第120話 ラナンディア激震(4)
バルムガルド王都ラナンディア。
その王宮の城壁の上で、睨み合っている者たちがいる。
魔獣人間が1体。全身甲冑をまとう戦士が2名。
その2名の片方は、まるで古戦場から甦ってきた屍のような姿をしていた。錆と返り血にまみれた鎧の中に、生きた肉体があるのかどうか定かではない。兜の下に顔面は見当たらず、真紅の眼光だけが炯々と輝いている。
その赤く禍々しい両眼が、もう1人の甲冑戦士をギラリと睨み据えていた。
黄銅色の魔法の鎧に身を包んだブレン・バイアス。その力強い姿が、しかし弱々しく後退りをする。
「貴方……なのですか……」
厳つい面頬の内側で、ブレンは声を震わせた。
「人ならざるものとして甦り、そして魔族に与しておられるのですか……レミオル・エルベット侯爵閣下」
「甦った、とは言わんな。死にきれぬまま、彷徨い歩いているだけだ。我ながら無様な事と思う」
兜の下の暗黒の中で、レミオル・エルベットは微笑んだようだ。
「……それでも貴様を叩き直すくらいの事は出来るぞ、ブレン・バイアスよ」
「おい、ちょっと待て」
魔獣人間ドワーフラーケンが、険悪な声を発した。
「横から入って来た奴が、勝手に話を進めるなよ。そいつは俺の敵だ、加勢は要らんし邪魔もさせん」
「言葉で、1度だけは言っておく……引っ込んでおれ」
魔獣人間を一瞥もせず、レミオル侯は言った。
無論それで引っ込むはずもなくドワーフラーケンは、
「死に損ないが大きな顔をするな!」
凶暴にうねる8本の触手で、レミオル侯に猛然と殴り掛かった。
その攻撃を、死せる侯爵は両手で迎え撃った。武器を持たずに、である。左右の前腕を覆う錆びた手甲が、武器と呼べない事もないか。
まるでハエでも追い払うかの如く、その両手が無造作に動いていた。そして8本もの触手を、ことごとく打ち弾く。
「ぐっ……!」
苦痛の呻きを噛み殺しながら、ドワーフラーケンは後退りをした。
弾き返された触手たちが、微かな体液の飛沫を散らせ、痛そうにうねる。
後退りをする魔獣人間に向かって、レミオルはずしりと踏み込んだ。
その踏み込みを、ドワーフラーケンが戦斧で迎撃する。
迎撃のために振るわれた戦斧を、レミオルは左手で、はたき落とすように受け流した。魔獣人間の巨体が、前のめりに揺らいだ。
受け流しに用いた左腕を、レミオルは間髪入れず、肘打ちの形に曲げた。
ドワーフラーケンの顔面がグシャアッと歪み、血飛沫が散った。レミオル侯の左肘が、叩き込まれていた。
大量の髭をぐっしょりと鮮血に染め、よろめきながらも踏みとどまろうとするドワーフラーケン。その巨体がズドッ! とへし曲がり、バキィッ! とのけ反った。死せる甲冑騎士の重い拳が、左右交互に叩き込まれていた。
のけ反った魔獣人間の巨体が、城壁の欄干に激突し、弱々しくずり落ちて石畳に倒れ伏す。
そこへレミオル侯が、容赦ない足取りで歩み迫る。
「1度だけは言ってやった。2度目はない……死ね、魔獣人間」
言いつつ、しかしレミオルは歩みを止めた。
兜の下の暗黒の中で、両眼が赤く燃え上がる。
「……何をしておる? 未熟者のブレン・バイアスよ」
「……さあ、何でございましょうかな」
レミオル侯とドワーフラーケンとの間に、ブレンは割って入っていた。
倒れた魔獣人間を背後に庇い、かつての主君と対峙する。そんな格好になってしまっていた。
「何の……真似だ……」
起き上がれぬまま、ドワーフラーケンが呻く。
「お前……どこまで、俺を馬鹿にする……!」
「自分が何をしているのか、俺自身にもよくわかっていないんだよバーク殿」
死せる侯爵の赤く禍々しい眼光を、魔法の面頬で受け止めながら、ブレンは応えた。
「とにかく、あんたを殺させるわけにはいかん。理由は訊くな。俺にもわからんのだからな」
「考え無しなところは全く変わっておらんな、小僧」
レミオルが、生前の口調そのままにブレンを脅す。
