第127話 好機、あるいは危機
風が強い。短めの黒髪が、頭で草むらの如く揺らめいている。
タジミ村。元々アゴルという村であった山中の、木々の少ない場所である。
ゼノス・ブレギアスは、巨大な岩と対峙していた。うずくまったトロルほどもある巨岩。
それに向かって、リグロア王家の剣を振り下ろす。力まず、だが力を込めて。
力まずに、力を込める。この矛盾した作業を行えるようになるまで、とてつもない修練が必要なのだ。
大型の長剣が、巨大な岩の左上から入って右下へと抜けた。
一瞬だけ、ゼノスは手応えを感じた。
その一瞬の間に、込めた力を解放する。巨岩の中へと、流し込む。
うずくまったトロルほどの岩塊が、斜め真っ二つになった。
断面の滑らかな2つの岩が、次の瞬間、砕け散った。
「よし、絶好調だぜ……爆裂斬り」
刃こぼれ1つない刀身をユラリと振るいながら、ゼノスは満足げに呟いた。
自分の唯一の取り柄と言うべき馬鹿力を、斬撃あるいは刺突によって敵の体内に流し込む。
一部の魔獣人間のように再生能力を持った相手であろうと、その肉体を内側から粉砕する事が出来る。
魔獣人間グリフキマイラ、ではなく人間ゼノス・ブレギアスの姿で、この技を使えるようになったのは、進歩と言って良いだろう。
課題が1つある。そう思いながら、ゼノスは拳を握った。
素手あるいは蹴りで、この技を使えないものか。剣ではなく拳で直接、破壊力を叩き込み、相手を爆砕出来ないものであろうか。
無論、戦いの最中に武器を失うなど、剣士としては恥ずべき事態である。
だが実際に得物を叩き落とされてしまった時、何も出来ないようでは、それこそ恥さらしの極みと言うしかない。
拍手が、聞こえた。
「野良犬にしては、見事な技だ」
少し長めの赤い髪が、木陰で風に舞っている。
ガイエル・ケスナーが木にもたれ、手を叩いていた。
「何だてめえ……安静が必要なんじゃねえのか」
「貴様の稽古相手になってやる、くらいの事は出来るさ」
秀麗な顔立ちが、ニヤリと歪む。
ゼノスとしては無念だが、顔は向こうの方が上であると認めざるを得ない。
力は、どうであろうか。それは、本気で殺し合ってみないとわからない。
マディック・ラザンいわく、このガイエル・ケスナーという男は今、持っている力を完全に発揮出来る状態ではないらしい。
本調子ではない事は、何度か殴り合ってみて、ゼノスにもわかった。
不調をもたらす塊のようなものがガイエルの体内にあり、それは時をかけてほぐし崩してゆくしかない、と、マディックは言っていた。
ティアンナも、口にこそ出さないが、ガイエルの身体を気遣っている。
それが、ゼノスは気に入らなかった。
この男が本調子にさえなれば、ティアンナに気を遣わせる事もなく、本気で叩きのめす事が出来る。
本気で、殺し合う事が出来るのだ。
「おい、てめえ……ティアンナ姫に、あんまり心配かけんじゃねえよ」
「ティアンナが? 俺を心配? そんな事があるものか」
ガイエルが、せせら笑う。
ゼノスの頭に、かっと血が昇った。
「彼女はな、俺や貴様と違って忙しいのだ。俺の事を気にかけている暇など……おっと何をする」
ゼノスの拳を、ガイエルは掌でバシッ! と受けた。
「俺を殴り殺したいのなら、魔獣人間になれ。人間の皮を被ったままで、俺に戦いを挑むなど」
「はっはっは、まずはテメエのそのすました面の皮ァ引っぱがしてやる必要がありそーだなああオイ!」
「……男って、あんたたちみたいなのしかいないわけ?」
声がした。
女の子が1人、うんざりしたような足取りで、歩み寄って来たところである。
そこそこの美少女ではあるが無論、ティアンナには遠く及ばない。
「あたしもすぐ頭に血が昇っちゃう方だから、あんまり偉そうな事言えないんだけど」
シェファ・ランティである。
ゼノスは、にこやかに挨拶をしてみた。
「おお、兄さんの彼女。つまり俺にとっちゃ、姉さんみてえなもんかな」
「……殺すわよ」
