第139話 再会・白い悪鬼
配下の者たちに戦いを押し付け、自身は安全な場所にて為すべき事を為す。
それが王たる者の役目であると、兄モートン・カルナヴァートは言っていた。
今、自分がしている事は、それには当てはまらないだろうとティアンナは思う。
まずブレン・バイアス、マディック・ラザン、シェファ・ランティの3名は、自分の「配下の者たち」ではない。自分は今や一国の女王ではなく、単なる流れ者の小娘に過ぎないのだから。
そんな自分が、あの3名に戦いを押し付けてまで行おうとしている「為すべき事」。
それは従兄である1人の少年を助けるという、完全なる私事である。
否、助ける事など出来はしないだろう。
リムレオン・エルベットが今どのような状態に陥っているのか、詳細は不明である。
だがブレン・バイアスとレボルト・ハイマンが、為す術もなくタジミ村まで逃げて来たのだ。
自分に出来る事など、あるはずがない。
わかっていながらティアンナは今、廃墟と化したラナンディアを駆け抜け、王宮へと向かっていた。
「リムレオン……」
呟きながら、微かに唇を噛む。
1つだけ、わかっている事がある。
「貴方……また無茶をしたのでしょう?」
リムレオン・エルベットが怪物と化した。レボルト将軍は、そう言っていた。
何が起こったにせよ、あの少年が何かしら無茶をしでかした結果であるのは間違いなかろう。
誰かを守るために、無茶をする。そういう少年である事を承知の上で、魔法の鎧など贈ってしまったのは、ティアンナである。
「リムレオン、貴方は私が助ける……出来る出来ないの問題ではないわ。私が、やらなければならない事……」
ティアンナは立ち止まった。
王宮の城壁が、崩れている。大量の瓦礫が積み重なり、いくらか不安定ながら足場となっている。
そこに、レボルトが言った通りの光景があった。
リムレオンが、怪物と化している。
言うならば、白い悪鬼であった。
白い魔法の鎧は、辛うじて原形をとどめてはいる。
各所から角状の突起を伸ばし、禍々しく猛々しく異形化したその姿は、リムレオンの細い身体を内包しているとは思えないほどに力強い。
全身に凶猛さが満ち溢れ、燃え上がっていた。
目で見えるほどに濃密な、闘気の揺らめき。まるで白い炎である。
「リムレオン……?」
呟くように、ティアンナは呼びかけた。聞こえたかどうかもわからぬ小声である。
だがリムレオンは、こちらを向いた。
魔物の頭蓋骨を思わせる形状に変異した、白い兜と面頬。視界確保用の裂け目から、右の眼光だけが炯々と輝き溢れ出している。左目は、闇だ。
どこかで見た事がある。ティアンナは、そんな事を思った。
鎧の中身は無論、リムレオンであろう。
だが、もう1人いる。
その何者かを、自分は知っている。
そんな、わけのわからぬ思いに、ティアンナは苛まれていた。
「ほう……これは、これは」
面頬の内側で、リムレオンが言った。
確かに、懐かしいリムレオンの声ではある。
だが違う、とティアンナは感じた。何が違うのかは、自分でもわからない。
「類い稀なる悪運をお持ちの姫君……いや女王陛下。お久しゅうございますなあ」
「……貴方は、誰です」
ティアンナは訊いた。
訊くまでもなくリムレオン・エルベットである。そのはずなのだが。
「リムレオンと会うのは、確かに久しぶりです。が……貴方など知りません。まずは名乗りなさい」
「その必要はない。貴女は、我が名をご存じだ」
白い悪鬼のような、異形の鎧戦士。その名はリムレオン・エルベット、のはずなのだ。
リムレオン以外の何者でもないはずの戦士の周囲に、おかしなものが浮かんでいる。
目まぐるしく明滅を繰り返す、光の窓枠。
何枚ものそれらの中で、判読不可能な文字の列が、生じては消えてゆく。
そんなものに囲まれたままリムレオンは、1人の老婆と向かい合っていた。
枯れ木のような細身を、ボロ布同然のローブに包んだ、幽鬼の如き女性。
