5章 光の在処
公園の隅に立つ街灯が、静かに灯りはじめた。
西の空には、ゆっくりと溶けゆく茜雲。
風に混じって、どこからか新しい草の匂いが漂ってくる。
遊具の影が長く伸び、錆びたブランコの鎖がかすかに軋んだ。
公園の隅では、名も知らぬ小さな白い花が、暮れゆく空に首をかしげている。
昼間は子どもたちの声で賑わうこの場所も、陽の名残が薄れていく今は、若葉を渡る風と草むらの細い虫の声だけが漂っていた。
郁人、楓、そして沙耶は、静まり返った公園の中央へと足を進める。
地面には若葉の影がまだらに揺れ、陽射しの名残が彼らの足元をやわらかく包んでいた。
ブランコの前で足を止め、沙耶が小さく息を吐いた。
彼女の視線は、二つ並んだブランコの片方――
かつて暁と並んで座った場所に注がれていた。
「……ここなんですね。暁くんと会った場所」
楓が穏やかに言うと、沙耶は小さく頷いた。
「ええ。凍えるように寒い日だったのに……
暁くん、上着も着ずにずっとここでブランコに座ってたの」
その声には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。
沙耶はそっと腰を下ろす。
もう片方のブランコには、沙耶の目には映らない小さな影が静かに座っていた。
暁は遠くを見つめている。
沈みかけた陽の名残が、彼の輪郭を淡く照らしていた。
しばらくの沈黙のあと、沙耶が問いかけた。
「……暁くん、亡くなっちゃったんですね。
どうして……どうして、そんなことに?」
暁が小さく顔を上げ、何かを言おうと唇を動かした。
だが、郁人がそっとその言葉を遮った。
――思い出させるのは、あまりに酷だ。
郁人は静かに語り出す。
「……暁は、一人で遊んでいるとき、知らない男に声をかけられた。
何の理由もなく……そのまま、命を奪われたんです」
楓の肩がびくりと震えた。
彼はかすかに頷きながら、確かめるように言葉を繋ぐ。
「……一人で遊んでいるときに、知らない男に……
そして、そのまま……」
沙耶の表情がゆっくりと曇っていく。
唇を震わせ、ブランコの鎖を握る手に力がこもった。
金属が小さく鳴り、夕風にその音だけが響いた。
やがて沙耶は小さく呟く。
「……私は暁に、何をしてあげられるんだろう。
暁は……どうして母親に会いたいって思ったんだろう」
郁人が静かに答える。
「暁は……母親に、どうしても伝えたいことがあったんだ」
楓が顔を上げる。
「……伝えたいこと?ですか?」
郁人はゆっくりと頷いた。
「それは、“謝りたい”という気持ちだって聞いてる。
でも……何を、どうして謝りたいのか、僕も知らないんだ」
そのとき、暁が小さな声で呟いた。
「……“生まれてきて、ごめんなさい”……」
楓がはっとして息を呑み、震える声で沙耶に伝える。
「暁くんは……
母親に、“生まれてきてごめんなさい”って……
謝りたかったって言っています」
その言葉が、沙耶の胸の奥に鋭く突き刺さった。
――あの日の記憶が、ふいに蘇る。
――ブランコで並んで座っていた小さな背中。
『ママは何も悪くないんだ。
僕が生まれてきたせいで、ママはしんどい思いをしてる。
悪いのは僕なんだ』
幼い声が、今も耳の奥に残っている。
「……そんなこと……
暁くんは何も悪くないのに……」
沙耶の声が震えた。
頬を伝う涙が、傾いた陽に照らされてきらりと光る。
「……この近くに、暁くんがいるんだよね?」
沙耶が静かに尋ねる。
楓は優しく頷いた。
「ええ。隣のブランコに座っています」
沙耶は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
隣の空席の前に歩み寄り、誰もいない――はずの場所に、そっと両手を伸ばす。
「……暁くん。……ごめんね。何もできなくて」
