第130話 魔族の道
メイフェム・グリム。ティアンナ姫が、そう呼んだ。
それが先生の名である事を、マディック・ラザンは今初めて知った。あの頃の彼女は、名を教えてもくれなかったのだ。
名もなき尼僧として、武術を教えてくれていた、あの頃。
メイフェム・グリムは本当に辛抱強く手加減をしてくれていたのだ、とマディックは思わざるを得なかった。
否。今でも、手加減をしてくれているのかも知れない。
彼女が本気を出したら自分など、もうすでに生きてはいないのではないか。
あれから今まで、何があったのかは知らない。とにかく、この先生は人間をやめていた。
魔獣人間となり、殺戮を繰り返している。かつてマディックの面前で、強盗の群れを皆殺しにした時のように。
バルムガルドの愚かな元貴族たちに利用されていただけの兵士たちが、皆殺しにされてしまった。
1人も救えなかった、などと打ちひしがれている場合ではない。
「馬鹿な……何故……」
血飛沫で点々と汚れた面頬の内側で、マディックは呻いた。
魔法の鎧に身を包んだまま、しかしマディックは起き上がれずにいる。弱々しく声を発するのが、精一杯だ。
「デーモンロード……何故、お前がここに……!」
「集まると厄介極まる者どもが、相も変わらず愚かな個別行動を取っておるとはな」
嘲笑いながらデーモンロードが、1体の怪物と対峙している。
獅子、山羊、荒鷲と3つの頭部を有する巨体……魔獣人間グリフキマイラ。ゼノス・ブレギアス。
大型の長剣を構えたその姿は、異形の怪物でありながら、剣士の風格を感じさせる。
普段の言動には、いささか問題がないとも言えないのだが。
「俺のこの3つのステキ脳みそで、いっくら考えてみてもよォ……最終的にゃテメーをぶっ殺すってぇとこにしか行き着かねえんだわ」
獅子の口が、牙を剥きながら言葉を発する。
「こんなとこまで、わざわざ何しに来やがったのかは知らねえが……死に際の台詞くれえ、考えてきてんだろうな?」
「貴様には台詞など吐かせぬ。滑稽な悲鳴を上げて、死んでゆくがいい」
デーモンロードの両手が、燃え上がった。
その炎が、左右2本の剣と化した。
「竜の御子、以外にも難儀な化け物が1匹いると、聞いてはいた」
「あの野郎は、いずれ俺がぶち殺す。テメーはここで死んどけやああああ!」
グリフキマイラの巨体が、猛然と突進する。
リグロア王家の大型長剣が一閃し、デーモンロードを襲う。
火の粉が散った。炎の剣が1本、高速で跳ね上がり、ゼノスの斬撃を受け流していた。
三つ首の魔獣人間が。泳ぐように体勢を崩す。
そこへ、もう1本の炎の剣が襲いかかる。
燃え盛る斬撃は、しかし激しく空を切った。
体勢を崩したまま、ゼノスは地面に倒れ込んでいた。
その巨体が、デーモンロードにさらなる攻撃の機会を与えぬ速度で起き上がる。
同時に、リグロア王家の剣が一閃。低い姿勢から敵の下腹部を狙う斬撃だった。
それをデーモンロードが、後方へと跳んで回避する。筋骨たくましい巨体が、相変わらず俊敏に動く。
それに劣らぬ速度で、ゼノスが間合いを詰めにかかった。力強い蹄が、大地を蹴って土を砕く。
獅子の口が、凶暴に牙を剥く。山羊の角が、猛禽のクチバシが、荒々しく振り立てられる。
それに合わせて、リグロア王家の大剣が、様々な方向からデーモンロードを襲った。大型の刀身が幾度も閃き、嵐の如く荒れ狂う。
火花が、火の粉が、大量に散った。
嵐のような斬撃は全て、炎の剣によって弾き返されていた。
デーモンロードの青黒い巨体が獰猛に躍動し、その周囲で紅蓮の刃が左右2本、防御あるいは攻撃の形に間断なく閃き続けた。
炎の斬撃が、燃え盛る刺突が、襲い来るリグロア王家の剣を打ち返しながら、ゼノスを襲う。
三つ首の巨体が、小刻みに揺らぐ。全てを、ゼノスはかわしていた。