真っ白な髪に隠れかけた顔は、痛ましいほどに痩せこけて生気を失いつつ、両眼では得体の知れぬ力を爛々と輝かせている。
その老婆の周囲にも、光の窓枠がいくつか生じ、浮かんでいた。
それらに囲まれたまま老婆は、死にかけと思われる細身を忙しく動かしている。
骸骨のような両手の五指が、光の窓枠の中に、様々な文字や記号を書きなぐっている。
「誰だ……そこにいるのは」
老婆が、男の声を発した。
「ラナンディアの住民か? ブレン・バイアスと共に、出て行ったのではないのか……何にせよ、早急に立ち去るが良い」
執念、のようなものを燃やす、老人の声である。
「近付いてはならぬ。この小娘、頑張ってはおるが……もはや限界だ。この怪物の動きを、いつまでも封じてはおれぬぞ」
怪物とは、リムレオンの事であろう。だが小娘とは誰の事か。
「バルムガルドの民を、憎悪してやまぬ怪物……解き放たれた瞬間、この国は滅びるであろう。近付いてはならぬ。一刻も早く、一歩でも遠く、この国より逃げ去るが良い」
「逃げはせぬよレミオル侯。その姫君、決して逃げはせぬ」
リムレオンが、思わぬ人名を口にした。
レミオル侯。リムレオンにとっては父方の、ティアンナにとっては母方の祖父である、レミオル・エルベット侯爵の事か。
その人物はしかし、ティアンナが物心つくかつかぬかという頃に亡くなっているはずだ。
死んだ人間が、人間ではないものとして現れる。この世界では、決して起こり得ない事ではないのだが。
「相変わらず、弱者どもの代表として蟷螂の斧を振るっておられる御様子……頼もしい事よ。貴女を女王の地位に祭り上げた、俺の目に狂いはなかったというわけだ」
「何を……言っているのですか……」
ティアンナは、息を呑みながら呻いた。
死んだ者が、人ならざる何かとして甦る。決して起こり得ない事ではない。
とは言え、こんな事が本当にあるのか。
女王エル・ザナード1世は、確かに擁立された身である。
その擁立者は、ティアンナの眼前でガイエル・ケスナーに殺された。
あの男が、よりにもよってリムレオン・エルベットの肉体を奪って甦ったなどという事態。
起こるはずがない。起こって良いはずがないのだ。
「1つ言っておくぞ女王陛下よ。俺はこの小僧の肉体を、奪ったわけではない。こやつ自身が俺を呼び、迎え入れてくれたのだ。力を求めるあまりに、なあ」
リムレオンの全身で、白い炎が燃え上がった。
異形化した魔法の鎧を包んで揺らめく、可視の闘気。
それが、轟音を立てて膨張する。
「だから俺は、くれてやったのだよ。この力をなあああ!」
膨張と言うより、爆発であった。
闘気の爆発が、周囲に浮かぶ光の窓枠を全て粉砕していた。
光の破片が、キラキラと飛散し、消えてゆく。
それを蹴散らしながら吹きすさぶ闘気の爆風が、ティアンナをも襲う。
「くっ……!」
とっさに魔石の剣を構えながら、ティアンナは念じた。
細身の刀身が、その根元に埋め込まれた魔石が、激しく発光する。
魔力の輝きをまとう剣を、ティアンナは防御の形に一閃させた。襲い来る闘気の奔流を、叩き斬った。
激しい相殺が起こった。
闘気の爆風は斬り砕かれ、魔石の剣は真っ二つに折れた。刀身の根元で、魔石が砕け散る。
衝撃の余波が、ティアンナを後方に吹っ飛ばしていた。
下着のような鎧をまとう小柄な半裸身が、しなやかに受け身を取って即座に起き上がる。
使い物にならなくなった魔石の剣を放り捨て、ティアンナは駆けた。
老婆の周囲でも、光の窓枠がことごとく砕け散っている。
キラキラと舞い散る破片を引きずるようにして老婆は吹っ飛び、瓦礫に激突した。
ティアンナは駆け寄り、膝の上に抱き起こした。
「そなたは……」
膝の上から、老婆がじっと見上げてくる。
否。老婆ではないのかも知れない、とティアンナは感じた。
衰弱しきった、若い女性。
渇き、ひび割れた唇が、老いた男の声を紡ぎ出す。
「…………マグリア……?」
「いえ、ティアンナ・エルベットと申します」
やはりそうなのか、とティアンナは思った。
