第124話 ラナンディア激震(8)
してやれる事など、あるわけがなかった。
死を悼む事すら、不遜という気がする。自分に、そんな資格はない。
まして仇討ちなど、不遜の極みである。
「バーク殿……俺は、どうすれば良い……」
もはや死体すら残っていない魔獣人間に対し、ブレン・バイアスは呟いた。
引きちぎられて飛び散り、干涸びた肉片となって、周囲の瓦礫に付着している。
死体とも呼べぬ、その有り様を作り出した怪物が、今やブレンなど眼中にない様子で傲然と立っていた。
細身の少年を内包しているとは思えぬほど猛々しく異形化した、白い魔法の鎧。その全身で、どす黒い返り血がシューシューと蒸発してゆく。
禍々しく熱い闘気を発し、廃墟となりかけたラナンディア王宮の風景を歪めながら、リムレオン・エルベットは面頬の奥でギラリと眼光を燃え上がらせた。右側だけの、凶猛に輝く隻眼。
「悪竜転身、だと……」
悪鬼の頭蓋骨を思わせる兜と面頬の内側で、リムレオンは笑ったようだ。
「俺の目の前で、その言葉を口にするか」
「この身、今や悪しき竜としか言いようのない有り様なのでな」
言いつつレボルト・ハイマンが、人間ではないものの姿を晒している。
格が違う、とブレンは思った。これまで自分が戦ってきた魔獣人間たちとは、明らかに格が異なる。
魔法の鎧にも似た、甲冑状の黒い外骨格。楯の形に異形化した左前腕。竜そのものの、翼と尻尾。
首から上は、目と口の形に裂け目の入ったカボチャであり、その内部では煌煌と熱い赤色が燃え盛っている。
「悪しき竜、だと……」
魔獣人間と化したレボルト・ハイマンに、リムレオンが1歩、迫った。ひび割れた石畳が、足跡の形に焦げた。
「悪しき竜とはいかなるものか、少しは知っての上で、ほざいておるのか」
「知っているとも。私はな、竜の力を有する赤き魔人と戦った事がある」
言いつつレボルトが、左前腕の楯型甲殻から、スラリと武器を引き抜いた。片刃の長剣だった。
「あやつに比べれば、貴様など……」
「竜の力を持つ、赤き魔人……か。会ってみたいものだ」
リムレオンの口調に、右側だけの眼光に、凶悪な熱っぽさが宿る。
「なあ、会わせてくれぬか……」
「会わせてやるとも、地獄でな! 貴様はここで死ぬのだ!」
レボルトの方から踏み込んだ。竜の尻尾が高速でたなびき、片刃の長剣が一閃した。
「死にたくなければ、まともな形で生き延びてみせろ小僧!」
一閃した刃が、しかし火花を散らせて跳ね返る。
リムレオンの左手が防御の形に動き、大型化した手甲が、魔獣人間の斬撃を弾いていた。
よろめくレボルトに向かって、今度はリムレオンが踏み込む。右の手甲が握り合わさって拳となり、ブンッ! と思い唸りを発する。
その一撃を、レボルトは楯で受けた。楯の形に広がった前腕外骨格が、絶妙な角度で、リムレオンの右拳を受け流していた。
驚くべき、防御の技量であった。
拳の行き場を失った感じにリムレオンはよろめき、踏みとどまろうとする。
そこへレボルトが、片刃の長剣を振り下ろした。
白い魔法の鎧から、血飛沫のような火花が散った。
「うぬ……っ」
呻きを漏らし、後方へと揺らぐリムレオン。
いくらか、間合いが広がった。
それを詰めようはせず、レボルトは口を開いていた。
カボチャの形をした頭部の中で炎が燃え上がり、球形に固まり、吐き出される。
小さな太陽のような火球が、リムレオンを直撃した。
爆発が起こった。
「若君……!」
叫ぶブレンの視界の中で、レボルトが立て続けに火の玉を吐く。3発、5発。
爆発の火柱が、瓦礫を粉砕しながら立ちのぼる。
その火柱の中でリムレオンが原形をとどめているのかどうか、定かではない。
「やめろ貴様……やめろおおおおッ!」
ブレンは駆け出し、魔法の戦斧を魔獣人間に叩き付けた。
その一撃が、片刃の長剣でガキッと受け止められてしまう。
「邪魔をするなブレン・バイアス……これで死ぬようであれば到底、デーモンロードの相手にはならぬ。あきらめろ」
「貴様……若君を、己の手駒として扱おうとするか!」
黄銅色の厳つい兜と面頬の中、ブレンは牙を剥いて怒声を発した。
「そのような事をせずとも、デーモンロードと戦うならば我々はいくらでも協力する! それがわからんのか!」
「貴様らが手を貸してくれた程度で、果たして勝てる相手かな。デーモンロードは……」
レボルトは一瞬だけ、笑ったようだ。
