第113話 侵略
若い娘が嫌い、というわけではなかった。
例えばシェファ・ランティ、例えばセレナ・ジェンキム。2人とも、あと5年か10年の間に男を知り、世の中の汚らしさを知り、挫折や失望に染まり、それらをやり過ごしてゆけば、なかなかに味わい深い女になるであろう。
今は2人とも、まだまだ恐いものを知らない。汚らしいものを知らない。男を、本当には必要としていない。大抵の物事は、若さと勢いで乗り切ってしまう。
そういう娘たちは、見ていて頼もしさや微笑ましさを感じる事はあっても、心や下半身が反応する事はない。
やはり抱くならば、こういう女だ。
そう思いながらブレン・バイアスは、マリティアの髪をそっと撫でた。ほつれ気味の、栗色の髪。
「信じらんない……あんた、自分が何やったかわかってんの……?」
ブレンの分厚い胸板に突っ伏したまま、マリティアが物憂げな声を発する。
その疲れきった感じがたまらなくなって、ブレンは思わず抱き締めた。
太く力強い両腕の中で、今にも壊れてしまいそうな、痩せた裸身。痩せているように見えて下腹にはたっぷりと肉がついた、年齢相応な裸身。
世の中に疲れきった女の身体だ、とブレンは思った。シェファやセレナがこの域に達するには、あと20年はかかるであろう。
「あたしに旦那がいるの知ってて……こんな、図々しく転がり込んで来て……っ」
「女の家に転がり込むのは、得意な方でな」
ブレンは微笑み、マリティアのほつれた髪を撫でた。
「哀れな男を放っておけない、心の優しい女を見抜くのも……得意な方だ」
「あんたが哀れな男……? なわけないじゃないのよっ」
撫でられながらマリティアが、顔を上げてブレンを睨む。目尻に幾重にも皺が刻まれた、いささか険のある顔。
やはり疲れきっている、とブレンは感じた。この女は、男を必要としている。
「いろんな所で、いろんな女……こんなふうに、食い散らかしてきたんでしょ?」
「皆、俺の事など覚えておらんよ。もう」
ブレンは囁いた。
「貴女もきっと、俺の事などすぐに忘れてしまうさ……それでいいんだ。いつ野垂れ死ぬかわからん男の事など」
「なぁんて言ってる男に限って、なかなかくたばらないもんよ。大勢の女を泣かしながら、しぶとく生きてくのさ」
ブレンの太い腕を枕にしながら、マリティアは笑った。
「あたしはずぅっと覚えてるよ、あんたの事……あんたはこれから、どこでどんな女と寝てる時でも、あたしの顔が頭にちらつく事になるんだ。ざまぁ見ろっ」
「恐いなあ」
ブレンが微笑み返す。その笑顔を囲むタテガミのような髭を、マリティアの細い手が、そっと弄り回す。
指先の荒れた、生活に疲れきった女の手。
ブレンはたまらなく愛おしくなり、その手を握り包んだ。握り潰してしまわぬよう、力加減に細心の注意を払いながら。
バルムガルド王国内、とある町の民家である。ブレン・バイアス、リムレオン・エルベット、セレナ・ジェンキムの3名は、ここで世話になっていた。宿泊料は、ブレンがこうして身体で交渉し、無料にしてもらっている。
「お連れさんは、どういう人たち?」
ブレンの顔面の傷跡を指先でなぞりながら、マリティアが訊いてくる。
「若い男の子と女の子……っても恋人同士って感じじゃないよね。あんたの甥っ子とか姪っ子みたいなもん?」
「そこそこ身分のある若君と、その召使いさ。俺はその若君に仕える軍人……御覧の通り、今は失業中だがな」
この旅でリムレオンとセレナが、本当に恋人同士にでもなってくれれば、それはそれで面倒がないとブレンは思う。
シェファには、マディック・ラザンあたりで間に合わせてもらう。
手近なところで間に合ってしまえば、男と女など、どうにか上手くやってゆけるものである。
もっとも、夫婦の場合は話が別だ。夫がいない間に妻が別の男で間に合わせてしまったら、それはもう悲劇にしかならない。
ブレンも、頭ではわかっていたのだが。
「あんたって、ほんと……若い子の悪いお手本にしかならない、ろくでなしな大人ねえ。ま、あたしも大概だけど……」
マリティアが、微笑みながら涙を流した。
「旦那がいるのに……あんな事になっちゃってるのに……こんな男、家に引っ張り込んで……」
「あんな事、とはどんな事か……訊いてもいいか?」
酷い質問であるのを承知の上で、ブレンは問いかけた。はっきり知っておかなければならない事だ。
「俺たちはヴァスケリアから流れて来たばかりでな。この国で一体何が起こっているのか、よくわからんのだ」
