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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
1 『金魚草の冒険』
8/15

終章 灯のあとで

夜の街は、日中のぬくもりをわずかに残した風に包まれていた。


駅前の通りを抜け、細い路地を奥へ進むと、木の看板が夜気の中でやわらかく光を滲ませている。


居酒屋『狸のしっぽ』。


かつて住職が助けた化け狸が営むという、少し不思議な店だった。


訪れた客は、気づかぬうちに狸の術にそっと化かされる。

そして“いま一番食べたいもの”を心の底から望むままに味わい、底なしに酒を酌み交わし、最高の気分を心置きなく味わうことができる。


それでも、翌朝には、何故かというべきか、至極当然というべきか、二日酔いひとつ残らず心だけが不思議と軽くなっている――

それが、この店が密かに評判を呼ぶ理由だった。


今宵、その奥まった座敷に三人の影があった。

幽霊たちの間で噂されている妖怪寺の面々。


素手で霊を殴り飛ばす、身の丈三メートルの大入道――

妖怪寺の住職・深山泰巌。

怒ると瞳が紅く染まり、髪が逆立つ謎めいた女子高校生・真雪。

そして二人とは対象的に霊たちに唯一の理解者と噂されている楓。


卓の中央には小さな花瓶が置かれ、淡い桃色の金魚草が一輪、湯気の向こうで揺れていた。

それは楓が持ち込んだ花だった。

郁人の冥福を祈り、今夜の席に彼をそっと同席させるために。


花弁の柔らかな曲線は、湯気に霞んで微笑んでいるようにも見える。


窓の外では遠くで虫の声がかすかに鳴り、夜気には若葉の匂いが混じっている。


卓には黄金色のだし巻き卵、照りののった炙り鴨、湯気立つ小鍋――

どれも見慣れたはずなのに、どこか懐かしさをまとっていた。


「狸め、腕を上げおったな」


泰巌住職は鍋をかき混ぜながら、豪快に笑う。


「味に深みが増したわ。

悟りの一つでも開いたかもしれんの」


「それは、どこぞの生臭坊主が、酒を嗜みすぎて舌が鈍っただけではないかえ?」


真雪が古風な口調で茶化すように笑う。


湯気の向こうで金魚草がふわりと揺れた。


――“おせっかい”。


その花言葉を思い出し、楓は小さく微笑む。


「……本当に、郁人さんにぴったりですね」


「はて、郁人と申すは、どこの誰のことかえ?」


真雪が小首をかしげる。


「僕の知り合いです。

世話焼きで、人のことばかり気にして……

最期まで、いや最期の後まで“自分より他人”な人でした」


住職は盃を置き、ほのかに眉を寄せる。


「……ちゃんと成仏できたのか?」


楓は静かにうなずいた。


「ええ。最期はちゃんと、笑ってました」


その言葉とともに、胸の奥であの日の光景が息を吹き返した。


郁人は最後まで暁のことだけを思っていた。

あの少年の痛みを少しでも軽くしたい――

ただその思いだけで動いていた。


暁は、母親に拒まれ、理不尽に命を奪われても誰を責めなかった。

どんなひどい言葉を浴びても、「悪いのは自分だ」と言い、母を憎むことすらしなかった。

――だからこそ、郁人の魂は軋んだ。


澪の口から放たれた言葉が再び暁を傷つける。

それだけは郁人は許すことができなかった。

理性も霊としての静けさも吹き飛んだ。

ただ暁を「守りたい」という願いが彼を突き動かした。


その叫びは声ではなく、存在そのものが震えるようなものだった。


怒りと悲しみと愛情が一つに溶け、世界へ叩きつけられた。

暁は郁人の背にしがみつきながら、恐怖ではなく安堵の光を宿した瞳で彼を見つめていた。


――誰かが、自分のために怒ってくれた。

その事実が、どんな祈りより強く彼を支えていた。


二人は初めから最後まで、言葉を超えて響き合っていた。


……それに比べ、澪は最後まで暁を受け入れられなかった。

母として彼の死を抱きしめる日は来るのだろうか。


そして何も悪くない暁を奪った犯人。

彼が心から悔いる未来など――

期待するだけ虚しいのかもしれない。


楓は盃の縁を見つめた。

胸には暖かさとも冷たさともつかない、どうしようもない“空白”が広がっていた。


そのとき――


「おう、ここだここだ。

遅くなったな、妖怪寺の住職!」


豪快な声が襖の向こうから響き、楓は思わず身をのけぞらせた。

襖ががらりと開く。

そこには肩幅だけで廊下を塞ぎそうな大男が立っていた。


――百目鬼伝蔵。

警察署の副署長。


「ど、ど……どうしてここに……っ!?」


楓が跳ね上がるように立ち上がる。

慌てて住職を見ると、泰巌は湯気越しににやりと笑った。


「おお来たか伝蔵。