「はっはっは、おめえ1人じゃ無理だ。兄さんと力合わせりゃともかく……で、その兄さんはどこよ」
シェファ・ランティがいるのに、リムレオン・エルベットがいない。それがゼノスは、いささか気になってはいたのだ。
「……知らないわよ、あんな奴」
「何だケンカしてんのか。言っとくけど、俺に乗り換えようったって駄目だぜ。俺には……ティアンナ姫が、いるんだからよォ」
「ガイエルさん、だったわよね」
シェファは、ゼノスを無視した。
「貴方には、お礼言っとかないと……助けてくれたのよね? あたしたちが、黒薔薇夫人の城でゴルジに殺されかけてた時」
「あの時は、ギルベルト・レインに用があっただけでな」
ガイエルが言った。
「それより、お前たちが着ている魔法の鎧というものは面白いな。ゾルカ・ジェンキムが、まさか本当に造り上げるとは思わなかった」
「あたしらなんかが、こんなの着たところで、貴方たちみたいなのに勝てるわけないんだけどね……ところで」
シェファが、じろりとゼノスを睨んだ。
「ゴルジが死んでも、その手下だった奴らが生き残ってるみたいだけど……少なくとも今のところは、あたしたちに味方してくれてると。そういう解釈でいいわけ?」
「フェル坊やティアンナ姫の味方してくれるんなら、俺も味方さ」
ゼノスは、にっこりと笑ってみせた。
「ゴルジ殿もなあ、何だかワケわかんねえ事言いながら結局、死んじまったけど……少なくとも、俺にとっちゃ恩人なんだ。あんまり悪く言わねえでやってくんねえかなあ」
「まあゴルジなんかよりヤバいのが、うじゃうじゃいる感じだからね今。デーモンロードと言い、あのカボチャ男と言い、アゼルさんや……あんた方も、そうだけど」
「お前たちも、早急に人数を集める事だな」
ガイエルが言った。
「あと何人かいるのだろう? 魔法の鎧を持つ者たちが。何故、別行動を取っているのかは知らんがな」
「…………」
シェファが、黙り込んでしまう。代わりにゼノスは言った。
「おめえも空気読まねえ野郎だな。ケンカしてるからに決まってんだろうが? もうちっと男女の機微ってやつをだな、まあ俺とティアンナ姫を見て勉強するこった」
「ティアンナには……野良犬の躾け方というものを、少し教えておかねばならんな。馬鹿は、調子に乗る」
「はっはっは、調子に乗ってんのぁテメーの方だっつうの」
胸ぐらを掴もうとするゼノスの手を、ガイエルは押しとどめた。
「まあ待て、稽古の相手には後でなってやる。済ませなければならん用事が出来そうだ……いるのだろう?」
ガイエルが、どこかへ声をかけている。
「俺に伝えたい事があるのだろう。こやつらには別に聞かれても構わん、言ってみろ」
「……貴方様が、そうおっしゃるのなら」
声がした。
近くの木陰に、小さな生き物がうずくまっている。
年老いた、ゴブリンだった。
「てめえは……」
取るに足らぬゴブリンを、ゼノスは思わず本気で叩き斬ってしまうところだった。
声を発するまで、気配を全く感じなかったのだ。
「御報告を……おかしな者どもが、この国に入り込んで来ております」
「ほう、俺たち以外にも?」
「唯一神教徒の軍勢でございます」
恭しく跪いたまま、老ゴブリンは報告をした。
「ヴァスケリア北部で台頭中の、ローエン派の者どもですな。この度の動乱に乗じ、バルムガルドを併呑せんとする企みかと」
「ローエン派……」
ガイエルが、遠くを見つめた。
この男がヴァスケリア北部の生まれである、とはティアンナが言っていた事だ。
「あの男に蹂躙され尽くした民を、唯一神教が癒す……それで、うまくゆくと思っていたのだがな。バルムガルドを併呑、などという話になってしまっているのか」
「ヴァスケリアの唯一神教勢力は、残念ながら民を癒す役割を放棄し、政治的野心に走っております……せっかく貴方様がお救いになった人間たちは今、誤った道を進んでいるのです」
老ゴブリンの小さな身体が、地面にへばりつくように平伏した。
