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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
1 『金魚草の冒険』
5/8

3章 淡い影の行方

楓の知る住職の碁敵の名前は、百目鬼(どめき)伝蔵というらしい。

その名を聞いた瞬間、郁人は思わず息を詰めた。


――どこか、現実離れした響きだ。


まるで古い怪談に出てくる人物のようで、警察官というより山奥に住む隠居か祠の守り人のほうがしっくりくる。


だが楓はごく自然にその名を口にした。

冗談ではないらしいことは、すぐに分かった。


昼を少し回ったころ、三人は町の中心にある警察署へ向かった。


道の両側には緑が濃く茂りはじめ、若葉の色がまぶしい。

風に混じって、遠くの水路から湿った土の匂いが漂ってくる。

日差しは柔らかいが、どこか夏を思わせる熱を帯びていた。


楓は手に小さなフラワーバッグを提げていた。

近くに配達先があり、帰りに寄るつもりだという。


バッグの口からのぞく花々が、淡い光を反射して揺れている。


ちょうど昼休憩が終わったばかりのようで、庁舎の中には人の出入りがまばらに戻り始めていた。


ガラス扉を抜けた瞬間、外の光が切り替わる。

冷房の風が肌に触れ、蛍光灯の白が花屋の柔らかな空気とは対照的に冷たく感じられた。


受付のカウンターには若い事務員の女性が座っていた。

楓は軽く会釈し、静かに声をかける。


「すみません。百目鬼さんという方にお会いしたいのですが……」


女性は一瞬、目を瞬かせた。

その反応に、郁人の胸の奥で小さなざわめきが走る。


名前を口にしただけで、空気がわずかに変わったように感じられたのだ。


「……百目鬼副署長のことでしょうか?」


「……え?」


楓の声が、ほんの少し上ずった。


郁人は横顔を覗き込む。楓は完全に意表を突かれた様子で、言葉を失っていた。


副署長。

つまり署の中でもかなりの地位にある人物ということになる。


楓が言っていた“飄々として何者か分からない人”という印象と、どうにも結びつかない。


郁人は心の中で苦笑した。


――碁を打つために寺へふらっと現れる副署長。

まるで冗談のようだ。


受付の女性は三人の戸惑いを気に留めることもなく、内線電話を取り上げた。


「少々お待ちください。副署長にお取り次ぎします」


通話の向こうで応答する声が聞こえ、女性は丁寧に言葉を交わしたあと、受話器を置いた。


「すぐに応接室へお越しくださいとのことです」


楓は小さく頭を下げ、郁人も横で、うっすらとした興味と緊張を感じていた。


――百目鬼伝蔵。どんな人物なのだろう。


花屋の柔らかな香りがまだ袖に残っている。


その残り香の向こうで、これから会う人物の輪郭だけが、ぼんやりと浮かび始めていた。


◆◇◆◇◆


応接室のドアが開くと、低い声が響いた。


「おう、楓じゃねえか。珍しい顔だな」


声の主――

百目鬼は、入り口のそばに静かに立つ大柄な男だった。


制服越しにも分かるしっかりした体つきで、分厚い眉と鋭い眼差しが印象的だ。


一見すれば、長年の勤務に少し疲れが見える警官。

しかし、その瞳の奥には、落ち着いた光と、どこか底知れないものが宿っていた。


「……百目鬼さん、ご無沙汰しています」


楓が軽く会釈する。

懐かしさとわずかな緊張が入り混じった声だった。


「まさか住職の碁敵が副署長だったとは思いませんでした」


その言葉に百目鬼は鼻を鳴らして笑った。


「肩書きなんざどうでもいい。

碁盤の前じゃ皆ただの打ち手よ」


そう言うと百目鬼は、そこに置かれた頑丈な木椅子へと大股で近づき、ドカッと音を立てて腰を下ろした。

椅子がわずかに軋み、部屋の空気が一瞬揺れる。


飄々とした軽さの奥に、豪胆な響きがある。


――この人が、百目鬼伝蔵。


郁人はその声音に、どこか人を食ったような不思議な親しみを覚えた。

百目鬼は椅子の背にもたれ、ゆっくりと脚を組む。


「……で、今日は何の用だ?」


その声音には、副署長らしい威圧と、大男らしい豪快な余裕が同居していた。


楓は静かに頷き、少し間を置いて話し始めた。


「実は……ある子どもが母親を探しているんです。

その母親の行方を辿るには、警察で何か情報が得られないかと思いまして」


その言葉に合わせるように、暁が楓のそばで小さく背筋を伸ばした。

目には見えない存在だが、その微かな気配が、話の進み具合をそっと受け止めているように感じられた。


百目鬼は低く唸り、腕を組む。


「ふむ……その“子ども”ってのは?」


楓は答えず、ちらりと郁人と暁に視線を向けた。百目鬼も自然にその方向を見る。


その瞬間、郁人は輪郭をなぞるように視線が通り過ぎる感覚を覚えた。


ほんの一拍の沈黙の後、楓は静かに言った。


「……その子は、もうこの世の存在ではありません」