かわす動きに合わせて、大型の長剣が右上に振り上がり、左下に振り下ろされる。回避と攻撃が、ほぼ同時に行われていた。
「必殺……爆裂斬りだオラァアア!」
とてつもない馬鹿力を宿した切っ先が、デーモンロードの首筋を襲う。
その首筋を守る形に、炎の剣が交差した。
燃え盛る刀身が2本、十文字型にしっかりと組み合わさって「爆裂斬り」を受け止める。
そして、砕け散った。
燃え散って行く炎の破片を蹴散らして、リグロア王家の剣が、デーモンロードの頸部を直撃する。
そして、止まった。
どす黒い鮮血がブシュー……ッと噴き上がる。
悪魔の、青黒く力強い首筋に、ゼノスの剣は食い込んでいた。頑強過ぎる首の筋肉が、少しだけ圧し切られている。
ゼノスが息を呑んだ。
「てめ……!」
「貴様の馬鹿力、大したものだ。それを刃に込め、相手の体内に叩き込む……見事な剣技よ」
首筋から血を噴出させながら、デーモンロードは笑った。隻眼の異相が、苦しげに楽しげに歪む。
「その馬鹿力もな、炎の剣を打ち砕いた時点で尽きた。余勢の斬撃で、私の首を刎ねる事は出来ん」
デーモンロードの右手が、燃え上がった。
ゼノスが、とっさに後方へと跳び退る。が、僅かに遅い。
新たに生じた炎の剣が、グリフキマイラの左胸に突き込まれていた。
「ぐうっ……!」
幸い、心臓には達していない。分厚い胸板を、いくらか灼き抉っただけだ。
左胸を押さえながら、踏みとどまり、体勢を立て直そうとするゼノス。
そこを狙って、デーモンロードが左手を振るう。
凶悪なほど力強い五指が、掌が、炎を発する。
その炎が、燃え上がりながら一閃した。
紅蓮の斬撃が、ゼノスの右手から、リグロア王家の剣を打ち飛ばしていた。
大型の長剣が、森のどこかに落ちた。
「貴様の剣は、手放してしまえば終わり……私の剣は、魔力が続く限りは、いくらでも生えて来る」
言いつつデーモンロードが、炎の剣の片方を、首筋の裂傷に当てた。
ジューッ! と凄惨な音がした。
傷口が溶接され、血の噴出が止まった。裂傷が、火傷に変わっていた。
「命を惜しむ事は、恥ではない……我が配下に加われ。貴様にならば、レボルト・ハイマンと同じ待遇を与えてやっても良い」
その言葉が終わる前に、ゼノスは踏み込んでいた。
デーモンロードは、明らかに油断をしていた。
青黒い巨体がズドッ……と前屈みにへし曲がる。
その腹部に、グリフキマイラの右拳がめり込んでいた。
「ぐぅッ……ぶっ……き、貴様……ッ!」
「イイ感じに寝ぼけてんじゃねえか……俺の爆裂拳で、目ぇ覚ますがいいぜ」
己の脇腹に肘を打ち付けるようにして、ゼノスが右拳を引く。
青黒い悪魔の巨体が、後方によろめく。
ゴボッ! と黒っぽい飛沫が散った。
デーモンロードが、血を吐いていた。
1対1の戦い、しかも素手で、この怪物を吐血させる魔獣人間。
唯一神の起こし賜うた奇跡を目の当たりにする思いで、マディックは戦いに見入っていた。
よろめくデーモンロードの両手で、炎の剣が揺らぎ、消えた。
魔力が、一時的にせよ持続しなくなった。
魔力にすら影響を及ぼすほどの肉体的損傷を、このゼノス・ブレギアスという男は、デーモンロードに与えたのだ。
マディックは、心の中で呻いた。
(あの時、彼がいてくれれば……黒薔薇夫人の城で、デーモンロードを仕留めておく事が出来た……)
血を吐き、揺らぐデーモンロードに向かって、グリフキマイラがなおも容赦なく踏み込んで行く。右の握り拳に、馬鹿力が籠る。
2発目の「爆裂拳」。
ブンッ! と唸りを発して襲い来るその一撃を、しかしデーモンロードは左手で受け流していた。
よろめいていた両足が、しっかりと地面を踏む。
それと同時に右の拳が、魔獣人間の三つ首の中央、獅子の顔面に叩き込まれる。
