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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
1 『金魚草の冒険』
7/9

5章 光の在処

公園の隅に立つ街灯が、静かに灯りはじめた。

西の空には、ゆっくりと溶けゆく茜雲。

風に混じって、どこからか新しい草の匂いが漂ってくる。


遊具の影が長く伸び、錆びたブランコの鎖がかすかに軋んだ。

公園の隅では、名も知らぬ小さな白い花が、暮れゆく空に首をかしげている。


昼間は子どもたちの声で賑わうこの場所も、陽の名残が薄れていく今は、若葉を渡る風と草むらの細い虫の声だけが漂っていた。


郁人、楓、そして沙耶は、静まり返った公園の中央へと足を進める。

地面には若葉の影がまだらに揺れ、陽射しの名残が彼らの足元をやわらかく包んでいた。


ブランコの前で足を止め、沙耶が小さく息を吐いた。


彼女の視線は、二つ並んだブランコの片方――

かつて暁と並んで座った場所に注がれていた。


「……ここなんですね。暁くんと会った場所」


楓が穏やかに言うと、沙耶は小さく頷いた。


「ええ。凍えるように寒い日だったのに……

暁くん、上着も着ずにずっとここでブランコに座ってたの」


その声には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。


沙耶はそっと腰を下ろす。

もう片方のブランコには、沙耶の目には映らない小さな影が静かに座っていた。

暁は遠くを見つめている。

沈みかけた陽の名残が、彼の輪郭を淡く照らしていた。


しばらくの沈黙のあと、沙耶が問いかけた。


「……暁くん、亡くなっちゃったんですね。

どうして……どうして、そんなことに?」


暁が小さく顔を上げ、何かを言おうと唇を動かした。

だが、郁人がそっとその言葉を遮った。


――思い出させるのは、あまりに酷だ。


郁人は静かに語り出す。


「……暁は、一人で遊んでいるとき、知らない男に声をかけられた。

何の理由もなく……そのまま、命を奪われたんです」


楓の肩がびくりと震えた。


彼はかすかに頷きながら、確かめるように言葉を繋ぐ。


「……一人で遊んでいるときに、知らない男に……

そして、そのまま……」


沙耶の表情がゆっくりと曇っていく。

唇を震わせ、ブランコの鎖を握る手に力がこもった。

金属が小さく鳴り、夕風にその音だけが響いた。


やがて沙耶は小さく呟く。


「……私は暁に、何をしてあげられるんだろう。

暁は……どうして母親に会いたいって思ったんだろう」


郁人が静かに答える。


「暁は……母親に、どうしても伝えたいことがあったんだ」


楓が顔を上げる。


「……伝えたいこと?ですか?」


郁人はゆっくりと頷いた。


「それは、“謝りたい”という気持ちだって聞いてる。

でも……何を、どうして謝りたいのか、僕も知らないんだ」


そのとき、暁が小さな声で呟いた。


「……“生まれてきて、ごめんなさい”……」


楓がはっとして息を呑み、震える声で沙耶に伝える。


「暁くんは……

母親に、“生まれてきてごめんなさい”って……

謝りたかったって言っています」


その言葉が、沙耶の胸の奥に鋭く突き刺さった。


――あの日の記憶が、ふいに蘇る。


――ブランコで並んで座っていた小さな背中。


『ママは何も悪くないんだ。

僕が生まれてきたせいで、ママはしんどい思いをしてる。

悪いのは僕なんだ』


幼い声が、今も耳の奥に残っている。


「……そんなこと……

暁くんは何も悪くないのに……」


沙耶の声が震えた。

頬を伝う涙が、傾いた陽に照らされてきらりと光る。


「……この近くに、暁くんがいるんだよね?」


沙耶が静かに尋ねる。

楓は優しく頷いた。


「ええ。隣のブランコに座っています」


沙耶は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

隣の空席の前に歩み寄り、誰もいない――はずの場所に、そっと両手を伸ばす。