ここしばらく顔を見とらんでな――ちと呼びつけただけよ」


泰巌が湯気の向こうでにやりと笑う。

百目鬼は肩をすくめ、深々とため息をついた。


「……お前は相変わらずだな。

呼びつけるにはもう少し理由ってもんが――

あん?」


その言葉を途中で飲み込んだのは、視界の端に映ったある“光景”のせいだった。


楓の横では完全に出来上がっている真雪が高校の制服姿のまま、一升瓶を両腕で抱え胡坐をかいている。


百目鬼は眉をひくりと動かし、楓は飛び上がらんばかりに慌てた。


「おいおい、お嬢ちゃん。その格好で一升瓶を抱えるのは、職務上、見逃すわけにはいかんのんだが……」


言い終わる前に、真雪はふんと横を向いた。


「何をほざくか、この痴れ者が!

人の法は人のみに課されるものじゃ。

わらわには関係ないわ」


楓は青ざめ、百目鬼は一拍の沈黙ののち、眼光をかすかに光らせ――


腹の底から豪快に笑った。


「はっはっは! 細けぇことは抜きだ!

妖怪寺の住職のツレならそれくらい普通ってことか!」


真雪は満足げに鼻を鳴らし、手近な猪口をぐいと差し出した。


「うむ、察しの良いやつじゃな。

お主、なかなか見どころがあるのう。

ほれ、飲め」


「おう、飲む飲む!

ここで遠慮したら逆に失礼だ!」


二人は瞬く間に意気投合し、一升瓶を挟んで豪快に笑い合う。

楓は頭を抱え、住職は鍋をさらりとよそいながら満足げに頷いていた。


百目鬼は一升瓶を軽く傾け、ふと楓を見る。


「それで楓よ。……神崎のこと、どうだった?」


「沙耶さん……?」


百目鬼は湯飲みを置き、穏やかに続ける。


「お前にとって、頼りになったかって話だ。

あいつ、どうも内勤の仕事が多くて、まだ現場を知らないヒヨッコでな」


豪胆な口調なのに、細やかな気遣いがにじむ声だった。

楓は少し姿勢を正し、静かに答える。


「……はい。とても助けられました」


――その瞬間、胸の底から“あの言葉”が浮かんできた。婦警・沙耶の、静かで力強い声。


「“生きている人間の問題は、生きている人間で解決しなきゃいけない”」


楓は無意識に呟いた。

湯気の向こうに、あの澄んだ瞳がよみがえる。


あの夜――


楓は沙耶に尋ねていた。

暁の霊に犯人の情報を訊けば捜査の手がかりが得られるのではないか、と。


だが沙耶は静かに首を振った。


「暁くんは望まないと思うの。

幼い彼に、自分を襲った犯人を思い出させるなんて可哀そうだわ。

それに……もう彼は死者。彼に頼っちゃいけない。

これは、生きている人間だけで解決しなきゃいけない問題なのよ」


そのとき楓は何も返せなかった。

真っ直ぐで、痛いほど胸に刺さる言葉だった。

だが今になって、ようやく分かる気がする。


「……あの人は、僕なんかよりずっと前を見ていました。

迷ったときも、怖かったときも、背中を押してくれる言葉をくれるんです。

だから――一緒にいて、安心できる人でした」


楓の言葉に、百目鬼の強面がふっとやわらいだ。

肩の力が抜けるように息をつき、盃を軽く持ち直す。


「……そうか。なら、よかった。

あいつ、現場だと張り詰めすぎるところがあってな。

お前がそう感じたなら、ちゃんと務めを果たせてたんだろう」


楓は視線を落とし、ぽつりと続けた。


「……あの人は、自分の痛みより他人の痛みに迷わず手を伸ばすことができる人です。

だから……」


言葉の先を探すように、指先がわずかに震えた。

その表情には、尊敬と、言い尽くせない想いがにじんでいる。


「……強い人ですね、沙耶さんは」


楓のその呟きを百目鬼は静かに受け止めゆっくりと頷きを返し、住職は穏やかに目を細めた。


「強さとは、誰かの痛みを背負うてなお、前を向けることじゃ」


暁の最期を見届け、彼の命を救えなかったことを悔いる沙耶。

それでも彼女は、その悲しみを抱いたまま、これからも制服の袖に腕を通し続けるのだろう。

迷いながらも、立ち止まらずに――

誰かの悲しみを、ほんの少しでも減らすために。


楓は盃を掲げ、小さく笑う。


「――生きている人間も、捨てたもんじゃないですね」


その瞬間、ふわりと風が通り、金魚草が静かに揺れた。

窓辺には蛍の光がひとつ、淡く瞬く。

まるで誰かが笑っているように。


湯気の向こうで住職が言った。


「命の縁は消えん。

化かされようが、忘れようが――

想いが続く限りはな」


楓は盃を口に運び、そっと目を閉じた。

胸の奥に、淡い光がそっと灯っていた。


――生きている人間も、まんざら悪くない。そう思えた夜だった。

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