第114話 守るべきもの、戦う理由
メイフェム・グリム。ゴルジ・バルカウス。黒薔薇夫人。デーモンロード。
恐ろしい敵ばかりであった。何度も何度も、殺されかけた。最悪の事態を何度も迎え、切り抜けてきた。そのつもりでいた。
(全然、甘かった……)
リムレオンは今、それを思い知っていた。最悪の事態とは、こういう事を言うのだ。
「あんたたち……頼むよ……」
残骸兵士が、リムレオンの腕の中で上体を起こし、懇願している。
「この町に、マリティアという女がいる……俺の、女房さ。こんな姿でいきなり押し掛けて行ったら、恐がらせてしまう……バークが会いに来たと、だが人間ではなくなっているから驚かないで欲しいと、伝えてくれないか……いや、驚かせてしまう事には、なると思うけど」
バークというのが、この残骸兵士の名前なのであろう。
「そりゃ……まあ、驚くでしょうねえ」
そんな事を言いながら、セレナが途方に暮れている。
面頬越しに、リムレオンは彼女と視線を合わせ、頷き合った。
伝えなければならない。マリティア本人にも、ブレン兵長にも。
そしてブレンには、しばらく隠れていてもらう。それしかない。
いや。本当は自分たち3人が今すぐにでも、この町を去るべきなのであろう。
だが今のトロルたちのように、脱走兵を追って来た魔物が、この町に危害を加える事も考えられる。
それにマリティアが、このような姿の夫を手ひどく拒絶し、絶望したバークが何かしら凶行に走る可能性もなくはない。
残骸兵士を、人間の町に放置しておくわけにはいかないのだ。一目、妻と再会した後のバークが、どのような行動を取るか。それを、しっかりと見届けなければならない。
「……わかったわ。マリティアさんに、伝えてくる」
ブレン兵長にもね、と言葉には出さず付け加えながら、セレナが町の方へ向かおうとする。
その足が、止まった。
セレナも、それにリムレオンもバークも、取り囲まれていた。
武装したオークの一部隊が、いつの間にか姿を現している。槍あるいは剣を構え、全方向で戦闘態勢を整えている。
「り、リムレオン様……!」
身を寄せて来るセレナを、バークと一緒に背後に庇いながら、リムレオンは魔法の剣を抜いた。
「魔法の鎧、というものであるらしいな」
白く武装した少年の姿を、興味深げに眺めながら、オークの1体がずしりと進み出て来た。
力強い筋肉で肥え太った巨体を甲冑に包み、大型の鎚矛を携えている。他のオークとは明らかに格が違う1体である。
「同じようなものを着た連中に、俺は1度ずいぶんと痛い目に遭わされた事がある……聞けば貴様ら、デーモンロード様に痛手を負わせたそうではないか? そのような者どもを討ち取る事が、我らオーク族の地位向上に繋がる」
その目が、トロルたちの屍を一瞥した。
「トロルどもは所詮、役立たずよ……古の時代から雑魚と蔑まれてきた我らオーク族が、魔族の頂点に立つ日が来るのだ。このオークロードの手によってな」
「オークロード……狙いは、僕の命か?」
「そこの脱走兵も始末せねばならんのだがな。それはまあ、ついでで良い」
オークロードの凶猛な眼光が、一瞬だけバークに向けられ、すぐにまたリムレオンに突き刺さる。
「貴公らの動向はずっと探っていたのだよ、リムレオン・エルベット殿。ローエン派の者どもを相手に、随分と暴れたようではないか? そのせいでヴァスケリアでの地位を失い、このような所まで流れて来た。難儀な事よな」
自分の名前も、そしてヴァスケリアの内情も、把握されてしまっている。リムレオンは息を呑むしかなかった。
「竜の御子を討ち取る勲功には及ぶまいが……魔法の鎧の装着者どもも、それなりの手柄首には違いない。取れる首から、確実に獲らせてもらうぞ」
オークロードの巨体が、踏み込んで来た。鎚矛がブゥンッ! と豪快な唸りを発した。
魔法の剣をへし折ってしまいかねない、その一撃を、リムレオンは後ろへ跳んでかわすしかなかった。
着地したところへ、周囲のオーク兵士たちが襲いかかって来る。槍が、剣が、侮れぬ技量と剛力でリムレオンに叩き込まれる。
白い魔法の鎧のあちこちから、血飛沫のような火花が飛んだ。
とてもオークとは思えぬ、強烈な攻撃である。全身を襲う衝撃に、リムレオンはよろめきながら歯を食いしばった。
先程のトロルたちよりも、格段に手強い。オークロードによって徹底的に鍛え上げられた、精鋭とも呼ぶべきオーク兵団である事は間違いなさそうだ。