この老人は、自分ともリムレオンとも血縁のある人物なのだ。
「……マグリア・エルベットは、私の母です」
「おお……では、貴女様は……」
老人が、衰弱しきった女性の顔で、弱々しく微笑んだ。
そこへ、リムレオンが歩み寄って来る。
「再会の喜びに浸りながら、死ねる……幸せと思うのだな」
この女性が、己の生命力を消耗させながら、動きを封じていた怪物。
異形の全身甲冑を禍々しく鳴らし、ゆっくりと歩を進めて来る。
力つきようとしている女性を膝の上に抱いたまま、ティアンナは言葉をかけた。
「バルムガルドの民を、憎悪してやまぬ怪物……この方は、貴方の事をそうおっしゃいましたが」
「いわゆる無辜の民という輩は、どこの国でも同じものよな。人身御供を捧げて強者に媚びへつらい、虫ケラよりも惨めな命を繋ぐ」
リムレオンの綺麗な顔が、面頬の中でおぞましく歪んだ、とティアンナは感じた。嘲笑。憎悪にも等しい、嘲りの笑み。
「もはや憎むにも値せぬ、哀れな者ども……綺麗に滅ぼしてやる。それ以外に、してやれる事などあると思うか」
「やはり……貴方なのですか……」
ティアンナは知っている。
民衆を憎んでやまぬ人物が、かつて1人いた。今は、リムレオンの中にいる。
「それを……認めなければ、ならないの……?」
「せいせいしたわ。顔も見なくなって、声も聞かなくなって」
声がした。いくらか怒気を孕んだ、少女の声。
青い、優美な甲冑姿が、そこに佇んでいた。
「だけどね……1人っきりにしといたら、寂しくてトチ狂って馬鹿やらかすかも知れない。そういう心配、してなかったわけじゃないのよ?」
シェファ・ランティだった。
「そしたら、まあ思った以上の馬鹿っぷり晒して……ちょっとねえ何やってんのよリム様」
「何だ、貴様は」
リムレオンが、そちらを向いた。
凶猛な隻眼の眼光が、シェファに向けられた。
「その鎧……ふん、ゾルカ・ジェンキムめ。粗製濫造に走っているようだな」
「はいはい、あたしが悪かったですよ。謝ってあげるから……そういうワケわかんないふてくされ方、やめてくんない?」
シェファが、魔石の杖を構えている。
威嚇ではない。いくらかは本気でシェファは今、攻撃魔法を使おうとしている。
「魔法の鎧に引きこもって、ゴネちゃってる……引っぺがしてやる必要ありそうねえ」
「駄目よ、シェファ……」
ティアンナは言った。
「リムレオンは、ふてくされているわけでも引きこもっているわけでもないわ。恐ろしいものに……あまりにも恐ろしいものに、乗っ取られているのよ」
「同じ事。要するに、何だかわけわかんないものの後ろに隠れちゃってるんでしょうが!」
シェファの全身……青い魔法の鎧の各所に埋め込まれた魔石が、赤く輝いた。
その光が炎と化し、燃え盛りながら球形を成し、放たれる。
いくつもの火球が、一斉にリムレオンを襲った。
「鎧の中じゃなくて、お屋敷の奥にでも! 引きこもって一生ウジウジしてんのがお似合いなのよ、このバカ君は!」
シェファの怒声と言うか罵声に合わせ、それら火球が、あらゆる方向からリムレオンを直撃する。
白い、異形の甲冑姿が、無数の爆発に包まれた。
爆風が、大量の瓦礫を吹っ飛ばす。
「危ない……!」
ティアンナの眼前に、誰かが立った。
槍を持つ、緑色の甲冑戦士。
その槍がブンッと回り、襲い来る瓦礫の破片を打ち弾く。緑色の魔法の鎧が、爆風からティアンナを守ってくれる。
「気をつけろシェファ。女王陛下が、いらっしゃるんだぞ」
マディック・ラザンであった。
「まったく。リムレオンの事となると、周りが見えなくなってしまうんだからな」
「ちょっと! ふざけた事言わないで……」
そこで、シェファは絶句した。
白い悪鬼、とも言うべき異形の全身鎧。
その無傷の姿が、爆炎の中から現れたからだ。
「一介の攻撃魔法兵士……にしては、なかなかの火力よ」
禍々しく猛々しく輝く隻眼が、今はシェファ1人に向けられている。