「だが……どうやら認めねばなるまいな。今のリムレオン・エルベットは、デーモンロードに勝るとも劣らぬ、災厄の権化であると」
「何……」
ブレンは息を呑み、絶句した。
弱まりつつある爆炎の中から、こちらに歩み寄って来る者がいる。
「1つ、教えておこうか……」
その者が、リムレオンの声を発した。
「……竜の炎は、こんなものではないぞ」
猛々しく異形化した、白い魔法の鎧。その無傷の姿が、火柱を割るように現れていた。
「ほんの1滴か2滴、とは言え竜の血液に耐えたのであろうな魔獣人間よ。それは誉めてやろう」
凶猛に燃える隻眼が、レボルトに向けられる。
「だがな、これでわかった……貴様は竜の、粗悪な模造品に過ぎぬ」
白い魔法の鎧が、ゆらりと前傾した。
そう見えた時には、リムレオンの姿は消えていた。
白い疾風が吹いた。ブレンには、そう見えた。
超高速の、踏み込み。
火球を吐く暇も、片刃の剣を振るう暇も、楯を構える暇も、レボルトには与えられなかった。
「グゥッ……えぇ……っっ!」
魔獣人間の身体が、宙に浮いた。カボチャの裂け目のような口から、火球ではなく悲鳴と、そして鮮血の反吐がゴボッと溢れ出す。
リムレオンの右拳が、レボルトの鳩尾にめりこんでいた。
その拳を中心として、黒色の全身甲殻にビキビキッと亀裂が広がってゆく。
「竜の力はな、こんなものではない……」
魔獣人間の身体を、右腕だけで殴り掲げたまま、リムレオンは呟いた。そして叫んだ。
「竜の力を、真に受け継いだ者の力……こんなものではないわッ!」
叩き付けるように、リムレオンはレボルトを放り捨てた。
放り捨てられた魔獣人間の身体が、石畳の上を転がりながらも、弱々しく立ち上がろうとする。
そこへ、リムレオンは左足を叩き込んだ。足元のゴミを払いのけるような蹴り。
それだけで、レボルトの身体は吹っ飛んだ。
ひび割れていた黒い甲殻がパラパラと剥離し、鮮血の飛沫と共に舞い散る。
城壁の巨大な残骸に、レボルトは激突した。
その残骸が粉々に砕け、瓦礫と化し、レボルトの身体を埋めてしまう。
埋葬されたような状態のまま、魔獣人間は立ち上がろうともしない。
「さあ、どうした弱者ども……蟷螂の斧で、俺を止めて見せろ」
まるで親愛の情を示すかのように、リムレオンは両腕を広げ、ブレンに歩み迫る。
「さもなくば俺は、この国の者どもを殺すぞ……人身御供を捧げて保身を図るクズどもを、殺し尽くすぞ」
「……貴公ならば、本当にやるであろうな」
レミオル・エルベット侯爵が、ブレンを背後に庇う格好でユラリと立った。
「受け入れねば、ならんのか……レフィーネ殿下のおらぬ貴公は、英雄ではなく魔王であると」
「仕方あるまい? レフィーネは、もはや俺を止めてはくれんのだからなああ!」
リムレオンの身体が再び、白色の疾風と化した。
レミオル侯が、吹っ飛んだ。
赤黒く錆びた甲冑が砕け、その下で人型を保っていた霊体が、暴風を受けた霧の如く散って消えた。
白い手甲をまとう拳を振り切った体勢で、リムレオンは今、ブレンの眼前に立っている。
「若君……」
などと声を発している間に、衝撃が来た。
リムレオンの、拳か、手刀か、肘あるいは蹴りなのか。
とにかく、ブレンの目をもってしても捕捉不可能な攻撃が、黄銅色の全身甲冑に叩き付けられて来る。魔法の鎧の上から、凄まじい衝撃を流し込んで来る。
ブレンは吹っ飛んでいた。キラキラと、光の粒子を宙に垂れ流しながら。
魔法の鎧が砕け散り、光に戻り、右手の竜の指輪へと吸い込まれて行く。
「ぐぅ……ッ」
生身に戻ったブレンの巨体が、石畳に叩き付けられて呻きを漏らす。
呻きと一緒に血反吐が溢れ出し、タテガミのような髭を汚した。
「立てよ、虫ケラ……蟷螂の斧を、もっと振り回してみろ」
言葉と共にリムレオンが……否、禍々しくも猛々しい何者かが、リムレオンの肉体と魔法の鎧を着込んだまま、ブレンに歩み迫る。
そして、立ち止まった。
とどめを刺さず、嬲り殺しを楽しむつもりなのか。
「む……これは……?」
そうではない様子であった。
いくらか戸惑ったような声を漏らしながら、リムレオンは己の全身を見回している。
異形化した、白い魔法の鎧。その周囲に、いくつもの光が浮かんでいた。四角形を成す、白色の光。
窓、に似ている。光で出来た、いくつもの窓枠だ。
それら窓の中に、文字が生じた。
ブレンの教養では解読不可能な、謎めいた文字列が無数、凄まじい速度で流れている。
