第144話 クィーン・オブ・ダークネス
前も1度、こんな事があったような気がする。
シェファ・ランティはそう思ったが、そんな場合ではなかった。
メイフェム・グリム……魔獣人間バルロックの鞭が、嵐のような勢いで叩き付けられて来る。怒声と共にだ。
「さあさあ庇い合いなさい、お互いを守りなさい! 私に美しいものを見せなさぁあああああい!」
魔法の鎧の上から、衝撃が立て続けに打ち込まれてシェファの肌を苛み、肉を痺れさせ、骨を震わせる。
自分が悲鳴を上げている事に、シェファはぼんやりと気付いた。
その悲鳴を、リムレオンに聞かれているという事だ。
「シェファ……!」
白い悪鬼、と呼べるほど厳つく異形化した魔法の鎧。その中身はしかし貧弱な少年貴族の細身である。
にもかかわらずリムレオン・エルベットは、シェファとメイフェムの間に飛び込んで来た。
荒れ狂う魔獣人間の鞭は当然、シェファではなくリムレオンを打ち据える。
「ちょっと……何、やってんのよ……!」
シェファは呻いた。
目の前で、白い悪鬼が、おかしな踊りを披露している。
リムレオンの繊細な四肢を内包している、とは思えぬほど力強い手足が、よろめき揺らぐ。
厳つい面頬が、のけ反って真紅の霧を漂わせる。
血飛沫だった。
メイフェムの鞭が、もはや目視不可能な速度で、リムレオンの全身を打ち据えていた。
「そう! それでいいのよリムレオン・エルベット。あんたの力なんて、その子1人だけを守るのが限界なんだからッ!」
仰向けに倒れかけた白い悪鬼の胴体に、鞭がビシビシッと巻き付いた。
「誰か1人! 最低限、守らなきゃいけない相手はねえ、他の連中を見殺しにしてでも守らなきゃ駄目でしょーがああああああああ!?」
リムレオンの体が、女魔獣人間に引きずり寄せられながら、激しくへし曲がった。
腹に、バルロックの蹴りが叩き込まれていた。
前屈みになった白い悪鬼の頭を、メイフェムが左手で掴む。そして右手を振るう。
「領主として民衆を守る!? 夢見てんじゃないわよクソガキ坊や! あのクズゴミどもを1匹残らず守りきるなんて、私やダルーハだって出来なかった事! 唯一神だって無理! アンタなんかに出来るとでも思ってるわけ? ねえ? ねえ!? ねえ! ねえちょっとおおおおおおおッッ!」
鋭利に甲殻化した五指を広げての平手打ちが、リムレオンの顔面を往復する。
白い悪鬼の面頬が、兜が、激しく揺らいで血飛沫を散らす。
「あれもこれも、誰も彼もを守るなんて出来っこないの! 特にアンタみたいな非力な坊やはねぇ、命をかけて女の子1人守りきれるかどうか! それが精一杯なんだから! 精一杯、出来る事だけやってなきゃ駄目でしょお!? ケリスが私を、私1人だけを守ってくれたみたいに!」
猛禽の爪を生やした左足が高速離陸し、筋骨たくましい美脚が一閃した。
斬撃のような回し蹴りが、白い悪鬼をグシャアッ! と直撃する。
強固だが中身は脆弱な異形の全身甲冑が、吹っ飛んで瓦礫に激突した。
そこへメイフェムが、なおも迫ろうとする。
「やめなさいよ……ッ!」
シェファは、魔石の杖を構えた。
先端に埋め込まれた大型の魔石が、バルロックに向かって赤く熱く、発光を始める。
その時。シェファの全身に、衝撃が絡み付いて来た。
女魔獣人間が、左手を振るっていた。
毒蛇の如く伸びた鞭が、シェファの全身を幾重にも拘束している。魔法の鎧の上からミシミシと容赦なく、圧迫を加えてくる。
「あんたもアンタ! ちょっと喧嘩したからって何、いじけて別行動なんか取ってんのよ!」
シェファの身体が、束縛されたまま宙を舞う。
メイフェムの左腕で、鞭で、放り投げられていた。
「あんたたち1人1人は死ぬほど弱っちいんだから、バラバラに行動しちゃあ駄目でしょお? もしどっちかが死んだら、もう片方は私やダルーハみたいにトチ狂って馬鹿やって、ろくな死に方しないわよ!? 私はね、そんなの見たくないの!」
瓦礫にもたれ、よろよろと立ち上がろうとするリムレオンに、シェファの身体は叩き付けられていた。
そこへメイフェムが、猛然と踏み込んで来る。
