第122話 ラナンディア激震(6)
バルムガルド王都ラナンディア。
王宮の城壁上で、戦いは続いていた。
揺らめく炎のようなもので組成された長剣を持った、レミオル・エルベット侯爵。
彼によって大いに叩きのめされ、石壁にすがりつくように立っている魔獣人間ドワーフラーケン。
両者の間に割って入り、魔獣人間を背後に庇ってレミオル侯と対峙するブレン・バイアス。
その3名を嘲笑うように悠然と佇んでいたゴーストロードの身体が、突然、揺らいだ。
「ぐっ……こ、これは……?」
不定形の霊体を黒いローブで包み込み、無理矢理に人型を保っているようなその姿が、苦しげにうねる。
「死せる者どもの、中から……馬鹿な! こちらへ、出ようなどと……しておる者が……!?」
「……してはならぬ事を、やらかしたようだなゴーストロード殿。以前、忠告したはずだ」
レミオルが言った。
「肉体ある者を死の世界へ送り込むのは、やめた方が良いと。それは悪しき魂に、この世へと戻る手段を与える事にしかならぬと」
「あ、有り得ぬ! 死せる者が、私の許可もなく、この世に舞い戻るなど……ぬぐぅっ、ぎゃあッが!」
無理矢理に人型を保っていたゴーストロードが、人型ではなくなってゆく。
黒いローブが、絞られる雑巾の如く歪み、ねじれた。
「……稽古は中止だ。逃げろ、ブレン・バイアス」
レミオル侯が、意味不明な事を言った。
「逃げても恥にならぬ相手というものは、確かにいるのだ。それが今、この世に再び現れようとしておる」
「何を言っておられるのか、わかりませんが……ここで逃げ出すようであれば、最初から来てはおりません」
言いつつブレンは、身体の向きを変えた。黄銅色の魔法の鎧に包まれた巨体が、レミオル侯からゴーストロードの方へと向き直った。
戦況が、激変しつつある。ブレンに理解出来るのは今のところ、それだけだ。
「おいゴーストロードとやら。貴様、若君を……」
「ぐぅっぎゃあああああああ貴様、貴様かッッ!」
絶叫と共に、黒いローブがちぎれた。人型を失ったゴーストロードの霊体が、血飛沫の如く溢れ出した。
「や、やめろぉ貴様ッ! 死せる者の分際をわきまえぬか! この世に貴様の居場所など」
「居場所など、求めようとは思わんよ」
声がした。
紛れもない、リムレオン・エルベットの若々しい声。
「俺はただ、弱い者いじめを楽しむだけだ」
リムレオンが、言うはずのない言葉。
それに合わせてゴーストロードは、ローブも霊体も一緒くたにちぎれて飛散し、霧の如く弱々しく漂いながら、消滅した。
その霧の中に、細身の人影が佇んでいる。
華奢に見えて無駄なく鍛え込まれた、少年の身体。着用しているのは、粗末な衣服である。
「若君……」
ブレンの呼びかけに、その少年がちらりと視線を返す。
いくらか痩せ気味の美貌と、貴公子そのものの金髪。間違いなく、リムレオン・エルベットだ。
が、ブレンを見据えるその目には、リムレオンではあり得ない光が、爛々と燃え盛っている。荒々しく猛々しく、そして禍々しい眼光。
そんな光を燃やしているのは、しかし右目だけだ。左目には、何の輝きも宿っていない。生気を失った眼球が、目蓋の下に埋まっているだけである。
「若君、御無事で……」
言いつつブレンは、自分の言葉を即座に否定した。
違う、無事ではない。
リムレオンの身に、何事かが起こっている。
「貴様、面白いものを着ておるな」
魔法の鎧をまとうブレンの姿を、まるで初めて見るもののように観察しながら、リムレオンは言った。
「その鎧から感じられるのは、紛れもなくゾルカ・ジェンキムの魔力……あやつめ、夢を叶えたものと見えるな」
禍々しく輝く右目が、黄銅色の甲冑姿をギラリと見据える。
「素人の農民町人でも、魔物どもと戦えるようになる力。それがあれば人々は平和に暮らせる、などと夢物語を唱えておったゾルカめが……一体どれほどのものを作ったのか、俺が試してやるとしよう」
「何を、言っておられる……」
呻きながらブレンは1歩、後退りをしていた。
「若君……いや……貴公、何者だ」
リムレオン・エルベットであるのは、間違いない。