百目鬼の表情は変わらない。

顎を撫で、思案するように息を吐く。


「なるほど、そういう話か」


肩を軽くすくめるが、茶化す響きはない。


「坊さんのところの同居人が言うなら、無視はできねえな」


「信じてもらえないかと思ってました」


百目鬼はゆっくりと立ち上がり、背筋をぐっと伸ばした。


制服の肩章が午後の光を受けてわずかにきらめく。

窓の外では、木の若葉が風にそよぎ、薄い緑の影がカーテンを揺らしていた。


「お化けだの幽霊だの――」


百目鬼は腰に手を当て、軽く肩を回す。


「それを信じる信じねえは、俺にとっちゃどうでもいい話だ。

世の中には、理屈じゃ片づかねえことなんて山ほどある」


ひと呼吸置き、百目鬼は視線を郁人と楓の間にゆっくりと移す。


「俺は、“見えねえもん”を疑うより、それを見えるって言う奴の目を信じる方だ。

あんたや住職の話は筋が通ってる。だから信じられる」


百目鬼は腕を組み直し、軽く顎を上げた。


「信じられる人間が真剣に話してるなら、俺も動く。それだけだ。

それが――現場の勘ってやつよ」


そう言うと、百目鬼はゆっくりと歩き出し、扉の前で立ち止まった。


「……生活安全課に行ってみよう。

行方不明届が出てるかもしれん」


百目鬼が取っ手を押し下げて扉を開くと、楓は深く頭を下げ、郁人も姿勢を正しそれに倣った。

暁は少し遅れて歩き出し、その小さな影が廊下の床に淡く揺れる。


百目鬼の背はまっすぐで無駄がない。

歩くたび、空気がわずかに押し広げられる。


郁人はふと、その背中を見つめた。

胸の奥に、静かな温度が宿る。


――この人なら、大丈夫だろう。


◆◇◆◇◆


百目鬼の案内で、三人は署内の奥へ進んだ。

生活安全課の前で足を止める。


中では数名の警察官がデスクワークに没頭し、キーボードの音が一定のリズムで響いていた。


蛍光灯の白い光が書類の山に淡く反射し、掲示板には地域の安全情報が並ぶ。

窓から入り込んだ初夏の風が、紙の端をわずかに揺らした。


「神崎、ちょっといいか」


百目鬼の声に、奥のデスクで作業していた女性警察官が顔を上げた。


切りそろえられた黒髪を後ろでひとつにまとめ、濃紺の制服に身を包んでいる。

胸元のネームプレートには「神崎沙耶」という名前が整った文字で刻まれていた。

年の頃は二十代半ばといったところだろう。


神崎は椅子からきびきびと立ち上がり、手元の書類を素早くそろえると歩み寄ってくる。

その所作には、現場にも慣れた者の落ち着きがあった。


「どうかしましたか、副署長?」


「こちらの方が、行方不明の子ども――いや、正確には“幽霊の子ども”の母親を探してるって話でな」


沙耶は一瞬、言葉を失った。


「……幽霊、ですか?」


小さく眉を寄せる。


「正直、そういう話は信じる方じゃありません。

でも――副署長がわざわざ口にされるなら、きっと何かあるんでしょうね」


幽霊の話など信じられるはずもない。

だが、副署長の口から語られる以上、軽く扱えない。

そんな心情なのだろう。


楓はそっと頷き、百目鬼が続けるのを待った。


「小さな男の子、“暁”という名前だ。

母親の所在を知りたくて相談に来たそうだ」


沙耶は息を吐き、半信半疑の表情を浮かべる。

しかし、副署長の真剣さを前に否定まではしなかった。


そのとき暁は、楓の後ろで静かに立ち、その存在感が微かに漂う。

目には見えないが、気配だけで、話の流れを見守っているようだった。


沙耶は端末を操作し、暁という名前の男の子の記録を確認した。


「……暁くん、ですか。

行方不明者には登録されていませんね」


一呼吸置き、沙耶は楓たちに視線を向けた。


「でも……その名前の子に心当たりがあります。

確か、母親は瀬川澪という女性で、数か月前から児童相談所でも問題になっていた方です。

暁という小さな男の子と二人暮らしだったはずですが……」


楓は静かに頷き、暁もその隣で肩を揺らすように立つ。

まるで沙耶に気づかれず、状況を共に見届けているかのようだった。


百目鬼が沙耶に向き直る。


「神崎、この件、実際に確かめてこい。

暁という子が本当に行方不明かどうか、澪のアパートへ同行して確認してくれ」


「私が……ですか?」


「俺は署を離れられん。

神崎、頼む」


沙耶は一瞬、百目鬼と楓、そして見えぬ暁へと視線を巡らせ、すぐに小さくうなずいた。


「……わかりました」


楓が頭を下げ、郁人もそれに倣う。


昼下がりの柔らかな光が廊下に射し込み、その中で暁の気配がわずかに揺れた。


――ようやく、手がかりの糸口が見えた気がした。


胸の奥がほっと緩む。


ただ、その安堵の影に、暁の母親に会うという現実が近づくほど、胸の奥に小さな影が沈んでいくのを郁人は確かに感じていた。

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