「だからアンタたちはねえ、守り合わなきゃいけないの! 庇い合って、私に美しいものを見せなきゃいけないの! 一体いつになったら、わかってくれるわけ!? ねえちょっとコラ!」
バルロックの右足で、猛禽の爪が折り畳まれ、握り拳のようになった。
足の拳、とでも言うべき蹴りが、シェファとリムレオンを一緒くたに叩きのめす。
瓦礫が、砕け散った。
その破片と共に、白と青、2色の鎧をまとった少年少女が、吹っ飛んで倒れる。
そこへバルロックの、平手打ちが、蹴りが、鞭が、容赦なく降り注いで来る。滅多打ちである。
「さあさあさあ仲直りしなさい嫌でもしなさい! 喧嘩してる場合じゃないっての、頭じゃわかってるんでしょ? このままじゃ2人とも私に殺されちゃうのよ!? わかってんの!? ねえ! ねえ! ねえ!」
誰も、助けてはくれなかった。
ブレン兵長もラウデン侯爵も、ティアンナ王女も、セレナもマディックも、荒れ狂う女魔獣人間と、その暴虐の餌食となっている少年少女を、ただ呆然と見つめているだけだ。
ガイエル・ケスナーと、それにデーモンロードまでもが、唖然としている。
メイフェムの蹴りを、鞭を、踏みつけを、豪雨の如く浴びながら、シェファは全く動けずにいた。
動いて回避する暇を与えてくれるほど、生易しい攻撃ではない。それもある。
迂闊に動けば、顔面や股間など、魔法の鎧でも激痛を防げないような部分に蹴りや鞭が来る。
シェファにそんな迂闊な動きをさせまいとするかのように、白い悪鬼が覆い被さって来ていた。
力強く異形化した、魔法の鎧。その全身でシェファを地面に抑え込み、背中でメイフェムの攻撃を受けている。
女魔獣人間の、荒れ狂う蹴りと鞭。その暴虐の豪雨から、シェファを守っている。
「ちょっと……何、やってんのよ……リム様……」
「…………ッッ!」
リムレオンは答えない。シェファの耳元で、苦痛の悲鳴を噛み殺している。
白い悪鬼の、背中を、脇腹を、尻を、メイフェムは容赦なく蹴りつけ踏みにじり、鞭で打ち据える。
シェファとリムレオン、両名に分散されていた攻撃を、今はリムレオン1人が引き受けているのだ。
「何やってんのよ……弱っちいダメ領主のくせに、まさか……あたしを、守ろうなんて……カッコつけてるわけじゃないわよねえ……! ちょっと何とか言いなさいよ!」
リムレオンは、やはり何も言わない。悲鳴を、苦痛を、噛み殺しているだけだ。
「それとも死ぬ? 2人仲良く一緒に死なせてあげましょうか!? それはそれで美しいかもねぇえええええッッ!」
一際、強烈な蹴りが来た。
まるで足元の障害物を思いきり蹴り飛ばすかのようにメイフェムは、猛禽の拳を叩き込んで来た。
シェファもリムレオンも、一緒くたに吹っ飛んでいた。
蹴飛ばされたゴミの如く宙を舞いながら、シェファは見た。
同じく宙を舞っているリムレオンの身体から、何か炎のようなものが飛び出して行く様を。
シェファが攻撃魔法として放つ火球と、よく似ている……いや。あれよりも、ずっと禍々しい何かだ。
そんな不気味に燃え盛るものが、女魔獣人間の蹴りによって、白い悪鬼の身体から押し出されたのである。
いや。石畳に落下したリムレオンは、もはや白い悪鬼ではない。
懐かしい。シェファはついうっかり、そんな事を思ってしまった。
何の変哲もない、のっぺりと白い魔法の鎧である。
最初に竜の指輪を手にした、あの時。ゴルジ・バルカウス配下の魔獣人間からシェファを助け守ってくれた、白い鎧戦士の姿であった。
異形化から解放されたリムレオンが、よろよろと上体を起こそうとする。
元に戻った、魔法の鎧。先ほどまでの白い悪鬼と比べて、格段に頼りなく弱々しい。
弱々しいリムレオン・エルベットが、そこにいた。シェファやブレンたち全員で守ってやらなければならないリムレオンがだ。
「うっ……ぐ……」
苦しげな声が聞こえた。
リムレオンの、苦痛の呻き……ではない。
苦痛の呻きを漏らし、両膝をついているのは、メイフェムだった。黒光りする異形の裸身が、翼をまとうようにして座り込み、弱々しく震えている。
荒れ狂っていたバルロックが、少年少女に対する制裁折檻で力を使い果たしてしまったのか。
いや違う、とシェファは特に根拠もなく確信した。
