第131話 難民たち
息が詰まって、目が覚めた。
「うっぐ……がふっ!」
喉に詰まった血反吐をぶちまけながら、ガイエルは上体を起こしていた。
どす黒い、吐血の飛沫。それは、もはや血液ですらないように見える。
身体の奥底に鬱陶しく沈殿し、不快感の塊となっていたもの。
それが砕け散って全身に拡散し、血を汚らしく濁らせている。
老廃物にも等しい、その血反吐が、マディック・ラザンの顔や全身をビチャビチャッと汚していた。
「大丈夫か? ……その様子では、まだ食事は無理そうだな」
汚れを気にした様子もなくマディックが、ガイエルを気遣ってくれる。
「人間であれば、いくらか無理をしてでも栄養を摂らせるところだが……貴方なら、あと1日か2日は飲まず食わずでも大丈夫そうだな」
「10日間……飲まず食わずは、それが限界だ。俺の場合はな」
父ダルーハによって本格的に鍛えられ始めた頃は、冗談抜きで10日近く、胃が食べ物を受け付けなかったものだ。
あの時と同じような感覚、なのであろうか。
タジミ村の、民家の一室である。
粗末な寝台の上で、ガイエルは身を起こしていた。しなやかに筋肉の引き締まった、裸の上半身。
弱々しい人間の肉体だ、とガイエルは思った。
赤き魔人の肉体であれば、血を浴びたマディックは今頃、遺灰となっているところである。
「……すまんな、汚してしまって」
「何という事はない。怪我人や病人の世話をするというのは、汚物を浴びるという事でもあるんだ」
どす黒い血の汚れを拭いながら、マディックは笑った。
「さて。貴方が元気である事を確認出来れば、とりあえずはいい……」
そんな言葉と共に、マディックはよろめいた。
「おい……」
「……大丈夫。癒しの力を使い過ぎて、少し疲れただけだ」
壁にすがりつくようにして転倒をこらえつつ、マディックが呻く。
彼のその様子にガイエルは、単なる気力の消耗ではないものを見て取った。
「あんた……怪我をしているのではないのか」
「かすり傷さ……彼に比べれば、ずっと」
「……バカ野郎なんだよな。俺なんかより、まず自分の傷、治してりゃいいのによ」
彼、と呼ばれた何者かが、すぐ近くで声を発した。
隣の寝台。
ガイエルよりも若干、筋肉の厚い裸の上半身に包帯を巻き、横たわっている。
ゼノス・ブレギアスだった。
「貴様……!」
「……元気そうじゃねえか、死に損ないのトカゲ野郎」
弱々しく、だが不敵に、ゼノスは微笑んだ。
「俺も今ムカついてんからよ、てめえと死ぬまで殴り合ってやってもいい……けどまあ、やめとけ。見ての通りだからよ」
「……そうだな」
腹に1発入れられた、その返礼をガイエルはとりあえず思いとどまった。ゼノスが重傷を負っているから、だけではない。
横たわる彼の、分厚い肩と胸板の中間辺りで、マチュアが寝息を立てているからだ。
小さな身体が、寝台の横で椅子に腰掛けたまま、ゼノスの上に倒れ込んでいるのだ。
「嬢ちゃんとマディック兄ぃが、夜通しで癒しの力、使ってくれたおかげでよ……俺も何とか、死なずにいられたぜ」
「……俺はゼノス王子の、兄などではないよ」
「兄さんや姉さんの仲間なんだろ? 兄貴みてえなもんさ」
「聖職者2名が、夜通しで癒しの力だと……」
ガイエルは、顎に片手を当てた。
この男が、自分を叩きのめして、どこへ行こうとしていたのか。何者と戦おうとしていたのか。それを思い出した。
「それでも完治しないほどの傷を、貴様に負わせた者がいる……そうか、デーモンロードと戦ったのだな」
「…………」
ゼノスは、何も言わなくなった。
愚かな言動ばかりの男が、表情を暗く強張らせている。しっかりと引き結んだ唇の下で、牙をギリギリと噛み合わせている。
マディックも、俯いたまま黙り込んでいる。
声を発したのは、マチュアだった。
「……メイフェム……さまぁ……」
眠ったまま、この場にいない女性に語りかけている。閉じた両目から涙が溢れ出し、ゼノスの包帯を濡らす。
メイフェムとは、あのメイフェム・グリムの事か。ガイエルも1度、恩を受けた事のある、魔獣人間の女性。
「……デーモンロードの野郎が、来やがってな」
分厚い片手で、そっとマチュアの頭を撫でながら、ゼノスがようやく言った。
ガイエルは、部屋の窓から外を見た。
いつもと変わらぬ、タジミ村の風景がある。
