第121話 ラナンディア激震(5)
地味な灰色のローブが裂け、眩しいほどに白く瑞々しい肌が現れた。
華奢な両肩の丸みと、綺麗な鎖骨の凹みが現れた。
むっちりと深い胸の谷間が、すらりと形良い左右の太股が、露わになった。
その全ての部分に、ぎらついた獣欲の眼差しが集中する。
劣情そのものが凝り固まったような眼球。ニタニタと醜く歪んだ、豚の顔面。
不格好に筋肉太りした身体が、おぞましく勃起した下半身を露出させながら、じりじりと迫って来る。
オークの群れである。
引きちぎられたローブを寄せ集める感じに胸を隠しながら、セレナ・ジェンキムは尻餅をついていた。
「あ……あぁ……」
微かな悲鳴が漏れる。
半ば廃墟と化した、王都ラナンディアの一角である。
崩れかけの壁際に、セレナは追い詰められていた。何匹ものオークにだ。
うち1匹が、少女の身体から引きちぎったローブの切れ端に豚鼻を寄せ、貪欲に匂いを吸っている。
無論、匂いを嗅ぐだけで済ませてくれるはずはなかった。
浅ましく膨張・屹立したものを下腹部からセレナに向けながら、オークの群れが包囲を狭めて来る。
「助けて……助けてよ、誰か……」
助けてくれるような誰かはいない。ブレン・バイアスは、リムレオン・エルベットの救出に向かってしまった。
「助けて、リムレオン様……助けに来なさいよ、色ボケおやじ……」
ボロ布となって自分の身体にまとわりついているローブを、セレナはぎゅっ……と掴んだ。ほっそりとした右手が、華奢な握り拳になった。
その中指で、蛇の指輪が弱々しく輝いている。こんな場面では、何の役にも立たぬ指輪である。
姉ならば。そんな思いが、セレナの胸中で渦巻いた。
イリーナ・ジェンキムならば、魔法の鎧の量産品を呼び出して、オーク程度の敵であれば容易く撃退する事が出来る。
魔法の鎧の出来損ない、などと馬鹿にしていたセレナであったが、自分はその出来損ないすら作り出せない。
「助けてよ……姉貴……」
セレナの両目から、涙が溢れ出した。
潤んだ視界の中、醜悪・凶悪なオークの群れが迫り寄って来る。
(何よ……何なのよ……)
ある事実をセレナは今、否応無しに思い知らされていた。
(あたしって奴……1人じゃ何にも出来ないじゃないのよォ……)
泣き怯える半裸の少女に、オークたちが一斉に襲いかかる。
そして、ことごとく吹っ飛んだ。
獣欲の塊のようだった眼球が破裂し、潰れた脳髄が眼窩から噴出する。
強固な拳が、斬撃のような手刀が、オークの顔面を片っ端から粉砕していた。
ブレンが戻って来てくれたのか。呆然と思いながら、しかしセレナはそれをすぐに否定した。
ブレンよりも、いくらか小柄な人影である。均整の取れた長身に、粗末な歩兵の軍装をまとっている。
いくらか怯んだオークたちを睨み回す、その眼光は鋭い。
顔立ちは秀麗で若々しく、いかにも貴公子といった感じである。
「ブレン・バイアスめ、軍人のくせに後先を考えぬ奴よ……」
焦げ茶色の髪をした、その若者が、呟きながら拳を振るった。
オークの1匹が、顔面を拳の形に凹ませながら吹っ飛び倒れ、脳漿を噴き上げる。
