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遣網峠

作者:

 馬が足を止めた。


 轡を引いていた新三は、そのせいで思わずつんのめった。馬が足踏みをして、傾いだ新三の体を避ける。背に積んだ薪木がぐらぐらと揺れた。

 新三は驚いて、歩みを止めた馬を振り返った。

「おい、もう峠だから」

 励ますように腹を叩いても、馬は地面に根付いたように一歩も進まなかった。しきりに顔を振り、嫌がるように歯を鳴らす。

 新三は途方に暮れた。おとなしく、丈夫な牝馬だ。これまで荷運びをしていて、こんな様子になることなどなかった。どうして進まなくなってしまったのか、理由がわからない。


 新三はそれからしばらく馬を引っ張ろうと苦心したが、その試みは甲斐なく終わった。

 落ち葉の積もった細い山道では、下手をすれば、足を滑らして転げ落ちかねない。注意を払いながら、無理やり馬を引くという力仕事は骨が折れた。結局は汗みずくになって、へとへとに疲れ果てただけだった。

「しゃあねえなぁ、一息入れるか」

 新三は首に巻いた手拭いで顔を拭くと、大きく息をついた。手綱を近くのクヌギの木に括りつけ、馬の鼻面を軽く叩いて宥めてやる。進まないと決めると、馬はずいぶんと落ち着いたようだった。



 本当は、峠を早く越えてしまいたかった。峠は境だ。おそろしい神の住む場所だ。

 新三が今さしかかった峠は、難所と恐れられる神坂に比べれば、特別険しいということはなかった。山仕事に行く、通いなれた道でもある。

 しかし、荒ぶる神のおわす場であることには変わりない。新三の母などは毎度口うるさく、峠を越す時は何もしゃべるな、必ず御幣になるものをもっていけと言っていた。面倒がってそれに生返事しか返さない新三であっても、やはり峠の神はおそろしく、いつも心の中で手を合わせながら道を通っていた。



 新三は大きく張り出した木の根に座りこむと、背負子の端に下げた竹筒を取った。余計な汗をかいたせいで、喉が渇いていた。

「――あれ、飲んじまってたか」

 けれど竹筒を逆さに振っても、水は一滴も出てこなかった。はてと新三は首を傾げる。普段、この峠越えで水を切らすということはなかった。昼に休んだ時も、水はまだ竹筒に入っていたはずだ。覚え違いだったか、どこかでこぼしてしまったのか。


 今日はどうにもよくない、と新三は渋面になりながら立ち上がった。まもなく峠だ。峠を越えれば新三の村まで、一刻ほどでたどり着く。喉の渇きくらい我慢しようかとも思ったが、どうしても今、水を飲みたかった。

 もう少し行った先、道を逸れて斜面を下りていったところに沢があるのを、新三は覚えていた。「ちょっと、ここで待っとれよ」と馬に声をかけ、新三は竹筒だけ持って一人歩いていった。馬は静かに、それを見送った。




 慎重に山の斜面を下っていって、こんもりと群生する隈笹の脇を抜ければ、小さな沢が流れている。苔むした石にひょいと乗ると、新三はしゃがみこんで澄んだ水をすくった。冷たい水でまずは顔を洗う。さっぱりと、生き返るような心地がした。

「やれやれ――」

 口を漱ぐと、ほっと肩の力が抜けた。心地よい風が吹いて、さやさやと笹を鳴らす。新三はしばらくぼんやりとそれを受けて、疲れて火照った体を静めた。


 人心地がつくと、心は我が家の、己の帰りを待っているだろう妻の元へと飛んだ。

 新三は一月ほど前、嫁を迎えたばかりだった。名をたづといって、気立てのよい、おまけになかなか器量のよい女だ。赤みのさした丸い頬は、笑うと片側だけえくぼをつける。よく気のつく働き者で、早く新三の家に馴染もうとしている姿が健気だった。今朝も山仕事に行く新三を、行ってらっしゃいましと火打ち石で切り火をして見送ってくれた。

 新三はこの若い妻を、とても可愛く思っていた。嫁に気を取られて仕事をおろそかにすることはなかったが、帰り道はどうしても、早く顔が見たくて足が急く。近所の者には浮かれていると笑われたが、新三は気にならなかった。むしろ、いい嫁を貰ったからだと、自分から笑って返していた。

「さぁ、もうちょいだ」

 新三は頬を叩いて気合いを入れ直すと、竹筒に水を入れた。立ち上がり、顔を上げる。

 そして目を疑った。



 丈の低い笹の群れの上に、網がかかっていた。目の細かい、漁網だ。今まさに勢いよく投げられたかのように、大きく広がっている。

(う――)