「あやつが攻めて来たのなら、この村も無事では済むまいと思っていたが……人死にを出さずに、あの怪物を退けたのか? やるではないか」
「人死にが、全く出なかったわけではないが……」
マディックが、言葉を濁した。
「デーモンロードは、帰ってくれた。結果として、この村は守られたんだ」
命懸けで戦い、撃退したのか。
マディックもゼノスも、名誉の負傷をしたという事であるのか。
やるではないか、とガイエルはもう1度、口にしようとして思いとどまった。
見ればわかる。ゼノス・ブレギアスは、デーモンロードに敗れたのだ。
敵に敗れた事なら、自分にもある。ガイエルは、それだけを思った。
無様に叩きのめされ、川に放り込まれた。流れ流され、ティアンナに拾われた。
彼女の助力を得て、その敵には報復を果たした。
「貴様が報復を果たす事は出来ん……残念だったな、ゼノス・ブレギアス」
ガイエルは言った。ゼノスが、燃え上がる眼光を向けてくる。
睨み返しながら、ガイエルは微笑んだ。
「デーモンロードは、俺が倒す……」
微笑みが一瞬メキッ……と痙攣する。
身体の中で、血が燃えた。
汚らしく血を濁らせていたものが、灼き尽くされ消滅してゆくのを、ガイエルは感じていた。
死ぬまで戦わせてみなければわからない、ところは確かにある。
それでもティアンナの見たところ、魔獣人間グリフキマイラとデーモンロードの力は、ほぼ互角であった。
ゼノス・ブレギアスとガイエル・ケスナーが2人がかりで戦ってくれれば、魔族の首魁を討ち取る事が出来る。
「結局は……人間ではない殿方に頼るしかない、と?」
自分は今更、何を言っているのだ、とティアンナは思った。
タジミ村の、外れである。
原野に、まるで食卓のような巨岩が鎮座している。
その岩に腰を下ろし、しなやかな両脚を組んだ姿勢で、ティアンナはじっと遠くを見据えていた。
「私……こんな所で一体、何をしているの……?」
ダルーハ・ケスナーの叛乱。あの頃から自分は何も変わっていない、とティアンナは思わざるを得なかった。
人間ではない殿方に守られながら、自分は巧みに立ち回り、安全な場所を確保しつつ偉そうに振る舞っている。
昔の吟遊詩人の歌に登場するような、ただ勇者に守られるだけの無力な姫君たちと、一体何が違うのか。
たとえ人間ではないものたちを利用してでも、魔族と魔獣人間の脅威は、ここバルムガルド国内で根絶しておかなければならない。そうしなければ、次に蹂躙されるのはヴァスケリアなのだから。
それはティアンナとて、頭では理解している。
だが心には、デーモンロードの言葉が突き刺さっている。
相変わらず、他者を人身御供とせねば生きてゆけぬようだな人間ども……
(人間は、自力では何も出来ない……人間ではないものたちには、蹂躙され続けるしかないの……?)
「こんな所に、いたのね」
声をかけられた。姉シーリン・カルナヴァートの声。
巨岩の傍らに、彼女はいつの間にか立っている。
少女を1人、伴っていた。魔石の杖を携えた、攻撃魔法兵士の少女。
「1人で歩き回ってもいい御身分なわけ? 貴女って」
シェファ・ランティだった。
「ま、どっかの若君なんかと比べ物になんないくらい腕が立つのは知ってるけど……この国って今、人間じゃない奴らが大量にうろついてるんだから。少しは用心した方がいいんじゃないの?」
「それでは、貴女に護衛をお願いするわ」
ティアンナは微笑みかけた。シェファは、難しい顔をした。
「女王陛下の護衛なんて、務まるわけないでしょ。魔法の鎧がなかったら、あたしなんて単なる雑魚……あったって、ろくな事出来てないんだから」
彼女もまた、遠くを見ていた。
「……デーモンロードが来たって、本当?」
「命拾いをしたわ。メイフェム・グリム殿のおかげで、ね」
「会いたかったわ、私も彼女に」
シーリンが言った。
「あの方には、私の一生をかけても返しきれない恩がある……」
「あたしは信じられません。あの頭おかしいバケモノ女が、人助けをするなんて」
シェファが言うと、シーリンは、いくらか暗く微笑んだ。
「人助けも出来る、人殺しも出来る……力に秀でた方々とは、そういうものよ。助けていただけるか、殺されるか、私たち人間が選ぶ事は出来ない。運の良し悪しに、すがるしかないわね」