自分は助かったのか。今のうちに、逃げるべきなのか。
ティアンナは一瞬、そんな事を思ってしまった。
「女王陛下、お逃げ下さい……!」
マディックが、ティアンナの眼前から飛び出して行った。
魔法の槍が、リムレオンに向かって鋭く突き出される。
そして、弾かれた。
五指の形をした凶器、とも言うべき形状の手甲が、虫でも追い払うように、槍先を受け流していた。
直後、マディックの身体が、勢い激しく宙を舞った。緑色の面頬から、微かな吐血の飛沫を漂わせながらだ。
リムレオンが、ゆらりと片足を着地させる。
蹴り、であったようだが、ティアンナには見えなかった。
物のように蹴り飛ばされたマディックが、シェファに激突する。
緑と青、2色の甲冑姿が、痛々しくもつれ合いながら倒れた。
そこへ、白い悪鬼が歩み迫る。
「さあさあ、健気に抗って見せろ弱者ども」
返事も出来ず、立ち上がる事も出来ず、シェファとマディックが弱々しい苦痛の呻きを漏らす。
両名とも、身勝手な単独行動を取ったティアンナを助けに来てくれた……のだとしたら、このまま逃げるべきなのか。
「馬鹿な……逃げるくらいなら最初から来たりはしない! リムレオン、目を覚ましなさい!」
ティアンナが叫んだ、その時。
光が、飛んで来た。
細長く、矢のような形に固まった、白い光。
2本、いや3本の光の矢が、リムレオンを襲う。
「む……」
白い悪鬼が、振り向きざまに左手を振るう。
手刀で魔獣人間の首を刎ねてしまいそうな手甲が、光の矢をことごとく打ち砕いた。
「女王陛下! 何をしておられる!」
城壁の、崩れていない部分に、力強い人影が立っていた。
がっしりとした中身の体格が見て取れる、黒い全身甲冑。
その左手に、弓が握られている。両端から短めの刃を生やした、金属製の長弓。
「何故お逃げにならぬのです! 御身に万一の事あらばヴァスケリアの復興は永遠に成らぬと、おわかりになりませぬか!」
「ラウデン侯……」
この人物が、ここにいる。すなわちゼノス・ブレギアスを倒して来た、という事なのか。
あの男は、殺されたのか。
自分はもしや、あの男を心配しているのか。
様々な思いが、ティアンナの中で渦巻いた。
「赤き魔人、及びデーモンロードは無論、倒さねばならぬ……」
ラウデン・ゼビルが、いつの間にか近くに着地していた。そしてティアンナを背後に庇い、リムレオンと対峙する。
「だがそれよりもまず、貴女様の御身の安全をこそ確保せねばならぬ! おわかりか女王陛下、貴女には生き延びる義務がお有りだ。他の者どもを犠牲にしてでも、ヴァスケリアのために……そこの2名、立て!」
倒れているシェファとマディックに、ラウデンが怒声を投げる。
「立って戦え! 貴様らヴァスケリア人であるならば、エル・ザナード1世陛下の御ためにのみ命を捨てよ!」
手本を見せる、とでも言わんばかりにラウデンが、白い悪鬼に向かって踏み込んで行く。
黒い長弓の両端で、2本の刃が白く輝く。魔力、と言うよりは気力の光。
「待ちなさい、ラウデン侯……」
「……待つのは……貴女よ……」
ティアンナの膝の上で、老婆が声を発する。
いや、やはり老婆ではない。弱々しいが若さまでは失っていない、女性の声である。
自分とあまり年齢の違わぬ少女なのではないか、とティアンナは思った。
「エル……ザナード……1世、陛下……?」
「今の私は、陛下などと呼ばれるべき身分ではありません。それより貴女は」
「これを……」
衰弱しきって老婆のようになってしまった少女が、ティアンナの手を握った。
何かを、手渡された。
「親父……ゾルカ・ジェンキムは、悩んでました……これを貴女に、お渡しするべきなのか……どうか……」
老婆のような少女が、微笑んだ。
「馬鹿……ですよね……悩むくらいなら、作らなきゃいいのに……でも出来ちゃったから、貴女に……渡すしか、ありません……」
ティアンナは、手を開いた。
掌の上では、小さな金属の竜が、環を成している。
紛れもない、竜の指輪だった。