そして、その小さな頭を撫でるように手を動かした。
その瞬間、風が止まった。
空気の中で、どこからか舞い上がった薄い花びらがふわりと動きを失い、まるで世界が息をひそめたかのように静まる。
目には見えないはずの幼い姿が、光の粒となって輪郭を帯びていく。
暁が、沙耶の手の中で確かに微笑んだ。
――触れた。
沙耶の指先に、ほんの一瞬、あたたかさが宿った。
暁の小さな手が同じ動きで彼女に触れ、二人の心が完全に重なったようだった。
そのぬくもりに導かれるように、沙耶はそっと暁を抱きしめた。
空気を抱いているはずなのに、確かに小さな体の重みが腕の中にあった。
肩の丸み、髪の感触、息づかい――
それは紛れもなく、暁だった。
沙耶はさらに腕に力をこめ、涙をこぼしながら、その小さな背中を包み込む。
「……もう、ひとりじゃないよ」
誰に言うでもなく、沙耶は静かに呟いた。
その声に応えるように、暁の腕がそっと沙耶の背に回された。
二つの存在が、同じ形で、同じ場所で、同じ瞬間に――確かに重なった。
その光景は、現実の理を超えて、美しく、あまりに静かだった。
淡い光が、暁の体の輪郭を包みはじめる。
それはまるで、朝露が陽に溶けるように静かで、やさしい輝きだった。
沙耶の腕の中で、暁の姿が徐々に透けていく。
「……お姉ちゃん、ありがとう」
風のような声が、沙耶の耳をかすめた。
その瞬間、彼女は確かに感じた――
小さな笑顔と、安らぎの気配を。
光はゆっくりと空へ昇り、やがて夜空の星のひとつに溶けていった。
暁の光が消え、静寂だけが公園に残った。
風が止み、世界が呼吸を忘れたようだった。
◆◇◆◇◆
その沈黙を破ったのは、楓の低い声だった。
「……郁人さん」
郁人は、透け始めた自分の指先を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……何だよ」
「もう、思い残すことはないんじゃないですか」
楓の声音は穏やかだった。
問いというより、確かめるような響き。
郁人は小さく笑った。
「そうだな……暁が笑っていけたんなら、それで十分だ」
そのやりとりに、沙耶が戸惑いの声をあげた。
「え、え? ま、待って。楓さん?
……誰と話してるの?」
彼女の視線は虚空を泳いでいる。
そこには確かに郁人が立っていた。
だが沙耶には、その姿が見えていなかった。
あの日――
深い森の奥へ向かった郁人の目的は、ただ自らの命を絶つことだった。
あの静寂に包まれた森の奥でその目的を果たし、目覚めたあの朝から郁人は――
“見える者にしか見えない存在”となっていた。
沙耶の表情はみるみる凍りつき、唇が震える。
理解を超えた現実を前に、彼女の瞳には混乱と恐れが映っていた。
郁人はその様子を見て、わずかに肩をすくめる。
「やっぱり、見えてない人間って苦手だな」
皮肉めいた笑みを浮かべながらも、その声にはどこか優しさがあった。
楓がふっと息を漏らす。
「郁人さん」
彼はわずかに目を細め、空を見上げながら言った。
「……輪廻転生って、信じますか?」
唐突な問いに、郁人は眉をひそめた。
「いきなりなんだよ。そんなのあり得ない。
信じるわけないだろ」
「ふふ、本当にそうでしょうか」
楓は穏やかに笑い、手のひらで宙をなぞるようにしながら続けた。
「もし“人間に生まれ変わった”って自覚するためには、もう一度続けて“人間”に生まれてくる必要があるとしたら……
それって、どれほど難しいことでしょうね」
少し間を置き、楓は視線を空の彼方へと送った。
「もしこの地球上のすべての生き物に、同じ確率で生まれ変わるとしたら……
もう一度“人間”として戻ってこられる確率は、どれほど低いと思いますか?」
郁人は黙り込み、考えるように視線を落とした。