そんなオーク族の精鋭たちが、槍を振るい、剣を一閃させる。
リムレオンは地面に転がり込んで、それら攻撃をくぐり抜けた。
立ち上がったところへ、オークロードが突進して来る。巨大な鎚矛が暴風の如く唸ってリムレオンを襲う。
白く輝く魔法の剣を、リムレオンは防御の形に振るった。そして鎚矛の重い一撃を辛うじて受け流す。光の飛沫が、火花と一緒に飛び散った。
受け流された鎚矛が、即座に別方向から殴りかかって来る。
リムレオンはかわした。かわしきれなかった。衝撃が、魔法の鎧の上から叩き込まれて来る。
火花の焦げ臭さを感じながら、リムレオンは倒れ、即座に起き上がった。受けた衝撃を殺す倒れ方、起き上がり方。もはや完全に身体が覚えている。
「……一丁前に、防御の技量だけは身に付けておると見えるな。若造が」
オークロードが鎚矛を構え、じりじりと迫る。
悲鳴が聞こえた。
住民の女性たち子供たちが、町外れで行われているこの乱闘に気付き、騒いでいる。
オークロードが、にやりと笑った。
「女子供への暴虐は禁じられておる……とは言え、戦に巻き込まれてしまうのは仕方あるまいなあ」
「……やめろ、何をするつもりだ!」
リムレオンは斬り掛かった。光まとう魔法の剣が一閃し、だが鎚矛に弾かれる。
その鎚矛を反撃の形に振るいながら、オークロードは号令を叫んだ。
「捕えよ!」
オーク兵士たちが即座に従い、女性たちや子供たちに襲いかかる。悲鳴が、激しくなった。
唸りを立てる鎚矛をかわしながら、リムレオンは叫ぶ。
「オークロード! お前は!」
「抵抗をやめよリムレオン・エルベット。さもなくば、この町の女子供は皆殺しになる……何しろ脱走兵を出した町であるからなあ。見せしめという事で、デーモンロード様もお許し下さる。だが貴様が大人しく叩き潰されれば、脱走兵などいなかった事にしてやろう」
「……させん!」
叫び動いたのは、バークだった。
死にかけていた、ように見えた残骸兵士の肉体が、両手の爪を振り立てて疾駆する。
逃げ惑う子供を捕えようとしていたオーク兵士の1体が、細切れに変わった。鮮血が、肉片が、臓物の飛沫が、噴出する。
バークの爪。まるで剣の達人が振るう斬撃のように、一閃していた。
「貴様……刃向かうか!」
オークロードが激怒する。バークは、しかし怯まない。
「あんたがた魔族とは、事を構えたくなかった……だが女子供に手を出そうってんなら話は別だ!」
女性たちに、子供らに、襲いかかろうとしながら、オークの兵士が1体また1体と切り刻まれ飛び散って行く。
とても残骸兵士とは思えぬ動きで、バークは爪を振るっていた。
「俺だって……レボルト将軍に鍛え上げられてきた、魔人兵なんだ!」
槍で突きかかって来たオーク兵士の1匹を、強烈な爪の斬撃で迎え撃ち粉砕しながら、バークが叫ぶ。
奮戦する残骸兵士……いや魔人兵を避けて、数匹のオークが町の中へと向かった。逃げる子供たちを、追い回している。
そのオークたちが、ことごとく血飛沫を散らせ、吹っ飛んだ。
大柄な人影が1つ、子供たちを庇って進み出ながら、拳を振るったのだ。
「騒がしいな……静かにしろ」
ブレン・バイアスだった。
「俺はな、女を抱く時は静かにじっくりと時間をかけたい方なのだ。あまり騒がしくするなよ」
「いや……そんな事、誰も訊いてないから……」
セレナが、木陰で青ざめている。その目は、ブレンに寄り添う1人の女性に向けられている。
今、最も、この場にいてはならない女性だった。
「マリティア……」
バークが、声を漏らす。
名を呼ばれたマリティアが、小さく悲鳴を上げ、ブレンの広い背中にすがりついた。
夫だなどと、わかるわけがなかった。
「何だ……オークの群れに残骸兵士とは、おかしな組み合わせだな」
マリティアを背後に庇いながら、ブレンがそんな事を言っている。バークと、対峙している。
夫婦の間に、立ち塞がっている。
「女を、抱く時……そう、言ってたな……」
バークが、震える爪をブレンに向けた。
「抱いたのか……お前、その女を……抱いたのか……」
「想像に任せよう。とにかく俺は、彼女を守らなければならん」
「この色ボケ馬鹿おやじ!」
セレナが叫んだ。
「大人のくせに、年長者のくせに! あんたが一番、揉め事起こしてんじゃないのよぉおっ!」
「おいおい、何を怒っている」
ブレンが困惑し、そしてバークは震えている。
「……そりゃ……そうだ……こういう事も、あるだろうよ……」
魔人兵の肉体がメキッ! と痙攣し、歪んだ。