人間の美女の原形が辛うじて残る口元に、メイフェムは片手を当てている。
「ぐぇ……ぇえぇ……」
呻きと共に、汁気が飛び散った。メイフェムが、少しだけ嘔吐したようだ。
「まさか……」
声を発したのは、デーモンロードである。
「……そう、なのか? メイフェムよ」
「ありえない! ありえないわ!」
先ほどまで勇猛苛烈に荒れ狂っていた女魔獣人間が、悲鳴に近い叫びを放つ。
「私は魔獣人間なのよ!? そんなはずは……こんなはず、あるわけがない! ありえない、絶対にありえない!」
「甘く見るな」
デーモンロードが言った。
「サキュバス、ラミア、ハーピーにスキュラ、メデューサでさえ孕ませる、悪魔族の精を……甘く見てはならんぞ」
「そんな……」
座り込んだままメイフェムは、己の腹に手を当てている。
黒光りする、その腹部が、いつの間にか丸みを帯びていた。ゆっくりと、だが目に見える速度で、丸く膨らんでゆく。
「私……ケリスの子供だって、産んであげられなかったのに……こんな……」
「ふ……さぞかし汚らわしかろう? 悔しかろう、おぞましかろうなあ。だがメイフェムよ、貴様の胎内に宿るは紛れもない、魔族の帝王の世継ぎよ」
デーモンロードが牙を剥き、隻眼を燃やし、微笑んだ。
「我が子に、勝利を捧げよう……死ね、魔法の鎧の者ども。それにケスナー家の死に損ないども」
その言葉に応えるが如く、何かが燃え上がった。
「……やって……くれたな……メイフェム、それにリムレオン・エルベット……」
リムレオンの身体から蹴り出された、禍々しい火球のようなもの。
それが、崩れた城壁の近くで燃え盛りながら、声を発している。
「良き、蟷螂の斧であったぞ……どうやら全力で、貴様たちを踏み潰さねばならん……か」
ダルーハ・ケスナーの声。
それは火球ではなく、闘気の塊であった。
今はゴォッ! と爆音を発して燃え上がり、巨大化し、人の形を成している。
筋骨たくましい戦士の体型。
そんな形状に固まりながら燃え盛る闘気。
人間で言えば頭部、顔面に当たる部分に、烈しい光が点った。
眼光だった。1つだけ、右側のみの眼光。
闘気のみで組成された、隻眼の怪物が、そこに出現していた。
「リムレオン・エルベット……己の肉体を供物としてまで俺を、あの鬱陶しい場所から脱出させてくれた。それは感謝しよう。だがこうして貴様の身体から追い出されたところで、俺はあそこへ戻る事は出来ん。俺の帰る場所など、もはやどこにもないという事だ」
闘気の塊と化し、もはやリムレオンの肉体を必要としないほど濃密に存在しているダルーハ・ケスナー。
揺らめき燃え上がる、その全身から、
「ならば、ひたすら……弱い者いじめに励むしかあるまいなぁあああああああ!」
闘気の波が、迸った。
瓦礫が砕け、石畳が剥離して舞い上がる。
ブレンが、ラウデン侯が、吹っ飛んだ。
ティアンナが盾を、マディックが槍を、それぞれ防御の形に構えながらも、やはり吹っ飛んだ。
動けぬメイフェムの眼前に、デーモンロードが着地する。そして翼を広げながら巨体を屈め、腕を広げる。
青黒く力強い、背中で、翼で、剛腕で、デーモンロードはメイフェムを覆い庇った。
そこへ闘気の波動が激突する。
デーモンロードが、牙を食いしばった。多少の痛撃には、なったのであろうか。
闘気の波は当然、倒れたままのシェファとリムレオンにも襲いかかる。
もはや白い悪鬼ではなくなったリムレオンが、こちらへ這い寄ろううとしている。
また格好をつけて、シェファを守ろうとしている。
「させないわよっ……!」
シェファは身を起こし、完全には立ち上がれぬ体勢のまま、前のめりにリムレオンへと向かった。
すぐに倒れた。リムレオンの、身体の上にだ。
重なり合う白と青の少年少女を、もろともに吹っ飛ばさんと襲い来る、闘気の波動。
それが突然、砕け散った。
凶器とも言える爪を生やした、赤い甲殻質の足が、闘気の波を石畳もろとも踏み砕いていた。
「リムレオン・エルベット……見事、この男に抗って見せてくれたな」
ガイエル・ケスナーが、そこに立っていた。翼ある背中をこちらに向け、ダルーハと対峙している。
「魔法の鎧をまとう勇者……その力と魂、しかと見届けた。あとは俺に任せておけ」