細かな血飛沫を霧の如く吐き散らせながら、今度はゼノスの方がよろめいていた。
「ぐっ……て、てめ……ッ!」
「わ、私の……はらわたを、いくらかでも粉砕する……者が、おるとは……」
苦しげに、デーモンロードは笑った。
「ふ……ふふふ、貴様のような敵を、力押しで叩き殺し、その屍を踏みにじり、歩み往く……それが魔族の道よ」
「ブチ殺されて踏まれんのはテメーの方だっつぅううの!」
口元の血の汚れを拭いながら、ゼノスは牙を剥いた。
「そ、その後でよォ……今度ぁ俺がティアンナ姫に、ごっごご御褒美として踏んでもらうのよ。うらやましーだろうがコラァ」
「……馬鹿を言っている暇があったら、戦いなさい」
ティアンナ姫が言った。
「魔族の総大将を相手に、勝てとは言わないわ。今、ガイエル様を呼んで来てあげる。それまで死なず、粘りなさい」
「それがよ、実は来られねえんだよな。あの野郎……もう何日か、死にかけてると思うぜ」
若干ばつが悪そうに、ゼノスは言った。ティアンナが睨みつけた。
「どういう事……貴方、何をしたの」
「何も出来はせんよ、ティアンナ」
声がした。
赤い、竜の魔人が、木陰からユラリと姿を現したところである。
「そやつごときが俺に、何か出来るはずもあるまい……何も出来ん野良犬は下がれ。デーモンロードは、俺が倒す」
「ガイエル様……」
ティアンナが名を呼ぶ。ゼノスが、息を呑む。
「てめえ……」
「下がれと言った。聞こえんのか」
言葉と共に、ガイエル・ケスナーの口元、仮面のような顔面甲殻がビシッ……とひび割れた。
「今から、デーモンロードを灼き砕く。もろともに灰と化したくなければ、そこをどけ!」
そう言いながらも回避する暇をゼノスに与えず、ガイエルは甲殻の破片を飛び散らせて牙を剥き、口を開いていた。
洞窟のような喉の奥から、爆炎が迸った。
炎、と言うよりも爆発そのものを、ガイエルは吐き出していた。
ティアンナも何度か目の当たりにした事がある、爆炎の吐息。
それがデーモンロード……ではなく、三つ首の魔獣人間を直撃していた。
誤爆ではない。ゼノスが、巻き添えになったわけでもない。
最初からグリフキマイラのみを狙って、ガイエルは爆炎を吐いたのだ。
押し寄せる熱風からマチュアを庇いつつ、ティアンナは思った。
(……違う……これは……)
デーモンロードの眼前から、ゼノスが灼かれながら吹っ飛び、大木に激突し、ずり落ちる。
その巨体のあちこちで獣毛が焦げ縮れ、皮膚が焼けただれている。無論、この程度の火傷で動けなくなるような男ではない。
やはり違う。
ガイエルの爆炎を喰らったのだ。いかにゼノス・ブレギアスとて、これしきの軽傷で済むはずがない。
ここにいるのが、本当にガイエル・ケスナーであるならば。
「野郎ッ……誰だてめえ!」
ゼノスが、火傷をものともせずに激昂し、立ち上がる。3つの頭は全て、ガイエルに向けられている。
その隙を見逃すデーモンロードではなかった。
持続を絶たれていた魔力が回復し、炎の剣が燃え上がる。
紅蓮の切っ先が、ゼノスの分厚い胸板を貫いていた。
心臓は僅かに外れている、ようには見える。だが致命傷に近い痛手であるのは、間違いない。
「貴様は、私1人の堂々たる力押しで倒したかった……が、そのような隙を見せられてしまったのではな」
「…………!」
ゼノスは悲鳴を噛み殺し、怒声を吐こうとして息を詰まらせ、倒れていった。
その胸から炎の剣を引き抜きつつ、デーモンロードが言う。
「とっさに心臓を庇ったのは、さすがと言っておこう。貴様ほどの敵……力押しだけで、倒したかったぞ」
「ゼノス王子……」
マチュアが呆然と呟く。
ティアンナは、ガイエルを睨んでいた。
「貴方は……!」
「あんたに危害を加えるつもりはないよ、エル・ザナード1世陛下」