この姉も、人間ではないものに守られながら生き延びてきたのだ。そして、それを受け入れている。
そういう笑顔だった。
岩の上で、ティアンナは立ち上がった。
原野の彼方から、こちらへ近付いて来ている者たちがいる。
魔物の軍勢、ではなく人間たちだ。足取りは弱々しい。
魔族の支配から逃れて来た、難民たちであろう。大半が、女性と子供……
いや、そうではない者たちもいる。巨岩の近くに、いつの間にか姿を現している。
「こいつら……!」
シェファが魔石の杖を構え、シーリンを背後に庇った。
3人、そこに立っていた。いや3匹、3体と呼ぶべきか。
人間ではない。肉塊か臓物か判然としないものが、おぞましく蠢きながら、3つの人型を組成している。
その痛ましいほど醜悪な姿に、ティアンナはしかし、紛れもない人間の原形を見て取った。
「驚かせてすまぬ、御婦人方。信じてはもらえぬだろうが……我々には、この村に害をなす意思はない」
1体が、声を発した。
もう1体が、片腕を動かした。よろよろと近付きつつある難民の群れを、指し示している。
「我々は、あの者たちを保護してもらうために来たのだ……どうか、お頼み申す。王母シーリン・カルナヴァート殿下に、お取り次ぎを」
「私です」
シーリンが、シェファの背後から進み出た。
「難民を、この村に迎え入れる事は出来ます。が、それには貴方たちに正体を明らかにしていただかなければなりません」
「我らは、レボルト・ハイマン将軍配下の魔人兵部隊……」
惨たらしいほど醜悪な怪物3体が、王母に対して恭しく跪いた。
「あの難民たちは、王都ラナンディアの民であります。どうか保護を」
「魔族の支配から、逃れて来られたのですね」
シーリンの言葉を、しかし魔人兵たちは否定した。
「魔族の支配、どころではないのです……王都は今や、人も魔物も住めぬ、滅びの領域でございますれば」
「滅びの……? 一体、何が起こったのですか」
「恥ずかしながら、我らも……正確に把握している、わけではありません」
答えたのは、魔人兵ではない。
難民たちが、声の届く距離にまで近付いていた。
その先頭にいるのは女子供ではなく、引率者らしき2人の男。大柄な壮年の男と、引き締まった中肉中背の若者である。
声を発したのは、若者の方だ。ティアンナも幾度か会話をした事がある、焦げ茶色の髪をした貴公子。身にまとっているのは、薄汚れた歩兵の兵装だが。
「レボルト・ハイマン将軍……」
「エル・ザナード1世陛下、貴女に問う。ゼノス・ブレギアス、アゼル・ガフナー、それに赤き魔人……こやつらを、よもや手放してはおるまいな? この村の戦力として、確保しているのであろうな?」
アゼル・ガフナーは別行動を取っている。
ティアンナがそう答える前に、シェファが叫んでいた。
「ブレン兵長!」
「シェファ……」
大柄な壮年の男が、呻くような声を発した。
頭髪と頬髭と顎髭が繋がってタテガミの形を成した、まるで獅子のような男。容貌は雄々しいが、表情も口調も弱々しい。
「まさか、こんな所で会うとはな……」
「それはこっちの台詞! 何やってるんですか、こんな所で……」
言いつつ、シェファは息を呑んだ。
「……リム様も、いるの?」
「…………」
ブレン兵長、と呼ばれた男が目を伏せた。
シェファの顔が、青ざめかけている。
「ねえ……リム様は……?」
「…………すまん」
ブレンが、血を吐くような声を発した。
そこへ、レボルトが声を投げる。
「いい加減に覚悟を決めろ、ブレン・バイアス。我らはな、リムレオン・エルベットを殺さねばならんのだぞ」
「…………何……言ってんの……?」
シェファが、呆然と固まった。
ティアンナは、岩の上から飛び降りた。着地と同時に問いかける。
「答えなさいレボルト将軍。何故……貴方の口から、リムレオン・エルベットの名前が出て来るのです」
「何故……何故だと……」
レボルトの秀麗な顔立ちが、にやりと歪みながらメキッ……と痙攣した。
「何故と問いたいのは私の方だ……何故、このような事が起こる? わかるか、わかるのか女王よ……」
この将軍は今、笑いながら怒り狂っている。それがティアンナにはわかった。
「よりにもよって……赤き魔人に、助力を求めねばならぬ……これが、どれほどの屈辱か……貴女に理解出来るのか……!」