「私の眼前に立つ……それがいかなる事を意味するものか、考え無しの小僧でも理解しておろうな?」
「…………!」
魔法の鎧でも抑え込めない恐怖心が、ブレンの全身を縛った。
言葉が出ない。手足が動かない。動かぬ手に、しかしブレンは今、魔法の戦斧を握っている。
(つまり俺は今、戦っているのだ……レミオル侯と)
動かぬ手足を、ブレンは無理矢理に動かした。
(ひとたび戦いとなれば、武器を捨て命乞いをしたところで……許して下さる御方ではない)
「レミオル侯……貴方は、お亡くなりになったのです」
恐怖で凍り付いていた声帯から、ブレンは無理矢理に声を絞り出した。
「いかなる悪しき力で、この世に留まっておられるのかは存じませぬが……どうか一刻も早く、唯一神の御下へと旅立たれますよう」
「私の足元で転げ回り、血の小便を垂れ流していた小僧が……よくぞ、ほざいたものよな」
真紅の眼光が、ブレンに向かって激しく輝きを増した。
「良かろう、久しぶりに稽古をつけてやる」
「稽古ではない、戦いだ……貴方の稽古は懲り懲りなのでな!」
武器を持たぬレミオル侯に、ブレンは遠慮なく魔法の戦斧を叩き込んだ。
その一撃が、しかしレミオルの左手で受け流される。
受け流しに用いられた左腕が、肘打ちの形に曲がり、ブレンの顔面を襲う。
先程ドワーフラーケンを叩きのめした攻撃と、全く同じである。
襲い来る左肘を、ブレンは左手で受け止めた。
「よもや同じ攻撃が通用するなどと……思われていたとはッ!」
怒りを露わにしつつブレンは、レミオル侯の左腕をそのまま捻り上げた。
「うぬっ……」
死せる侯爵の身体が回転し、背中から石畳に叩き付けられる。
仰向けに倒れた格好のレミオルに向かって、ブレンは容赦なく戦斧を振り下ろした。
その斬撃が、ガッ……と停止した。止められていた。
レミオル侯の右手に、いつの間にか剣が握られている。
金属の剣ではなかった。
炎のように揺らめく何かが、長剣の形に固まっているのだ。
レミオルが倒れたままそれを掲げ、魔法の戦斧を受け止めている。
「私に、武器を使わせる……程度の事は、出来るようになったのだな」
長剣を形作りながら、炎の如く揺らめいているもの。それが突然ゴオッ! と燃え上がり、膨張し、ブレンを襲う。
いや、襲われる前にブレンは跳び退っていた。黄銅色に武装した巨体が、軽やかに距離を開いて着地する。
その間レミオル侯は、ゆらりと立ち上がり、炎のような剣を構えていた。
ブレンも、魔法の斧を構え直した。
かつての主君と睨み合いつつ、背後の魔獣人間に語りかける。
「バーク殿……いつでも、俺の背中を狙うがいい」
「何だと……!」
ドワーフラーケンの巨体が、よろよろと立ち上がっていた。
「お前……罪滅ぼしをしている、つもりにでもなってんのかあああっ!」
「俺を殺すなら、今が好機。そう言ってるだけさ」
「そうとも、今が好機……」
声がした。気配が、生じた。
「デーモンロード様が一目置かれる、魔法の鎧の戦士を2人、我が手で始末する好機……逃すわけにはゆかぬ」
黒いローブに身を包んだ、恐らくは人間ではない何かが、そこに姿を現していた。
フードの内側では、レミオル侯と同じく、真紅の眼光が炯々と輝いている。
ローブの中身は生きた肉体ではないだろう、とブレンは思った。
「ゴーストロード殿……いかに貴公とて、手出しはさせんぞ」
レミオルが言った。
「心配せずとも、このブレン・バイアスめは私が討ち取っておく。手柄は貴公にやるゆえ、そこで黙って見ておれ」
「おい、ゴーストロードとやら」
割り込むように、ブレンは言った。
右手の中で、魔法の戦斧がバチッ……と電光を帯びた。
このゴーストロードという魔物は今、何と言ったのか。魔法の鎧の戦士を2人、始末する。そう言ったのではないか。
2人目がブレンであるとしたら、1人目は誰なのか。
「……貴様、若君を」
「案ずるな、同じ場所へと送って進ぜる」