 新三は慌ててうつむいて、固く目をつむった。ぞわりと、首筋が粟立った。


 見間違いだと思いたかったが、あまりにおそろしくて確かめることはできなかった。目がおかしくなったのでなければ、あれは人ならぬものの類だ。先程まで、網などなかった。

 新三にとっては馴染みのないほど大きな網だった。この山里には、小さな川しか流れていない。魚を獲るのに、あれほど大きな投げ網は必要ないのだ。

 峠の神の気まぐれか、化け狐の悪戯か。どちらにせよ新三には、どうすることもできなかった。どくどくと鼓動が耳のそばで鳴り、体が震え、強張る。口の中で念仏を三回唱えてから、やっとそろりと目を開けた。

 網はなかった。


 新三は大きく息をはいた。どっと汗が噴き出した。

 どうやら、見間違いだったようだ。まったくどうかしていると、新三は額の汗を拭った。きっと立ち上がった拍子に目が眩んだのだろう。それで、梢からこぼれる日の光を、網と錯覚したのだろう。

 そう、安心した時だ。

「もうし――」

 背後から女の声がした。



 新三はぎくりと一瞬動きを止めた。勢いよく振り返るとそこには、簡素な旅装姿の女が立っていた。

 女は菅笠に手を当てて、深く礼をした。顔は笠に隠れて、よく見えない。黒く汚れた足袋に擦り切れた草鞋を履いていて、長く旅をしているのだろうと知れた。

 だがなぜ、旅の女などがここにいるのだろう。峠への道から外れた、土地の者しか知らないこの沢に。そもそも、人の気配などなかったのに。


 新三は思わず後ずさった。石を踏み外して、ぼちゃりと川の水に足がつかった。

「もうし、お尋ねしたいことがあるのですが」

 女は細く高い声で言った。

 新三は答えられなかった。縫い合わされたように口が開かない。

 がさがさと乱暴に笹を鳴らして、山から風が吹き下ろしてきた。木々が大きく揺れ、山全体にそのうなり声がこだまする。新三はじりじりと後ずさりながら、女を凝視した。

「連れとはぐれてしまいました。この辺りで、見かけませんでしたか」

 怯える新三にも構わず、女は平坦に聞いた。

「夫です。江州ごうしゅうからここまで、共に参りました。見かけませんでしたか」

 新三は小さく首を振った。口を開くと、かちかちと歯が鳴ってしまいそうだった。

「知らん――わしは知らん」

 どうにか声を絞り出す。


 江州といえば、ここからは国を一つ挟んだ先だ。おそろしさに真っ白になりそうな頭で、新三は必死に考えた。

 濃州を文字通り横断し、関所を通り、暴れ神のおわす難所の神坂を越してこなければ、ここまでたどり着けない。この道は古くて、よくひらけた街道とは違うので、旅人などめったに通らないのだ。

 その道を夫婦二人で旅をする者など、新三は見たことも聞いたこともなかった。


「いいえ、ご存知のはずです」

 女が一歩、近づいた。新三の足が、絡めとられたかのように動かなくなった。

「ここへ、網を遣ったのですから。かかりましたでしょう、この通り」

 気づけば女は新三の目の前に迫っていた。瞬きの間に、気配もなく近寄られ、新三は息がとまった。

 女がいとしげに、新三の顔を撫でる。芯まで凍りついたような、川の水よりも冷え切った手だった。

「ね、いとしいお前様。どうぞ名前を呼んでくださいまし」

 ささやいて、女が笠を取った。新三は女の顔を見た。その顔が




「ひ――」

 新三は渾身の力で女の腕を振り払った。

 無我夢中で新三は走った。取り落とした竹筒が、石に当たって高い音をたてた。網に覆われた隈笹の横を抜け、落ち葉に足を取られそうになりながら、必死になって斜面を登った。

「顔が、顔が、顔が――」

 後ろを振り返ることはできなかった。今にも女が迫って来るに違いない。網が自分を絡め取ろうと、蜘蛛の巣のように広がっているに違いない。おそろしさに追い立てられて、新三は我を忘れて走った。

「たづ、たづ」

 知らず新三は、妻の名をすがるように呟いていた。

 帰らなければ。たづが家で待っている。母と一緒に、飯の用意をしているだろう。温かいあの家。峠を越えて、無事に家に帰るのだ。



 息を切らして新三が戻ると、馬はのんびりと土を食んでいた。震える手で手綱を外し、思い切り尻を叩き飛ばす。

「はやく、動け!こののろま」

 力任せに手綱を引くと、馬は嫌がっていななき、新三の手を振り払った。なおも轡を掴もうとすると、興奮して前足を高く上げたので、新三は慌てて飛びのいた。馬の背の薪木がばらばらと崩れ落ちる。それと一緒に、ぱさりと白い網が落ちた。

