揺らぎ崩れかけていた闘気の塊が、再び猛々しく燃え上がりながら、ダルーハ・ケスナーの力強い体型を成してゆく。
「死ねば一緒になれる、などというのは女子供の夢想に過ぎぬ……レフィーネの魂はな、唯一神の御下に召されている。俺では未来永劫、行き着く事の出来ぬ場所……ふ、ふふふふふ、そう思っていたのだがな」
「ほう。まさか、おふくろ様に会えたのか? さぞかし怒られたろう」
「聞け、ガイエル……レフィーネの魂はな、肉体の死と共に消滅した。唯一神に召されるとは、そういう事なのだ」
ダルーハが、わけのわからない話を始めた。
「心正しく、己に恥じる事なく生き抜いて、悔いもなく生を全うした者はな、魂などという未練がましいものを残しはしないのだ。唯一神教徒どもの語る死後の救済とは、すなわち魂の消滅に他ならぬ。苦しみも悔恨もなく、綺麗さっぱり消えて失せる……それが出来ぬ者どもがどうなるかは、俺を見ればわかるであろう。無様な姿で、もはや弱い者いじめしか楽しみのない日々を送る事になる」
「生きていた時も同じようなものだったろう、あんたは」
ガイエルは、呆れて見せた。
「一体、何が言いたいのだ。唯一神に召される、などという言葉……まさか親父殿の口から出るとは思わなかったぞ」
「ガイエルよ。俺はな、貴様に殺された直後……死せる事によって、目の当たりにしたのだ。世の者どもが唯一神と呼んでいるものの、正体をな」
ダルーハは、何かを自分に伝えようとしている。ガイエルは、そう感じた。
「あれは……単なる、力だ」
「力、だと……?」
「善でも悪でもない、意思を持たぬ巨大な力の塊……それが虚空に浮かんでいるだけであった。例えばメイフェム・グリムのように特殊な修行を積んだ者のみが、それに接触し、力の塊のほんの一部分だけを引き出して利用する事が出来る」
ダルーハは笑っている、ようであった。
「己の意思を持たぬ、善なるものでも悪しきものでもない唯一神という存在が……しかし今、究極の善として猛威を振るっている。もはや蟷螂の斧すら持たぬ弱者どもを、大いに暴走させている。そのような状況を作り上げたのは俺でもあり、貴様でもあるぞガイエル・ケスナーよ」
「……ヴァスケリア北部の有り様を、言っているのか」
ガルネア、バスク、エヴァリア、レドン。
ダルーハ・ケスナーの叛乱によって荒廃し、復興もままならぬ状態で唯一神教ローエン派に飲み込まれつつある4つの地方。
暴虐の限りを尽くしていたダルーハ軍残党を皆殺しにした後、ガイエルはローエン派の僧侶たちに後を託して立ち去った。虐げられた民を救い導くのは、自分などよりもレイニー・ウェイルやアレン・ネッドの方が適任だと思ったからだ。
だが彼ら以外の聖職者たちが今、何やらおかしな事をしているらしい。
「……ここで死ね、ガイエルよ。俺に殺されておけ」
現在のダルーハ・ケスナーを構成する闘気が、激しく燃え猛る。
「さもなくば貴様、俺でも教えてやれなかった過酷で陰惨なる戦いをせねばならなくなるぞ。信仰という、難儀極まるものと向き合わねばならなくなる……お前では無理だ、我が息子よ」
燃え上がる拳を左手で掴んだまま、ガイエルは身を捻り、右腕を振るった。
手首から肘にかけて生え広がった、ヒレ状の刃。
赤く熱く発光する、その斬撃を、横薙ぎに一閃させる。
そして、左手を離す。
ダルーハが、後方によろめいた。
燃え揺らめく闘気で組成された身体。その胸板と腹筋の間に、赤熱する直線が刻み込まれている。
間髪入れずガイエルは、右足を高々と離陸させ、振り下ろした。形としては、踵落としだ。
凶器そのものの爪が、赤く輝きながら一直線に閃く。真上から真下へと。
ダルーハの頭頂部から股間にかけて、赤熱する直線が生じ、同じく赤々と燃え上がる横線と交わった。
