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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
1 『金魚草の冒険』
6/9

4章 砕ける静寂

夕暮れの光が、古びたアパートの外壁を朱に染めていた。


少し湿った風が通り抜け、どこか遠くでツバメの鳴き声がかすかに響く。

錆びた階段の手すりが軋み、通路には雨上がりのような匂いがこもっていた。


郁人たちは二階の突き当たり――

瀬川澪の部屋の前に立っていた。


「……ここです」


沙耶が小さく息を整え、ドアに向き直る。

郁人の隣では、暁が不安そうに指先を握りしめていた。


インターホンを押す。


短い沈黙のあと、掠れた声が返ってきた。


「……なに?」


「警察の者です」


気だるげな溜息、続いて鍵の外れる音。

蝶番が軋み、ドアがわずかに開いた。


顔を覗かせた瀬川澪は、ひどく疲れた表情をしていた。

乱れた髪の隙間からのぞく目は濁り、長く積もった諦めが色濃く滲んでいる。


「……何の用?」


眠気の底に苛立ちが滲む声。


沙耶が丁寧に頭を下げた。


「瀬川澪さんですね。

少しお話を伺いたくて。

お子さんの――暁くんについてです」


澪は一瞬だけ眉を動かし、目を逸らした。


「暁? いないわよ。出かけてる」


「出かけてる……?

どこへ行ったか、ご存じですか?」


「知らない」


澪は肩をすくめた。


「どうせその辺で遊んでるんでしょ。

いつものことよ」


沙耶は小さく息をのみ、問いを重ねた。


「それは……何時ごろですか? 出かけたのは」


「さあね。三日か、四日前? あの子、しょっちゅう出ていくから」


「三日……?」


沙耶の声がわずかに震えた。


「それだけの間、帰ってこないんですか?」


「そう言ってるでしょ」


うんざりとした息を吐き、澪は乱れた髪をかき上げる。

開いたドアの向こうからは洗濯物の湿気と古い畳の埃の匂いが流れ出てきた。


「放っておけばそのうち戻るのよ。昔からそうなの。何か問題でも?」


「問題って……」


沙耶の拳が小さく震えた。


「お子さんの行方が分からないのに、心配じゃないんですか?」


「心配? するだけ無駄なのよ」


澪の声に乾いた笑いが混じる。


「どうせ帰ってくる。あの子、外が好きでね。

放っておくのが一番なの」


沙耶の脳裏に、以前の光景がよぎった。


――夕方の公園。


沈みかけた陽が冷たさを帯びた滑り台の金属を淡く照らし、冬の風が肌を刺すような冷気を運んでいた。

今にも切れそうな街灯が点滅する公園は底冷えするような静寂に包まれていた。


誰もいないと思えたブランコに、小さな男の子――

暁が一人、ポツンと座っているのが見えた。


沙耶はその隣のブランコに腰を下ろし、「お母さんは?」と尋ねた。

暁は、寂しそうに笑って、「まだ帰ってこない」とだけ言った。


あのとき胸の奥にひっかかった違和感が、今、形になって蘇る。


「……暁くん、ブランコでひとりで遊んでたんです。

風が冷たい日で…でも、上着も着ていなかった。

たった一人で、あなたの帰りを寂しそうに待っていました」


「そんなの知らないわよ」


澪は冷たく言い放つ。


「外で一人で遊ぶのが好きなのよ、あの子は。

勝手に出て行って、勝手に帰ってくる。

それの何が悪いの?」


沙耶の頬に血が上った。


「三日も行方がわからないのに、どうしてそんな言い方ができるんですか!

母親でしょう!?」


「母親だからこそよ!」


澪が怒鳴り返す。


その肩は小刻みに震え、頬には疲労の影が滲んでいた。

唇は乾き、言葉を吐くたびに血がにじむ。


「心配しても意味がないって分かってるの!

どうせ探しに行ったって、どこにいるのかなんてわからない。

いつもそのうち、ひょっこり帰ってくるんだから!」


澪の視線は宙を泳ぎ、声がかすかに震えている。


何度も繰り返された不安と諦めが、言葉の隙間から滲み出ていた。


「いちいち気にして、全部面倒見てたら――

私の身がもたないの!」


外の空には薄く霞がかかり、西日に照らされた雲の端が金色に滲んでいた。


澪は息を吸い込み、押し殺していた言葉を吐き出すように叫んだ。


「あの子が生まれてから、何もかも狂ったんだから!」


その叫びは怒りというより、悲鳴に近かった。


「毎日泣いて、わめいて、仕事も辞める羽目になって……夜も眠れなくなった!