「だったら、さっさとヴァスケリアに帰った方がいいよ。あんたみたいな頑丈な男、魔物どもが放っとかないからね」
「何だおい、魔物どもが俺の尻でも狙っているのか」
「こんなろくでもない男、1回掘られちゃった方がいいって思うけどね……」
マリティアが1度、しゃくり上げて鼻をすすった。
「何に使ってるのかは、わかんない。とにかく魔物どもが、国じゅうから男を狩り集めてるのさ。それを見て見ぬふりしてる限り、あたしら女は普通に暮らしてける。ま、ありがたい話だよね」
何に使われているのかは明らかだった。かつてゴルジ・バルカウスが行っていた事と同じである。
デーモンロードは、このバルムガルドという王国そのものを、魔獣人間生産のための実験場に変えつつあるのだ。何しろ上手くゆけば、人間を材料とする無尽蔵の兵力を確保出来る。
材料を男だけに限定しているのは、女子供を守るため、という事で男たちを自発的に魔族の統率下へと入らせるためであろう。
(誰が考えたのか知らんが……上手い事やるものだ)
ブレンは感心せざるを得なかった。
男も女も子供も構わず実験に用いて出来損ないの残骸兵士を大量生産していたゴルジやバウルファー侯とは、巧妙さにおいて雲泥の差と言える。
「自分の旦那を人身御供にして、他の男とよろしくやってる……あたしみたいな女は、死んだ方がいいかもね」
寝台の上でマリティアが、狂おしげに身を擦り寄せて来た。
「殺してよ……あんたの手で……」
「ほんの一時だけ、何もかも忘れさせる……俺に出来るのは、それだけさ」
痩せ衰えている、ように見えて年相応に肉がついて弛んだ裸身を、ブレンはしっかりと優しく抱き締めた。
誰でも良いから男を必要としている女。行きずりの男に逃げ込むしかない女。
愛おしい、とブレンは感じた。
別に追い出されたわけではないが、家の中にいると声が聞こえてくるので、セレナ・ジェンキムは町の中をあてもなく歩き回っていた。
「まったく、肉食系のオジサマは……頼もしいったらありゃしない」
ブレン兵長のおかげで、金を使わずに宿泊場所を確保する事が出来た。セレナとしては苦笑するしかない。
あの頼もしさの、せめて10分の1でもリムレオン・エルベットにあれば。
そう思わせる光景が、視界の中に飛び込んで来た。
「ねえねえ冷たいじゃないのさぁ、マリティアの家にだけ泊まるなんて」
「今日はアタシの家においでよ。何なら、あんた1人だけでもさ……ね?」
「ほらほら、こぉんな可愛い子がうろうろしてたら魔物にさらわれちゃうぞぉ」
町の女たちが、リムレオンを弄り回している。
腕を引かれ、髪を撫でられたりしながら、リムレオンは狼狽していた。
「いや、あの……僕は……」
などと情けない声を発し、女たちを振り払う事が出来ずにいる少年を、セレナは助けてやる事にした。
「すいません、そろそろ勘弁してやって下さい。この人、彼女がいるんですよ」
「それって、貴女の事じゃなくて?」
女の1人が、興味深げに訊いてくる。
リムレオンの腕を引きながら、セレナは愛想笑いを浮かべた。
「残念、あたしじゃないんですよぉ。実はこの人、ほんとは愛し合ってる彼女と長距離ケンカの真っ最中でして……女の人にあんまり優しくしてもらうと、後々すっごくややこしい事になっちゃうんです」
「な……何を言ってる、セレナ」
そんなリムレオンの言葉を、セレナも女たちも聞いてはいない。
「仲直りの仕方……お姉さんが教えてあげましょうかぁ? うふふ」
「いけない坊やねえ。彼女と喧嘩中に、こんな可愛い女の子と旅なんて」
「いやそれが、その彼女って子の方にも問題ないわけじゃなくて。あてつけがましく他の男と一緒に旅に出ちゃったりするから、余計めんどくさく」
「いい加減にしろセレナ! すいません、僕たちはこれで」
女たちに向かって律儀に頭を下げてから、リムレオンはそそくさと逃げ去った。セレナを、腕にしがみつかせたままだ。
はやし立てる女たちの声を背に受けながら、リムレオンが呻く。
「……あまり余計な事を喋るなよ、まったく」
「いいじゃない別に。旅の恥はかき捨て、って言うでしょ?」
セレナは言った。
「恥をかき捨てられるような……平和な旅になるなんて、思わなかったけど」
「ああ……デーモンロードが人間の、女性や子供たちの平和な生活を、守っている。最初は錯覚かと思っていたけれど」
リムレオンが、難しい顔をした。
「その代わり、男が……自発的に、魔獣人間の材料として魔族に身を捧げる。そんな体制が、出来上がってしまっている」