「考え無しにオークロードを殺したりするから、こういう事になる」
「あんた……」
この若者が何者であるか、セレナはすぐに思い出した。忘れられるはずがなかった。
レボルト・ハイマン。
リムレオンを叩きのめし拉致して行った、張本人である。
「何で……あんたが、あたしを助けるの……?」
「規律も統制も失ったオークどもを、取り締まっているだけよ」
槍や鎚矛を振り立て、襲いかかって来るオークたちを、レボルトは素手で迎え撃った。
手刀が、肘が、槍を叩き折る。鎚矛や戦斧を、叩き落とす。
「何を今更と思うであろうが、王都の治安は守らねばならぬ……こう見えても、バルムガルドの軍人なのでな」
武器を失ったオークたちの顔面に、レボルトの拳が左右立て続けに打ち込まれる。
いくつもの頭蓋が破裂し、女を犯す事しか考えていなかった脳が潰れて飛び散った。
オークの群れが、1匹残らず屍に変わったのを、レボルトが油断なく確認している。
そこへ、セレナは声をかけた。
「あんた……人間の味方なの? 魔物の手先なの? どっち?」
「私もな、はっきりさせたいとは思っている」
答えつつレボルトは、王宮の方向に視線を投げた。
「リムレオン・エルベット、それにブレン・バイアス……奴らが、果たしてデーモンロードに対抗し得る力を見せてくれるかどうか。それ次第だ」
何も、見えない。
ただ、圧倒的な力だけが感じられる。
「誰だ……」
届くかどうかわからぬ声を、リムレオンは発した。
「そこにいるのは、誰なんだ……どうか、答えて欲しい」
「駄目!」
ブラックローラ・プリズナが、叫んだ。
「話しかけては駄目、見ても駄目……あの男に、関わっては駄目」
この少女が、こんな悲鳴じみた声を発する。それが、リムレオンには信じられなかった。
唯一神の下へと旅立てぬ者たちが集う、死の領域。
その奥深くで、他の死者たちの怨みを一身に受けながらも傲然と佇む、何者かがいる。
笑い声が聞こえた。その何者かが、笑っていた。
『俺は、お前たちを大いに蹂躙した。まるで虫ケラのようにな……さあ、どうした? 今度は貴様らが俺を蹂躙する番ではないのか!』
死者たちの怨みの念が、激しく渦を巻き、燃え上がる。
この死の世界そのものが渦巻き、まるで溶岩の如く、熱くうねり狂っている。リムレオンは、そう感じた。
憎しみに猛り狂う死者たちが、その何者かにぶつかって行く。炎のような怨念で、焼き尽くしにかかる。
怨みの業火が、岩にぶつかった波の如く砕け散った。弾き飛ばされた死者たちが、音声にならぬ悲鳴を上げる。
誰でもいい。この男を、滅ぼしてくれ。
リムレオンには、そのように聞こえた。
「これほどの……憎しみを、受けながら……」
息を呑みながら、リムレオンは呻いた。
「なおも、ここまで……力強く、いられる……」
力。それだけを、リムレオンは感じた。
理不尽に殺された者たちの、正当な怒りの念をも弾き返してしまう、凶猛にして邪悪なる力。
(僕に……この力が、あれば……)
力を見せてみろ。レボルト・ハイマンは、そう言っていた。デーモンロードと戦えるだけの力を見せろ、と。
(この力があれば、デーモンロードに……勝てる……?)