 新三は叫んで、また走り出した。背後で、馬が聞いたことのないような細い声で鳴いたが、もう構わなかった。馬など引いていられない。早くここから、逃げなければ。妻の名を心の中で繰り返し呼びながら、新三は峠への道を駆け上がった。



 新三は峠の頂点を転がるように駆け抜けた。膝ががくがくと笑い、心の臓は狂ったように胸を叩いている。ついに小石に躓き、新三はどうと前のめりに倒れた。

 喉の奥が引き攣れたように痛む。荒い息のまま、新三はそこでやっと後ろを振り返った。もうずいぶん走って逃げてきた。背後には、何の姿も見えなかった。

 ――追ってきていない。

「は、はは……」

 安堵のあまり、新三は笑った。ぜいぜいと忙しない息の合間に、乾いた笑い声がこぼれた。

 逃げ切ったのだ。




「お前様」

 倒れ伏したまま呆けたように笑う新三に、すぐ近くから声がかかった。振り仰ぐと、旅装姿の女が脇に立っていた。


 女、いや たづ だ。


 笠から覗く小さな顔は、 たづ のものだ。愛嬌のある丸顔に、片頬だけえくぼを浮かべて微笑んでいた。新三はぽかんと口をあけ、 たづ を見上げた。


「たづ」

「はい、たづでございます」

 呼べば、たづははっきりと返事をし、頷いた。疑いなくたづだ。新三の胸に生じた違和感は、その声を聞いて、煙のようにかき消えた。

「なんですか、お前様。そんな、狐につままれたような顔をして」

 たづはくすくすとおかしそうに笑い、かがんで新三を助け起こした。優しく、新三の野良着についた土をはたき落とす。新三は呆然と、見慣れぬ姿のたづを見つめた。

「……お前、その格好はどうしたんだ。どうしてこんなところに。家にいるんじゃないのか」

「何をお言いですか」

 たづは首を傾げ、呆れたように息をはいた。

「私ら二人、その家から逃げてきたのでしょう。江州からここまで、大変な旅をして」



「……そうだったか」

 新三は首を傾げた。そんな話は初めて聞いたように思う。だが、たづの言うとおりのような気もした。もやもやとした違和感がまたふと湧き出たが、たづが頬に触れてきたので、それも形になる前に霧散した。

 たづの手は、思わず身震いしてしまうほど冷たかった。

「そうでございます。私は網元の娘、お前様は網子の漁師。夫婦となるのが認められず、ここまで逃げて参ったのですよ」


 ああそうだった、と新三は納得した。もう疑問も違和感も、何一つなかった。おそろしくもない。流した汗が冷えて、山からの風がひどく冷たく身にしみたが、どうして汗をかいたのかよく思い出せなかった。

「さぁ、参りましょう。新しい地で夫婦となって、二人で漁をして、幸せに暮らすのです」

 たづが力強く手を引く。全て、たづに任せておけば大丈夫だという気がした。新三は立ち上がり、ふにゃりと微笑んだ。いとしい、可愛いこの妻がいれば、どこに行ったとしても大丈夫なのだ。



 新三はたづに手を引かれ、一歩踏み出そうとした。だがそこでふと思い出した。

「そうだ、たづ。わしは網漁の仕方を知らんよ」

 たづはにいっと口の端を持ち上げて、笑んだ。新三はその崩れた笑みを、どこか妖しく感じた。


 だが網がもう目の前に迫っていた。







 女は一人、峠に立つ。

 日は既に山向こうに沈み、あたりは薄闇に覆われていた。山の道に人の影はなく、夜の森の、濃く重い空気が満ちている。姦しい虫の音と、その後ろにじっと伏して潜む獣の息使いのほか、この場に生き物の気配はなかった。

「いとしいお前様。――お前様まで、まだ足らぬ」

 呟いて、女はくるくると網を手繰り寄せた。女は江州、遥かに広がる湖のほとりの出だ。網の扱いは慣れたものだった。いとしい夫の網となれば、手つきもさらに丁寧になった。

「お前様に届くまで、どこまでも網を遣りましょう。二人で漁をして、幸せに暮らすのです」


 笑い声が、峠にこだまする。風にまぎれてそれが消えるころには、女も網も、夜に溶けていた。


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