言いつつガイエルが、恭しく跪いた。ティアンナに、ではなくデーモンロードに対してだ。
「お見事でございました、デーモンロード様」
「貴様がいた事……忘れていたぞ。魔獣人間ドッペルマミーよ」
自由に姿を変えられる魔獣人間が、この村に潜んでいる。
そんな事を、ガイエルが確かに言っていた。今更、思い出したところで意味はなかった。
「赤き魔人が、ずっと私を警戒しておりました。隙を見出す事が出来ず……長い潜伏と、なってしまいました」
言葉と共にガイエルの全身から、赤い甲殻がほどけてゆく。
それは、包帯だった。
不気味に蠢く半個体状の身体を包帯で包み、人型を維持している。そんな姿の魔獣人間が、跪いている。
「赤き魔人は、いくらか手負ってはおりますが、まだ私1人の力で仕留められる状態ではございません。ですが、あやつの取り巻きどもであれば……私の力で、こうして隙を作る程度の事は出来ます」
「よくやった」
言いながら、デーモンロードが炎の剣を振るう。
その炎が、剣の形を崩しながら燃え盛り、伸びた。赤い大蛇のような、炎の鞭。
その一撃が、身を起こして何かをしようとしていたマディック・ラザンを打ち据える。
緑色の、光の飛沫が飛び散った。
魔法の鎧が、砕け散りながらキラキラと光に戻っていた。
その煌めきの中、生身のマディックが吹っ飛んで地面に激突し、動かなくなる。
生きているかどうかは、わからない。魔法の鎧がなかったら、一瞬にして灰と化していたところであろう。
「癒しの力は、使わせん……まずは貴様を真っ先に始末しておくべきであったな、マディック・ラザンよ」
生死不明のマディックに確実なとどめを刺すべく、デーモンロードがもう1度、炎の鞭を振り上げようとする。
その手が、止まった。
動けぬマディックの楯となる格好で、ティアンナは立っていた。
魔石の剣が、白色の輝きを帯びる。
その刃をデーモンロードに向け、ティアンナは言い放った。
「去りなさい、魔族の頭領……人間の領域で、これ以上の無法は許しません」
「エル・ザナード1世陛下で、あらせられるか」
非力な人間どもを脅すように、炎の鞭を揺らめかせながら、デーモンロードが笑う。
「女王に問う。許せぬならば、どうする? 許せぬ無法をしでかした者に、いかなる罰を与えるのだ。許せぬという言葉……最終的には、そのような話にしか行き着かぬ事を理解した上で使っているのだろうな」
「……罰をお望みなら、与えてあげましょう」
「おい、やめろ。あんたまで死ぬ事はない」
魔獣人間ドッペルマミーが、言葉を挟んでくる。
「この国のために、ヴァスケリアの女王陛下には死んでもらわなきゃならん……そう思った事もあったよ。だけどあんたが、この村のためにいろいろ頑張ってくれたのは知っている」
「貴方は」
魔石の剣をデーモンロードに向けたまま、ティアンナは魔獣人間を睨み据えた。
「この国のために自ら、魔獣人間となる道を選んだのですか」
「そうしなきゃ、ならなかったんだ。もう諦めてくれ。デーモンロード様に従う事だけが唯一、この国が助かる道」
その言葉が終わらぬうちに、ドッペルマミーは吹っ飛んでいた。
デーモンロードが、炎の鞭を振るっていた。
燃え盛る大蛇に打ち据えられた魔獣人間が、炎に包まれ、のたうち回り、焦げ砕けてゆく。
「ぎゃああ……ぁああああああっ……なっ何を、なさいますか……デーモンロード様……」
「貴様は、私の戦いの邪魔をした」
倒れ動かぬグリフキマイラを片足で踏み付けながら、デーモンロードは言った。
「力押しで、全ての敵を打ち砕く……それが魔族の道よ。貴様はその道に、つまらぬ置き石をした」
「お、俺は……あんたを、助けたんだぞ……」
「それよ。このような危険な敵、貴様のような下衆の助力を受けてでも、倒せるならば倒しておかねばならん……貴様が現れなければ、そのような状況にはならなかった。私は、堂々と力押しを通す事が出来たのだ」