「竜の御子よ、かの地へお戻り下さい。ローエン派の台頭の陰で、貴方様のご帰還を心待ちにしている人間たちもおります」
「……地ならしが足りなかった、という事かな」
ガイエルが、両腕を組んだ。
「だがな、デーモンロードを放置したままヴァスケリアに戻るわけにはいかん。あやつが健在である限り、お前たちの望む魔族と人間との和平も有り得んのだぞ」
「これは……ご報告するべきか否か、迷っておりました」
迷いながらも、老ゴブリンは言った。
「ですが、申し上げましょう……デーモンロード様のおられる岩窟魔宮は現在、守りが手薄でございます」
「ほう?」
「レボルト・ハイマン将軍が、不在なのです」
レボルト・ハイマン。
その名を聞くと、ゼノスの体内でやはり血が燃える。復讐の心など、ないはずなのだが。
「王都ラナンディアで、異変が起こりました。いかなる異変であるのか詳細は掴めておりませんが、とにかくレボルト将軍は岩窟魔宮を離れ、そちらへの対処に向かった様子」
「ふむ、あやつが動くほどの異変というわけか」
ガイエルの両眼が、ぎらりと輝いた。
「どのような異変かは無論、気になるが……そうか、知略と統率力でデーモンロードを守る者が、今はいないのだな」
この男は1度、単身で岩窟魔宮に攻め入ろうとしてレボルトに阻まれ、痛い目に遭った。
好機、と言うべきなのか。
アゼル・ガフナーが言っていた。何かしら状況に変化が起こるかも知れない、と。今が、その時なのか。
だがデーモンロードとは、レボルトがいないからと言って、手負いのガイエル・ケスナーに容易く討たれてしまうような相手なのか。
「……行くつもりじゃねえだろうな、てめえ」
「デーモンロードとは1度、戦った事がある。難儀な敵であるのは承知の上だ」
答えつつガイエルは、すでに歩き始めている。岩窟魔宮の方向へと。
「だが……レボルトがいない、この機を逃すわけにはいかん」
「……そうだな」
言葉と共にゼノスは、ゆらりと踏み込んだ。
そして右の拳を握り、身を捻った。
足から腰、腰から肩・腕へ、そして手首へと、旋風の如き回転を連動させ、渾身の馬鹿力を拳から捻り込む。格好をつけて歩み去ろうとする男の身体へと。
「ぐぅッ……えぇ……っ」
無様に呻きながら、前屈みに身をへし曲げるガイエル。その鳩尾に、ゼノスの拳がめり込んでいる。
何かが、砕け散った。
この男の体内に鬱陶しく沈殿し、不調をもたらす塊となっていたもの。それを粉砕した手応えを、ゼノスは右拳の中にしっかりと握り締めていた。
「よしっ……」
「ちょっと、何がよしなのよっ!」
崩れるように倒れ、痙攣するガイエルの身体を、シェファが助け起こそうとしている。
老ゴブリンが、痛ましげに言った。
「やはり、お身体を病んでおられたのですな竜の御子よ……このようなお知らせ、持って来るべきではなかった」
「悔やむな爺さん。竜の御子ちゃんの代わりに、俺がやってやらあ」
言いつつゼノスは、全身をメキッ! と震わせた。
衣服がちぎれ飛び、翼が広がり、山羊の角と猛禽のクチバシが振り立てられる。
獅子の牙を剥きながら、ゼノスは言い放った。
「トカゲの御子ちゃんよ、おめえはしばらく死にかけてな。まあティアンナ姫に優しく扱ってもらえ。そのくれえは大目に見てやっからよ」
「き……さま……ッ!」
のたうち回りながらガイエルが、呻きと共にゴボッ! と血を吐き散らす。
ドス黒い血反吐である。
ゼノスの拳に粉砕されたものが、全身の血液に溶け込んでしまったのだ。
溶け込んだものを、血の力で薄めるか燃やし尽くすかしてしまえるかどうかは、この男次第である。
露わになった異形の裸身に、リグロア王家の剣を鎖でくくり付けながら、魔獣人間グリフキマイラは悠然と歩き出した。岩窟魔宮の、方向へと。
歩きながら、右の拳を握ってみる。
ガイエルの体内に、馬鹿力を流し込んだ感触。時間をかけて崩しほぐすしかない、とマディックが言っていたものを、一撃で粉砕した手応え。
それを、ゼノスは忘れまいとした。
「完成したぜ……必殺、爆裂拳」