2章 花の香りの向こう側
妖怪寺という名は物々しいが、霊たちの話をまとめると――
深山楓は寺に住んではいるが、日中は町の花屋で働いているらしく、無理に寺を訪れて恐ろしい思いをしなくても会うことができるらしい。
郁人と暁は、霧の薄れた山道を下りながら、街の方へと向かった。
木々の枝先には、昨夜の露がまだ残っていた。
陽の光を受けて、ひと粒ひと粒が小さく瞬く。
風が吹くたび、若い葉の表がきらりと光り、湿った土の匂いが足元から立ち上る。
森の奥に篭っていた冷えが、少しずつ溶けていく。
森を抜けるころには、太陽はすでに高く昇っていた。
木々の影は短くなり、空気には昼の明るさが満ちている。
朝の霧が消えたあとの世界は、透きとおるように澄んでいて、鳥の声が遠くから響いてきた。
さっきまでの白い世界が、まるで遠い夢のように思えた。
やがて、小さな町並みが見えてくる。
通りの角、白い壁に蔦がからまる古い建物――
――そこに、花屋はあった。
蔦の葉の重なりの切れ目から、陽光が柔らかく差し込み、建物の影を淡く染めている。
ドアの前に立った瞬間、郁人は息をのんだ。
外気の中に、かすかに甘い香りが混じっていた。
ドアの隙間から漏れ出した花の気配が、風に乗ってふわりと広がっているのだ。
湿った土とやわらかな草の匂いに、ほんの一滴だけ花の香りが溶け込み――
それが、どこか懐かしく胸の奥に沁みていく。
郁人はそっと深呼吸をし、静かに店内へ足を踏み入れた。途端、色彩が一気に広がった。
店内には光と香りが満ち、花々はまるで呼吸するように咲きそろっている。
ガーベラの橙、カスミソウの白、ラナンキュラスの淡い桃色――
ガラス越しの陽の光が花弁の縁を透かし、柔らかい影を棚に落としていた。
花たちは幾重にも重なり合いながら、小さな世界を形作っている。
霧の中で閉じていた感覚が、少しずつ戻っていく。
郁人は一歩ごとに、生の気配を確かめるように歩みを進めた。
暁は郁人の袖を握り、小さく息を詰めたまま周囲を見回している。
郁人はそっと微笑み、暁の手を軽く握り返した。
暁の瞳に光が宿る。
その瞳に映るのは、どこまでも優しく咲く花々――
まるで世界が再び息を吹き返したかのようだった。
暁は、恐る恐る手を伸ばし、指先で花の輪郭をなぞる。
花びらが揺れ、淡い香りが頬をかすめた。
カウンターの奥で、花を束ねていた青年が顔を上げた。
細い指先にハサミを持ち、茎を整えていた彼は、郁人を見ると軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ」
低く落ち着いた声。
その響きには、どこか包み込むような柔らかさがあった。
「……深山楓……さん、ですか?」
郁人が問うと、青年は少し驚いたように瞬きをし、それから頷いた。
「そうですが……どちら様でしょう?」
郁人は一瞬、言葉を探した。
“霊の子どもの母親を探している”
――そんな話をすれば怪しまれるに決まっている。
けれど、霊たちの言葉を信じるなら、この青年は“見える”側の人間だと期待できる。少なくとも、門前払いはされないはずだ。
「……母親を探している子がいるんだ。
その子を、どうしても母親に会わせてやりたくて」
楓は少し眉を寄せ、それから穏やかに頷いた。
「……今、ちょっと手を離せません。
少しお待ちいただけますか」
そう言うと、奥の作業台へ下がり、注文の花束を作りはじめた。
花を束ねる音と紙の擦れる音が、静かな店内に溶けていく。
窓の外では、光を受けた葉がかすかに揺れ、影が床に模様を描いていた。
郁人は頷き、店内を見渡した。
花たちは静かに光を吸い込みながら、確かに生きていた。
暁はその中で立ち止まり、花の色を目で追っている。
指先が触れそうになっては、また引っ込む。
その仕草には、怖れと憧れが静かに溶け合っていた。
まるで初めて世界に触れる子どものようだった。
ふと、郁人の視線が淡紅の花に止まった。
同じ形をした花々が一つの茎に並んで咲いている。
花弁が小さく波打ち、風もないのにわずかに揺れているその姿が、どこか言葉を紡ぐ口のように見え、並んで咲く花同士がおしゃべりをしているように思えて…なぜか目を離せなかった。
その様子に気づいた楓が、手を止めずに声をかけた。
「その花、気になりますか?」
郁人は少し驚きながらも頷いた。