「わかってた……わかってなきゃ、いけない事だ……」
「お前は……」
ブレンが息を呑む。
その力強い背中にすがりついたまま、マリティアが青ざめてゆく。
「……あんた……なの……?」
「わかってた……こういう事も、起こるってのは……最初っから、わかってた事だろうがあああああああああああッッ!」
肉か臓物か判然としない身体が、絶叫と共に激しく膨張した。まるで破裂したかのように見えた。
「……全員、下がれ!」
オークロードが命令を下す。よく訓練されたオーク兵士たちが、敏捷に跳び退って回避する。
彼らの足元で、何かが地面を打ち据えた。土が、石畳の破片が、噴き上がった。
毒蛇の如く高速でうねる、それは何本もの触手だった。円形に並んだ小さな牙、のようでもある吸盤をビッシリと備えた、頭足類の触手。
「わかってて……自分で選んだ、道だろうがあぁ……」
悲憤そのものの声を発しながらバークは、ブレン兵長を僅かに上回るほど隆起した巨体を震わせている。
首から上の7割近くは髭だった。大量の髭の中で、両眼がギラギラと激情に燃えている。
その髭が、筋骨隆々たる全身に絡み付いて、そのまま体毛となっている感じだった。
そんな全身から、吸盤のある太い触手が8本、体毛を掻き分けるようにして生えているのだ。
それらとは別に、人間型の力強い四肢を備えてもいる。両腕など、人体を容易く折り砕いてしまいそうだ。
白い面頬の下で、リムレオンは呻いた。
「魔獣人間……!」
有り得ない。このバークという男、魔獣人間の失敗作たる残骸兵士であったはずだ。
魔獣人間に進化し得る可能性を秘めた、残骸兵士。それが魔人兵という事か。
「そうだ……こういう事も、起こり得る……最初から、わかっていた事だ……」
ブレンが、魔法の鎧を装着しようともせずに呻き、その場にがくりと膝をついた。
「わかっていながら……俺は……」
「やめて、あんた!」
膝をついたブレンの眼前に、マリティアが立った。変わり果てた夫と、まっすぐに向かい合う。
「この人は、悪くないの……悪いのは、あたし……」
「……マリティア…………」
バークは、それだけを言った。
死ぬ思いで、魔族の軍を脱走して来た。妻に会うために。積もる話は、いくらでもあるはずなのだ。
なのにバークは、ようやく会えた妻に、何も言えずにいる。
(僕たちが……)
言葉をかける事も出来ぬまま、リムレオンは心中で呻いた。
(僕たちが……この町に来たから、こんな事に……)
この国の人々にとって自分たちは、魔族以上の侵略者なのではないか。ふとリムレオンは、そんな事を思った。
「……悪くないよ、マリティア。お前は、何も悪くない……」
見つめ合う視線を引きちぎるようにして、バークは妻から目を逸らせ、振り返った。
「悪いのは……魔物ども! お前らに決まってるだろうがぁあああああああ!」
オークの兵団に向かって、魔獣人間の巨体が突進する。8本の触手が、獰猛にうねる。
武器を構えて応戦しようとしたオーク兵士が、2体、3体と続けて破裂した。眼球や脳髄の破片が、飛び散った。
吸盤のある触手が、鮮血や脳漿にまみれながら、鞭の如く宙を裂く。
「お前たちは下がれ! こやつは俺が仕留める!」
オークロードが、部下たちの戦死を最小限に抑えるべく、魔獣人間に向かって踏み込んだ。
巨大な鎚矛が、重々しく、だが高速で唸り、魔獣人間の触手をことごとく打ち払う。
いくらか痛そうに揺らぐ触手たちを猛然と蹴散らし、オークロードは突進した。鎚矛が、バークを襲う。
避けようとせず、触手で迎え撃とうともせずに、バークは太い腕を動かした。
その手に、いつの間にか武器が握られている。大型の戦斧。全身の髭あるいは体毛の中から取り出した、ように見えた。
その戦斧が、オークロードの鎚矛とぶつかり合う。
「俺が仕留める、だと……そいつはこっちの台詞だ」
跳ね返った戦斧を、即座に別角度から叩き込みつつ、バークは呻き叫んだ。
「魔物どもは、1匹残らず仕留める、滅ぼす! この魔獣人間ドワーフラーケンがなぁああ!」
オークロードの両手から、鎚矛が叩き落とされた。
「ぐっ……!」
痺れた両腕を空しく掲げながら、巨体をよろめかせるオークロード。
そこを狙って、ドワーフラーケンが戦斧を振るう。
振り下ろされた斧が、しかしオークロードを直撃する寸前で止まった。止められていた。
男が1人、横合いからバークの右腕を掴んでいる。