「な……何だ……何だよ、それは……」
「こういうものよ。抗いもせず強者に従う、それは結局こういう事にしかならないの」
言葉を発したのは、メイフェム・グリムだった。
「強い者は弱い者を、こういう子供の我がままみたいな理由で、いくらでも殺せるのよ。それもわからずバルムガルド人は、魔族に服従する道を選んだ……20年前の、ヴァスケリア人のように」
女魔獣人間の口調には、憎しみに近いものが漲っている。
「貴方たちは……魔物どもが人間を守ってくれるなんて、本気で思っていたの?」
「お……俺は……俺たちは……この国の、ため……に……」
魔獣人間ドッペルマミーは、灰に変わった。
「胸くそが悪い……このような村、滅ぼしてしまうか? おっと動くな」
デーモンロードが命じた。
隻眼が、マチュアに向けられている。
「小娘……貴様は今、癒しの力を使おうとしておるな」
「あ……あの……」
マチュアが、泣き喚くジオノス3世を抱いたまま、おろおろとしている。
「ゼノス王子も……マディックさんも……このままでは、死んでしまいます……治させて、下さぁい……」
「何バカな事を言ってるの!」
メイフェムが、怒声を張り上げた。
「貴女なんて、デーモンロードが少し歩いただけで蟻みたいに踏み潰されてしまうのよ!? バカを言っている暇があったら、さっさと逃げなさい! 早く!」
「蟻1匹をわざわざ選んで踏み潰そうとは思わんが……癒しの力の使い手を、放置しておくわけにはいかん。かつての戦いではメイフェムよ、貴様にさんざん厄介な思いをさせられたからな」
デーモンロードの言葉に合わせ、炎の鞭が毒蛇のように揺らめきうねる。
そして、マチュアに向かって振り下ろされる……寸前で、メイフェムが跪いた。デーモンロードの力強い下半身に、すがりつくような格好でだ。
「私……貴方に、尽くします……」
女魔獣人間の、辛うじて人間の美女の原形を残した唇が、言葉を紡ぎながら触れてゆく。
デーモンロードの股間で、隆々と勃起したものにだ。
「お願いです……おチビちゃんを、殺さないで……」
「メイフェム様……!」
マチュアの大きな瞳から、涙が溢れ出し飛び散った。
「駄目……! 駄目です! そんな……!」
「ふ……ふふふふ、ふっははははははははは! 人身御供となるかメイフェムよ、レフィーネ王女のように!」
デーモンロードが笑った。赤黒い吐血の汚れの中から、牙の白さが剥き出しになった。
凶悪なほど力強い手が、メイフェムを掴んで引きずり立たせ、荒々しく抱き寄せる。
燃え盛る隻眼が、ティアンナを睨み据えた。
「相変わらず、他者を人身御供とせねば生きてゆけぬようだな人間ども……貴様らを見ていると、本当に虫酸が走る。まあ無様を晒しながら、虫ケラの如く這いずり生き延びるがいい」
デーモンロードは、背を向けた。
そして、女魔獣人間の肢体を抱いたまま、歩み去って行く。
「メイフェム様!」
マチュアが叫ぶ。メイフェムは、応えない。ただ物のように、抱かれ運ばれて行く。
斬り掛かって行こうとする己の身体を、ティアンナは懸命に、踏みとどまらせなければならなかった。
黙って、見送るべきであった。
せっかくデーモンロードが、1人の人間も殺戮せずに立ち去ってくれようとしているのだから。
「私たちは、助かった……1人の女性を、供物のように捧げて……」
呟きながら、ティアンナは唇を噛んだ。
「赤き竜……在りし時の、ヴァスケリア人のように……」
そのヴァスケリア人の中から、しかしあの時代、1人の英雄が現れた。
今、彼はいない。
「どうすれば……」
いなくなってしまった英雄に、ティアンナは問いかけていた。
「どうすれば……貴方のように、なれるのですか……ダルーハ卿……」