「……暁くん。……ごめんね。何もできなくて」


そして、その小さな頭を撫でるように手を動かした。

その瞬間、風が止まった。


空気の中で、どこからか舞い上がった薄い花びらがふわりと動きを失い、まるで世界が息をひそめたかのように静まる。


目には見えないはずの幼い姿が、光の粒となって輪郭を帯びていく。

暁が、沙耶の手の中で確かに微笑んだ。



――触れた。



沙耶の指先に、ほんの一瞬、あたたかさが宿った。

暁の小さな手が同じ動きで彼女に触れ、二人の心が完全に重なったようだった。


そのぬくもりに導かれるように、沙耶はそっと暁を抱きしめた。

空気を抱いているはずなのに、確かに小さな体の重みが腕の中にあった。


肩の丸み、髪の感触、息づかい――


それは紛れもなく、暁だった。


沙耶はさらに腕に力をこめ、涙をこぼしながら、その小さな背中を包み込む。


「……もう、ひとりじゃないよ」


誰に言うでもなく、沙耶は静かに呟いた。

その声に応えるように、暁の腕がそっと沙耶の背に回された。


二つの存在が、同じ形で、同じ場所で、同じ瞬間に――確かに重なった。


その光景は、現実の理を超えて、美しく、あまりに静かだった。


淡い光が、暁の体の輪郭を包みはじめる。

それはまるで、朝露が陽に溶けるように静かで、やさしい輝きだった。


沙耶の腕の中で、暁の姿が徐々に透けていく。


「……お姉ちゃん、ありがとう」


風のような声が、沙耶の耳をかすめた。

その瞬間、彼女は確かに感じた――


小さな笑顔と、安らぎの気配を。


光はゆっくりと空へ昇り、やがて夜空の星のひとつに溶けていった。

暁の光が消え、静寂だけが公園に残った。

風が止み、世界が呼吸を忘れたようだった。


◆◇◆◇◆


その沈黙を破ったのは、楓の低い声だった。


「……郁人さん」


郁人は、透け始めた自分の指先を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「……何だよ」


「もう、思い残すことはないんじゃないですか」


楓の声音は穏やかだった。

問いというより、確かめるような響き。


郁人は小さく笑った。


「そうだな……暁が笑っていけたんなら、それで十分だ」


そのやりとりに、沙耶が戸惑いの声をあげた。


「え、え? ま、待って。楓さん?

……誰と話してるの?」


彼女の視線は虚空を泳いでいる。

そこには確かに郁人が立っていた。

だが沙耶には、その姿が見えていなかった。


あの日――


深い森の奥へ向かった郁人の目的は、ただ自らの命を絶つことだった。


あの静寂に包まれた森の奥でその目的を果たし、目覚めたあの朝から郁人は――

“見える者にしか見えない存在”となっていた。


沙耶の表情はみるみる凍りつき、唇が震える。

理解を超えた現実を前に、彼女の瞳には混乱と恐れが映っていた。

郁人はその様子を見て、わずかに肩をすくめる。


「やっぱり、見えてない人間って苦手だな」


皮肉めいた笑みを浮かべながらも、その声にはどこか優しさがあった。


楓がふっと息を漏らす。


「郁人さん」


彼はわずかに目を細め、空を見上げながら言った。


「……輪廻転生って、信じますか?」


唐突な問いに、郁人は眉をひそめた。


「いきなりなんだよ。そんなのあり得ない。

信じるわけないだろ」


「ふふ、本当にそうでしょうか」


楓は穏やかに笑い、手のひらで宙をなぞるようにしながら続けた。


「もし“人間に生まれ変わった”って自覚するためには、もう一度続けて“人間”に生まれてくる必要があるとしたら……

それって、どれほど難しいことでしょうね」


少し間を置き、楓は視線を空の彼方へと送った。


「もしこの地球上のすべての生き物に、同じ確率で生まれ変わるとしたら……

もう一度“人間”として戻ってこられる確率は、どれほど低いと思いますか?」


郁人は黙り込み、考えるように視線を落とした。

ふと頭に浮かんだのは、数日前に食べたしらす丼だった。


碗の上に、無数の命が重なっていた。

 