「上手くやるもんよね。ま、あたしは女だから、こんな他人事な言い方しか出来ないけど」
世話になっているマリティアと言い、先程の女たちと言い、皆もはや諦めきっている感じがある。男を人身御供にして平和を享受する運命を、この町の女性たちは受け入れてしまっている。
それは当然だ、とブレンもリムレオンも言っていた。男を守るために魔族と戦え、などと女性たちに要求出来るはずもない。
「それにしても……鬼畜よねえ、あのブレンっておっさんも」
この少年が武芸の師匠として敬愛する人物に対し、セレナは容赦のない事を言った。
「旦那さんを魔物に連れてかれて、どうしようもなく参っちゃってるマリティアさんの心に……ものの見事に、つけ込んじゃったよねえ。おかげで、あたしたちも泊まる場所確保出来てるわけだけど」
「ブレン兵長は……同じ事を、メルクトでも何度かやっている」
リムレオンが、溜め息混じりに言った。
「僕の父も、何度か謹慎を命じなければならなかったほどだ。最近は大人しくなってきたと思っていたのに……」
「まあ、ちょっと羽目を外すような気分になっちゃってるのかもね。ヴァスケリアに帰れるかどうかも、わかんないし」
「……半分くらいは僕のせいだ、とでも言いたいんだろう?」
「んー……どうかな」
曖昧な声を発しながら、セレナは立ち止まった。リムレオンも、立ち止まっていた。
町外れの、民家が少なく木立が多くなり始めた辺りである。
近くの木陰で、人影がよろめき、倒れた。
人影、のように見えた。だが人間ではない事は一目瞭然である。
「な……何あれ……」
思わず立ちすくんでしまったセレナを一丁前に庇うが如く、リムレオンが前に出た。そして木陰から倒れ現れたものを、じっと観察する。
それは、人の体型をした肉塊、とでも表現すべき生き物だった。
全身で、肉か臓物かよくわからぬものが弱々しく蠢いている。両手の先端には刃物のような爪を生やしているが、戦闘能力と呼べるものを持っているのかどうかは疑わしい。
リムレオンが、重く暗く呻いた。
「残骸兵士……」
「って……魔獣人間の、失敗作……」
セレナも、同じような口調になってしまう。
残骸兵士。魔法の鎧の量産品を着込んだ状態で群れているのを、セレナは1度だけ見た事がある。
生身のものを目の当たりにするのは初めてだが、想像を絶するおぞましさだった。
「……う…………っ」
その残骸兵士が、倒れたまま微かな声を漏らす。人間の発声器官が、辛うじて生き残っているようだ。
声をかけ助け起こすべきなのかどうか、リムレオンは迷っているようである。
その間、複数の足音が近付いて来ていた。
「ふん……逃げ回ってくれたものよな、残骸兵士ごときが」
「魔人兵、とかいうのではなかったか? こやつら」
「残骸兵士で充分よ、このようなゴミども!」
口々に罵声を吐きながら、ずかずかと歩み寄って来たのは、トロルの一団だった。その数、10匹前後。
うち1匹が、倒れている残骸兵士にグシャッと蹴りを入れた。
「デーモンロード様にお目をかけられているからとて、いい気になりおって!」
蹴り転がされた残骸兵士を、他のトロルたちがガスガスと踏み付ける。
「まあ、いい気になる程度なら構わん。ただ、脱走の罪を許しておくわけにはいかんなあ」
「我ら魔族の軍から脱走を図るなどと……まったくもって、わかっておらぬ奴よ」
「その軽率な行いが、どのような結果を招くものかをなあ!」
「我らが守ってやってる女子供の身の安全まで脅かしかねん事を、貴様しでかしたのだぞ? ああん?」
蹴られ、踏まれ、鮮血と呼ぶにはあまりにも汚らしい体液をビチャビチャと飛び散らせながらも、残骸兵士が声を漏らす。
「ごっ……後生だ、見逃してくれぇ……一目、一目だけでいい……女房に、会いたいんだよぅ……」
「ぶひゃははははははは! たわけが、まだ人間のつもりでおるのか!」
トロルたちの暴行が、激しさを増す。
そこへリムレオンが声を投げた。
「やめろ……!」
「ああん? ……何だ、女かと思ったら男ではないか」
トロルたちの注意が、リムレオンに、それとセレナにも向けられてしまう。
「ナヨナヨとしておるのう。こんな者をさらって行ったところで、魔獣人間どころか残骸兵士にもなるまいよ」
「まあ男はことごとく狩り集めよとの命令だ……小僧、無駄な抵抗はやめて我らと共に来い」
「そこの小娘、よもや邪魔はするまいなあ?」
ギロリと眼光を向けてくるトロルに、セレナは愛想笑いを返した。