焦げ茶色の髪をした、若い男。無駄なく鍛え上げられた身体に、粗末な歩兵の軍装をまとっている。
単なる人間の兵士にしか見えないその若者が、戦斧を握る魔獣人間の剛腕を、片手で掴み止めているのだ。
「レボルト将軍……!」
ドワーフラーケンが、息を呑む。
助けられたオークロードが、忌々しげに呻く。
「貴様……俺に貸しを作ったつもりか」
「脱走兵が出た、と聞いたのでな」
レボルト将軍、と呼ばれた若い歩兵が応える。
「私の手で始末を付けるために来た。もののついでに貴公を助けてみたのだが……借りと思ってくれるなら今すぐ返してもらおうか、オークロード殿」
「レボルト将軍……魔物を、庇うのですか……」
ドワーフラーケンが、髭の中から牙を剥き出しにした。
「貴方が……こやつらを、庇ってしまうのですか……ッ!」
「落ち着け。今は我ら、魔族の一員となって生きるしかないという事……わざわざ語るまでもあるまいが」
レボルトという将軍の名は、リムレオンも耳にした事がある。バルムガルド王国の名将として、まず真っ先に名前が挙がる人物だ。
だが国境の戦においてヴァスケリア軍に大敗し、その責を負って投獄されたとも処刑されたとも言われている。
そんな将軍と同じ名を持つ若者が、さらに言った。
「バルムガルド国民の直接支配を担当し、女子供の保護を実際に行ってくれているのが、このオークロードよ。こやつを死なせるわけにはゆかぬ……脱走兵バークよ、貴様とて女子供を守るために魔獣人間化の道を選んだのであろう?」
「それは……そうです」
俯くドワーフラーケンに、レボルトはなおも語りかける。
「その決意……女房の浮気程度で揺らいでしまうものか?」
「否……俺は、この国の女たち子供たちを守る……!」
俯いたまま、バークは声を震わせた。
「たとえマリティアが俺の事、忘れちまおうとも……いや。こんなんなっちまった男の事なんぞ、お前は一刻も早く忘れちまうべきなんだマリティア!」
「あんた……」
マリティアが、弱々しく座り込む。
ブレンは、がくりと膝をついたままだ。
燃えるような両眼でそちらを睨み据え、ドワーフラーケンは言った。
「それでも俺は、お前を守る……ただ、それだけだ……!」
「それで良い」
震える魔獣人間の巨体を、レボルトはぽんと叩いた。
「女子供からの感謝や見返りなど、求めてはならぬ。守るとは、そういう事だ」
「……その脱走兵をどうするつもりだ、レボルト・ハイマン」
オークロードが、敵意漲る声を発した。
「そやつ、俺の部下たちを何人も殺したのだぞ」
「だから借りを返してもらう、と言っているのだ」
「……脱走兵を助命せよ、と言うのだな」
オークロードは牙を剥いた。
「良かろう……レボルト・ハイマン。貴様を敵に回すのは、確かに得策ではなかろうからな」
「オーク族の地位向上のため、私も微力を尽くさせてもらおう」
オークロードに向かって、レボルトは恭しく一礼した。
人間と魔族が、手を結んでいる。その証とも言うべき光景だった。
「貴方は……バルムガルドのレボルト・ハイマン将軍、なのか……?」
リムレオンは問いかけた。
「僕は貴方の、その名前くらいしか知らない。この国の現状に関しても、大した事は知らない……だけど今のやり取りを見ていて1つだけ、わかったような気がする」
「言ってみろ、小僧」
レボルトの端正な顔に、陰惨な笑みが浮かんだ。
「言われるまでもない、という気はするがな……そうとも、貴様の思った通りよ。私はこの国を魔物どもに売り渡し、保身を図っている」
「この国の男たちを……魔獣人間の材料として、デーモンロードに差し出しているのか……」
そうせねばならぬ状況なのだ、とリムレオンは思おうとした。
デーモンロードの力は、自分が一番よく知っている。
あの恐るべき怪物から、バルムガルドの民を女子供だけでも守るためには、そうするより他になかったのだろう。
リムレオンは、そう思おうとした。
だが、声が怒りで震えるのを、止める事は出来なかった。
「レボルト・ハイマン……貴方は、この国の将軍として……やってはならない事をした、と僕は思う……」
「言葉に気をつけろよ小僧! 将軍が一体どのようなお気持ちで」
激昂するドワーフラーケンを片手で制しながら、レボルトは言った。
「私を許せぬか小僧……ならば、どうする」
整った顔立ちが、メキ……ッと歪んだ。
「私も、許してもらおうという気はない……さて、どうするか?」
人間の表情筋では起こり得ない、歪み方だった。