だが同時に、リムレオンではない何者か、でもある。
そのような意味不明な結論に、ブレンは達してしまっていた。
そんなブレンに、リムレオンが問いを投げる。
「貴様、その鎧をゾルカ・ジェンキムから与えられたのであろう。あやつは息災か? 今どうしておる」
「……ゾルカ殿は死んだ。あの場には若君、貴方もおられたはずだが」
決まった。この少年は、リムレオンではない。彼の肉体に、とんでもない異物が入り込んでいる。
そう思いながら、ブレンは魔法の戦斧を構え直した。
「何者だ、貴様……いや、それよりもまず若君の身体から出て来い」
「追い出してみろ」
言葉と共に、リムレオンの細身がゆらりと前方に踏み出した。
踏み込みが来る。直感と共に、ブレンは魔法の戦斧を振り上げた。
振り下ろそうとしたブレンの手が、止まった。硬直していた。
相手は、生身のリムレオンなのだ。
硬直した斧をくぐり抜けるように、少年の細身がブレンの懐に潜り込む。
鳩尾に、重く鋭い衝撃が来た。ブレンの呼吸が一瞬、止まった。
肘。辛うじて、それはわかった。が、かわす事も防ぐ事も出来ず、ブレンは両膝を折っていた。
「ぐっ……う……」
黄銅色に武装した巨体が、呻きと呼吸を詰まらせながら、リムレオンの足元に崩れ落ちる。
肘打ちの構えを、ゆっくりと解きながら、リムレオンはブレンを見下ろしている。
「ふむ……この小僧の肉体、見た目よりも鍛え込まれているようだな。まだ伸びしろもある、気に入ったぞ」
この少年を鍛え込んだのは、ブレン自身である。
だが。いくら鍛えたところで、魔法の鎧の上から、生身の肘打ちでここまでの痛撃を叩き込むほどの力など、そうそう身に付くものではない。
(馬鹿な……いかに若君の素質とて、これほどの力は……)
倒れたまま少しずつ呼吸を回復させるブレンの頭を、リムレオンが片足で踏み付けた。
「それはそれとして貴様……今、斧を止めたな? この俺を相手に手加減をするとは、呆れるほどの豪気よ」
体重に乏しい少年の細身が、信じられないほどの重さをグリグリと魔法の兜に押し付けてくる。そしてブレンの頭蓋を圧迫する。
「愚かな事は考えず、その鎧の力で蟷螂の斧を振るってみろ。そして俺を楽しませるのだ、弱き者よ」
「おい……やめろ貴様、そいつは俺の獲物だ!」
魔獣人間ドワーフラーケンが、動こうとする。それをレミオル侯が止めた。
「やめておけ。貴様ごとき作り物の怪物が、勝てる相手ではない……今リムレオン・エルベットの中におるのはな、本物の怪物よ」
「……誰かと思えばレミオル・エルベット侯爵閣下。お久しゅうござるな」
ブレンの頭を踏み付けながらリムレオンは、死せる侯爵の方へと視線を向けた。禍々しく輝く右目に、いくらかは和やかな光が浮かぶ。
「中途半端なお姿を晒しておられる。俺のように肉体を奪って復活なされば良いものを」
「甦った死者などというものはな、いかなる形であろうと、中途半端な存在にしかならんのだよ」
蘇った死者。今リムレオンの肉体を乗っ取っている何者かも、そうなのか。
「ともかく。貴公の足の下で無様に横たわっておるそやつは私の部下、貴公に乗っ取られておる少年は私の孫。助けてやらぬわけには、ゆかんのだよ……貴公と戦う事に、なろうとな」
レミオルが、揺らめく長剣を構える。
リムレオンが、ブレンの頭から片足をどけた。
「レミオル侯、俺は貴方に恩義がある。あの戦いでは、貴方だけが俺たちの味方をしてくれた……貴方を弱い者いじめの対象には、したくないのだがな」
「全ての民衆が、貴殿の敵に回った戦いであったな」
哀れむように、懐かしむように、レミオルは言った。
「ヴァスケリアの民衆を、まだ恨んでおるのか。その憎しみゆえに、唯一神の御下へと旅立てずにいたのか?」
「さあ、どうであろうかな。ただ……民衆という連中を蹂躙殺戮しているとな、心が安らぐのだよ俺は」
右だけの眼光をギラギラと凶悪に輝かせながらリムレオンは、人ならざる身と化した祖父に歩み迫って行く。
「自分では何もせぬ、何も出来ぬ者どもを、虫ケラの如く踏み潰す……これに勝る悦楽は、この世にはない。あの世にもなかった。俺はなあレミオル侯よ、今更誰かを憎んでいるわけではないのだ。ただ弱い者いじめがしたい……それだけよ」