「駄目!」
リムレオンの心を読んだかの如く、ブラックローラが叫んだ。
「仮にデーモンロード様を倒す事が出来たとしても、それ以上の禍いを甦らせる事になってしまいますわ!」
『ほう……そこにいるのは、ブラックローラ・プリズナではないか?』
デーモンロード以上の禍い、と呼ばれた何者かが、こちらに興味を向けてきた。
『貴様の主はどうした。再会を楽しみにしていたのだがな』
「我が主・赤き竜は、敗北も死も潔く受け入れる御方……このような場所で未練がましく迷っている、お前などとは違うのよ!」
ブラックローラが、怒声を張り上げる。
その怒りの根底にある怯えを、恐怖心を、リムレオンは確かに感じ取った。
「死を受け入れられない、無様な男!」
『ふ……貴様がそれを言うのか、バンパイアロード』
ブラックローラと顔馴染みらしい男が、業火の中で笑ったようだ。
『未練がましい、と言ったな。確かにそうだ、俺には1つ未練がある……己の本当の心など、死んでみなければわからぬものよ』
「させない……!」
ブラックローラが言った。
「あの御方は、すでに新しき道を歩んでおられる……お前などに、邪魔はさせない!」
『邪魔はせんよ……会いたいだけだ』
ひたすら傲然としていた男の口調に、熱っぽさが籠った。
『ここに堕ちて来る死者どもの数が、思いのほか増えぬ……あやつ、一体何をしておるのだ? あれが本気で暴れれば、このような場所、たちどころに満杯となってしまうであろうに』
「黙りなさい! お前などに、あの御方の事を口にはさせない!」
勇ましい事を言いつつもブラックローラは、リムレオンから離れつつある。
死者たちの怨恨を一身に受けている男からも、遠ざかりつつある。
逃げている。怯えている。デーモンロード相手でも普通に殺し合いをやってのける女吸血鬼が、この男を恐れている。
「教えてくれ……頼む……」
リムレオンは、問いかけていた。
「貴方は……ここにいるブラックローラ・プリズナや、デーモンロードよりも……強い、のか? どうか答えて欲しい」
『それを知って何とする、非力な小僧よ』
リムレオンを、魔法の鎧もろとも押し潰してしまいそうな声だった。
いや、声ではない。
声帯を含む肉体全てを失い、意識だけの存在となった男が、その強圧的な思考を直に、リムレオンの頭の中へと伝えているのだ。
『俺が強かろうが弱かろうが、貴様が強くなれるわけではないのだぞ』
「ここにいる、という事は、貴方はすでに死んでいるのだろう……生き返りたい、とは思わないのか?」
辛うじて、リムレオンは対等な会話を保った。
「生きた肉体を得て復活する事は、出来ないのだろうか?」
『生きた肉体だと……そんなものが、どこにある』
「ここにある」
己の胸板を、リムレオンは片手で叩いた。
白い魔法の鎧の、胸部。
この中にあるのは、大急ぎで鍛えたくらいでは一向に強くなれない少年の、脆弱な肉体だ。
間に合わない。修行・鍛錬で、ゆっくりと強くなっている暇などない。
そんな事をしている間に、バルムガルド王国はデーモンロードの手に落ちてしまう。
そして魔物と魔獣人間の軍勢によるヴァスケリア侵攻が、行われてしまう。
「僕の肉体を、貴方に差し上げる……貴方の力を、僕にくれ」
『ふむ、面白い事を考える小僧だ』
「リムレオン様……それは駄目、絶対にいけませんわ……」
ブラックローラが、哀願に近い声を発している。
「この男を、貴方の中に入れてしまったら……貴方の意識など、残りはしませんわ! ひとしずくの芳醇にして清浄なる命が、おぞましい暗黒の命に変わってしまう……」
「それでいい! ひとしずくしかない生命力など、僕はいらない!」
リムレオンは叫んだ。
「デーモンロードを倒せるなら、僕は……暗黒の命だろうが何だろうが、受け入れてやる。綺麗事では、魔族にも魔獣人間にも勝てはしない!」
叫びに合わせ、リムレオン全身から白い光の飛沫が散った。
魔法の鎧が、砕け散っていた。そして光の粒子に変わり、右手中指の竜の指輪へと吸い込まれて行く。
魔法の鎧など問題にならぬほど凄まじい力が、激しく荒れ狂いながら、リムレオンの中に押し入って来たのだ。
「それでいい、小僧……俺も、かつては綺麗事を信じて魔物どもと戦っていた」
リムレオンに語りかける声が、リムレオン自身の口から発せられていた。
「かつての俺によく似た少年よ、貴様の身体を使って……久しぶりに、弱い者いじめに興じてみるのも面白そうだ」
(ティアンナ……)
声帯を奪われつつリムレオンは、声にならぬ呟きを漏らした。
彼女が人間相手の政を行い、自分が人間ならざる者との戦いを受け持つ。
この力があれば、ティアンナのその期待に応えられる。
守るべきものを、守る事も出来る。
メルクト及びサン・ローデルの領民たち。そして。
(…………シェファ……)
その思いを最後に、リムレオンの意識は押し潰され、暗黒の中へと流れて失せた。