灼熱の十字架が、そこに出現していた。
そちらへ向かってガイエルは、思いきり身体を前傾させ、口を開いた。
変わり果てた父親に向かって、己の全てをぶちまけた。
炎、と言うより爆発そのものが、上下の牙を押しのけてドゴォオオオオオオオンッ! と噴出する。
横向きの噴火の如く迸る爆炎の中、ダルーハは4つになった。
4分割された身体が、形のない闘気の揺らめきに戻ってゆく。そして爆炎の奔流に押し流され、消えてゆく。
「なあ……ガイエルよ……」
ダルーハの、言葉も消えてゆく。
「死んでも、な……レフィーネには、会えなかったぞ……」
「結局それか、あんたという男は……」
爆炎の奔流も、消え失せた。
何もかもが、消え失せていた。
ガイエルは片膝をつき、もはや誰にも届かぬ言葉を発するしかなかった。
「あんたには、な……おふくろ様しか、いなかったのだ……」
レフィーネの魂は、肉体の死と共に消滅した。
そう言っていたダルーハの魂も今、消滅した。
同じ所へ行けたのだろうか、などと一瞬でも思ってしまった自分を、ガイエルは嘲笑った。
「まさしく、女子供の夢想……ッッ!」
血を吐きながらガイエルは、己の身体が急速に縮んでゆくのを感じた。
血を燃やし、力を燃やして、デーモンロードそしてダルーハ・ケスナー相手の連戦を辛うじて乗り切った。
消耗し尽くした肉体が、人間の若者の裸身へと戻りつつある。
ひび割れた甲殻が、血まみれの皮膚へと変わってゆく。
「そうだ……こうしては、おれん……」
ティアンナたちの眼前に、デーモンロードを放置して来てしまった。
魔法の鎧の装着者が、あれだけ人数を揃えれば、相手がデーモンロードとは言え容易く皆殺しにされる事はないだろう、とは思う。
「だが……ティアンナ……くそっ、貴女までもが魔法の鎧など着て戦うような状況を……」
その時。衝撃が、ガイエルを襲った。
爆発、と言っても良かった。
ダルーハの拳にも劣らぬ、まるで隕石のような熱量と衝撃の塊。それが2つ、いや3つ、立て続けにぶつかって来たのである。
小さな太陽にも似た、炎の塊。
それを辛うじて視認しつつもかわせず、ガイエルは吹っ飛んでいた。
血まみれの人間と化した身体が、さらに打ちのめされ焼けただれながら、石畳に激突する。
「ぐっ……! う……ッッ」
血を吐きながら、ガイエルは弱々しく上体を起こし、見据えた。
黒っぽい異形の人影が、ゆっくりと歩み寄って来る様を。
「女王らを気遣う必要はない。デーモンロードは、死んだ」
皮膜の翼を背負い、大蛇のような尻尾をうねらせながら、その人影は信じがたい事を口にしている。
「あとは……赤き魔人よ、貴様がこの世から消えてくれれば良い」
黒い、甲冑のような外骨格に包まれた身体。その首から上は、荒れ狂う紅蓮の炎を内包したカボチャで、両眼と口の裂け目から、赤く禍々しい輝きを溢れさせている。
「レボルト・ハイマン……」
ガイエルは呻いた。
「今の、今まで……そうか、機を窺っていたのだな……」
「……待ったぞ、この時を」
レボルト・ハイマン……魔獣人間ジャックドラゴン。
その口から、震える声と共に、炎が迸る。
迸った火炎が、再び紅蓮の球体を成し、流星の如く飛んだ。
3つの火球が、吐き出されていた。
ガイエルは、満身創痍の身体を無理矢理に跳躍させた。甲殻も刃のヒレも失せた両腕で、弱々しい防御の構えを取りながらだ。
そこへレボルトの火球が、容赦なく降り注ぐ。3つ。
1つは、辛うじてかわした。足元で爆発が起こり、石畳の破片が大量に舞い上がる。
2つが直撃。皮膚が焦げちぎれ、筋肉が焼けただれるのを感じながら、ガイエルは石柱にぶつかっていた。