「はいはい、もちろん邪魔などいたしませんとも……というわけでリムレオン様、後はよろしくね」
「……隠れているといい」
ほんの一瞬、苦笑を浮かべてから、リムレオンは右拳を握り、トロルの一団と向かい合った。
「お前たちと一緒には行かない。が、デーモンロードの所へはいずれ行く」
「……こやつ、どうやら痴れ者のようだぞ」
トロルたちが、牙を見せて凶悪にせせら笑う。
「痴れ者では仕方あるまい。男は出来る限り生かしたまま連れて来い、と言われてはおるが」
「出来ぬものは仕方あるまいなあ……殺して、喰うか」
「ついでだ、そこの小娘も喰い殺してしまえ。わかりはせぬ」
木陰に隠れたセレナにも、トロルの飢えた眼光が向けられてくる。
「ち、ちょっと話が違うじゃないのよ! 女子供は保護してるんじゃなかったの?」
「所詮は魔物、という事だよセレナ」
リムレオンの右拳で、竜の指輪が光を発した。
「魔物が、人間の女性や子供を守り続ける……そんな体制が、長く続くはずはない」
「ならばどうする小僧! 貴様よもや我らと戦うつもりではあるまいなあ!」
トロルの1体が、大型の戦鎚を振りかざし、リムレオンに襲いかかる。
「面白い、やってみよ! なめた口をきくだけの力を持っておるのかどうか、試してくれるわ!」
「僕の力ではないけれど、試してもらおうか……武装転身!」
リムレオンは勢い良く屈み込み、光まとう右拳を地面に叩き付けた。
白い光で描かれた円形の紋様が、少年の周囲に広がった。
「うぬっ……?」
襲いかかったトロルが、光に圧されてよろめく。
その白い光の中で、リムレオンが立ち上がる。
いくら鍛えても目立った筋肉の付かない少年の細身が、白い魔法の鎧に包まれていた。
「貴様は……!」
戦鎚を構え直そうとしながら、トロルの巨体が真っ二つになった。その断面がシューシューと白い光に灼かれ、焦げ臭さを発している。
魔法の剣が、白色の光をまといながら一閃していた。
所有者の気力の物理的発現たる、まばゆい輝き。
その光を帯びた剣を揺らめかせつつリムレオンは、トロルの一団へと向かって踏み込んで行く。
巨大な剣や戦斧を構え、トロルたちが迎え撃つ。
その迎撃を、光の斬撃が薙ぎ払った。
10匹前後のトロルが振るう各種大型武器を、白く輝く魔法の剣が弾き返し、受け流す。
よろめくトロルたちの真っただ中を駆け抜けながらリムレオンは、魔法の剣を縦横に振るった。白色に輝く光の弧が、いくつも生じて消えた。
純白に武装した少年の細身が、ふわりと立ち止まる。
その背後で、トロル全員が縦に横に斜めに両断され、断面を光に灼かれながら弱々しくのたうち回り、萎びた屍と化していった。
ふっ、と光の失せた魔法の剣を腰の鞘に収めながら、リムレオンが残骸兵士の方を振り向く。
「す……すまん、恩に着る……誰だか知らないが……」
よろよろと身を起こそうとしながら、残骸兵士が弱々しい声を漏らす。
セレナは駆け寄り、助け起こしてやった。蠢く臓物のような肉体に手を触れるのは抵抗がある。だが1度触れてしまえば、どうという事はない。
「大丈夫? お兄さんだか、おじさんだか」
「大丈夫だ……本当に、すまん。俺のために……魔物どもに、喧嘩を売るような事を」
「もうすでに売っている」
言いながらリムレオンは片膝をつき、残骸兵士と目の高さを合わせた。
「脱走した、と言っていたな。魔族の軍から……軍と呼べるものが、すでに編成されているのだろうか? 貴方のような、元は人間だった方々によって」
「ああ……俺たちは見ての通り、もう魔物の軍の兵隊として戦うしかないんだよ」
女子供を守るために、という事であろう。
「それは、それで構わない……確かに、ジオノス王家のくそったれどもが大きな顔してた時よりも、この国はちゃんと治まってるからな……ただ最近ヴァスケリアの方から、とんでもないバケモノが1匹、流れ込んで来てるらしい。竜の御子、とか言われてたな」
「竜の御子……」
リムレオンが呟く。残骸兵士の話は続く。
「そいつが、魔物も魔獣人間も魔人兵も手当り次第に殺し回ってるらしいんだ。俺もいずれ、そのバケモノとの戦いに駆り出されて死ぬかも知れない……その前に一目、一目だけでいい……女房に、会いたくて……」
セレナは嫌な予感がした。もう聞きたくない、と思った。
「マリティアに……会いたくて……」
セレナは思わず、リムレオンと顔を見合わせた。
白い面頬の下で、少年が途方に暮れているのがわかった。