――あの中の一匹一匹に等しく生まれ変わる可能性があるのなら。

人間にたどり着くまで、いったい何度、しらすとして生まれてくることになるのだろう。


「……なるほどな」


苦笑がこぼれる。


「前世の記憶を持ってる人がテレビに出てたっけ。

テレビで取り上げられるくらい珍しいなら、“もう一度人間”ってのは確かに奇跡みたいなもんだな」


楓が小さく頷いた。


「奇跡は、信じていれば起こるかもしれません」


「……そうだな……」


郁人は少し顔を上げ、遠くを見つめた。


「……俺は、別にしらすでもいいんだ」


「しらす? ですか?」


楓が目を瞬かせる。


郁人は一瞬、言葉を詰まらせ、思わず苦笑する。


「……あ、いや、その……たとえばの話だよ」


照れ隠しのように肩をすくめ、透けた手で後頭部をかく仕草をした。


「ミジンコでもウジ虫でも、なんでもいい。

そう、別に人間じゃなくても構わない」


声の調子が次第に落ち着き、郁人は遠くの空を見上げた。


「親でも兄弟でも、何なら他人でもいい」


風が頬をすり抜けていく。

彼の輪郭も、その風に紛れるように淡く揺れた。


そして、ほんの少し間を置いて。


「……暁のそばにいて、あいつが幸せになれるように見守ってやれる存在に、生まれ変わりたいな」


楓は目を伏せ、静かに言葉を落とした。


「……郁人さんらしいですね」


郁人は微かに笑った。


「だろ?」


その笑顔が、少しずつ淡い光へと変わっていく。

輪郭が滲み、風がそっと吹き抜けた。


そのとき、楓はそっとフラワーバッグを抱え直した。

郁人の光が薄れていくのを見つめながら、静かに呟く。


「……あなたに、渡したいものがあるんです」


彼はゆっくりとバッグの口を開け、丁寧に手を差し入れた。

取り出されたのは、小さな花束だった。

夜の灯に照らされ、白と桃の花弁がかすかに揺れている。

その手つきには、惜別と祈りが重なっていた。


「郁人さん。これは――金魚草です。

花言葉は“おせっかい”。」


楓は一歩近づき、穏やかに微笑む。


「死んだ後まで暁くんの世話を焼いて、あの子が笑えるまで見届けたあなたに。

……これ以上、似合う花はありません」


郁人は驚いたように目を見開き、それから少しだけ照れたように笑った。


「……おせっかい、ね。

まったくだ」


楓も微笑みを返す。


花屋で働きながら、彼は何度も見てきた――

霊たちが“花を供えられる”瞬間に流す涙を。


この世の身体という殻を離れた魂は、心そのものの形で世界と触れ合う。

だからこそ、花の香りひとつでさえ、痛いほど深く染み渡るのだ。


そして、澪のアパートで郁人の感情が爆発したあの夜――

あの衝撃が凄まじいものだったのも、その性質ゆえだった。


肉体を離れた魂は、もはや声や手ではなく、心や想いそのもので直接世界に触れる。

あの瞬間、郁人の怒りは言葉を超え、空気の奥底に響いた。“黙れ”という叫びは声ではなく、郁人の心が世界を打った音だった。


その震えは壁を伝い、空間を震わせ、世界の輪郭までもわずかに歪めた。


それこそが、身体を離れた魂が“心そのものである”ということの証だった。


郁人は差し出された花束にそっと手を伸ばした。

透けた指先が花に触れた瞬間、淡い光が弾け、花弁がひとひら空に舞う。

その光は、まるで郁人の笑みと溶け合うようにゆらめいた。


「……ありがとう、楓」


その声は、風の中に消える寸前の柔らかさを帯びていた。

楓は目を伏せ、静かに答えた。


「こちらこそ、郁人さん」


光が舞い上がり、夜空へと昇っていく。

楓の頬を撫でた風の中に、かすかに声が混じった。


――「またな」


いつの間にかすっかり暗くなってしまった星空に、ひとすじの光が瞬いた。

それはまるで、誰かの笑顔のように穏やかで、あたたかかった。

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