勇壮なグリフォンの姿が彫刻された石柱。それが崩れ、ガイエルの身体に瓦礫を降らせる。
押し潰されそうになりながら、ガイエルは無理矢理に笑って見せた。
「存在を消して好機を狙い、ここぞとばかりに攻め込んで来る……か。名将と呼ばれた男の戦い方、久しく忘れていた。あれほど痛い目に遭わされたというのに、な」
ダルーハ・ケスナーに、このレボルト将軍の百分の一でも戦争のやり方を考える頭があれば、叛乱は成功していただろう。ガイエルは、そう思う。
「軍人という連中の恐ろしさ……俺は、まざまざと思い知ったぞ」
「ならば大人しく死んでくれ、頼む」
レボルトの言葉に合わせ、気配が生じた。
瓦礫を押しのけようとするガイエルを、取り囲んでいる者たちがいる。
肉か臓物か、判然としないものを全身で蠢かせる異形の群れ……レボルト配下の、魔人兵たちだ。
「いい様だな、バケモノ野郎……」
何体かが、憎悪の言葉を吐きながら、その醜悪な全身をメキメキ……ッと痙攣させている。
魔獣人間化が、起ころうとしている。
「国境の戦で、お前に殺された……俺の仲間の、千分の一くらいは苦しいかよ? ええおい!?」
「俺たちだって、戦争なんかしたくない……」
「だけどなあ、お前みたいなのがヴァスケリアに味方してやがる限り! 平和になんて、なるワケがねえんだよおおおおおッ!」
4000人、殺したのだ。
バルムガルド人が自分を許せないのは当然であろう、とガイエルは思った。
あの時の自分が、ヴァスケリアに攻め入ろうとしていたバルムガルド軍を許さなかったようにだ。
「良かろう……この国を守るため、俺の命を奪ってみるがいい」
満身創痍の裸体で瓦礫を押しのけながらガイエルは、ゆらりと立ち上がった。
「今の俺ならば簡単に殺せる、と思うのならば、やって見せろ」
「赤き魔人ガイエル・ケスナー……貴様には、感謝しなければならん」
楯の形に広がった左腕の外骨格から、レボルトは剣を抜き放ち、ガイエルに向けた。
「ダルーハ・ケスナーが滅び、デーモンロードも死んだ。あとは貴様が消え失せてくれれば……人の世の政に、人ならざるものが介入する。その事態は、永遠に防ぐ事が出来る」
「はっはっは、そいつはどーかなあ」
楽しげな声が、ガイエルの神経を逆撫でした。
崩れかけた楼閣の上に、その怪物は立っている。大型の長剣を尊大に掲げ構え、こちらを見下ろしている。
3つの頭部が、それぞれ獅子の牙を剥き、山羊の角を振り立て、猛禽のクチバシをニヤリと捻じ曲げた。
「正義みなぎる炎の王子、怒りの王子! 俺は太陽の子、魔獣人間グリフキマイラ! ここに見ッ参ッ!」
「何が太陽の子だ。その口上、俺は吟遊詩人の歌で聞いた事があるぞ」
ガイエルは見上げ、睨み、言った。
「太陽もな、貴様のような出来損ないを認知するわけがなかろう」
「んだとテメエこら、あんまナメた口きいてんと黒焼きにして食っちまうぞ? 生命力だけは有り余ってやがる死に損ないトカゲ野郎がよぉ。てめえを焼いて食えば精力ギンギンになれそーだなあ、ティアンナ姫をよよよよよ悦ばしてやれるかもなぁああああ」
「貴様……!」
周囲を満たす魔人兵たちの存在も忘れるほどに、ガイエルは激昂した。
低次元な罵り合いが、始まろうとしている。わかってはいても、ガイエルには止められない。
止めてくれたのは、レボルトだった。
「ゼノス・ブレギアス……貴様まだわからんのか。その怪物を庇い守る事、それはすなわち、どこまでも人間を脅かし、人間と敵対し続ける道を歩むという事なのだぞ」
「んな事ぁどーだっていい。そこのクソばかトカゲ野郎はな、俺がいずれ殺して食らう」
大型の長剣を威嚇の形に構えながら、ゼノスは言った。
「もともと俺が拾った肉なんだぜ……横取りは、させねえよ」