「ああ……なんとなく、見ていると楽しくなる気がして」
楓は穏やかに微笑んだ。
「金魚草です。
少し変わった花なんですよ。
――それに、花言葉も少し変わっています」
「へえ……」
郁人は曖昧に相槌を打ちながら、花々を見つめ続けていた。
楓の言葉よりも、花のかたちや色の移ろいに心を奪われていたのだ。
楓の声はどこか遠くで響くようで、仄かな香りが胸の奥を静かに満たしていく。
――そのまま、時間の感覚がふっと薄れていった。
「お待たせしました。……お話、聞かせてもらえますか」
声に呼ばれ、郁人ははっと我に返った。
楓が手を拭きながらこちらを見ている。
「……あ、そうだった。よろしく頼む」
慌てて姿勢を正し、胸の内の余韻を押し隠すように答えた。
「母親を探したい子がいる、と言われてましたね。
その子というのは……」
楓の視線が、郁人の隣へ向けられる。
郁人は息をのんだ。
楓の目が、まるでそこに確かに暁の姿を見ているかのように、柔らかく焦点を結んでいた。
「……見えるんだな」
郁人がつぶやくと、楓はわずかに微笑んで頷いた。
「ええ。慣れました。この店には、時々“あちら側”の方がいらっしゃるんです。
どうしてか分かりませんが、ここはそういう方々にとって居心地がいいみたいで」
楓は一拍置き、少し声を和らげた。
「僕は、どちらの側の方であっても、同じようにお迎えするようにしています。
花を選びに来てくださるなら、それで十分ですから」
郁人はその響きに、先ほど店に入ったとき、自分たち――
暁を連れた自分にも『いらっしゃいませ』と声をかけてくれた理由を、ふと理解した気がした。
「ですから、彼のことも特別だとは思いません。
……あなたが一緒にいるなら、きっと安心しているでしょう」
楓の言葉に、暁が小さく顔を上げた。
その姿を見ているように、楓は目線を合わせ、穏やかに微笑んだ。
「君の名前を、聞いてもいいかな?」
暁は一瞬ためらい、郁人を見た。
郁人が頷くと、暁はかすかな声で答えた。
「……あきら、です」
「“あきら”くんか。いい名前だね」
楓が穏やかに微笑む。
郁人が続けた。
「夜明けの“暁”って書くんだ」
「なるほど……夜の終わりを告げる光の名前か。
いい名前だね」
楓の瞳に、ほんの一瞬、柔らかな光が宿った。
「暁のお母さんを探しています。
……あの子が、最期に会いたいと言っているんです」
楓は少し考えるように目を伏せ、それからゆっくり頷いた。
「……お母さんの所在を知りたいということですね」
楓は確認するように言い、少し間を置いてから続けた。
「でしたら、警察に相談してみるのがいいかもしれません。
そういった相談を扱う窓口があります」
郁人は首を横に振った。
「幽霊の母親を探しているなんて言ったって、信じてもらえないだろうよ」
楓は軽く頷き、微笑を薄めた。
「……そうですよね。
でも、もしかしたら話を聞いてくれる人がいるかもしれません」
楓は花瓶の水面を見やり、小さく息を整えた。
「僕が住んでいる寺に、住職の碁仲間が時々訪ねてくるんです。
風のように現れて、数局打って帰っていく人で……。
住職によれば、その人は警察関係者らしいんですが、どうも掴みどころがなくて」
楓は小さく笑った。
「でも、悪い人ではありません。
あの人は、誰の話でも最後まで聞いてくれる。
……もしかしたら、あなたの話にも耳を傾けてくれるかもしれません」
暁は静かに二人の会話を聞いていた。
姿は淡く、光の加減で輪郭が滲んでいる。
けれど、花屋の香りに包まれながら、どこか安堵したように微笑んでいた。
郁人は暁に目を向け、小さく頷いた。
「……行ってみようか」
暁は頷いた。
その瞬間、空気がそっと揺れ、花びらがひとひら舞い落ちた。
まるで彼の存在がこの場所に息づいていることを示すように。
「案内をお願いできるか?」
郁人が言うと、楓は頷いた。
「ええ。僕も同行します。
警察署まで行きましょう」
郁人は深く息を吸い、頷いた。
扉の向こうでは、昼の光が柔らかく揺れている。
暁がその光に手を伸ばし、触れられないまま指先を止めた。
郁人はその手を見つめながら、静かに微笑んだ。
鈴の音が小さく鳴る。
風が花々の香りを運び、花びらが一枚、空に舞った。
――それでも、今は確かにここにいる。そう思いながら、郁人は歩き出した。