ふと頭に浮かんだのは、数日前に食べたしらす丼だった。
碗の上に、無数の命が重なっていた。
――あの中の一匹一匹に等しく生まれ変わる可能性があるのなら。
人間にたどり着くまで、いったい何度、しらすとして生まれてくることになるのだろう。
「……なるほどな」
苦笑がこぼれる。
「前世の記憶を持ってる人がテレビに出てたっけ。
テレビで取り上げられるくらい珍しいなら、“もう一度人間”ってのは確かに奇跡みたいなもんだな」
楓が小さく頷いた。
「奇跡は、信じていれば起こるかもしれません」
「……そうだな……」
郁人は少し顔を上げ、遠くを見つめた。
「……俺は、別にしらすでもいいんだ」
「しらす? ですか?」
楓が目を瞬かせる。
郁人は一瞬、言葉を詰まらせ、思わず苦笑する。
「……あ、いや、その……たとえばの話だよ」
照れ隠しのように肩をすくめ、透けた手で後頭部をかく仕草をした。
「ミジンコでもウジ虫でも、なんでもいい。
そう、別に人間じゃなくても構わない」
声の調子が次第に落ち着き、郁人は遠くの空を見上げた。
「親でも兄弟でも、何なら他人でもいい」
風が頬をすり抜けていく。
彼の輪郭も、その風に紛れるように淡く揺れた。
そして、ほんの少し間を置いて。
「……暁のそばにいて、あいつが幸せになれるように見守ってやれる存在に、生まれ変わりたいな」
楓は目を伏せ、静かに言葉を落とした。
「……郁人さんらしいですね」
郁人は微かに笑った。
「だろ?」
その笑顔が、少しずつ淡い光へと変わっていく。
輪郭が滲み、風がそっと吹き抜けた。
そのとき、楓はそっとフラワーバッグを抱え直した。
郁人の光が薄れていくのを見つめながら、静かに呟く。
「……あなたに、渡したいものがあるんです」
彼はゆっくりとバッグの口を開け、丁寧に手を差し入れた。
取り出されたのは、小さな花束だった。
夜の灯に照らされ、白と桃の花弁がかすかに揺れている。
その手つきには、惜別と祈りが重なっていた。
「郁人さん。これは――金魚草です。
花言葉は“おせっかい”。」
楓は一歩近づき、穏やかに微笑む。
「死んだ後まで暁くんの世話を焼いて、あの子が笑えるまで見届けたあなたに。
……これ以上、似合う花はありません」
郁人は驚いたように目を見開き、それから少しだけ照れたように笑った。
「……おせっかい、ね。
まったくだ」
楓も微笑みを返す。
花屋で働きながら、彼は何度も見てきた――
霊たちが“花を供えられる”瞬間に流す涙を。
この世の身体という殻を離れた魂は、心そのものの形で世界と触れ合う。
だからこそ、花の香りひとつでさえ、痛いほど深く染み渡るのだ。
そして、澪のアパートで郁人の感情が爆発したあの夜――
あの衝撃が凄まじいものだったのも、その性質ゆえだった。
肉体を離れた魂は、もはや声や手ではなく、心や想いそのもので直接世界に触れる。
あの瞬間、郁人の怒りは言葉を超え、空気の奥底に響いた。“黙れ”という叫びは声ではなく、郁人の心が世界を打った音だった。
その震えは壁を伝い、空間を震わせ、世界の輪郭までもわずかに歪めた。
それこそが、身体を離れた魂が“心そのものである”ということの証だった。
郁人は差し出された花束にそっと手を伸ばした。
透けた指先が花に触れた瞬間、淡い光が弾け、花弁がひとひら空に舞う。
その光は、まるで郁人の笑みと溶け合うようにゆらめいた。
「……ありがとう、楓」
その声は、風の中に消える寸前の柔らかさを帯びていた。
楓は目を伏せ、静かに答えた。
「こちらこそ、郁人さん」
光が舞い上がり、夜空へと昇っていく。
楓の頬を撫でた風の中に、かすかに声が混じった。
――「またな」
いつの間にかすっかり暗くなってしまった星空に、ひとすじの光が瞬いた。
それはまるで、誰かの笑顔のように穏やかで、あたたかかった。