「待て……」
去り行くリムレオンの後方で、ブレンはよろよろと立ち上がっていた。
「俺は貴様と、どこかで会ったような気がする……その凶猛なる眼光、どこかで見た事があるように思える……教えてくれ、あんたは一体何者なのだ」
「ブレン、貴様は知らぬ方が良い」
炎のようなもので組成された長剣を揺らしながら、レミオルは踏み込んで行った。己の孫である少年に向かってだ。
「知れば貴様は萎縮し、何も出来なくなるであろう……」
生前・全盛期のレミオル・エルベットを上回るのではないかと思えるほど強烈な斬撃が、リムレオンを襲う。
それ以上の速度で何かが跳ね上がり、空気を裂いた。リムレオンの右足。超高速の蹴りが、レミオル侯の右手を打ち据える。
揺らめく炎のような長剣が、その衝撃に蹴散らされ、消え失せた。
「ぐっ……」
レミオル侯爵の苦痛の呻きというものを、ブレンは初めて聞いたような気がした。
ようやく死者としての弱々しさを露わにし始めた、と言えなくもない祖父に向かって、リムレオンが獣のように動いた。
拳、それと蹴り。ブレンの動体視力をもってして、ようやく辛うじて把握出来る速度である。
死せる騎士の錆びた甲冑から、赤茶色の粉末が飛び散った。
こびりついた返り血か、錆そのものか、判然としないものを舞い散らせながら、レミオル侯が吹っ飛んで石畳に激突する。
リムレオンには、まず回避と防御の技術を徹底的に叩き込んだ。攻撃は、これからの課題である。
これほどの攻撃力を、この少年が持っているはずはないのだ。
「若君の中に、怪物が入り込んでいる……そう解釈するしか、なさそうだな」
ブレンは言い、魔法の戦斧を構えた。構えたまま、しかし斬り掛かる事が出来ない。
怪物が入り込んでいるのは、リムレオンの肉体なのだ。
「なるほど……貴様は、この小僧を気遣っているのだな」
言いつつリムレオンが、己の薄い胸板を右手で叩いた。
その右手の中指で、竜の指輪が禍々しく輝いた。
「ならば、本気で戦えるようにしてやろう」
禍々しく輝く右手で、リムレオンは握り拳を作った。指輪の輝きが、増してゆく。
その右拳が、高々と掲げられる。
怪物が、リムレオンの口で言葉を発した。
「武装……転身」
言葉と共に、少年の細身が、勢い激しく屈み込む。禍々しく輝く拳が思いきり振り下ろされ、石畳を殴打する。
亀裂が、ブレンの足元にまで迫った。
石の破片が、大量に宙を舞った。
リムレオンの拳を中心に、石畳全体がひび割れていた。
否。城壁全体に、亀裂が走っていた。
その亀裂から、白い光が溢れ出す。竜の指輪から城壁へと叩き込まれた光。
白色の炎のような輝きを噴出させながら、ラナンディアの城壁は崩壊していた。
ブレンも、レミオル侯もドワーフラーケンも、崩れ落ちる城壁の中へと沈んでいった。
いかにブレンとて、魔法の鎧を着用した状態でなければ生きてはいない。
「ぐぅっ……」
多い被さって来る石畳の破片をおしのけ、ブレンは身を起こした。
ラナンディア王宮では、城壁の一角が完全に失われていた。
崩落し、瓦礫の山と化した城壁。
そんな光景の真っただ中に、その怪物は立っていた。
白い全身甲冑。そこには、リムレオンの魔法の鎧の原型が、辛うじて残ってはいる。
だが。兜それに左右の肩当てから、怪物そのものの角を生やし、全身に刃の如く鋭利な突起を備えたその姿は、リムレオン・エルベットの細い肉体を内包しているとは思えぬほどの凶悪さである。
その凶悪な面頬からは、右の眼光だけが、猛々しく爛々と溢れ出していた。
異形化した魔法の鎧をまとう、隻眼の怪物。
そのようなものに成り果てたリムレオンが、城壁の残骸を踏み潰しながら、ゆったりとブレンに歩み寄る。そして声を発する。
「これで良かろう? その斧で2度3度殴ったところで、この小僧はもはや傷一つ負わぬ……ふふっ、まさしく蟷螂の斧よ」
面頬の下で、少年の細い美貌がニヤリと歪む様が、見えたような気がブレンはした。
「さあ、本気で抗ってみろ弱き者よ……俺に、弱い者いじめを楽しませるのだ」