「ちょっと、文字化けしまくってるじゃないの……」
セレナ・ジェンキムが、リムレオンに向かって片手を掲げていた。
その中指に巻き付いた蛇の指輪が、光を発し、同じような光の窓をセレナの周囲に投影している。
「魔法の鎧の情報が……駄目、凄い勢いで書き換えられてく……!」
「何のつもりだ、小娘……」
怒りに燃える隻眼が、白い面頬の中から、容赦なくセレナを睨む。
リムレオンの身体は、しかし動かない。
身体が、と言うより魔法の鎧が、石像の如く固まってしまっている。
動けなくなった魔法の鎧の中に、リムレオンは今、閉じ込められていた。
「セレナ、お前……」
「逃げて、ブレン兵長」
周囲に浮かぶ光の窓枠の中に、両手を走らせながら、セレナは言った。
彼女の綺麗な五指が目まぐるしく動き、いくつもの光の窓枠内に、様々な文字を書き綴る。まるで、両手で楽器を奏でているかのようでもある。
「そうか……この鎧に、何か細工を施しているのだな」
がっちりと固まってしまった魔法の鎧の中で、リムレオンは手足を動かそうとしている。動かなくなった白い甲冑が、ガチャガチャと空しく震えるだけだった。
「ゾルカ・ジェンキムの作品に、外部から手を加えるとは……小娘もしや貴様、あやつの縁者か?」
「どこの誰だか知らないけど、人の親父の名前を気安く呼ぶんじゃないってのよ。あと、リムレオン様の身体からとっとと出てきなさいね」
「そうか……貴様、ゾルカの娘か」
興味深げな声を発するリムレオンの周囲で、いくつもの光の窓が、様々な色に輝いている。それらの内部を、ただでさえ解読不能な文字列が、より得体の知れぬ形に化けながら走り抜ける。
「駄目……わけのわかんない思念情報が、魔法の鎧を書き換えてく……! あたしじゃ止めらんない! ブレン兵長、早く逃げてったら!」
両の細腕を激しく舞わせ、光の文字列を懸命に操りながら、セレナが叫んだ。
「親父や姉貴がいてくれればともかく、あたし1人の力じゃ……動きを止めとくのが、精一杯だから……ッッ!」
「動きを止める、だと……お前が、今の若君を……止めておく、だと」
呻きつつもブレンは、認めざるを得なかった。
現実的に今、リムレオンは動きを封じられている。
ブレンの力でも、魔獣人間化したレボルト・ハイマンの力でも成し得なかった事を、このセレナ・ジェンキムという少女は実行しているのだ。
「他に選択肢はあるまい……今度こそ逃げろ、愚か者のブレン・バイアスよ」
声がした。レミオル・エルベット侯爵の声。だが姿は見えない。姿は先程、リムレオンによって粉砕されたのだ。
粉砕された霊体が、霧のように漂いながら、セレナの身体に流れ込んで行く。
「あっぱれな小娘よ、私の力をくれてやる……貴様の体力の代わりに、私の命を消耗するが良い。飲まず食わずで、一月は耐えられよう……」
一月、この状態を放置せよと、レミオル侯は言っているのだ。その間に、ブレンは逃げろと。
「逃げて、対策を講じる……それ以外に、ないようだな」
何者かが言いながら、ブレンの身体を引きずり起こそうとしている。
全裸の、若い男。しなやかに鍛え込まれた裸身は、しかしズタズタに負傷し、血まみれである。
レボルト・ハイマンだった。
今や人間の姿に戻され、魔獣人間に変わる事も出来ぬほど力尽きた、文字通り満身創痍の有り様である。
「動けぬリムレオン・エルベットが相手とは言え……我らの力で、あの魔法の鎧の上から痛撃を与えられるとは思えん。そして動けぬ状態が、いつまで続くかわからん。セレナ・ジェンキムとやらが力尽きる前に……対策を、講じねばなるまい」
「対策、だと……そのようなものがあるのか!」
傷病兵のようになった全裸の若者に助け起こされながら、ブレンは叫んだ。
「この場で何も出来ぬ俺たちに! 逃げた先で対策を立てる事など、出来るのか!」
「出来んよ。この怪物が相手では、何も出来ん……我々の力では、な」
我々ではない何者かの力がある。
レボルト・ハイマンは、そう言っているのか。
ブレンに肩を貸したまま、レボルトは背を向けた。今のところ動けずにいるリムレオンに。その状態を作り出し保持している、セレナに。
「……助けを……求める、しかあるまい……」
血を吐くように、レボルトは呻いた。
死んでも助けを求めたくない相手に、彼は今、助力を乞おうとしているのだ。
「タジミ村にいる、者どもに……なぁ……ッ!」