ゴーストロードが笑った。
黒いローブの下で、得体の知れぬ何かが蠢いた。
「唯一神の下へと旅立てぬ者どもが群れ集う……死の世界へとなあ」
当たり前だが、死んだ事などない。
だから今、自分が生きているのか死んでいるのか、リムレオン・エルベットは判断出来ずにいた。
純白の魔法の鎧に包まれた少年の身体が、浮いている。漂っている。
際限のない、暗黒の中を。
「……ここが……死の、世界……」
リムレオンは呻いた。辛うじて、声は出る。
周囲を満たす闇が、蠢いている。それをリムレオンは漠然と感じた。
揺らめき蠢く陽炎のような死者たちが、暗黒に見えるほど濃密に、群れ集っているのだ。
「僕は……死んだ……のか?」
リムレオンの自問に、答えてくれる者がいた。
「貴方は生きておられますわ、リムレオン・エルベット様……ひとしずくの、清らかで芳醇なる生命。ゴーストロードごときに、奪われてたまるものですか」
涼やかな、女の子の声。
闇の中に、闇よりも黒いものが浮かんでいた。
ひらひらとした、黒い薄手のドレス。
それと鮮烈すぎる対比を成す、白い肌。
黒色の蝶を思わせる美少女が、リムレオンの傍らに浮かんでいた。
「ブラックローラ・プリズナ……!」
黒薔薇夫人の森で、デーモンロードに灼き殺されたはずの女吸血鬼。その名を、リムレオンは呆然と口にしていた。
「何故、君がここに……?」
「ローラがどういう目に遭ったのか、ご存じでしょう? 肉体が復活するまで、ここから出る事が出来ない状態ですわ……ああん、でも貴方が遊びに来て下さるなんて!」
ブラックローラが、リムレオンの身体にまとわりつく感じにフワリと舞う。
「ここは何度来ても気が滅入る場所……ローラのお話し相手に、なって下さいますのね」
「い、いや……そんな場合じゃ、ないんだけど」
まとわりつく少女を、リムレオンは振り払おうとした。手足が、ばたばたと無様に動いただけだった。
「僕は、ここから出なければ……」
君の力で何とかならないだろうか、とリムレオンがブラックローラを頼ろうとした、その時。
周囲の闇が、激しくうねった。
蠢きながら暗黒を成している死者たちが、悲鳴を上げている。いや、怒声かも知れない。
ここは死の世界。
非業の死、理不尽な死を遂げた者たちで満たされた、怨念と妄執の空間。
その死者たちが、苦しみながら、怒り狂いながら、恐れおののいている。
周囲の暗黒。その最も奥深くに存在する、何者かに対して。
それが、リムレオンにはわかった。
「駄目……」
ブラックローラの口調が、一変した。
常に婉然と微笑んでいた白い美貌が、今は強張り引きつっている。
「そちらを見ては駄目ですわ、リムレオン様……あの男と、目が合ってしまう」
「あの男……? 確かに、何かいるのは感じられる」
感じたままの事を、リムレオンは口にした。
「とてつもなく……恐ろしい、としか言いようのない何かが、いる……ような気がする。あれは一体」
「この世界に満ちた死者たちの中で、最も凶悪なる者……」
ブラックローラは、青ざめていた。
「数えきれないほど多くの死者たちに憎まれ、その怨念を一身に受けながら、なおも凶猛でいられる男。私たち魔族にとって、最も忌まわしき者ですわ……死して、なお」
デーモンロードとも対等に口をきいていた女吸血鬼が、恐怖に声を震わせている。
周囲の闇も、震えていた。
この死の世界そのものを震撼させる声が、重く、禍々しく、響き渡った。
『どうした……俺が憎いのだろう? 貴様たち』
声の主に、どうやら死者たちは、何かしら攻撃を仕掛けているようである。
それら攻撃を、この何者かは、明らかに楽しんでいた。
『蟷螂の斧を力一杯、振るって見せよ。そして俺を楽しませろ』
凶悪、凶猛。ブラックローラは、そう言っていた。
そんな言葉では表現しきれぬほど恐ろしいものの存在を、リムレオンは今、確かに感じていた。
『俺はな……弱い者いじめが、大好きなのだ』