抱くたびに、どうして私ばっかりって思うようになったのよ!」


涙が頬を伝う。

拭っても止まらず、嗚咽が混じる。


「私だって必死だった!

昼も夜も働いて、それでもお金が足りない!

誰も助けてくれなかった!」


冷たく冷え切った廊下の空気が重く沈む。


窓の外では、街路樹の葉がゆっくり揺れ、夕陽の中で光を透かしていた。

その穏やかな季節の明るさが、かえって彼女の疲れを際立たせる。


郁人は言葉を失い、ただ澪の瞳を見つめるしかできなかった。

怒鳴り散らすその姿の奥に、壊れかけた人の形を見たような気がした。


澪は嗚咽をこらえるように唇を噛み、絞り出すように言った。


「暁だって、私がどんな思いでここまでやってきたか、きっとわかりもしない……!」


その言葉に、背後の暁がびくりと肩を震わせた。

小さな顔が歪み、郁人の影にさらに深く隠れる。

郁人は無意識にその肩を抱き寄せた。


胸の奥に、焦げるような痛みが走る。

怒りも哀れみも、何一つ形にならないまま、ただ息を飲むしかなかった。


沙耶は唇を噛み、怒りを押し殺すように目を伏せた。


「あなた、それでも――」


言いかけた言葉を、澪が鋭く遮った。


「うるさい!」


その声には、抑えきれない苛立ちと恐怖が入り混じっていた。


「何よその目。

あんたに何が分かるの?」


「私は、ただ……

暁くんのことを――」


「知ったようなこと言わないで!」


澪の声が一段と荒くなる。


「勝手に来て、人の生活に口出して……

正義の味方のつもり?

笑わせないで!」


「そんなつもりはありません!」


沙耶の声が張り詰める。


「母親なら、子どもを心配するのは当然のことです!」


「母親母親ってうるさいのよ!」


澪の叫びが、狭い廊下に響き渡った。


「こっちは生きるのに精一杯なの!

役所に行ったって、順番だの書類だの……

たらい回しばっかりで!

助けてって言ってるのに、誰一人まともに話も聞いてくれない……!」


その瞳には、怒りと疲弊と――

かすかな絶望が滲んでいた。


「お金だって足りないのよ……!

『できません』とか『また今度』とか、それしか言われない……

そんなの待ってたら生活なんて簡単に崩れるに決まってる……!」


声は震え、荒い息とともに言葉がとめどなくこぼれ落ちてくる。


「結局誰も助けてくれない……

どうすればいいかなんて……

誰も教えてくれなかった……!」


そして――


「……もう、全部どうでもいいのよ!」


その言葉は、怒りよりも先に、深い疲労の色を帯びていた。

澪の声は次第に悲鳴のようになっていく。


「あの子だって望んで生んだわけじゃない!

降ろそうと思ったけど、もう遅かった!

――あの子――暁――なんて、生まれてこなければ――」






『黙れッッッ!!!!!』






澪の言葉を遮り、空気が裂けた。

それは、声というより衝撃そのものだった。

低く、深く、空間そのものを震わせるような轟き。

建物全体が共鳴するかのように、床と壁がびしりと鳴った。


沙耶はよろめき、壁に手をついた。

澪は全身を縮こまらせ、恐怖に目を見開く。

まるでそこに、“人ならぬもの”が立っているかのように。


郁人は息を荒くしていた。

郁人の存在自体に揺らぎが生じているのを感じた。

胸の奥から溢れた怒りが理性を突き破ったのだと気づく。


声を発したのは自分――

だが、その響きは自分のものではなかった。

まるで別の何かが、代わりに叫んだかのように。


――怒りそのものが、郁人の輪郭を押し破ったようだった。


郁人の背に、暁がしがみついていた。

怯えてはいない。

その小さな瞳には、安堵の色があった。


郁人が自分のために怒ってくれた――

その意味を、幼い心は確かに感じ取っていた。


澪は震える唇を押さえ、周囲を見回す。


「……なに? 誰?

他に誰かいるの? いったいなんなの?

なんなのよ!」


声が裏返り、恐怖が滲む。

そして次の瞬間、勢いよくドアを閉めてしまった。


乾いた音が狭い廊下に響き、沈黙が残る。

朱に染まった光が徐々に淡くなり、埃の粒が光を散らす。

風が遠くから草の匂いを運び、小さな虫の声が鳴き始めていた。


郁人は拳を握りしめたまま、閉ざされた扉を見つめる。

怒りの余韻がまだ、体の奥で微かに震えている。

その傍らで、暁が小さく郁人の影から顔を出した。


――その瞳には、悲しみと、それでも消えない母への想いが宿っていた。

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